習慣…隷従と自由
人は習慣の法則から逃れられません。それでも自由といえるでしょうか?
ええ、いえるのです。人生やその法則は人間がつくったのではありません。それらは永遠のものです。人は人生の法則に巻きこまれていることに気づき、それらを理解し、それらにしたがうことができます。人は存在の法則をつくれるだけの力をもっていません。人の力は差別と選択をするためにあります。人は宇宙の状態や法則を生み出すことにまったく関与していません。それらはものごとの根本的な原理であり、つくられることも、つくられないこともないのです。人はそれらをつくるのではなく、発見します。世界の苦しみの根っこには、それらに気づいていない無知があります。それらを無視するのは愚かなことであり、束縛になります。自分の国の法律を無視する泥棒と、法律にしたがう正直な市民、いずれが自由でしょうか?
好き勝手に生きられると考えている愚か者と、正しいことだけを選んでする賢い人、いずれが自由でしょうか?。
人間は本質的に習慣の生き物であり、それから逃れることはできません。
けれども、習慣を変えることはできます。人は自分の性格の法則を変えることはできませんが、自分の性格を法則に合わせることはできます。だれも重力の法則を変えたがる人はいませんが、だれでも自分をその法則に合わせます。人はそれを無視するのではなく、それにしたがうことによってそれを活用するのです。人はこの法則が変わることを期待して、壁にぶつかったり、断崖から飛び降りたりはしません。壁に沿って歩き、断崖から一定の距離を保ちます。
人は重力の法則から逃れられないように、習慣の法則からも逃れられません。ただし、それを賢明にも、あさはかにも利用することはできます。科学者や発明家が物理的な力や法則にしたがい、それらを活用することによって、そうした力や法則をきわめるように、賢い人は同様の方法で精神的な力や法則をきわめます。性悪の人間はむち打たれる習慣の奴隷ですが、善良な人間は習慣の賢いディレクターであり、支配者です。習慣のつくり手だというのではありません。また、気ままな習慣の指揮官というのでもありません。自制心をもった習慣の使い手であり、服従に基づく知識によって習慣を上手に使いこなす人だということです。
性格の悪い人というのは、思考や行動の習慣がだらしない人ということです。性格の良い人というのは、思考や行動の習慣が汚れていない人のことを指します。性格の悪い人は習慣を変えることによって、善人になります。法則を変えるのではなく、自分自身を変えるのです。自分自身を法則に合わせるといってもいいでしょう。身勝手な快楽にふける代わりに、道徳的な原理にしたがうのです。そのような人は高尚なことに仕えることによって、低俗なものを支配する主人になるのです。習慣の法則は変わりませんが、本人がその法則に自分を合わせることによって、性悪の人から善人へと変わるのです。
習慣とは反復です。人はおなじ思考、おなじ行動、おなじ経験を何度も何度も繰り返します。すると、やがては、それらが自分自身の一部として性格のなかに組みこまれるのです。人の才能は固まってしまった習慣です。進化とは心の営みの蓄積なのです。今日の人間は何百万回も繰り返されてきた思考と行動の所産です。人は既製品ではなく、「なる存在」であり、いまでもなりつづけているのです。人の性格は本人の選択によってあらかじめ決定されます。習慣で選ぶ思考や行動が、その人をつくっていくのです。
このように、それぞれの人は思考と行為の蓄積です。人が努力せずに本能的にしめす性質は、長期におよぶ反復で自動的になってしまった思考と行動の所産です。というのも、最終的に無意識となり、本人が選択しているという意識や、努力しているという意識がなくても、いわば繰り返されるようになるのが、習慣の性格だからです。習慣が完全に定着してしまうと、やがて、それに反する行動をとろうとする意志さえ湧かなくなります。このことは良い習慣か悪い習慣かにかかわらず、どんな習慣にもあてはまります。悪い習慣だと、悪癖や邪悪な心の「犠牲者」だといわれます。良い習慣だと、生まれつき「良い性格」をもっているといわれます。
どんな人でも、良い習慣か悪い習慣かを問わず、自分自身の習慣に支配されています。これからもずっとそうでしょう。つまり、人は何度も反復されて蓄積された自分自身の思考と行動に支配されているということです。賢い人はそのことを知っていて、良い習慣に身をささげる道を選びます。というのも、そのような奉仕は喜びであり、至福であり、自由だからです。逆に悪い習慣に支配されることは、悲惨で不幸であり、人を奴隷状態に貶めます。
こうした習慣の法則は有益なものです。人を奴隷のような状態に拘束することがある一方で、努力しなくても本能的に正しいことをする癖を身につけさせることもあるからです。そのような癖を身につけた人は、それ以上にない幸福感と自由の感覚に包まれます。ある人たちは、習慣によって行動が自動的になるという事実に着目し、人間の自由意志の存在を否定してきました。人は「生まれながらにして」、善人か悪人かであり、盲目の力に操られる無力な道具だというのです。
人が、心の力の道具だというのはあたっています――より正確を期すなら、人はそのような力そのものだといったほうがいいでしょう。
けれども、人は決して暗闇のなかの存在ではありません。それらの力を方向づけたり、新しいチャンネルへと振り向けたりすることができるのです。要するに、人は自分自身を制御し、習慣をつくりなおすことができるということです。人が一定の性格をもって生まれてくるというのはあたっています。しかし、その性格は数えきれない人生の結果なのです。何世代にも渡る人生の間に、選択と努力によって、ゆっくりとつくり上げられてきたのです。そして、今回の人生での新しい体験によって、かなりの修正がくわえられることになるのです。
悪い習慣や悪い性格(それらは基本的におなじものです)の圧制によって、どんなに絶望的になっているように見えようとも、正気を保っているかぎり、人は悪い習慣を断ち切り、良い習慣にとって代わらせることで、自由になることができます。以前、悪い習慣にとりつかれていたように、良い習慣にとりつかれるようになると、それから逃れようという意志や欲求は湧いてきません。なぜなら、良い習慣に支配されるのは、永遠の苦しみではなく、喜びだからです。
人が自分自身のなかに形成してきたものは、自分でその気になりさえすれば、壊すことも、修正することもできます。人は悪癖が楽しいと思っているかぎり、それを捨てようとはしません。それが苦痛と思えるようになったときにはじめて、逃げ道を探し、最終的に、より良い習慣を求めて、悪い習慣を断ち切るのです。
どんな人も縛られて、その縄目から逃れられないということはありません。自分を縛ったその法則そのものが、自分を解放させてくれる力になるのです。そのことを知るには、そのように行動するだけでいいのです。つまり、意図的に古い思考と行動のパターンを捨てる努力をし、新しいより質の良い思考と行動のパターンをこつこつとつくり上げればいいのです。それは一日や一年、あるいは五年かけても、できないかもしれません。それでもくじけたり、とまどったりしてはなりません。古い繰り返しのパターンを壊し、新たなそれに取って代わらせるには時間が必要なのです。しかし、習慣の法則は絶対確実なものです。ですから、決してあきらめることなく忍耐強く努力すれば、かならず成功の栄冠を勝ち取るでしょう。
考えてもみてください。悪質な状態、単なる否定的な状態でもいいですが、そうした状態が固定され、固まってしまうことがありうるとすれば、良質な状態である肯定的な原理が確立され、力をもてないはずがありません! 人が自分自身のなかの過ちや不幸を克服できないのは、自分を無力だとみなしているときだけなのです。悪い習慣をもっている人が、「それをどうにもできない」と考えたら、その習慣は治りません。無力だという考えを心から根こそぎ引き抜いて捨ててしまわないかぎり、何も克服できません。大きなつまずきの石は習慣そのものではありません。それを克服できないと思うその信念なのです。克服できないと信じているのに、どうやって克服できるでしょう? 逆に、できるとわかっていて、そうする決心をした場合、それを阻止することは不可能です。人が自分自身を奴隷の身に貶めてきたもっとも有力な考えは「罪深い行いを克服できない」というものです。この考えを白日の下にさらしてみてください。それは悪の力を信じるのにひきかえ、善の力を信じない不信を表明しているように見えるでしょう。間違った思考や行動を克服できないというのは(あるいは信じるのは)、悪に屈し、善を捨て去ることなのです。
人はそのような思考、そのような信念をもつことによって、自分自身を拘束し、それとは反対の思考や信念をもつことによって、自分自身を解き放つのです。心の姿勢を変えれば、性格や習慣が変わり、人生も変わります。人は自分自身の救済者なのです。自分を隷属状態に貶める人は、自分を解放させることもできます。人はいつの時代にも、外側にいる救済者を探してきましたし、今でも探していますが、依然としてとらわれの身でありつづけています。偉大なる救済者は内側にいるのです。かれは真実の精霊です。真実の精霊は善の精霊でもあります。偉大なる救済者は、善良な思考とそれらがもたらす結果、そして善良な行いのなかに常住する善の精霊のふところに抱かれているのです。
自分自身の間違った思考以外のものに人は縛られていません。人はそのような思考から自分を解き放つことができます。人を隷属状態に貶める思考とは次のようなものです。
「私は越えられない」「悪い習慣を断ち切れない」「自分の性格を変えられない」「自分自身を思い通りにコントロールできない」「罪深い行為をやめられない」。このような「……できない」は本人があきらめているものごとのなかにはありません。本人の心のなかにのみあるのです。
そのような否定は悪い思考習慣であり、心のなかから一掃して、代わりに「……できる」という肯定的な思考を心に植え付ける必要があります。その思考を大切にして育てれば、やがて、どっしりとした習慣の大木に成長し、正しいしあわせな人生という良質の命の糧になる果実を生み出すことになるでしょう。
習慣はわたしたちを縛る一方で、解放もします。習慣は最初、思考のなかで生まれ、行為へと発展します。悪質な思考を良質なそれに変えれば、すぐに行為がそれについてきます。悪い習慣にしがみつけば、あなたを縛る力はどんどん強まっていくでしょう。逆に、良い習慣にしがみつけば、あなたの自由の領域はどんどん広がっていくでしょう。縛られるのが好きな人は放っておけばいいのです。自由を心の底からもとめている人がいれば、呼び寄せて解放してやってください。
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