オランダ出身のルーズベルト大統領の「反日感情」
平成12年1月の産経新聞に非常に興味深い記事がのっていました。執筆者は編集委員の高山正之氏で「オランダは変わらなかった」との見出しが踊っています。高山さんによると、現在のインドネシアがオランダの統治下にあり蘭領東インドと呼ばれた当時、オランダ人の有色人種への蔑視は格別のものがあったそうです。たとえば蘭領東インドに在住していたビンネルツの日記には日本人に関する印象がこう書きとどめられています。
「日本人は背が低く不潔で、曲がり脚の猿のように醜く、動物の檻に漂う臭気と同じくらい強烈な鼻をつく体臭がする」
植民地の人々に対するオランダ人の意識も同様で、インドネシア人は家畜よりひどい存在として扱われていました。スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録されているといいます。そればかりか、ある農場では「粗相をした2人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすりこんで木の杭に縛りつけて見せしめにした」といいます。また、刑務所で過酷な労役を課せられている囚人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと出所を拒んだといった例も伝えられています。
ハル・ノートを日本に突きつけたルーズベルト米大統領も、実はオランダ出身で、「有色人種への差別が格別に強かった」と、ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸で会談した英国のロナルド・キャンベル公使は本国に書き送っています。キャンベル公使が、この会談の席上、大統領から打ち明けられたのが「劣等アジア人種」の品種改良計画でした。
「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」
このルーズベルトの発言は、ビンネルツの日記の記述とも重なります。ハル・ノートは、まさにルーズベルトがキャンベルに語った内容そのものです。日本人を中国大陸から追い払い、「元の島々に封じ込め、衰退させよう」との狙いだったのです。
アメリカは昭和16年、在米日本人の資産を凍結します。オランダもそっくりならい、蘭領東インドも日本人資産の凍結を行ない、当時、約六千人いた在留日本人を追放しました。戦後もオランダの報復は続きます。戦時中に日本兵に抑留され、粗食と平手打ちを食らったオランダ人たちは、旧日本軍兵士の裁判を実施、連合国中最多の224人を処刑したのです。アジアの民にかつて自分たちがやっていた行為を日本人から与えられたことの屈辱から、報復へと彼らをかき立てたのでした。オランダ政府も、戦時賠償金を日本政府に要求、日蘭議定書で多額の金銭賠償を日本からもぎとります。
現地で独立運動が起こったのは、対日報復の最中でした。4年間の独立戦争の末、オランダは渋々インドネシアの独立を承認するのですが、この条件が法外なものでした。
独立容認の賠償として、@60億ドルの支払い、Aオランダ人所有の農場などの土地財産の権利の保全、Bスマトラ油田の開発費の弁済など、自分たちに都合のよい条件ばかりを突きつけてきたのですから、まさにハル・ノートの時代の欧米至上主義から一歩も出ていません。しかも、福田赳夫首相とサンバス将軍の会談で独立戦争ではオランダが戦闘機、戦車など近代兵器と10万人の兵士を送り込んで、子供、女性を含め80万人もの現地の人々を殺した事実が確認されています。しかし、それに対する補償はもちろん、植民地時代に対する償いや謝罪は一切ありませんでした。インドネシア政府は、これらの条件をやむなく飲んで、やっと独立を果たします。
話はまだ終わっていません。それから50年後、オランダ政府は日本軍が戦時中、オランダ人の資産を奪った疑いがあると調査を行なっています。調査結果が発表になり嫌疑は晴れたのですが、拘留者グループはいまだに賠償を求める裁判を起こしているそうです。オランダが凍結の名で奪った追放在留日本人の資産についてはまったく調べもせず、一方的な論理を押しつけて、報復を続ける。ここに有色人種蔑視がなくて何があるといえばいいのでしょうか。オランダ出身のルーズべルト大統領のハル・ノートの根底には、今も脈々とつがれているオランダ人のアジア人に対する蔑視、日本人への敵視の感情が流れていたのです。
東京裁判のオランダ代表判事、レーリングも、「太平洋戦争は人種差別が主因のひとつだった」と分析しています。国際連盟に日本が加盟していた頃、日本は人種平等の原則をその規約に入れるよう主張して、拒まれたことがあります。当時、これに反対するアメリカのカリフォルニア州では多くのレストランが「犬とジャップ立ち入るべからず」との掲示を出していました。
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