かくて歴史は始まる 逆説の国・日本の歴史が地球を包む |
渡部昇一・著 クレスト社 |
「有色人種は猿のごときものである」
戦前の日本は、すでに有色人種の国の中で、唯一、先進国の仲間に入れてもらった国家であったが、その日本人と結婚することも白人社会の中ではタブーであった。 イギリスの有名な詩人エドモンド・ブランデン(1896〜1974年)は、戦前の東大文学部で約3年間、英文学を講義した経験を持ち、また、戦後もイギリス政府の文化使節として来日して、大きな学問的刺激を与え、日本学士院名誉会員に推されている。私も大学の英文科で彼の講義集を教科書とした授業を受けたことがある。 その彼には日本人妻がいて、献身的なまでに彼女は自分の人生を彼に捧げた。彼女は、自分の財産をブランデンに遺贈したりもしている。 彼は離婚した前妻が死んだら、結婚しようと言っていたらしいが、結局、実行しなかった。だが、日本人と結婚しなかったからこそ、彼は桂冠詩人(英国において、詩人に与えられる最も栄誉ある称号)になれ、オクスフォード大学の詩学教授にもなれたというのは、否定できない事実である。 優れた学者・詩人で、日本でも多くの弟子を育てたような優れた教育者であった彼でも、そうだったのである。彼の友人や弟子たちの書いた伝記は、この女性に触れていない。 さらに遡れば、幕末において、最も知日的な外交官であったアーネスト・サトー(イギリス人。倒幕派を支援し、明治維新成立に貢献した)にも日本人妻がいた。 サトーは、その妻や子を愛し、子どもにはイギリスで正式な教育を与え、財産まで残したが、入籍はしなかった。といって、白人女性の妻がいたわけでもなかった。第二次世界大戦が終わるまでのイギリス人社会においては、日本人妻がいても入籍さえしなければ問題にされなかった。だが、ひとたび入籍してしまうと、先のハーマン・ウォークの小説にあったように、白人社会から追放されたのである。 サトーは、そういう現実を見て、正式な結婚を諦めたのであろう。彼がのちに国際会議の英国代表になり、サーの称号まで授与されたのも、彼が正式に結婚しなかったためだと言っていい(ちなみに、彼の公式の伝記は、この日本人妻のことには一行も触れておらず、「終生、娶らず」と記すのみである)。 これとまったく逆の例が、小泉八雲、すなわちラフカディオ・ハーン(小説家、日本研究家、代表作に『怪談』など) のケースである。 島根県出雲に滞在していたハーンは、小泉セツというに女性に身の回りの世話をさせていたが、セツに子どもが生まれてしまった。 当時の常識としては、その子を認知しなくても問題はなかったが、彼は息子を愛するあまり、日本国籍を取り、小泉家に入る決心をする。おそらく、彼自身、母親がイギリス人でなく、苦労した経験があったからではないかと思われる。 しかし、ハーンは日本人と結婚したために、東大在職中は同僚の白人だちから完全に孤立してしまうのである。 その当時の白人の感覚としては、日本人と結婚するのは猿と結婚するのと似たようなものだと思われる。白色人種と有色人種とでは進化の度合が違うのだ、ということが真剣に議論されたくらいだから、これはけっして誇張ではない。 ハーンを彼らの仲間に加えるとなると、ハーンの妻も自分たちの交際仲間になってしまう。猿を白人なみに扱えるものか、というのが彼らの感覚だった。 ハーンが死の床にあったとき、ロシアのバルチック艦隊が日本に刻々と近づきつつあった。彼は連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将の写真を枕元に置き、ときどきその写真にキスして「東郷さん、この戦争には勝ってくだされよ」と言っていたそうである。 日本がロシアに敗れれば、日本人は猿扱いになる。ロシアのニコライ二世は、いつも日本人のことを猿≠ニ呼んでいた。だが、日本が勝てば、日本人は名誉白人扱いになるであろう、とハーンは考えたのである。 ハーンを私は卒業論文のテーマにしたが、その記録を読んだときの悲痛感を四十数年経った今でも、生々しく憶い出すことができる。 白人神話≠叩き潰した日本軍の活躍 これほど根深いものであった人種差別が、第二次世界大戦によって根底から崩れていった。戦後、白人たちは、何とか昔の状態に戻そうとしたが、すでに後戻りができなくなっていることに、はしなくも気づかされたが、それは日本のためであった、日本だけのためであった。 たとえば、東南アジアの状況を考えてみれば、よく分かる。 日本軍は、敗戦とともに東南アジアから引き揚げた。イギリス、フランス、オランダなどはこの地を戦前の状態、すなわち植民地に戻すべく、そこに軍隊を送りこんだ。独立運動の高まりを抑圧するためであった。 戦前なら、独立運動はただちに鎮圧され、話が終わるはずであった、事実、コロンブスの新大陸発見以来、有色人種の白人に対する反乱は数多くあったが、みな簡単に潰されてきた。 しかし、日本軍が引き揚げた後の東南アジアでは、そうはいかなかった。それは、なぜだろうか。 日本が東南アジアに進攻し、列強の植民地を占拠した時が、日本軍最強の時期であった。 このときの零戦は、撃墜不可能の戦闘機と言ってもよかった。零戦はイギリスやアメリカやオランダなどの戦闘機を圧倒的な力で叩き落とした。これに対して、日本軍の損害はゼロに近かった。 また、海上においても、日本軍はまことに強力であった。 7つの海を制したイギリスの艦隊も、日本の敵ではなかった。イギリス東洋艦隊旗艦プリンス・オブ・ウェールズやレパルスも、なすすべもなく海の底に沈んでしまった。オランダやアメリカの艦隊も、同様であった。ところが、日本の軍艦はいっこうに沈まない。 この圧勝を目の当たりにしたとき、東南アジアの人たちは、自分たちが従来持っていた、白人に対する概念が音を立てて崩れていくのを実感したのである。 しかも、パレンバン(スマトラ島)やメナド(セレベス島)の攻略において日本軍は、落下傘部隊まで使った。 紺碧の空から白いものが降ってくる。それがじつは人間であると知った現地の人たちは、神さまが降ってきたとは思わないまでも、そんなことができるのは白人以外にないと思ったにちがいない。 ところが、降りてきたのは自分だちと同じ顔の日本人であった。しかも、その日本兵たちが、たちまち現地の白人を一掃してしまったのだから、天地がひっくり返る思いであったろう。 インディアンの誇りを奪った白人の残虐 日本を除く世界中の有色人種たちは、数百年にわたって「白人に対しては絶対に手を上げてはいけない」ということを親たちから教えこまれていた。それは、一種の本能になっていた観があるほどだった。 もちろん、有色人種が白人に対して反乱を起こしたことは過去に何度もある。 最も有名な例はアメリカ・インディアンたちの勇敢な抵抗であり、これは西部劇でも知られているとおりである。 ところが、白人たちは自分たちの仲間が殺されると、徹底的にインディアンのその部族に報復した。さすがにこれは後味が悪いためであろう、西部制では描かれることは少ないが、相手のインディアンの部族を、男ばかりか女・子どもまで、すべて虐殺したことも稀ではなかった。 戦場において白人を一人殺したばっかりに、部族全員を虐殺されてはかなわない。それで、絶対に白人に手を出してはいけないということが、インディアンたちの不文律になった。30年も経たぬうちに、西部劇に出てくるような、反抗するインディアンはいなくなったのである。 あれほど颯爽たるインディアンたちも、白人の圧倒的な力の前に、みんな腑抜け同然になってしまった。たちまちインディアンも、白人にとっては絶対に安全な存在になったわけである。 これと同じようなことが、東南アジアでも何百年にもわたって行なわれてきたのである。すで に白人に対して抵抗しようと考える者は誰もおらず、それこそ、白人と目を合わせることすら、憚られるようになっていた。 そこにやってきたのが、自分だちと同じ顔をした日本人であった。先祖代々、何百年間も「絶対に手を上げてはいけない」と言われた白人を武力で一掃し、捕虜にし、土本工事などにこき使ったりした。 おそらく当時の日本人のことであるから、働きの悪い白人捕虜は尻を蹴飛ばしたり、ほっぺたを張るようなこともあったであろう。それを見たとき、現地の人々は長い悪夢が一挙に覚めるような思いがしたにちがいない。 「見る」ことから始まった東南アジアの独立運動 悪夢も、一度覚めてしまえば、もう二度と元には戻らない。 だから日本軍がいなくなってから、ふたたび白人たちが軍隊を送ってきても、もう以前のようにはならなかった。今度は絶対に屈しない。また、日本軍の中には引揚げを拒否し、現地の独立運動に参加した兵隊たちもいた。 このころの状況について、あるイギリス人は次のように書いている。 「かつてのマレー人は、じつに気立てのいい民族だった。何を言いつけてもイエス・サー=A何を命じてもイエス・サー≠ニ言っていた。ところが、わずか三年半ぐらい日本人と一緒にいただけで、みな根性が悪くなってしまった。いまや何も言うことをきかなくなった」と。 この話ほど、東南アジア独立の意味を端的に教えてくれるものはない。 植民地の独立は、民族自決などというスローガン、言ってみればイデオロギーによってなしえたものでは、けっしてない。白人の人道主義も、社会主義や資本主義も、またアラーの神も植民地廃止には何の関係もない。キリスト教は植民地を作るのには貢献したが、解放には役立たなかった。 有色人種が持っていた白人に対する劣等意識を吹き飛ばしたのは、目の前の現実であった。有色人種の日本人が、白人を戦場において倒すという、きわめて即物的な事実が、東南アジアの人人の観念を変えてしまったのである。 「見る」ということの重要さを、私はすでに本書の中で何度も強調してきた。 見るということは、単純素朴なことのように思われがちだが、これほど強力な原動力は、ほかには見あたらない。「やれば、できる」と口を酸っぱくして何度も言うよりも、目の前で一回やって見せることのほうが大事であり、歴史を動かす力となりえるのである。 現に、明治維新によって日本の近代化を見て、あるいは日本の留学制度の成功を見て、アジアの国々は動いた。さらに、日露戦争の勝利を見て、ほかの有色人種の人々は独立の光明を見出 した。これが見ることの力でなくて何であろう。 東南アジアの人々は、日本が白人国に勝ったところを見て、戦後の独立運動を始めるきっかけを得たのである。 フィリピンの不幸≠ヘ、なぜ生まれたか ただフィリピンの人々だけは、戦争の後半に日本軍が負けるところを見てしまったそのため、「いくら有色人種ががんばっても、白人には勝てない」という印象を深めただけに終わったようである。 フィリピンが今もってアメリカの影響を受けること大であり、ほかのASEAN(東南アジア諸国連合)の国に比較して、復興が著しく遅れているのは否定できない事実である。また、ほかの東南アジアの諸国が、ストレートに「日本を見習え」というキャンペーンを打ちだしているのに対し、フィリピンからはそんな声が聞かれないのも、これが関係しているように思える。 最近、ある友人からこんな話を聞いた。 フィリピンの知識階級にとって、最も不思議なのは近年の台湾の繁栄であるという。 どうして台湾は、あんなに経済がいいのか。彼らはカネが余りすぎて困っているらしい。外貨の蓄積量は世界のトップ・クラスというではないか。それに引き換え、台湾とはわずかバシー海峡を隔てるだけの、わがフィリピンはどうか。まったく絶望的な経済状況である。 「そこで」と、私の友人は言う。 「やはり、われわれも台湾と同じように日本の植民地になっておけばよかったと、フィリピンの知識階級は話しているらしいのです」 この話は出来すぎており、本当かどうか疑わしい。だが、あながち嘘と聞こえないところに、現在のフィリピンの悩みが示されているように思える。 有色人種の日本人は最初はアメリカ人に勝ったけれど、やっぱり最後に負けだしゃないか、という経験こそ、現在のフィリピンの病根なのである。本当はフィリピン人は、教育も比較的に高い国なのだから、東南アジアで最も繁栄してもよいはずなのである。 TV映像がもたらしたアメリカ公民権運動 1950年代は、東南アジア独立の時代であったが、60年代に入ると、これがアフリカに及ぶことになった。なかには、国家の体をなしているのかどうか、疑わしい国もあったが、喜ぶべき事態であったのは言うまでもない。 第一次大戦後の国際連盟の規約に署名したのは45カ国であった。現在の国際連合加盟国は166力国(91年末時点)である。この間に増えた約120力国のほとんどは、第二次大戦後に独立した国と言ってよい。 そして、これらの新独立国家は、いずれもその代表をニューヨークの国連本部に送り込んだ。また、事務総長に有色人種の人間が選ばれることも珍しくなくなった(現在のガリ事務総長も、エジプト出身)。また多くの委員会においても、色のついた人たちが白人に混じって、しかもまったく後れをとることなく活躍し、しばしば委員長職にも就任している。 こういった国連での様子を「見た」のが、アメリカの黒人たちであった。 彼らはこの時点においても、まだ国内で厳しく差別されていた。 私は60年代末、フルブライト基金の客員教授としてアメリカに暮らしていた。南部にもいたことがある。黒人人口の多い南部でも、当時エリート校とされた大学はすべて白人のものであ り、私のいた大学にも、黒人の学生は一人もいなかった。 ところが、彼ら黒人がテレビで見たものは――60年代のアメリカはカラー・テレビがすでに普及していた――、国連という大舞台で活躍している黄色人種やアフリカなどの黒人の姿であった。 それを見たときに彼らが、自分たちだけが差別されているのだという実感を得たとしても不思議ではない。「これは何だ」と、強烈な思いに駆られたことであろう。 まことに「見る」というのは、重要なファクターなのである。 このとき、アメリカの黒人にとって幸福だったのは、その指導者としてキング牧師(非暴力主義による黒人運動のリーダーのような、白人にも受け容れやすい穏健な人物がいたということであった。また、ベトナム戦争が行き詰まり、ベスト・アンド・ブライテストと言われるアメリカ指導者階級の権威が墜ちたこともあって、公民権運動は70年代に成功を収めたのである。 まだいろいろ深刻な問題はあるにせよ、首府ワシントンをはじめとして、ニューヨークなどで黒人市長が生まれるなど、アメリカ国内でも旧来の人種差別は消えつつあるのは、ご承知のとおりである。 これもまた、日本があの大戦に突入し、しかも敗れなかったら、起こりえなかった状況であると言ってよい。 |
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