ステイントン・モーゼスの
続・霊訓
桑原啓善・訳 土屋書店 1988年刊 
★なわ・ふみひとの推薦文★ 
 最近、著名な神様の名を語る霊的存在や、進化した宇宙人を名乗る異次元の存在とコンタクトができるという人が増えています。そのような異次元の存在からのメッセージを本にして出版したり、ホームページやブログで紹介している方もたくさんありますが、普通の人が真贋を見分けるのは大変困難です。
 しかし、一番注目しないといけないのは、そのメッセージを受け取っている本人がどのような言動をしているかという点でしょう。中でも特に大切な判断基準は「謙虚であるかどうか」ということです。他人に対する言葉遣いや態度が傲慢であったり、あたかも悟りを開いた人間であるかのように振る舞うところがありすぎる場合には、その人にメッセージを送っている存在にも疑問符がつきます。
 私たちのこの人生はそのまま学びの場となっていますので、他人を導く前に、まずは自らが正しい生き方をしていくことが第一なのです。もちろん、自分さえよければよいといった「我善し」の考えで生きている人に、正しい通信が届けられことはないでしょう。
 霊界などの異次元とつながることの危険性は私たちが考えている以上のものがあります。アラン・カーデックの『霊の書』、モーリス・バーバネルの『シルバー・バーチの霊言』と並んで世界の三大通信と言われているステイントン・モーゼスの『霊訓』は、霊界通信の危険性も詳しく説明してくれています。UFOや霊界などの見えない世界に関心のある方は、ぜひご参考になさってください。
 

 私は以前より、わが霊団について語ろうと思っていた。司配方法、つまり通信を諸君に送る方法についてである。
 私の名はインペレーター、49名からなるこの霊団の団長である。私が霊団を指揮統率し、その指示の下に他の諸霊が仕事に当たっている。私は神意を果たすために第7界より地上に下ってきた者である。使命達成の暁には、二度と地上に戻らぬ至福の境へと戻って行こう。
 そしてこの霊媒は、死後あちらの境で、さらに大きな使命を担うものとなろう。
 私の下にレクターがいる。私の代理者兼副団長である。私の不在の折りの指揮者であり、また特に、物理的心霊現象を担当する分霊団の統轄者でもある。

 レクターを補佐して、第3の高級霊ドクター・ザ・ティーチャーが控えている。彼は霊智注入を任務としており、霊媒の思想の教導、霊言と自動書記の指揮に当たっている。この統率下に、知恵と知識を担当する諸霊が従っている。
 次に護衛役の2霊がいる。その任務は、地上の有害な影響の排除と緩和、危険を払い苦痛を和らげ、良い雰囲気をつくること。しかし、霊媒の内心から発する悪はいかんともしがたい。そこで別の護衛役が2霊控えている。その任務は、霊的世界からの悪影響の除去、つまり、霊媒に神聖な使命を忘れさせようとする低級霊たちのさまざまな誘惑の除去である。この護衛役4霊は私に直属しており、以上計7霊をもって、7個ある分霊団の第1分霊団を構成している。すなわち、わが霊団は7分霊団より成り、各分霊団は7霊をもって構成され、1霊がそれぞれ他の6霊の指揮に当たっている。

 第1分霊団。これは守護と指導を担当する諸霊のサークルで、全霊団の指揮統率に当たっている。
 第2分霊団は、愛をその任務としている。神への愛すなわち崇敬、人への愛すなわち慈悲・優しさ・あわれみ・思いやり・友情・情け深さ、これらがその任務である。つまり彼らは、愛すなわち優しいいたわりの思い、父なる神への愛、同胞への情愛、悲しむ者への憐憫、苦しむ者へのあわれみ、すべての者に恵みと救いを与えたいとする要求、これらを管轄しているのである。

 次の分霊団は英知に関することを取り扱う分霊団である。彼らは直感・知覚・印象・推理などを担当している。彼らは直感力と観察事実からの推論を指導する。また、霊媒に英知を吹き込み、これを誤らせたり判断を狂わせたりする影響を除去する。彼らは直感的英知を植えつけるのである。

 その次に、人間・事物・生活についての知識を支配する分霊団がある。彼らの任務は、物事の因果関係に留意させて、比較判断力と注意力を養うことである。彼らは霊媒の茨に満ちた人生行路を導いて、現実に役立つ実際的知識を身につけさせる。これは直感的英知の補足となるものである。

 その次の分霊団は、芸術・科学・文学・文化・教養・詩・絵画・音楽・言語などを指揮している。彼らは高尚で知的な思想を吹き込み、精妙で威厳のある言葉へと近づかせる。彼らは美しく芸術的で洗練された文化的なものへといざない、その性格に詩性を加え、向上と気品を添える。

 その次のサークルは、陽気さ・機知・ユーモア・愛想よさ・楽しい会話をつかさどる任務を帯びている。それは霊媒の性格に明るいタッチを添える。すなわち、人との交わりを魅力的にし、語る言葉に機知を添え、退屈な日常に生気を与える。そういう明るい光った側面である。彼らは心の優しい魅力ある親切な霊達なのである。

 最後に、物理的心霊現象を任務とする諸霊がいる。物理的心霊現象は高等な真理の通信に役立つ場合に演出が認められる。この分霊団の霊達は副団長レクターの指導下にあって、更生の途上にある。レクターは彼らを霊媒やその背後霊団との接触を通じて教導し、向上させている。それぞれに原因は違うが、彼らは地縛霊であって、その許された心霊現象の作業を通じて向上への道をたどっている。

 以上のとおり、霊団は7つに分かれており、そのおのおのが独自の任務を負っている。愛の霊達、英知の霊達、知識の霊達。優雅で高貴な霊達、地上の辛い日常に天上の光を投げかける陽気な明るい霊達、諸君に物理的心霊現象を提供しつつ、それが自身の進歩にはね返ってくる諸霊達。
 いずれのサークルの霊達も、進歩しつつある。霊媒に経験と啓発を授け、霊媒とともに生き、霊媒が進歩すれば自らも進歩する。彼らは教えながら学び、向上させながらも自ら向上しつつあるのである。
 これは愛の仕事である。我らがこの教導の仕事は、自分に報いをもたらす仕事である。我らのためであり、霊媒のためになり、霊媒を通じて人類のために祝福をもたらす仕事である。

 霊訓の源は神にある。神は人間が受け取ることのできるほどの啓示しかお与えにならない。神の啓示は漸進的である。
 真理がゆきわたるまで、我らの仕事を阻止しようとする悪霊達の組織的運動がやむことはないであろう。弱い者達に多くの試練があろう。信の固い者達にもまた、それが確立するまで試練があろう。これは、悪霊が存在することの必然の結果である。

 神霊主義の信仰は広がるだろう。だが、それは教会の教義としてではない。我らの啓示には僧侶も牧師も必要としない。ただ、指導諸霊と魂との交わりのみが必要である。

 自己の外に救世主はいない。我々はこのように主張する。罪の結果とは、内心の烈しい悔悟と償いだけである。知りつつ犯した罪の結果から逃れる望みは1つもない。

 キリストの生涯は人の手本であって、人間は苦しみによって清く気高く神聖となり、愛によって向上進歩することを教えるものである。

 諸君らは右に左に自由に行動している。なぜなら、諸君らは我々のように行為の結果をご存じないからである。諸君らはそれを知らないけれど、本当は自由ではないのである。諸君の意志は常に、善悪いずれかの霊的な力の影響を受けているのだ。

 霊魂は、その進歩の度合いにより、皆異なっている。稀にはこの地球へ別の天体から来た霊もある。この地球上で生を終えた霊魂以外にも、たくさんの別の霊が存在し、なかには自然力を統御しているものもある。

 キリストは刑死の後、物質化したのである。完全な状態で彼は友人らの前に出現したのであった。大気の中には、地上のすべての物体の形成の元である要素が存在しておる。で、霊体は自己を包む原子を身の回りに引き寄せることができる。こうして作られる素材は、霊力の調整がよろしければ、諸君の感覚にも訴えることができる。こうして磁力的過程を経て、霊体の周りに巻きつけられる。

 キリストは新しい霊的時代を開くために地上に送られ、主として、いまだ肉体を持ったことのない高級霊の司配を受けていたのだった。神が直接霊媒に働きかけられることはない。人間が神と直接交信できないのは、草の葉と交信できないのと同じことである。

 どんな高級霊も、現在の我々がそうであるように、直接司配などめったにできるものではない。それができる場合は、霊媒の霊が相当に進歩していなければならない。そんな霊媒はめったにいない。司配はたくさんの連結環を使って行なわれる。だが、それも霊媒の精神が低ければ、高級霊はその霊媒を使おうとしない。キリストほどに進歩した霊になると、地上の霊媒を直接司配することは不可能である。

 我らが強調したいことは、スピリチュアリズムは宗教的な教えの体系であるという事実である。不可解なことだが、これに反対する人々がいる。ある者達は、スピリチュアリズムをもって他界した友人との通信連絡組織くらいにしか思っていない。だから、インチキ霊がやって来て、虚偽の通信を送り、人の道を誤らせてしまうのである。

 諸君が祈れば、その祈りを守護の諸霊が受け取り、その分別に従って、それに答えを与えている。実に、霊交は宗教心に発する祈りの行為があってその道が開かれる。したがって、この事実を知らずしてスピリチュアリズムに首を突っ込むことは、害あって益のないことである。

 神の声がいま人間に向かって語りかけている。この神と人間の間には多数の媒介霊が介在している。

 金が今日、神の地位についている。諸君らの間に蔓延している奢侈と怠惰、その中に滅びの要素がある。今や、この国の顔の上には「滅亡」の文字が書かれている。
 それだから、最後の戦いのために備えなさい。その戦いは善と悪の間で、信と不信の間で、一方は法と秩序、他方は無法との間で、行なわれるだろう。そのときはキリストが予言した、悲しみと苦難のときであろう。

 今までのところ、霊媒の目が低級霊の方に向けられている。呪文ですぐおびき出される未発達な自然霊などの方に。
 霊媒は低級な人霊どものやり口、つまり詐術を見破る視力を失ってしまっている。実は、こういう霊達が今はウヨウヨしているのである。
 我々は真剣に警告する。近い将来、魔群に対して注意するようにと。地上では、このところ交霊の知恵が進歩した。これが魔群をいらだたせている。地上での盛んな闘争は、我らと魔群との闘争の反映にすぎない。霊界での闘いは何かというと、霊交の事実を抑圧せんとする魔群と我らとの闘いである。暗ければ暗いほど、魔群には具合がよろしい。意志力の鍛錬によって、守護霊との交信の障害は克服されよう。

 我々にとって、思想は実質的なものである。我々が考えることは、形をとり、実質を持つ。地上の洗練された精神の持ち主は、自分の創造した世界に生きている。事実、詩人・劇作家・小説家は自分の世界を創造する。

 我々の世界では、どんな霊も自分の波長の合わない霊達と一緒に住むことは不可能である。我々には一緒に住む霊達の性質や人格が見える。人格が自分の環境を創るのである。こうして、地上という試練の界では、自分の霊の人格が形成されていくのである。行為の一つ一つが人格を創る。明日は自分が住む家を作る。どの界にも義務というものがあって、その義務を正しく果たすことで霊は成長し進歩する。

 高級霊は地上の雰囲気の中にはほんの暫時しかおれない。そのため、我らが諸君に近づくことはなかなかに難しいことである。私自身も霊媒からはずっと離れている。霊媒の精神や肉体の状況のため、本人に近づけないのである。霊媒の健康がすぐれぬ時は、私は近づけない。新しく地上を去った霊なら、ずっとたやすく霊媒に接近できる。

 最低の霊どもは、地上近くをさまよっていて、頻繁に交霊会に出現しては、他人を装ったまやかしをする。

 もし悪条件下で他界と交信すれば、危険を冒すことになる。邪悪霊が侵入して身に危険が及ぶ。交霊会は純な精神の人達――真理探究の人たち――の集まりでなければならぬ。
 
 人は絶えず霊的進化に努めようと、やる気を持つことが必要である。人に教えを聞く耳がなければ、我らは教えることができない。
 高い啓示を伝えても、それを聞く側に耳がなければ、いかに高級霊の力をもってしても、満足のいく通信を伝えることは難しい。いま、人間は学ぶことに意欲が乏しい。遊ぶことばかりに目を向けておる。
 我らは四面楚歌の中で、とにかく最大の努力を払っている。側面からは、邪霊どもが絶えず陰謀を仕掛けてくる。正面からは、人間達の生気のない冷えた信仰や、未発達で鈍感な精神が邪魔をする。

 求める者の志向の高さに応じて、通信する霊の品格は決まるものである。

 純真な者達を邪霊が襲うことがあるかもしれぬが、その場合は守護霊の力で撃退することができよう。この場合を別として、「類は友を呼ぶ」という法に例外はない。

 悪は悪を引きつける。物好きでくだらない邪悪な人間は、その周りに未発達のつまらぬ霊を引き寄せる。だが、清純で善良な人間の場合に、その通りにいかないことがある。これらの者達が低級霊の攻撃の的となることがあるかもしれぬ。それは、本人の試練のためのものか、あるいは敵の陰謀かのどちらかである。

 魂にささやきかける高級霊の声は、静穏であって、気づかれないことがある。

 諸君は神々である。諸君の内には神の分身がある。内在の神、至高なるものの顕れ、全知全能の霊の一部がある。
 霊体はこの大いなる霊の王国より栄養を受け取り、支えられている。ちょうど肉体が呼吸する空気で養われているように、霊体はそこから養分を吸収する。また、人類の英知一切も、この霊の王国から引き出される。この場合は主として霊の中継を通じて行なわれる。
 感受性に富み、最も霊的な者が、最大限にこれを吸収する。いわゆる天才とはこのような者達である。彼らは有用な発見をしたり、有益な発明をする。これらインスピレーションの源泉は霊界にある。発明とは、人間がそれを発見する以前に、すでに霊界に存在するのである。

 すべての才能や霊媒力は貴重なもので、進歩のために極めて大事な助力となることを覚えていてもらいたい。これは敬虔な配慮をもって守り育まれるべきものである。
 もし乱用と誤用があれば、危険を伴うことになろう。それは彼らが神や天使にいっそう身近にいるということなのである。彼らは容易にその感化を受ける。されば悪の襲撃にも門戸は開きっ放し、また善の感化をもたちまち受ける。それゆえに、慎重な配慮と誠実な保護が緊要なのである。

 霊ならどんな玄妙な神秘でも知っていると期待してはならない。何でも知っているという霊がいたら、最も自らの虚偽性を証明するものである。

 霊の世界とは、諸君らの理解するような「場所」ではなくて「状態」である。霊は時間と空間には支配されていない。境域の違いとは、そこに住む霊の精神的・知的・霊的な状態の相違なのである。似たもの同士が集まり、気心の合った仲間との交わりで喜びを得るのである。その社会とは、趣味や嗜好の共通性ということなのである。
 高級霊の界層には、徳性の低い霊は入っていけない。教導を必要とする霊達は低い界層に集まっている。これらの霊達は高級霊の指導を受ける。高級霊達は自分の光り輝く場所を離れて、地上に執着を持ち続ける迷った霊達に光明をもたらすために出かけていく。
 最初の3つの界層が地上に近接してある。そこには上記のような霊達が溢れている。
 その第1は、いろいろな原因で地上に縛りつけられている霊達である。地上生活ではほとんど進歩しなかった連中がそれである。彼らはまったくの邪悪霊ではないが、フラフラした無目的の魂であって、自分の機会をつまらぬことに使い、むざむざ浪費した連中である。
 次に、進歩はしているかもしれぬが、友への情愛や心残りからその絆が断ち切れず、地上の近くにいたいと思っている霊達がいる。
 もう一つ、訓練不十分の霊達、つまり学ぶところがまだ少なく、基本的な教導の段階にある霊達である。こういう霊は不完全な肉体に宿ったので、地上で学ぶべきものをまだ残している者である。また、不慮の死で、自分のせいではないが、なお進歩のためには学ぶものが残っている霊達もそうである。

 通信霊の名前は、貴下に霊からの通信が伝えられる場合の便宜上の符丁にすぎない。通信は、場合によってはいろいろな霊のものが混じっている。多くの場合、貴下に届く通信は一個の霊の作品ではなく、多くの霊の集約的作品である。貴下への通信に関与した多数の霊達は、もっと高級な霊力を貴下に伝えるための手足にすぎないのである。

 貴下は自分の霊力を養い、肉欲を抑制し、自分の環境を克服することを学ばねばならぬ。地上生活は内的にいっそう真実な生活の準備にすぎない。我らが世界こそ真実。地上は影の世界である。

 霊主肉従とならねば、真理を手にすることはできない。霊的真理を目指す者は、万事において純粋であること。心身ともに勇気に満ちていて、ただ一途に真理に向かい、かつ自制心がなければならない。
 肉感の方が霊性に勝る不潔な者、知識を悪用する利己主義者、これらの者達が霊的知識を追求すれば、深甚、深刻な危機を伴う。
 とかく気まぐれ者が神秘に心をひかれる。こういう連中は、ただ好奇心からベールの彼方をのぞきたいと思ってるだけだ。彼らは虚栄心が強く、人が持っていない力や知識を好んで持ちたがる。そんなところからのぞき見心を出す。こういう人には危険が伴う。真理探究の人には、かような危険は一切ない。

 霊能力の開発には、危険を伴う。霊媒の周りに強力な取り巻きの霊がなければ、未発達霊が侵入する危険性が増す。注意と祈りが必要条件となる。

 低級な霊媒行為には必ず危険が伴う。その第1は、この種の霊交は単に驚きのためや興味本位におちいったり、金儲けのために使われたりしがちだからである。
 第2に、寄せ集めのサークルで、適正な条件を欠いたなかでの霊交は、低級で唯物的な霊を引き寄せること。このような低級霊達は、進歩した知的な霊より、こういう種類の霊交にははるから腕がよいからである。霊媒に対する適正な指導と保護が欠けていれば、霊媒はいつでも堕落への窓口を開いているのである。霊媒はややもすると、引き寄せた低級霊の慰み者となりやすい。
 多くの場合、諸君の交霊会の部屋の雰囲気は、我々にとって壁のようなものだ。入りがたいし、有害でさえある。彼らは息が詰まる。下卑た霊や地縛の霊には都合がよい。そういう所である。

 人を惑わす霊は存在する。今後も存在し続ける。彼らを無視することは、諸君らにとって災いの源以外の何ものでもない。

 好奇心の応える目的で心霊現象を起こして見せる者は、知性もモラルも低劣な霊の慰み者となることが多い。同じ霊と交信しているつもりでも、時が違えば保証はできない。というのは、低級霊は名前や姿形をごまかして、相手をだまして喜ぶものだから。

 人類はある程度まで、霊界からの教導の受容者なのである。我らは因果律に干渉することは許されていない。つまり、犯した罪の結果を免れさせること、無益な好奇心のとりもちをすること、この世を試練の場から変更させること。

 霊能力が開かれると、地上と交信したがっている大群の霊達のとりこになりがちなのである。敏感であればその分だけ、地上近くの未発達霊の危険性が高い。この危険は恐ろしく、我らが絶対に望まぬところである。

 交霊会というのは、霊の目からすると、光の中心なのである。それは遠くからも見え、地上の住人と話したがっている霊達が常に群がっている。そういう連中の中には、自然の素材を巧みに使う者達がいる。その点に関しては、彼らの方が高級霊より上なのである。霊に進歩するに従い、物理力が駆使できにくくなる。従って、精神的な印象とか、知的指導や指示という傾向を帯びるのである。

 我らは断っておく。誰しも交霊会に群がってくる霊達の霊媒となれば、いつかは彼らのレベルにまで引き下ろされてしまう。精神的にも道義的にも肉体的にも、落ち込むに決まっている――と。

 我々は今、魔群が大活躍をしている時代を経過しつつある。

 夢には、過去の出来事の正確な追憶の夢がよくある。また、予言とか警告の夢もある。この場合は、守護霊からの暗示の声ということが多い。これは、守護霊が力が足りなくて、本人の覚醒中はその魂に近づけない場合に起こる。守護霊は睡眠中の本人の霊に話しかけ、肉体感覚と混じらないように守ってやって、本人の心に記憶を残しておくのである。この場合には、本人の霊は忠実に思い出すことができる。
 
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