エマニュエル・スウェデンボルグの
霊界
 ―― T
死後の世界は実在する 
E・スウェデンボルグ・著 今村光一・訳
中央アート出版社 2000年刊 
第1章
 霊界はあなたのすぐ背後にある

  まだ霊界、死後世界のことを理解していない人にはわかりにくいかも知れないが、霊界では霊たちは想念の交通ということを自由自在に行なっている。ある霊がほかの霊に対して、自分の考えていること、感じていることなどを知らせることができる。そして、ふたつの霊がどんなに離れたところにいようが、また壁や仕切りなどがあっても、何の支障もなく行なわれる。

  なんとはなしに背中に人の気配のようなものを感じて後ろをふり返ってみたが、そこには何もなかった――このような経験は誰にでもあるはず。これは、あなたの背後に、霊や霊界、死後世界が、暗い闇のようにひっそりと忍び寄った瞬間なのだ。
  霊界はこの世の背後にぴったりと寄り添って実在しているのだ。霊界とこの世は切り離すことのできない1枚の金貨の表と裏のようなものなのである。
  私は自分の肉体を自分の意志で死の状態に置くことによって霊の世界に入り、霊界のことを知ってきた。そのことをいまは「死の技術」とだけ言っておこう。

 肉体と霊を分離した私自身の体験

  私が霊界に入り、霊たちと交わってきたのは、自分自身の意志で私の霊を肉体から離脱させることによってであった。私は霊たちと、肉体を持たない一個の霊として交わったのだ。しかし、その時でも私は肉体を持つ人間であったことも確かだ。だが、人間に霊のことが見えないように、霊たちには人間の肉体は見えない。だから、彼らは霊としての私だけを見て、私を霊として扱ったのである。
  では、肉体と霊を分離し、霊界に入るとはどういうことか。これには、私自身の経験をそのまま答えとしよう。
  霊が肉体を離脱しようとするときには、私は必ず、眠っているのでもなく、といって目覚めているのでもないという特別な感覚の中にいる。それなのに、私は自分が十分に覚醒しているのだとはっきり意識している。この覚醒は肉体を持った人間としての覚醒ではなく、霊としての覚醒なのだということである。
  だから、普通の目、耳、鼻といった外部からの肉体的な感覚は、すべてなくなってしまうといってよいだろう。しかし、その一方、霊としての感覚はますます覚めてはっきりとしてくる。霊としての意識の中での視覚、聴覚、触覚は、普通のときの50倍も100倍も鋭くなっているのが自分でもわかってくる。だが、これらの感覚はすべて肉体的な感覚の覚醒ではない。
  このようなときの私を人が見れば、私は人間としてのすべての意識を失って、死んだのだとしか見えないだろう。この状態のことを、私は「死の状態」という。あるいは「霊の状態」といってもよいと思う。

  肉体を離脱してまだそれほど肉体との距離のない段階では、私の霊は自分自身の肉体をはっきり見ることができるし、かなりの程度肉体に対する支配力を持ち続けている。その様子は次の通りである。
  私の霊は、20〜30メートルぐらいのところから私の肉体がベッドに横たわっているのを見ていた。そのとき私の肉体は、ベッドの端に首筋が当たっていた。私は上から見ていて「あれでは首が苦しい。体をずらさなければ」と思った。
  私の霊がそう思うと、私の肉体は体を動かして首筋をベッドの端からずらしたのである。このときの私の肉体は誰の目にも死者としか見えなかったはずである。だから、人が私の肉体が動くのを見たとすれば、その人は心臓も凍る思いがしたと思う。
  この状態からさらに進み、私の霊が自分の肉体をほとんど意識しなくなってくるようになると、私の霊は完全に肉体から離脱し、霊界に自由に出入りし、多くの霊たちと交われるようになるのである。
  私はこのようなやり方で、生きながら霊界に入り、霊界で数々のことを見聞きしてきたのであった。

 死は霊界への旅立ちにすぎない

  まず、人間の死とは本当はどのようなことなのかについて少し触れておこう。
  人間の肉体の死は、確かにこの世のすべての終わりだということは、物質界、自然界を見れば正しい。だが、死を霊の立場、霊界の側から見れば、単に肉体をこの世の道具として使用してきた霊が、肉体を支配する力を失ったということにすぎない。霊はその後は霊界へと旅立って行くのである。
  霊界に旅立つまでには、この世の時間にして2、3日の間がある。死と同時に肉体の中の霊は目覚めるが、そのことを知って、霊界からは導きの霊が死者の霊のところにやってくる。そして死者の霊とお互いの想念の交換を行なう。これは死者の霊が、その後永遠の生を得るための大事な準備のひとつなのである。死者の霊がしばらく肉体の中に留まるのは、この想念の交換のためなのだ。

 “想念の交換”とはなにか

  霊界には無数の団体がある。霊たちはすべて、自分にもっとも適した団体に属して永遠の生を送る。導きの霊が現れ、死者の霊と想念の交換を行なうのも、その死者の霊が導きの霊と同じ団体に適しているかどうかを知るためなのである。
  だから、この想念の交換によって、死者の霊が同じ団体に属すべき性質を持っていると判断すれば、導きの霊は自らの手によって死者の霊を霊界(最初は精霊界)に導いて行く。また逆に、その死者の霊はほかの団体に属すべきものだとわかれば、死者の霊を肉体の中に置いたまま去ってしまう。このとき死者の霊は、次々に現れる導きの霊によって、自己の属すべき団体が見極められるまで肉体の中に残って、霊の生を送っていることになる。

 導きの霊とともに精霊界へ

  人間が死んで、まず最初にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後、ただちに霊となるわけではなく、いったん精霊となって精霊界に入り、その後霊界に入って、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように、精霊界も、人間の世、この物質界・自然界と、霊界との中間にある世界なのである。
  精霊界には日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて入ってくる。このことからもその広さは想像を絶する。
  精霊界は、その広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峰々からなる大きな山脈に囲まれている。そして、その巨大な山脈の間のあちらこちらに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの目には見えない。彼らが霊界へと移る準備が終わったときに目に見えるようになるのだ。
  だから、精霊界に住む精霊たちは、霊界が存在することすら知らない。彼らはちょうど、この世の人びとがこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけをすべての世界だと思って生活している。

 精霊が最初に驚き当惑すること

  精霊界も霊界には違いないが、まだまだ多くの点でこの世とそっくりなところがある。少なくとも精霊たちの意識のうちでは、人間界と少しも変わらないところだといってよいくらいに似ている。そこで、まだ自分が人間として生きているのだと錯覚している精霊は多い。精霊界に導かれる前に導きの霊によって、精霊になったことを教えられるのだが、精霊界に入るとすぐ忘れてしまいがちなのである。
  精霊界があまりにも人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだ以前と同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。精霊界には、人間界との類似に驚く者と、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚く者の、二通りがある。
  このような精霊には、霊界から来ている指導の霊が次のように教えるのである。
  人間は、もともと霊と肉体のふたつからできているものであり、肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界に導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって霊界に行き、そこで永遠の霊の生に入ること。いまはそのための準備期間であること。――などを説いて聞かせる。

 この世の家族も精霊界ではバラバラに

  この世における不慮の災難などのときには、家族がそろって精霊界に入ることがある。このような家族も、精霊界で過ごすにしたがってバラバラに離れていくのが普通である。友人、知人といった間柄でも同じことがいえる。
  精霊界を“卒業”した精霊は、霊となって霊界に行くことはすでに述べたが、いずれの霊ももっとも自分の本性に合った霊界の団体に属して、それ以後の霊としての生を送ることになる。霊界には霊の性格の多様さに応じて無数の団体がある。
  この世では家族であっても、霊界で別の団体に属するようになれば、もはや永遠に会うことはない。この世の人情や常識から見れば、いかにも悲しい話と受けとる人も多いことであろう。だが、これが霊界の掟なのだ。
  人間は、もともと霊界に属する霊と自然界に属する肉体からできていることは述べてきた。それでは、人間をこのようにふたつに分けるとして、どの部分が霊で、どの部分が肉体なのだろう。これは次のように言える。
  人間の心の本性、心そのもののうち最も内面的なもの、本当の意味の知恵、理性、知性、内心の要求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらはすべて霊の働きなのだ。これに対し、目や耳、鼻、舌、体の感覚といった肉体的、表面的な感覚は、すべて物質界、自然界にその住みかを持っている。
  人間が肉体的に死に、霊(精霊)となって霊界(精霊界)に行くと、その霊は次第に霊そのものになっていく。精霊でも、初めのうちはまだ外部的感覚の残りカスや外部的記憶を持っているが、次第にこれらを捨て、霊本来の姿になり、霊的感覚が優れてくる。
  もともとの霊の姿はわかりにくいかもしれない。夜、自分の部屋で瞑想にふけり、自分の心の真の姿をのぞいたとすれば、それがその人の心の姿、もともとの霊の姿に近いと言えるだろう。
  人は世間にあるうちは、道徳、法律、礼儀、他人への配慮、習慣や打算など、網の目のような外面的なものにしばられ、あるいは知識のような表面的な記憶にわずらわされている。しかし、霊界ではそんなものはすべて不要なばかりか、邪魔なものにすぎない。これを少しずつ捨て、霊本来の姿にかえるために精霊界はあるのである。 
第2章
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  はじめて見た霊界の光景 

  私が最初に霊界に入った翌日の朝のことだった。どこからか私を呼ぶ声を耳にしたような気がして目を覚ました。その声は、昨日私がはじめて聞いた声の主だった。
  私は目をこすって周囲を見回した。だが声の主はやはり見えなかった。
  急に私の耳のそばで大きな声がしたと思ったら、彼は天から降ったかのように突然出現した。

  彼と私は、霊界の大きな山の頂に立っていた。私ははじめて見る霊界の景観に、声も出ないまま立ちつくしていた。
  ――それは、まことに壮大な景観であった。
  私の左手の方角のはるか遠方には、天に届きそうな氷の山が峰を連ねていた。その高さといい、山脈の長さといい、私がそれまで想像すらしたことのない巨大さと荘厳さがあった。
  山脈の端からさらに遠くに、青い水をたたえた海のようなものが広がっている。海の右側には広大な砂漠のようなものが広がり、そこには岩山がさまざまな形をしてそびえているのが見えた。(中略)
  その世界には川も小さな山も、また草原も渓谷もあった。樹木が生い茂っている地域も、赤土のところも‥‥つまり、この世にあるすべてのものは同じようにあった。そのうえ、街のように見えるところも、また村のようなところもあり、そこには霊たちの住居が軒を連ねて並んでいた。霊たちの姿もたくさん見られた。

 霊も体をもっていた

  大勢の霊たちを見たことで、私の心にはそれまで気づかなかった疑問がおこった。
  ――霊が体を備えている。これは本当か? 私は幻想を見ているのではないだろうか?
  これはおかしなことだった。私自身、いまは霊になっているのだし、昨日から私をここにつれてきた霊を自分の目で見ていたのだから‥‥。
  私は彼にたずねようとした。だが、それよりも早く、彼はもう私の心の中を知っていたようである。彼は言った。
  ――霊は、人間と同じように人体をそなえている。ただし、人間のような物質的肉体という形は持っていない。しかし、多くの人が考えてるような、空気やエーテルのようなものだと思うと、それは間違いである。また、霊には人間の肉体の機能に相当する目、耳、鼻のような感覚もすべてあるし、口や舌を持ち、言葉もしゃべる。

  私は彼の話を聞いている間、眼下に広がる景観に目をこらしていた。そして気がついたのは、ちょうど人間界の市や町、村落のように、霊たちがあちこちにひとつの集団をつくって生活しているということだった。同じ町や村の中の霊たちは、どこか共通した特徴が見られるようだった。そして、住居ひとつにしても、ある町や村とほかの町や村のものには、かなりはっきりした違いが見えた。

 霊たちはどのように住んでいるのか

  町はこの世の町のように見えたが、それぞれ全部の住居が、石造りなら石造り、木造なら木造、といったように同じ材料で、しかも同じような建て方でつくられていた。同じ町の霊の顔つきや性格には、たとえ外形は違っていても、全員がどこか共通した性質を持っていて、それはこの世の人間の親子兄弟姉妹よりももっと濃く、親密さもそれ以上だった。それから、どの町も円形につくられていた。その中心には権威と徳の最も高いらしい霊がいて、円の外側になるにつれて、少しずつ中心の者より劣っていくということであった。

  霊界には無数の団体があり、これがひとつひとつの町や村を形づくって一緒に住んでいる。霊界の団体の数は、おそらく一千億以上になるかもしれない。霊界にこんなに多くの団体があるのは、霊となって肉体の束縛を脱したあとは、人間はその本来の姿にかえり、本来の霊的性格をとりもどすからだ。永遠の生を送る霊界では、性格の合うものだけが集まるから、性格の多様さに応じて無数の団体ができることになる。

 霊界の結婚

  霊界にも結婚ということがある。男女の霊の間で行なわれる点では、人間の結婚と変わらないが、相当な相違があるのは当然である。霊界の結婚は、霊的親近感の極致でだけ行なわれ、人間の結婚の場合にあるような世間的な要素は全く混じることはない。
  結婚した男女の霊は、霊界ではふたりの霊としてではなくひとりの霊として扱われる。これは霊的な心の合体の完璧さを示している。
  また霊界の結婚には、男女の霊の間に肉体上の結合ということはない。霊界の結婚の目的が、ふたりの霊の悟りや霊的向上にあって、この世の結婚のような子孫の繁殖を目的としていないからである。
第3章
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 霊界には時間の観念がない

  時間について霊たちと議論したとき、私は(彼らに)次のように説明した。
  「人間の世界には時間というものが存在する。太陽が回転するので、人間は春、夏、秋、冬という季節の変化を経験する。また、太陽が東の空に出て西の空に没するのを1日とし、1日を太陽の動きに合わせて朝、昼、夕、夜と分け、これを時間と言っている」
  この話を聞きながら霊は、ときにはうなずくような表情を見せたが、だいたいは「変なことを言うものだ。そんな世界は本当にあるのだろうか」といった顔つきになったり、頭痛でもするように頭をおさえたりした。
  この理由は、霊界が時間という小さな物差しを超越した世界だからだ。そのため、霊たちには時間という観念はないのである。彼らはせいぜい状態の変化という観念で考えることができるくらいである。
  また、霊たちに時間の観念がないのは、霊の生命が永遠だからということとともに、次のような理由がある。つまり、霊界の太陽はまったく動くことをせず、つねに天の一角にじっとしていること。もうひとつは、霊たちはどんな遠距離でも彼らの意志ひとつで一瞬にして行くことができるということだ。これでは空間の観念も生じないし、時間の観念も生ずる余地がないのは、誰にでもわかるだろう。

  ここにふたりの霊がいたとしよう。ひとりは人間界で言えば20歳すぎの青年の顔つき、もうひとりは60歳を超えた老人の顔つきをしている。あなたはどちらの霊が若いと思うだろうか。この青年のほうは老人よりも数千年も前に死んで霊界に入っているのである(霊は歳をとらない)。それなら青年のほうが歳をとっているのだと考えるならば、それも間違いである。霊界には時間がなく、したがって年齢もないからだ。ただ、彼らは人間として死んだときの顔つきを残しているにすぎない。

 無限の意味を含む霊界の言葉

  霊界の言葉には、この世の言葉と違った大きな特徴がいくつもあるが、いちばん大きな特徴は、この世の人びとが数千言を費やさなければ話せないことを、霊たちはわずか数言か数十言で話すことができることだ。少ない言葉にたくさんの意味をこめることができるという点である。
  これは同じ言葉を使って話しても、その音節の区切り方によって、その中にたくさんの意味を込めることができるということだ。自分の心の中にある想念を、音節の区切りで表すのだ。だから、表面の言葉以上に、何百倍、何千倍の意味が込められることになる。
  そのほか、霊界の言葉には次のような特徴がある。
  そのひとつは、どんなに遠く離れていても会話ができる一方、その気がなければ耳のそばで話されても聞こえないということ。また、霊界の言葉も人間の言葉と同じく空気(ただし霊界の空気)を伝わって相手の耳に届くことだ。これは霊が人間と同じように耳も口も舌も持っているのだから当然のことであろう。

 霊界で見た文字の驚異

  言葉がある霊界に、文字が存在することは、世間の人が想像する通りだ。だが、霊界の文字は、その字の姿形や使われ方など、いろいろな面で人間界の文字とは相当な違いがある。
  霊界の文字はこの世のものに比べて曲線が多く、文章を見たときの全体的印象としても、そういう感じを受けること。もうひとつは、いろいろいな意味を含めた象徴として数字が使われること。それに、霊界の言葉と同じように、霊界の文字は数少ない文字の中に非常にたくさんの意味を込めることができることである。
  霊界の文字は複雑で精妙なので、いまこの(人間の)世に帰ってこの手記を書いている私には、正確にそのすべてを思い出すことはできない。
  最後に、言葉のことも含めて少し言っておくことがある。それは、霊界には人間界にある言葉も文字もすべてある。そのほかに何百万という言葉や文字があって、これらは人間界の言葉や文字では表せないということだ。なぜなら、霊界には人間界にない事物や、人間には想像できない複雑で微細な霊たちの感覚や心の動きがあり、人間界にはそれに対応する言葉や文字がないからである。言葉や文字の点でも、人間界は霊界には遠く及ばない未発達の世界だと言えるだろう。

 地獄界に行ったある霊の体験談

  大勢の霊たちが、ひとりの霊を囲んで座っている。そのひとりの霊が、回りの霊たちに話をしているのであった。その話は非常におもしろいらしく、みんな興奮しているのが私にもわかった。
  彼の話は次のようなものであった。

  ――私はそのとき、ふっと人(霊)の話し声を聞いた気がして、眠りから覚め、目を少し開けてぼんやりとあたりを見回した。あたりはいつもよりだいぶ暗かったが、私は自分がまだよく目が覚めていないのだと思って、別に気にしなかった。
  だが、次の瞬間、私は今まで見たこともない光景を目にして、心臓が止まるほどに驚いた。闇の中で大勢の霊たちが輪を作っていて、その真ん中に一人の霊が立って、なにやら大声でわめいているのである。
  私を驚かせたのは、ひとつは、知らない間に地下の大きな洞穴の中に閉じ込められていることがわかったこと。それと、これらの霊たちの顔つきや様子が、どれもこれも地獄の狂鬼を思わせるように恐ろしく、怪奇なものばかりだったことだ。
  彼らの顔は、ある者は目がくぼみ、骸骨のように目が暗い穴となっていて、頬の肉は落ちていた。またある者は、不気味な歯だけむき出し、ニタニタと薄気味悪い笑いを顔面にただよわせ、ある者は顔の半分がそげ落ちていた。また、獣を思わせる顔つきや、亡霊としか思えない姿の者など、みな怪奇な顔をしていた。
  中でも特に恐ろしかったのは、輪の真ん中に立ってわめき叫んでいる霊だった。彼は背丈もほかの者の倍近くありそうな巨人で、顔いっぱいになりそうな大きな目をギラギラと光らせ、耳の近くまでさけた大きな口から真っ赤な舌を蛇のように出して叫んでいたのである。
  彼はおおよそ次のようなことを言っていた。

  「いまやお前たちは、地獄界の霊となったのだ。お前たちは地獄界で永遠の生を受ける幸せな者たちだ。つねに地上にある霊たちを誘惑し、彼らを暗い道に誘い込まねばならない。お前たちはそれによって、さらに永遠の生を祝うことができるのだ」

  それから彼は、私の方を指差して叫んだ。
  「汝、この輪の中に進み出よ。われら、汝を検分すればなり‥‥」
  私の恐怖はこのとき最高潮に達した。だが、ちょうどそのときだった。霊界全体をゆるがすような地響きが起き、巨岩が山腹をがらがらと転げ落ちていく光景が見えた。私は恐怖の声を上げた。
  ふたたび気がついたとき、私は霊界に戻されていた。あの山崩れは、私たちの団体の主霊が、山陰に巣くう兇霊たちを退治するための山崩れだったのだ。私は本当に危機一髪のところで助かったわけである。

  この霊の話は、私自身も初めて聞く地獄界の経験談であった。
  では、霊界と地獄界、および精霊界はどんな関係になっているのだろうか。
  霊の世界はこの3つの世界を一緒にしたすべての世界だ。このうち精霊界は、霊の世界の中では“中間地帯”といえる特別な世界であり、霊界と地獄界は、それぞれ性質を異にする霊たちが済んでいるふたつの違った世界だ。そして、精霊界から霊界にも地獄界にも通路が通じているが、霊界と地獄界の間には通路はなく、ふたつの世界は切り離されている。そして地獄界は霊界の地面の下にあるのである。

 宗教が説く地獄界は架空の話

  現世で悪いこと、不道徳な生涯を送った者は、死後は地獄に投げ入れられ、そこで永遠の罰を受ける――これは、世界中の宗教などが説いている“地獄の教え”だ。しかし、これは宗教上の必要からつくった話で、少しも根拠がない架空の話である。
  私の記す地獄は、これとはまったく違った地獄であり、別に現世の悪業の報いとして投げ込まれるのでもなければ、永遠の苦しみを与えられるというのでもない。さきほど触れたように、霊界のひとつの世界として、現実に存在する地獄である。
  人間の死後、精霊となった者のうち、どんな者が地獄に行くかをひとくちで言うと、つまりは霊に目覚めず、霊界の存在が見えない精霊たちだということになる。だが、彼らとて現世で悪業を重ねたために、その罰として地獄に送られるわけではない。彼らは彼らの欲するところによって、自ら地獄に行くにすぎない。
  ただ、これらの精霊の中には、確かに現世で悪業を行なっていた者はすべて含まれている。その点では、結果的に宗教の教えと同じことになるように見えるが、実際の理由はまったく違うのである。
  地獄に行く精霊は、現世にあったとき、たとえば物質的欲望、色欲、世間的名誉欲とか支配欲などといった人間の外面的、表面的感覚を喜ばすことばかりに心を用い、本当の霊的な事柄を極端にないがしろにした者である。これらの者は、霊的事物にはまったく目が開かれなかったため、精霊界に入ってもやはり開かれない者が多い。
  このような理由で、彼らの精霊としての心は、精霊界に長くいても霊界の太陽の光や霊流を自分の内部に吸収することができない。逆にその間に、地獄界の火に心を惹かれ、地獄界の凶霊たちに親しみを感じるようになる。この結果として、彼らは自分の希望するところにしたがって地獄界に入っていくのである。人間でも似た者同士が集まるのとまったく同じ理由なのである。
  地獄界の凶霊は、霊界の光や霊流からは霊としての喜びや幸福を感じることができない代わりに、自分の欲望を満足させることを喜ぶ。また、ほかの霊の賞讃を得たいといった、人間でいえば外面的、物質的に低級な欲望ばかりだが、これを満足させることが彼らには喜びであることには間違いない。

 地獄界の3つの世界

  私も一度だけ、精霊について地獄界に入って行ったことがある。その時に見た地獄界の様子を詳しく記すことにしよう。
  私は暗い穴ぐらのような通路を通って地獄界に入っていった。あたりは暗闇に包まれていたが、薄明かりが私の周囲の世界を照らしていた。階段をだいぶ降りたとき、黒い霧のようなものに包まれてしまった。この黒い霧の下には地面のようなものが見えてきた。私はその地面に向かって降りていった。すると、階段の踊り場のように少し広くなったところに出た。私は踊り場に降りて周囲を見回した。
  目が慣れるにしたがって、その踊り場と思ったものが、霊界と同じように広大無辺な広い世界であることがわかった。そこには、やはり大勢の霊たちが永遠の生を送っているのであった。
  この世界にも、霊たちの住居や町、樹木など、霊界にあるものはすべてあるようだったが、それらのものは正視できないほど怪奇な姿をしており、また世界全体に気持ちの悪い異臭が漂っていた。
  ある街角のようなところに出たとき、突然ひとりの霊(凶霊)が飛び出してきた。彼は何かわけのわからないことを大声で口走っている。彼を追いかけるように、ほかの凶霊がひとり飛び出してきて、これも同じようにわめいた。また、町のあちこちから、いずれも醜怪な顔つきの凶霊たちが何百、何千と集まってきた。
  彼らはいずれもその醜い顔つきをいっそう醜くゆがめて、大声でなにかを口走り、ののしり合っている。彼らの言葉の底にあるのは、すべてが怒り、憎しみ、仕返しをしようとする心、虚偽といったものばかりであった。その口調は聞くに堪えないもので、私はぞっとする思いで凍りついてしまった。
  続いて、彼らの全員が最初に街角に飛び出してきた凶霊に打ってかかった。ある者は彼を叩き、ある者は石をぶつけ、また目や歯に棒きれや指を突っ込んで彼をいじめる者さえあった。彼の苦痛の叫びと瀕死の表情は、私に心臓を突き刺すような痛みを感じさせた。
  私は、あまりの惨状に目をおおいながら、そこを去って、また小さな明かりのほうに向いて歩き出した。しかし、いくらも行かないうちに、同じように事件が起きていた。私は落ち着いてこの世界全体を見渡した。すると、この広大な世界のいたるところで、同じようなことが何千何万と起きているのが見えてきたのだ。私はこれが地獄の責め苦というものだと、このときになって初めてわかった。

  しばらく歩いて行くと、また階段のようなところに出た。この醜い世界に耐えられない思いをしていた私は、この世界から逃れるため、急いでその階段を降りて行った。
  だが、そこに見たものは、先ほどの世界よりなおいっそう醜怪さに満ちた世界で、私はほとんど気絶しそうになった。凶霊たちの顔つき、姿、形もさらに醜く恐ろしいものであり、またここで見るすべてのものは、先ほどの世界よりひどい怪奇さ、醜さを見せ、鼻を突く悪臭と汚れは、さらにひどいものであった。
  私は、この世界からどうやって帰ってこられたかは知らない。だが、地獄の世界がどのようなものかについて、簡単にまとめておこう。
  地獄の世界も、霊界と同じように3つの世界に分かれている。
  地獄とひとくちに言っても、そこにはひとつして同じものはない。すべての世界には千差万別といった違いがあり、共通していることといえば、その世界がいずれも醜怪さに満ち、凶悪な霊たちの住む世界だということ。この世界では、つねに憎悪、軽蔑、報復といった気持ちと、争いに満ちている。
  ある地獄では、汚穢(おわい)と糞土のみがあり、また淫奔(いんぽん)だけの地獄もあり、火事の焼け残りの跡のような印象を受けた地獄もあった。恐ろしげに茂った森林のような地獄では、凶霊たちがその森林の中を猛獣のような姿でうろつき回っていたりした。

 どの霊界に行くかは、あなた次第

  私は、霊界には上、中、下の3つの世界があり、そのほかにも“地下の霊界”ともいうべき地獄界という世界のあることをすでに記した。霊界のことを記す最後に、人々のもっとも大きな関心事に対する答えを書いておくことにしよう。それは、人間のときの生涯と、死後にその人間の霊が行くことになる霊の世界との間には、なんらかの関係があるのか、あるとすればどんな関係があるのかということであろう。これには、次のように答えよう。
  ――関係があるのか、などといったものではない。人間のときの生涯がそのまま、死後、彼が永遠の生を送るべき世界をほとんど決めてしまうのである。
  霊界で霊たちが幸福な世界に入るのも、また逆に地獄界に入るのも、別に人間のときの報酬や罰として入るのではない。それは人間の生涯において、彼の霊的な内心が霊界のどの世界にもっともよく対応すべきものになっているかによって、死後の霊自身が自分の意志で自分の世界を選択するのである。
  このことをもっと簡単にいうと次のようになる。
  霊界の上世界は、中世界よりも明るい光に満ちた世界だ。しかし、明るい世界に住むには、人間の霊で言えば、彼の目がその光に耐えられるものでなければならない。もし彼の目が、そのような明るい光の強さに耐えられないものとすれば、もう少し暗い世界を自分で選ぶことになるだろう。
  これと同じことで、上世界に住む霊の霊的な心の窓が、それだけ開かれていなければならないことになる。その窓の開き具合は、人間だったときの生涯において、どれだけ霊的な心を開いたかということの結果なのである。

  霊的に心の窓が開けた生涯とは、霊界の秩序を守り、それにしたがった生涯を送るということである。霊界の秩序は、素直な心さえあればその存在を感じることができる。なぜなら、人間界、自然界にあるものは、それに相応する対応物がすべて霊界にもあるからである。
  そこで、心を素直にして自然界を見渡してみる。鳥や獣、虫などの動物界、樹木のような植物界にせよ、すべて生命あるものは、自然界の秩序によって生活している。この不思議な秩序に素直に感嘆し、この秩序のもとに素直な心をもって生活しようとする人間は、すでにその心の中に霊界の秩序のことを感じ取っているのである。
  彼は死後、霊界に入ればただちに霊界の秩序の真の意味を理解し、それにしたがった霊としての生活を行なうことを意図する――このような人びとは、上世界に入る人びとなのである。
第4章
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 精霊界からこの世に生まれ変わった男

  その精霊の様子は、ほかの精霊たちと少し変わっていた。彼は、すぐ近くにいる精霊たちと交わろうとせず、彼らの存在にすら気がつかないかのように、ぼんやりとしていた。彼は、その数日前に死んで精霊界にやってきたばかりの精霊だった。
  彼の顔つきからは、自分自身がいまどこにいるのか、自分が生きているのか死んでいるのかもわからずに、困惑している様子がすぐにわかるほどだった。彼はしきりに自分の首のあたりをさすったりして、そのあとは深く考え込んでしまうのであった。
  この新しい精霊への親切心から、近くにいた精霊のうちのひとりが声をかけた。やがて、彼は少しずつ自分のことについて語りはじめた。
  彼はこの世にいたときは、アジアのある国の兵士で、その国の兵士の中で一番の弓の名手だった。あるとき、敵国の武将の命を狙うため、他の数人の兵士とともに敵国の城下町に忍び入った。屋敷の外で武将の帰りを待っていると、突然背後から彼らに襲いかかった多数の敵の手によって殺害されたのだ。彼は首を切られて死んだ記憶があるという。彼は相変わらず浮かぬ表情で、自分の首をさするしぐさをした。
  だが、この精霊が本当に不思議な精霊として記憶されているのは、このときの様子や話の内容のせいではない。実は、ことあとこの兵士の精霊に誰ひとりとしてめぐり会うことがなかったためである。
  精霊界も霊界も広大無辺だから、偶然に会うということがなくてもおかしくはない。しかし、精霊や霊たちは、ほかの者のことを心の中に思い浮かべさえすれば、その相手の霊はすぐに自分の目の前に姿を現すのだ。このことからすれば、精霊たちがその後、彼らの心に強い印象を残したこの兵士のことを折にふれて思い浮かべたにもかかわらず、誰ひとりとして彼に出会わないということは、霊界の常識からしてまったく理解できないことと言わなければならない。
  しかし、この不思議なできごとの意味を、私はその数年後にまったく偶然に、この世で知ることができた。それはアジア諸国の間を往復している商船の船員によってもたらされ、世間にも不思議な話として噂になった、アジアのある国の幼児の話であった。
  この幼児はわずか3歳になったばかりだったが、まだ一度も見たことのない同じアジアの他国の町の様子を詳しく話すばかりか、自分はその町に3年前まで住んでいた者の生まれ変わりだと言った。自分は兵士であり、その国一番の弓の名手だったこと。敵国の城下に忍び込んで敵の武将の命を狙っていたときに、逆に敵国の兵士によって首を斬られて死んだこと。そして、前世の名前まで明かした。
  そのうえ、自分の首にある傷は、前世で首を斬られて死んだためだと言って、その傷を示したのである。この幼児には、生まれた時から首に傷のようなものがあり、両親はそれを不思議に思っていたという。
  幼児の話に人びとが半信半疑だったのも無理はないが、この噂を聞いて訪れたその国の商人によって、この幼児の語ったことがすべて真実であることが証明された。しかもこの幼児は、訪ねてきた商人と前世の国の言葉で自由に会話を交わしたというのである。
  私も、その不思議な精霊のことを知っているだけに、この話には異常な興奮を覚えた。やはり彼は、精霊界に数日いただけで現世に生まれ変わっていたのであろう。それならば、他の精霊たちが、その後この精霊に会わなかった理由もうなずける。
  訳者注/生まれ変わりに関するアメリカ心霊調査協会の最近の報告は、200件近い霊を厳密な“証拠調べ”によって検討し、そのひとつの結論として「前世の死が暴力死のような突然の死であったときは、よく前世の記憶が残るらしい」という、ひとつの“生まれ変わりの法則”を示している。

 人間の生命の源は霊界の太陽だった

  私は手記の最後にあたり、霊界とこの世の関係がどのようになっているかについて記すことにしよう。
  霊界とこの世との間には「相応の理」というものがある。霊界にはこの世にあるすべてのものが、物質的な形をもたないが存在し、さらに、この世にはないものさえ存在している。
  霊界とこの世は別々の世界だが、一枚の金貨の裏表のように離しがたく結びついているということを何度も記した。しかし、そのことをもっと正確に言うと次のようになる。
  霊界とこの世は実は別々の世界ではなく「ひとつの世界」なのだ。大きなひとつの世界の「ふたつの違った部分」なのだ。霊界とこの世は、別々のふたつの世界ではないのである。
  ひとつの世界の異なった部分にすぎない両者の間には、いろいろな面でまったく別の世界としか思えないような相違がある。だが、あくまでもひとつの世界のふたつの部分にすぎない証拠に、非常に緊密な関係があるのだ。
  では、もっとわかりやすく説明しよう。
  霊界の太陽から流れ出る霊流が、霊界の生命の源であることはすでに述べたとおりだ。この霊流には、霊界の上、中、下の3つの世界に直接太陽から注がれるもの(直接霊流)と、太陽→上世界→中世界→下世界の径路を経て各世界に注がれるもの(間接霊流)のふたつがある。
  人間の生命の源は霊界の太陽なのだ。自然界の太陽は熱や光を与えて自然界の生命をはぐくみ、生命の活動を助けることはできる。だが、生命の原資そのものになることはできない。なぜなら、自然界の太陽は霊界の太陽の、この世における相応物、いわば代用品にすぎないからだ。この世の太陽自身が、その源は霊界の太陽なのである。
  では、人間はどのようにして霊界の太陽からの霊流を受け取っているのか。霊界の存在ではない人間が、どうやって霊界の太陽から霊流を受けることができるのか。
  この疑問には、次のように答えよう。人間の生命の根源は本来的に霊なのだ。そして、人間の肉体に住んでいる霊が霊流を自分のなかに吸収し、これによって人間は生命を継続することができているのである。
  物質界ではない霊界が、その意図や意思を物質界において完結するには、霊に人間という物質的形態を与えなければならない。人間界は霊界の終局点であり、霊界の生命の根源そのものでもある。霊流も、その終局点である人間の肉体の中に霊を住まわせ、その霊に霊流の終局点として霊流を与えることによって、物質界における完成に達するのである。
  したがって、霊界の太陽から発した霊流は、その終局点である人間の肉体にいたって、最終的に流れを止めることになる。

  以上の説明で、霊界とこの世が、じつはひとつの世界の異なった部分に過ぎないことをあきらかにした。このことは霊の側、霊界の側から見ればいたって簡単なのだが、このふたつの異なった部分を区切るのが「人間の肉体の死」というひとつの境だ。この境が、人間にとっては(少なくとも、霊と霊界の存在を知らない人間にとっては)この上もなく重大なことに思われる。
  霊界とこの世を隔てる「肉体の死」という境界線上には、この世にとっても霊界にとっても、実に様々な事件がおきており、人間が霊界の存在をおぼろげながらも知ることができるのは、この境界線上に起こる事件――死の知らせ、霊の通知、幽霊など――によってである。
  ものごとがふたつの部分に分かれているとき、そのふたつの部分はお互いに相手に対抗する関係にあるか、あるいは逆に補い合う役目をしているものである。霊界とこの世との関係でもこれは同じで、霊界とこの世とは相手を補い合う“協力関係”にあるのである。

 私自身の“死の予告”が証明

  この手記の最後に、私がジョン・ウェスレーというある教会の牧師に送った手紙のことを記しておく。
  私は、彼に次のような手紙を送った。彼は知り合いではなかったのだが、私は霊としての知覚で、彼に手紙を送る必要のあることを知っていたからである。

  「私は、あなたが霊界において私に会いたいと希望していることを知った。また私は、1772年(来年)3月29日に、この世を捨てて本当に霊界の霊になることが前から決まっているので、そのことも併せてお知らせしておくことにする」

  彼からは次のような、驚きを込めた返信が来た。

  「私は、有名な霊媒であるあなたのお名前を、かねてから聞き知っています。私はあなたからの手紙を友人たちの面前で開きました。しかし、私が霊界であなたに会いたいと希望していることが、会ったこともないあなたにどうしてわかったのかと、一同その不思議さに非常に驚いています」

  私は彼の霊からの交信によって、彼の希望を私の霊的知覚で知ったが、これは生者の霊との交信であり、私にとっても数少ない例であった。私がこの世に残すものは、現世の用を果たし終えたこの肉体のほかは、この手記があるだけである。だが、この手記を書き終えた私には、もはや現世に思い残すことは何もない。
  私がウェスレーへの手紙で示した死の日の予言も、やがて私の死後において、その正しさが証明されるであろう。
著者紹介
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エマニュエル・スウェデンボルグ  Emanuel  Swedenbolg  1688-1772
スウェーデン人。自然科学、数学、物理学、哲学、心理学など20もの学問分野で、多くの業績を上げた天才であると同時に、巨大な霊能力の所有者としても世界中に知られる。1747年、いっさいの科学的研究の活動を放棄し、後半生の約30年間、心霊的な生活と霊界の研究に没頭した。生きながら霊界に出入りする「霊的生涯」を送り、ヨーロッパ中の大きな話題を集めた。彼が霊界で見聞、実体験してきたことを書き記した膨大な著書は、現在もロンドンの大英博物館に保管されている。1772年3月29日、自分が予言した日に没し、いまなお人類史上最大の不思議な人物とされる。
 
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