氷川清話
勝海舟  江藤淳・松浦玲/編
講談社  2010年刊
 
 ★ なわ・ふみひとのコメント
 東京の今日の繁栄は幕末における西郷隆盛、維新における大久保利通という薩摩の二大豪傑の英断によるものであることがわかるエピソードです。もちろん、勝海舟の働きかけがあってのことではあります。歴史は自然に流れているように見えますが、その裏ではこのような偉大な人物たちの英断、決断に大きく左右されているのです。今日の日本の政治家たちの志の低さを、西郷隆盛、大久保利通、勝海舟らはどう思うでしょうか。

 
西郷と江戸開城談判

  西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
  あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかっただらうヨ。その時分の形勢といえば、品川からは西郷などが来る、板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼においた。
  そこで、今話した通り、ごく短い手紙を一通やって、双方何処にか出会ひたる上、談判致したいとの旨を申送り、また、その場所は、すなはち田町の薩摩の別邸がよからうと、此方から選定してやった。すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に藤原屋敷で談判を開くことになった。
  当日おれは、羽織袴で馬に騎(の)って、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。
  さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」──西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるのかとか、いろいろ喧(やかま)しく責め立てるに違いない。万一さうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。
  この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などいふ豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗って居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送った。
  おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せてきたが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭(うやうや)しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。おれは自分の胸を銃先にかかって死ぬこともあろうから、よくよくこの胸を見覚えておかれよ、と言い捨てて、西郷に暇乞いをして帰った。
  この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかった事だ。

 西郷の胆量の大きさ

  西郷はちっとも見識ぶらない男だったよ。あの人見寧(ひとみやすし)といふ男が若い時分に、おれのところへやって来て「西郷に会ひたいから紹介状を書いてくれ」といったことがあった。ところが段々様子を聞いて見ると、どうも西郷を刺しに行くらしい。そこでおれは、人見の望み通り紹介状を書いてやったが、中には『この男は足下を刺す筈だが、ともかくも会ってやってくれ』と認(したた)めておいた。
  それから人見は、ぢきに薩州へ下って、まづ桐野へ面会した。桐野もさすがに眼がある。人見を見ると、その挙動がいかにも尋常でないから、ひそか彼の西郷への紹介状を開封して見たら果して今の始末だ。流石に不敵の桐野も、これには少しく驚いて、すぐさま委細を西郷へ通知してやった。
  ところが西郷は一向平気なもので、「勝からの紹介なら会って見よう」といふことだ。そこで人見は、翌日西郷の屋敷を訪ねて行って、「人見寧がお話を承りにまいりました」といふと、西郷はちょうど玄関へ横臥して居たが、その声を聞くと悠々と起き直って、「私が吉之助だが、私は天下の大勢なんどいふようなむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。先日私は大隅の方へ旅行したその途中で、腹がへってたまらぬから十六文で芋を買って喰ったが、多寡が十六文で腹を養うような吉之助に、天下の形勢などいふものが、分る筈がないではないか」といって大□を開けて笑った。
  血気の人見も、この出し抜けの談に気を呑まれて、殺すどころの段ではなく、挨拶もろくろく得せずに帰って来て、「西郷さんは、実に豪傑だ」と感服して話したことがあった。知識の点においては、外国の事情などは、かへっておれが話して聞かせたくらゐだが、その気胆の大きいことは、この通りに実に絶倫で、議論も何もあったものではなかったよ。

 西郷の力と大久保の功

  先に見せた草稿にもある通りに、この東京が何事もなく、百万の市民が殺されもせずに済んだのは実に西郷の力で、その後を引受けて、この通り繁昌する基を開いたのは、実に大久保(利通)の功だ。それゆえにこの2人のことをわれわれは決して忘れてはならない。
  あの時、おれはこの罪もない百万の生霊を如何(どう)せうかといふことに、一番苦心したのだが、しかしもはやかうなっては仕方がない。ただ至誠をもって利害を官軍に説くばかりだ。官軍がもしそれを聴いてくれねば、それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲ったところがないのだから、その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、かう決心した。
  それで山岡鉄太郎が静岡へ行って西郷に会ふといふから、おれは一通の手紙を托(あず)けて西郷へ送った。山岡といふ男は、名前ばかりはかねて聞いて居たが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考へだから用心せよといって、ちっとも会はなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間“莫逆の交り(=非常に親しいつきあい)”を結ぶもとになった。
  さて山岡に托けた手紙で、まづおれの精神を西郷へ通じておいて、それから彼が品川に来るのを待って、更に手紙をやって、今日の場合、決して“兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ(=内輪もめをする)”べきでないことを論じたところが、向ふから会ひたいといって来た。そこでいよいよ官軍と談判を開くことになったが、最初に、西郷と会合したのは、ちょうど3月13日で、この日は何もほかの事は言はずに、ただ和宮の事について一言いったばかりだ。
  全体、和宮の事については、かねて京都からおれのところへ勅旨が下って、宮も拠(よんどころ)ない事情で、関東へ御降嫁になったところへ、図らずも今度の事が起ったについては、陛下もすこぶる宸襟(しんきん=お心)を悩まして居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の御身の上に万一の事のないやうにせよとの事であった。それゆえ、おれも最初にこの事を話したのだ。
  『和宮の事は、定めて貴君も御承知であらうが、拙者も一旦御引受け申した上は、決して別条のあるやうな事は致さぬ。皇女一人を人質に取り奉るといふごとき卑劣な根性は微塵も御座らぬ。この段は何卒御安心下されい。そのほかの御談は、いづれ明日罷り出で、ゆるゆる致さうから、それまでに貴君も篤(とく)と御勘考あれ』と言ひ捨てて、その日は直ぐ帰宅した。

 江戸を戦火から守る

  翌日すなはち14日にまた品川へ行って西郷と談判したところが、西郷がいふには、「委細承知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」といって、傍に居た桐野や村田に進撃中止の命令を伝へたまま、後はこの事について何もいはず昔話などして、従容として大事の前に横たわるを知らない有様には、おれもほとほと感心した。
  この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが、それから西郷に別れて帰りかけたのに、この頃江戸の物騒な事といったら、なかなか話にならないほどで、どこからともなく鉄砲丸が始終頭の上を掠めて通るので、おれもこんな中を馬に乗って行くのは剣呑だと思ったから馬をば別当に牽かせて、おれは後からとぼとぼ歩いて行った。
  そして漸く城門まで帰ると、一翁を初めとしてみなみながおれの事を気遣って、そこまで迎へに出て居ったが、おれの顔を見ると直ぐに、まづまづ無事に帰ったのは目出たいが、談判の模様はどうであったかと尋ねるから、その顛末を話して聞かせたところが、みなも大層喜んで、「今し方まで城中から四方の模様を眺望して居たのに、初めは官軍が諸方から繰込んで来るから、これは必定明日進撃するつもりだらうと気遣って居たが、先刻からはまた反対にどんどん繰出して行くやうなので、如何したのかと不審に思って居たに、君のお談であれば西郷が進撃中止の命令を発したわけと知れた」といふので、おれはこの瞬間の西郷の働きが行き渡って居るのに実際感服した。談判が済んでから、たとへ歩いてとはいふものの城まで帰るに時間はいくらもかからないが、その短い間に号令がちゃんと諸方へ行き渡って、一度繰込んだ兵隊をまた後へ引戻すといふ働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよいよ感心した。
  畢竟、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼かれないで、今日のやうに繁昌して居るのは、みんな西郷が諾といってくれたお蔭だ。

 東京今日の繁昌のもと

  さて西郷の一諾で、ひとまづ事は治まったが、ここに今一つの困難といふのは、これから先、江戸の人民をどう始末せうかといふ問題だ。しかしおれの方では、徳川の城さへ明渡せば、後はみな官軍の方で適宜に始末するだらうと思って、初めは黙って見て居た。そこはおれも人がわるいからネ。しかるところ、これには向ふでも困ったと見えて、西郷も相応には人がわるいサ、「府下の事は何もかも勝さんが御承知だから、宜しくお願ひ申す」といって、このむつかしい仕事をおれの肩へ投げかけておいて、自分はそのまま奥州の方へ行ってしまった。おれも忌々しかったけれど、仕様もないからどうかかうか手を付けかけたところが、大村益次郎などいふ男がおれを悪(にく)んで、兵隊なんか差向けて酷くいぢめるので、あまり馬鹿々々しいから家へ引込んで、それなり打ちゃっておいた。すると大久保利通が来て、是非々々と懇ろに頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気に肩を入れるやうになったのだ。
  この江戸の市中の事は、おれはかねて精密に調べておいたのだが、当時の人口はざっと150万ばかりあった。そのうち、徳川氏から扶持を貰って居ったものは勿論、そのほか諸大名の屋敷へ出入りする職人や商人などは、みな直接間接に幕府のお蔭で食うて居たのだから、幕府の瓦解とともに、こんな人たちは忽ち暮らしが立たなくなる道理だ。
  全体江戸は大坂などとは違って、商売が盛んなのでもなく、物産が豊かなのでもなく、ただただ政治の中心といふので、人が多く集るから繁昌して居たばかりなのだ。それゆえに、幕府が倒れると、かうなるのはもとより知れきって居る事サ。
  就いてはこの人たちに、何か新たな職業を与へなければならないのだが、なにしろ150万という多数の人民が食ふだけの仕事といふものは容易に得られない。そこでおれは、この事情を精しく大久保に相談したら、流石は大久保だ。それでは断然遷都の事に決せうと、かういった。すなはちこれが東京今日の繁昌のもとだ。
  ちょうどこの事の決する時には、大久保と吉井とおれと3人同席して居ったのだが、大久保も吉井もすでに死んでしまって、おればかり老いぼれながらも生き残って居るので、まことに今昔の感に堪へないよ。先に見せた草稿の中に、江戸が無事に終ったのは、西郷の力で、東京が今日繁昌して居るのは、大久保の力と書いておいたのは、まづこんなわけサ。
 
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