エマニュエル・スウェデンボルグの
霊界
 ―― U
人間は、霊界に支配されている 
E・スウェデンボルグ・著 今村光一・訳
中央アート出版社 2000年刊 

 第1章 人間は、霊界の支配下にあった

 この世もあの世もひとつの世界

  この世とあの世は別々な世界ではなく、ふたつをひとつにした大きな世界という1枚のコインの表と裏にすぎない。私の30年の体験は、この世もあの世もひとつの世界のなかの、それぞれの部分だということを教えてくれる。
  世間の人びとのなかには、「あの世なんて存在しない。世界とはこの世だけだ」と考えている人も少なくないが、それは世界の片側、つまりコインの片側しか見えない人の言い分にすぎない。

  人には誰にでも必ず善い霊と悪い霊がついていて、毎日の生活に大きな影響を与えている。そう言われても、人には霊からの影響は見えないからピンとこないに違いない。このような関係は、私には樹木の種子と樹木との関係とそっくりに思える。
  樹木には、大きく育っている樹木も、よく育たないで曲がっている樹木もある。樹木の場合は、それが誰の目にも見えるのですぐに気づく。しかし、その樹木のもとが種子だということは、たいていの人は忘れている。樹木として発芽したあとでは、種子は影も形もなくなってしまうからだ。だが、その種子の生命は樹木の中に流れ続け、樹木の成長を支配している。
  だから、より根本的で本質的なものは、その姿が目に見える樹木よりも、姿が見えない種子のほうなのだ。人びとの毎日の生活を深いところから支配している霊の影響は目に見えないが、それは樹木と種子の関係だと思えばよく理解できるだろう。
  私は30年の体験から、本当は目に見えないものこそが世界の根本であり、私たちはそれによって運命づけられ、支配されているのだと断言できる。

  「死の技術」によって、ふたつの世界を同時に見続けてきた私には、実はふたつに見える世界もそれぞれひとつに結び合わされた「全体(全世界)」の一部であるということがよくわかる。このような世界をつくっているものが「天の理」と言うべき、世界創造の根本原理だということもわかる。
  ときに人びとは、幽霊とか死の知らせとか憑依といった、いわゆる心霊現象を体験する。しかし、ほとんどの場合、体験した人自身が、その正体を深く極めることができない。そのため、人びとは霊界のことには気がつかないのだ。その結果、背後から自分たちを動かしている「種子」の働きには気づけなくなっている。
  だが、このようになっている理由は、「天の理」のなせる配慮なのだ。つまり、「天の理」は、この世もあの世もひとつの世界の一部としてつくりながら、この世の人間にはあの世のことをわかりにくくしているのだ。

 人間の寿命は天に定められている

  東洋の「天命」という言葉は、私の立場から言っても深い真理を表した言葉である。人間の寿命は天が決めているものだからだ。幼くして死ぬ者もいれば、百歳近い長寿を保つ者もあるが、これはすべて天の定めるところなのだ。

  私は常に「人間は天国の種子だ」と言っている(もちろん地獄の種子でしかない人もいる)。それは、人は死してのち天国にいたる可能性を宿した存在だからだ。そして、そのためには、この種子は人間である間(天の理の定めた寿命の続く間)は、人間として自らの種子を育て、死してのちは天国に至る樹木として成長しなければならないようになっている。この観点からも、人は天命をまっとうしなければならない。そのためには、その間は死の世界との直接の接触はしないほうがいいことになっている。
  人間には普通、自分の寿命などわからない。しかし、「天の理」にはわかっている。寿命は、霊の世界にあるそれぞれの人間の“戸籍簿”に登録されているようなものなのだ。
  このように、あの世とこの世はつながったひとつの世界なのだが、「天の理」は世界をそのようにつくりながら、一方ではそのことを人間にはわかりにくくしている。そして、ここに「天の理」の二段構え、三段構えの知恵が隠されている。
  「天の理」の測りがたい知恵のことを知らないと、霊の世界のことは正確には理解しにくい。しかし「天の理」なるものが、この世もあの世も含めた全世界をつくっている根本原理だということだけは忘れないでほしい。

 人間が霊界を体験できない理由

  人間と霊はいつも接触しているが、そんな接触をつくっているのも「天の理」なのだ。『T巻』で書いた「天国の美しさと地獄の恐ろしさ」について簡単に紹介してから説明しよう。

  そのとき、霊界の太陽の周囲にいくつものちぎれ雲が現れ、霊たちを驚かせた。次に太陽はいつもの数十倍、数百倍の明るさに輝き、その光の中に黄金と白銀の光の筋が混じって、キラキラと美しい光を霊界全体にふりまいた。ちぎれ雲はやがて霊たちの姿になって太陽の周囲を回り始めた。ちぎれ雲と見えたものは、祝福された天国の霊たちだったのだ。太陽の周囲を回る霊たちの衣服は純白な雪のように光り輝き、その表情は至福の思いに輝いていた。これはまさに天人の舞いであった。

  これは、最上界の天国での幸福を示す例である。つぎに地獄の一面である。

  私は、暗い穴ぐらのような通路を通って地獄に入っていった。そこで見た地獄の霊たちの醜怪さは筆舌に尽くせない。ある者は顔が半分欠け、骸骨のように眼窩だけが暗い穴を開けた怪奇な顔をしていた。
  地獄はその世界全体が悪臭に満ち、そこいらじゅうに糞便がまき散らされているかのようであった。街では霊たちが絶え間なく相争い、苦痛の叫びをあげる者もたくさんいた。恐ろしげな森林のようなところもあり、その森林の中を、霊たちが猛獣のような姿でうろつき回っていた。


  実際の天国、地獄の光景は、どちらも言い表せるようなものではない。筆で描く描写はあくまで“描写”にすぎない。わかりやすい例で言えば、大地震や大災害などの様子は、実際に体験した人から語られる。私たちはその話から、ある程度の様子をうかがうことはできる。しかし、それは実際に遭遇した人の体験からすれば、その衝撃の程度はまったく違っている。話では、実際の体験の百分の一も伝わらない。天国や地獄に関してもそれは同じである。
  実際に人が天国や地獄を体験したとすれば、その衝撃はどれほどのものになるだろうか。想像してもらうしかないが、どちらにしても、単なる描写から受ける衝撃の数十倍、数百倍のものになるのは間違いないだろう。
  人間が生きているこの世は、天国や地獄などの霊の世界に比較すれば、どこか薄ぼんやりとした世界である。これに対し、天国や地獄は、善悪・美醜のどちらにしても、人間の世界よりはるかに強烈な世界だ。
  一方、人間の本質は霊であって、天国や地獄といった霊の世界との接触なしには生きられない存在なのだ。そういう接触がなければ、人間は根を失った植物と同じく生命を汲み取ることができなくなってしまう。
  人間は霊との接触なしには生きられない。しかし、直接に接触すれば危険だというわけである。矛盾しているように見えるが、そこに「天の理」は巧妙に仕組みを設けたのであった。それが、「霊界→霊→人間」という間接的な接触であった。これなら人間は霊界との直接接触するという危険は避けつつ、同時に自分が生きるために霊界と間接的に接触できる。
  人間と霊界との接触がこのようになっているために、人間は自分では気づかないうちに、善・悪の霊から影響を受けて生きている。

 霊界には、等級の違う3つずつの国がある

  霊の国は、天界・地獄・精霊界の3種類に大別できる。そして天界は、天国と霊国のふたつに分けられる。これらの天国と霊国は、それぞれ3種類の国に分けられている。
  天国で言うと、一番中心にあるのが第3天国で、同じ天国のうちでも一番レベルが高い。次が第2天国、そして外側が第1天国となっている。霊国も中心にある国ほどレベルが高い。地獄の場合は、この関係は逆になっている。
  精霊界は天国や地獄とは少し違った世界である。死んだ人間は、まず最初にここに行く。そして、精霊界での必要な過程を経たあとで、それぞれの霊の人格(霊格)に応じて天国、地獄などに進む。
  精霊界という特殊な場所は別として、霊界には天国、霊国、地獄に、それぞれレベルの違う3つずつの国があり、合計9つの国があることなる。これら9種類の国のなかには、それぞれ無数の団体がある。この団体は、たとえば第1霊国の団体なら、それが無数にあってもレベルとしては同じである。しかし、それぞれに少しずつ性質が違っている。
  精霊界を経ることで、人間からいよいよ霊らしくなった霊たちは、最終的にはそれぞれの国のそれぞれの団体に属して、そこで霊としての永遠の生を送ることになる。これが霊の生活と霊界の基本的な構造である。
  そして、このような構造になっている霊の世界は、実はその構造を人間の世界にも反映させている。

  人間は、霊的なものが物質界的な形に表された霊の相応物である。それゆえに、人間は宇宙的世界の末端に位置している。たとえば、心は顔の表情に表れる。この場合、心と顔は相応しているわけだが、心は霊的存在であり、形になった顔は物質的存在である。だから、両者は存在としては違う性質をもちながらも通じ合っている。
  ところが、心は顔に表さないかぎり見えない。霊も人間という形に表さないかぎり見えない。地中の種子も地上の樹木とならなければ見えない。このように、形に表すというのは、ひとつの生命のもつ自然の成り行きなのだ。
  「天の理」とは生命の原理にほかならず、それは単に霊的であるだけではなく、最終的な形としては物質界に人間という形を出現させるのだ。人間が世界の末端であるという理由は、根本的で本源的なものが、物質界という世界の終着点において形に表されたものであるからだ。
  このように見れば、「世界はひとつ」ということがよくわかるであろう。

 睡眠中は最も霊と通じやすい

  私たちは、目が覚めれば夢のほとんどを忘れてしまう。しかし、中にはあまりに奇妙な夢ゆえに、はっきり覚えていることがある。そんな夢のほとんどは、霊が見せる夢だと考えていい。
  奇妙な夢を見た翌朝、親や兄弟などの死の知らせが来たといった話は、誰でも聞いたことがあるだろう。そんな夢が、霊界や霊とのつながりのなかで見せられる夢なのだ。つまり、それはそのときに、死んで霊になりかけた者が見せる夢だからである。
  また、すでに故人になっている親や兄弟や知り合いが夢に出てくることもある。この中には普通の夢もあるが、中にはその故人が、見たこともない世界から招いているといった夢もあり、その夢を見た人に奇妙な感じを与える。これもまた、霊となった故人が見せる夢にほかならない。そのとき、夢に出てきた“見たこともない光景”は、その故人の霊がいる霊界の光景である。これは霊特有の表象という能力によって、あなたに見せたものなのだ。
  霊とのかかわりの中でおきる現象は「心霊現象」と言われている。しかし、実はもっと普通に誰にでもおきているのは夢なのだ。心霊現象が夢の形でもっともひんぱんに起きる理由は、人間は睡眠中に心の最も奥深いところに降りていくからだ。

 霊は人体にどんな影響を与えるか

  霊が人体に与える影響で誰にでもわかるのが、霊媒が行なう降霊術で知られる霊の憑依という形である。霊がそのようにしてやってくるときには、霊媒者はその霊の生前の声で話したり、生前の仕草をしたりする。これは霊が霊媒の体を占領し、体に影響を与える実例にほかならない。霊は霊媒の発声器官を使って声を出すが、その使い方は霊媒の使い方ではなく霊の使い方なので、声が生前の霊の声になるのである。
  病気の中には、霊がからんでいる病気も少なくない。これも霊が肉体に影響を与えるからだ。これらの病気の原因が霊だということは、患者から霊を去らせてみると病気がすぐに治るのでよくわかる。私自身は病気とは無縁の生涯を送ってきた。しかし、霊の影響で吐き気とか発熱とか、いろいろな症状をおこしたことは何度もある。
  いちど、私は霊の影響でひどい吐き気に見舞われ、物が食べられず、命も危うくなるのではないかとさえ思ったことがあった。このとき、ひどい悪臭で苦しめられたが、やがてその悪臭の原因が霊にあることに気づいた。霊の姿が見えてきたからだ。霊は何人もいたが、彼らと話してわかったのは、彼らはみんな人間だったときに仕事もろくにせず、うまい物を食べることだけを楽しみにしていた者たちだったということである。そのために、死んでからは悪臭を放つ霊になったのであった。

  霊が人間に与える影響のなかで、人びとに一番わかりにくく、影響としてはもっとも大きいのは、彼らが人間の考えを支配するという現象である。
  まず世間で心霊現象と言われている自動書記や憑依に関して説明しよう。
  自動書記とは、霊に支配された人が、霊の言葉を紙の上に書き出すという現象である。私には、『聖書』などの中にもこうして書き出された霊の言葉が含まれているのがわかる。古代の宗教文書などの多くは、そのようにしてできあがったものが多い。
  自動書記では、文字を書き出す人は完全に霊のロボットになっている。もともと文字さえ知らない人が立派な文章を書いたりすることさえある。また、文字を知っていても、書き出される内容は当人が知らないことや、当人の考えとは無関係のことである。これは霊に支配されたことにほかならない。
  霊に憑依された人間は、その人間とは別の人間になってしまう。それゆえに、周囲の人びとをびっくりさせる。
  私は「人間の考えなんて、自由自在に左右できる。人間の頭脳を占領することなどたやすいことだ」という霊にたくさん会っている。彼らは、人間に夢を見させ、まったく想像もできない光景(霊界の光景)を、表象という能力によって見せることもできる。霊は、人間の考えを支配する能力を持っているからである。
  世間でたびたび、動機の理解できない犯罪とか、理由のわからない自殺などが起きる。また、霊に操られて気が狂うことだってある。こういう不幸の裏側には、実は霊からの影響がストレートにからんでいることが少なくない。多くの場合、霊とのつきあいは危険のほうが大きい。
第2章
 第2章 天国と地獄に隠されていた真実   [TOP]

 人間は霊界に入って本当の自分になる

  私のように「死の技術」を習得した者は別として、霊界は普通の人間には出入りできない世界である。それだけに、世間の人びとは、この世界がどのような世界なのかをなによりも知りたがっている。
  「霊界はいったいどんな世界なのか。私たちの死後には、どんな生が待っているのか」
  私はこのような質問に対して、ある程度は『T巻』で答えたつもりである。
  ここで、人間が死んだあと、どのように霊界の霊になって、永遠の生を営むようになるのかという、死後の人間がたどる道筋をざっと復習しておこう。
  死んだ人間は、死後の第1状態から第2、第3状態への変化を経験しつつ、本物の霊になっていく。この変化は、霊界における一時的な居留地である精霊界で行なわれる。第3状態に進めば、はじめて本物の霊になるわけだが、その前の第1、第2状態では、まだ人間と霊の中間とでもいうべき存在に留まっている。
  霊が人間の生活に大きな影響を与えていることは前章で述べた。しかし、彼らが与える影響には良いものもあれば悪いものもある。ひとつには、彼が善霊か悪霊か、霊界のどの団体に属しているかといったことによる。しかし、他方では、彼が死後のどの状態にいるかによって違ってくる。
  まだ自分が死んだことさえ自覚していない霊は、人間にもっとも近い第1状態にいて、人間界に強い影響を与える。
  第1状態から第3状態までの変化に要する時間は、霊によって異なり、数カ月の者もいれば数年かかる者もいる。なかには、数十年も第1状態に留まっている場合もあり、こういう霊は、仏教的な言い方をすれば“成仏できない霊”である。世間には、数十年も前に死んだ者の霊が幽霊になって出没したり、さまざまな気味悪い現象を起こしたり、いわゆる“たたり”をもたらしたりする現象がよくある。これも、その霊が人間に強い影響を与える第1状態にずっと留まっているために起きる現象である。
  そして、世間の人びとは、せいぜいこういった現象だけしか知らないために、霊とは怖いものといった受け取り方をしている。
  それは、あくまでも霊界の真相の一部しか知らないためなのだ。なぜなら、多くの霊は第2、第3状態へと変化をとげて、本物の霊になっていくものだからだ。
  では、このような変化はいったいどういう意味をもつ出来事なのか。それは非常に単純明快で、次のように言うことができる。
  「霊界は、人間が本当の人間になる場であり、第1状態から第3状態への変化とは、彼がますます彼らしくなるということなのだ」
  人間の本質が肉体などの外面的なものではなく、内面的な心にあることに異論はないだろう。人間が肉体を離脱して、心だけの世界である霊界に行くと、その人間の本質により近い世界になるということは想像できるはずだ。
  霊界は彼の本質がますます明らかになる世界なのだ。これは、その霊が天界に行くにせよ、地獄に行くにせよ、善なる心の者はますます善になって天界的になり、悪なる心の者はますます悪になって地獄的になる、といった違いがあるだけである。方向は違っても、人間がますます自分の本質にしたがって生きるようになるという点では同じなのだ。

 天界は生命、理性、悟り、調和の世界

  霊の世界を根本的な視点から理解するためには、どうしても「天の理」について知る必要がある。「天の理」こそが、この世も含めたすべての世界を創っている創造原理であり、根本原理だからだ。
  「天の理」について知ることは、霊の本質をより正しく知ることにもなる。したがって、「天の理」について述べることは、霊界に関する人びとの質問に対して、もっとも正確な答えにもなるわけである。
  まず「天の理」は、生命、理性、愛情、悟りなどの、すべての善を生み出す根本の原理であり、調和の原理である。これを理解するには、「天の理」がそのまま具体的な形として具現されている天界の様子を見るのが近道である。
  天界は、まさに「天の理」が形に示されたものだと言ってよい。最上の天界である第3天国には、「天の理」がもっともよく具現されている。このような天国の様子は、ひとくちでは言い尽くせない。とても言葉で表現できない美しさや生命に溢れている。
  天国はひとことで言えば次のような世界である。
  「ひとりの霊の幸福は、万人の霊の幸福。万人の霊の幸福は、一人の霊の幸福――そんな世界が天国である」
  「ひとりの幸福は万人の幸福、万人の幸福はひとりの幸福」という言葉は、私たち人間も使っている言葉だが、これが調和や美しさや幸福を表す言葉である。天国は、この言葉がそのまま通用する世界なのだ。

 地獄は悪業に対する刑罰の場ではない

  生命と調和の源であり、世界の創造主ともいえる「天の理」が、なぜ地獄のような存在を許しているのか――多くの人が持つ疑問はこんなことに違いない。
  その答えは意外に簡単である。それは、闇がなければ、私たちは光の存在に気づけないからだ。つまり、一方に暗い闇があるからこそ、他方に明るい光の存在がわかるのであって、闇と光は一対のものなのだ。生命と調和の場である天国も、それと反対の地獄がなければ存在しえないことになる。私が人びとに対して「地獄がなければ、天国も存在できない」と答えるのはそう言う意味からだ。
  私がいままで世間の人に説いてきたことで、もっとも議論を呼んできたのは次のことだった。すなわち、地獄の霊は、人間のときの悪業に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。地獄の霊は、地獄が自分に合っているがゆえに、自分で自由に地獄を選んでそこに行くということだ。
  従来の宗教的な霊界観は、地獄は人間だったときの悪業に対する刑罰の場だという見方で地獄のことを理解してきた。これは私の立場とは完全に違っているがゆえに、もっとも議論を呼んできたのだ。
  私が、「悪霊も自分の自由で地獄を選んでそこに行く」と説くのは、これがまぎれもない事実だからだ。では、なぜそうなっているのか。実はこの点は、私も初めのころはよく理解できなかった。だが、今の私の観点から言うと「天の理」が善霊にも悪霊にも、また人間にも、そういう自由を許すように世界をつくっているからなのだ。
  善霊や人間に自由を許すのはともかく、悪霊にまでそれを許しているのは理解に苦しむと思われそうだが、これも実は「天の理」の深慮なのだ。悪霊とても「天の理」によって初めて生命を受けている。ただ彼は、「天の理」の生命や善や美や真理を、自分で悪・醜・虚偽といったものにねじ曲げてしまっているのだ。
  天国と地獄の違いをわかりやすく言えば次のようになる。

  天国は生命と調和の国なので、霊たちは「ひとりの幸福は万人の幸福、万人の幸福はひとりの幸福」という形の幸福を享受している。つまり、ここは連帯の世界だ。
  地獄は一人ひとりの利己的欲望の世界なので、調和はあり得ない。連帯とは逆の分裂の世界になっている。


  このふたつを比べると、善なる心を持った素直な人なら、だれでも天国が幸福だと思うに違いない。しかし、地獄の霊はそうは考えない。たとえば彼は、他の霊や人間を支配して、自己の利己的欲望(この場合は支配欲)を満たした場合のほうが幸福だと感じるものなのだ。彼は本質的にそのような性質の存在だからである。
  それだからこそ、彼は自ら進んで地獄に行くのだが、このように地獄を選択する自由は許されている。もしここで彼に自由を与えず、無理にでも天国に連れて行ったとしても、それはまったく意味がないばかりか、逆効果にしかならない。彼は、自分も楽しめないばかりか、天国の秩序を乱すことになる。
  だが、彼の本質そのものが、自分の自由な意思で変革され、天国に適するような霊になった場合は、彼の自由な意思によって天国に行くことになるに違いない。しかし、いずれの場合も、それは彼の自由な意思によってそうなるのでなければ意味がない。このような理由によって、「天の理」は善霊にも悪霊にも自由を許している。
  このことがわかると、人間には計り知れないほどの「天の理」の知恵が働いていることを理解できるだろう。霊界のことも、霊界とこの世を含めたひとつの大きな世界のことも、さらに人間のことも、一層深く理解できるようになる。
  悪霊は自由を許されているゆえに、霊の世界では善霊を苦しめ、人間の世界では人間に不幸を与えるという暴威を振るう。しかし、その一方で、悪霊の暴威もまったく無制限のものではない。それは最終的には、「天の理」や善霊よりはずっと力が弱い。もしこのような力関係が逆であれば、霊界もこの世も悪霊の力によって滅ぼされてしまう。幸いなことに、そうはなっていない。

  彼らが自分に許された自由を行使して、さまざまな悪事を働くことは、善霊のための“教材”になって役立っている面もある。
  天国は有用の世界であって、生命と調和の観点から、霊たちは天国で役立つことをそれぞれの任務として遂行しなければならない。このような有用な役割を行なえない者は、天国には受け入れられないのだ。そして、そういう役割を果たすようになるためには、生命と調和の原理がどんなものであるかを理解し、その観点から、何が善で何か悪かを判断し、その判断によって行動できる者にならなければならない。
  そのためには、彼には修行が必要なのだ。そして、そんな修行のためには、悪霊も実物の“教材”として役立っている。悪霊の悪があって初めて、善霊も善と悪がよく理解できるのである。
  世間には、「天国に行けば有閑な生活が送れる」と期待している人間が多い。「何も努力をしなくても、神は人間を天国に招いてくれるだろう」という身勝手な思い込みをしている人である。こういう人に、私はよくこう言ってきた。
  「もし、神なる者があって、彼が人間を堕落させたいと思っているなら、彼は人間が欲しいものは何でも与えたに違いない」
  「天の理」は、言い換えれば「神」と言ってもいい。「天の理」はやはり、人間はなにもせずに、哺乳ビンからミルクを飲ませてもらうような怠惰な幸福は与えていない。つまり、霊たちにも修行を課しているわけだ。そして悪霊は、そのためのひとつの教材にもなっている。
  私は、まだ霊界のことを詳しく知らないころ、ある霊に次のような質問をしたことがある。
  「赤ん坊は無垢なのだから、死後、すぐ最上の天国に招き入れられるのか」
  これに対し、その霊は答えた。
  「彼らは無垢とはいえ、それは悪に接する機会や、悪を自分で発揮する機会がなかったということにすぎない。だから、それだけでは最上の天国に入る資格はない」
  「天の理」は、霊たちに修行を課しているからだ。

 善霊、悪霊どちらに影響されるかは自分次第

  いま、霊界のことに関して述べたことは、人間の場合もそのまま当てはまる。なぜなら、人間は本来“天国の胚珠”だからである。
  人間が“天国の胚珠”だという意味は、死んで霊になった者は、最終的には天国を目指すからだ。そして、人間とは霊の前段階なのだから、霊に天国への修行が課されているのと同じく、実は人間だったときから同じ修行が課されている。世間の人びとがそれに気づかないだけである。
  では、“天国の胚珠”である人間にはどんな修行が課されているのか。実はこの修行も霊に課されているものとまったく同じものなのだ。
  先ほど、悪霊にも自由は許されているが、その暴威は最終的には「天の理」や善霊の力によって制限されていると言った。これは霊界だけのことと思ったかも知れないが、実は人間の世界にも共通していることなのだ。
  人間は、善悪ふたつの種類の霊に取り囲まれて生きている。そして、悪霊は常に人間にマイナスの影響を与えようとしている。これに対し善霊は、悪霊から人間を守ろうとしている。ここには悪霊にも自由が許されているが、善霊(あるいは「天の理」)がその暴威を抑えようとしている、という霊の世界にある力関係とまったく同じものがある。
  ただ、ここで多くの人はこんな疑問を持つ。
  「善霊の力のほうが強いのなら、なぜ悪霊のたたりで人間が不幸にされるなんてことがあるのか」
  これはもっともな疑問と言ってよい。しかし、実はその背後には、“人間自身”というもうひとりの役者がからんでいるために、そのようなことになるのだと知る必要がある。それはどういうことかというと、善悪2種類のどっちの霊の力が強まるかは、実は人間次第だということなのだ。そこには、“天国の胚珠”である人間が、自分の自由によって天国への修行をさせられている姿が見えてくる。
  霊には、「自分がとりつく人間の中に見える自分と似たものによって興奮させられる」という性質があるのだ。
  つまり、人間が悪いことを考えたり、したりするときには、悪霊はそこに自分と似たものを見出して興奮し、その影響力を強め、人間により大きな影響力を行使するようになる。一度悪に染まった人間が、さらに悪の道に転落し、その程度がますます増幅されていくという悪循環がおきる理由も、これで理解できるだろう。
  反対に、人間が善の方向に向いた場合も同様である。このことから、善霊や悪霊の影響力を強くするのも弱くするのも、その人間次第ということになる。つまり彼は、自分の自由を行使することによって、善霊と悪霊の両方の勢力の影響下にありながら修行をしていくことになる。
第3章
 第3章 霊界で見たもうひとつの真相   [TOP]

 宗教家も理解していない最期の審判

  前章では、霊の生活の目的が、最終的には霊格の完成によって最高の天国に至ることだと述べた。また、霊の世界には地獄や悪霊といったものが存在することも述べた。要するに、霊の世界には基本原則がありながら、それに反する流れもあるということだ。
  本章では、このような複雑な霊界の実相について述べる。しかし、その前に間違った議論について考え、その間違いを指摘しておきたい。これはまことに大きな間違いで、世間の人びとを間違わせているだけでなく、その影響は霊界に入った霊にまで及んでいる。少なくとも霊界に入り立ての霊は、この間違いの影響を強く受けている者が多い。
  私が霊界で会った死後15日目のスウェーデン国王は、そのとき「自分はまだ死んではいない」と強く主張していた。彼は自分の霊としての心が生きていて、言葉も話せるし、さまざまな感情や感覚もあるので、まだ“人間”だと思っていたわけだ。
  なぜ彼はこのような間違った考えをしていたのか。それは、世間には最期の審判に関する間違った考えがあるためである。
  最期の審判に関しては、世の宗教関係者は正しい理解をしていない。世間は普通、最期の審判について次のように考えている。
  「人間は、肉体が死ねば最後の審判まで死んだままでいる。その後、最後の審判によって魂の復活がなされ、再び生き返る‥‥」
  この考えはまったく間違った考えである。霊界の事実はこの考えと全く違ったものなのだ。正しい事実は次のように理解してもらいたい。
  霊界における最期の審判なるものは確かにある。しかし、それはそれぞれの霊の本質がどんなものであるかが最終的に明らかにされ、それによってそれぞれの霊の霊界における生き方が決定されることである。死んだ霊を復活させるということとは全く関係ない。
  霊界に入った霊は、まず精霊界に入ったあとでいろいろな“教育”を受けたり、霊界でさまざまな体験を積む。そのことによってそれぞれの霊の資質などが明らかになってくる。そして、霊たちは自分の資質や霊格に合った生き方を割り振りされる。このような割り振りのことを最期の審判というわけである。
  さきほどのスウェーデン国王は、最期の審判による復活までは、霊も死んでいると考えていた。だから、感情や感覚があって“生きている”自分は、まだ人間として死んではいないのだ、と思い込んでいたのである。
  この国王だけでなく、精霊界にいる死んで間もない霊は、みなそう考えていると言ってもいいほどだ。その原因は、人間だったときに最期の審判に関する間違った考えを信じていたことにある。
  精霊界に入った霊は、ここで初歩的な“教育”を受けてから次の段階に進んでいく。精霊界にいる期間はそれぞれの霊によって違っているが、間違った考えが染みついてしまった者ほど長い期間そこにいなくてはならない。中には何十年もそこにいる者もいる。これも最期の審判に関する間違った考え方が世間にはびこったことと無関係ではない。

 霊界の光景は、霊の心がつくり出していた

  霊界では、それぞれの国や団体のレベルによって街や住居などの貴賤、美醜にも段階的な違いがあり、最上階の天国の霊は、言葉にもできないような美しい街、美しい住居に住み、地獄の霊たちは悪臭を放つ汚い場所に住んでいる。
  あるとき、私は霊の世界の美しくて大きな庭園に招き入れられたことがあった。庭園内には樹木が植えられ、散歩道もあった。私は前にも同じような庭園に招かれたことがあったので、「このような庭園をどうやってつくるのか」と霊に訪ねてみた。
  霊は次のように答えた。
  「この庭園は、われわれの“考え”で造ったものだ。霊の世界では、われわれがこのようなものがほしいと考えれば、その“考え”によって樹木でも道でも風景でも、形になって現れるのだ」
  はじめはこの答の意味がよくわからなかった。しかし、今の私にはよくわかる。つまり、霊の世界は表象の世界なので、こんなことができるのだ。人間でも、心は顔の表情に現れる。これも表象の一例だが、表情そのものは物質ではない。霊の場合は、この表情に相当するものが形なのだと思えばよい。
  さらに、霊たちはこのように言ったのである。
  「われわれが心でつくり出すものは、すべて実在のものだ。人間の世界にあるもののほうが、むしろ幻のようなものなのだ」

  霊界では、ロンドンに似た街に行ったこともある。街の様子はどう見てもロンドンそのままの感じだった。不思議に思ったので、霊たちにその理由を尋ねてみた。すると彼らはこう答えた。
  「ここはイギリス人だった者ばかりが集まっているのですよ」
  そういえば、私は霊界でアラビア人や中国人、オランダ人など、多くの民族のグループに会ったことがある。またいろいろな宗教を信じていた者のグループにも会ったことがある。
  また、氷の世界や、霊たちが裸で暮らしている団体、泥棒の団体なども見た。氷の世界は、家の外がみな氷ばかりだった。ただ、ここの霊たちはこんなことを言っていた。
  「私たちは悪霊の害は受けませんよ。彼らには、ここの寒さがかなわないからです。悪霊が来ても、寒さに驚いて逃げていきます」
 これとは反対に、暑いところもあるようだ。
  霊界では、高い天国ほど高い山の上などにあり、地獄は沼や地下にあるのが普通である。

 子供の霊は、なぜ教育を受けるのか

  私は、子供の時に死んだ者、つまり霊界での子供の霊についてよく質問されることがある。  「子供は悪を知らないのだから、すぐに最上の天国に導かれるのでしょうか」とか、「子供の時に死んだ者は、あの世ではいつまでも子供のままなのでしょうか」といった質問が多い。どれも、そう簡単には答えられない質問である。
  たとえば、あとの質問だが、子供の時に死んだ者は、確かに子供の霊として霊界にやってきて、そこで成長していく。だから、いつまでも子供のままでいるわけではないのだ。
  しかし、霊界はこの世と違って、5歳の子供が3年経てば8歳になるといったように単純ではない。子供の成長とは年数ではなくて、霊的な進歩の状態によるのである。
  霊界に入ったばかりの子供の霊は、人間の子供と似た気持ちでいるということを最初に知ったのは、子供たちが競って母親(霊界で母親役をする女の霊。この世にいた時の母親の霊とは違う)を求めたりすることがあるのを見たからだ。
  初めて子供の国に導かれて行った時、私は子供たちが無心に遊んでいるのを見た。その様子は、自分たちが死んで霊になったのだとは、まったく思っていないようであった。つまり、死んだ直後に精霊界に入った霊が、まだ自分を(生きた)人間だと思っているのと同じ状態だったわけだ。こんな状態なので、子供たちには教育が必要なのだ。
  霊界では、子供はいろんな意味で教育を受けなければならない。そして、教育は主に女性の霊たちによって行なわれている。また霊界には、このような子供たちの教育を専門に担当している団体もあり、そこには人間だったときに、特に子供を可愛がった女の霊たちが集まっている。
  霊界での子供の教育とは、たとえば霊界的な意味での正邪の区別を教えることや、霊界特有の話し方、霊としての“生活技術”を教えるといったものが主である。これらの教育が進んで霊的に成長すると、子供の霊も少年・少女から青年、成人へとその外観も変わってくる。私はそれを何度も自分の目で確かめてきた。

 悪を持った子供の霊

  子供は人間だったときに悪を知らない無垢な存在なので、すぐ最上の天国に導かれるかどうか、という問題に関しては、二つの理由によって「そんなことはない」と答えよう。
  第1には、子供の霊は霊の世界について学ばなければならない特別なことが、大人の霊以上に多いこと。
  次に、子供の霊がすべて無垢な者ばかりとは限らないということだ。私はこのことについて何人もの霊と話をした。霊たちは次のように言ったものである。
  「幼くして死んだ幼児の霊は、人間の世界での悪など知らないから、悪などのかけらも持たない純粋な霊になると考えたくなるものだ。しかし、実際にはそうとは限らない。たとえば悪の要素の多い両親から生まれた子供は、生まれつきの悪を持っているからだ。彼らは人間だった時には、実際にそれを表す機会がなかったにせよ、やはり悪の種は持っているのだ」
  霊たちはさらに、「このような子供の場合は、悪を悪として知らないだけに、いっそう教育が必要なのだ」と言うのだった。
  ある霊は、王子として生まれて霊界で育った子供の実例を挙げて説明してくれた。彼によれば、その子には「他人を支配したがる」という悪が、生まれながらに身に備わっていたという。
第4章
 第4章 死後の生活を予見する   [TOP]

 最期の審判の真実

  読者はもちろん、すべての人間にとってもっとも切実な関心は、「人間として死んだあと、霊界での自分の生活はどんなものになるだろうか」ということに集約されるだろう。人間は誰しも、自分のことが最大の関心事である以上、これは当然である。本章では、世間の人びとのそんな疑問に答えてみよう。
  まず本章の話は、最後の審判のひとつの実例から話し始めるのがよさそうだ。
  私は、霊界で行なわれる最期の審判の様子を何度となく見てきた。そのひとつの例を紹介すれば、およその見当がつくに違いない。
  この例は、霊界の“大掃除”や“区画整理”のようなものであった。霊たちは、ある期間に上位の天国に昇っていったり、他の団体に出入りしたりといったことを繰り返している。しかし、そのあとで最終的な審判が行なわれ、それぞれの霊界での生き方が決定される。霊は、修行の過渡期を経て最終的な生き方が決定されることになる。過渡期はまた混乱期でもある。この混乱期を整理するのが最期の審判で、いわば“大掃除”のようなものなのである。
 私が見たひとつの例はこんな具合であった。
  私はそのとき、霊界の大きな山岳地帯に招かれて行った。そこには大きな市街がいくつもあり、たくさんの霊たちが住んでいた。私はまず、市街の多さ、霊たちの多さに驚かされた。しかし、私をもっと驚かせたのは、この山岳地帯には善霊も悪霊も、心のレベルの違ういろいろな霊が雑然と住みついているように思えたことであった。もっとも、彼らはそれぞれの霊の種類によって、山岳のあちこちにグループごとにかたまって住んでいた。しかし、すべてに秩序がきちんとしているはずの霊界にしては、これは異例のことに思えた。
  霊界では普通、山岳地帯は天界の善霊たちの住む場所となっているのに、そこには悪霊やレベルの低い霊もいるのが不思議だった。だが、その理由はすぐにわかった。ここにいる悪霊たちは、いずれも偽計(トリック)に長けた者たちで、善霊を装ってここに紛れ込んでいたのであった。
  市街には、この世にあるものは何でもあった。いろいろな点でこの世そのままだった。なぜなら、心の善悪、高低を問わず、さまざまな性質を持った者たちが雑然と混じり合って住んでいる市街だったからだ。
  山岳地帯も市街の様子も、この世そのままだったが、ひとつだけ霊の世界でなければあり得ない特徴もあった。それは、ここには人間界ではとても住めるはずのないほどたくさんの者が同時に住んでいたことである。しかし、そのようなことが可能なのは、霊のことを知っていた私にはすぐに理解できた。
  つまり、霊の場合は、心を同じくする霊の姿は見えても、それ以外の者の姿は見えないのだ。いわば、“仲間”の姿だけがそれぞれの霊には見えるのである。普通は他の霊の姿は見えないから、たくさんの霊が住んでいても、彼らには人口(霊口?)過剰とは思えないのだった。

  私がいる間に、ここには何度も“特殊任務”を持った霊たちがやってきた。彼らはいわば「霊たちの戸籍係」のようでもあった。霊たちの本質がどんなものであるかを調べるのが役目で、無垢を装って白い衣服を着けている悪霊たちも、すぐに正体が暴露されてしまう。私の知人たちがここで調査され、実際に正体が暴かれるのを何度か見た。
  もっとも忘れられないのは、“大掃除”が行なわれた日の出来事だ。
  この日、山岳の上空には白い雲が現れ、その雲は次第に強烈な霊界の太陽の光を放ちはじめた。すると、同時に山岳全体が大地震のように震動した。そして、あっという間に、山岳全体が姿を消してしまった。また、市街のなかには完全に崩壊させられたものや、地中に沈められたもの、遠く離れた場所に街ごと移転させられたものなどがあった。山岳全体が姿を消したのは、それが地中や沼の中に沈められたからであった。
  遠くに移転させられた市街の霊たちの様子は、とくに印象が強かった。彼らはみな、痴呆状態に陥ったような顔をして、ポカンとしていたのだ。彼らは、自分が信じていた姿が実は偽物で、自分がどんな性質なのかを最終的に教えられたために、ショックで痴呆状態になっていたのだった。
  この“大掃除”が最期の審判であり、山岳や市街の崩壊は、新しい最終的な秩序をつくり、新しい天地を創るためのものだったのだ。善霊たちはこの“大掃除”に先だって、他の場所に移転させられていた。

  “大掃除”によって一種の処罰を受けた霊たちのなかには、この世にいたときに宗教界のリーダーだった者や、強欲で蓄財ばかりに熱心だった者たちもいた。前者は、市街の教会や寺院で、霊たちを集めていろいろな説教をしていた。しかし、その中身は「天の理」の立場からすれば、いわば自分勝手な内容に過ぎず、説教の動機も、自分がリーダーでいたいという利己的な場合が多かった。彼らは“大掃除”によって地獄に送られた。
  蓄財だけに熱心だった霊たちも、その心の程度によってある者は地獄へ、ある者は悪臭を放つ沼などに送られた。山岳地帯の市街で地中深く沈められた部分は、想像したとおり地獄になった。“大掃除”の審判によって、この山岳地帯の霊たちは、最終的な秩序が与えられた。善霊たちは、新しくつくられた別の山岳地帯で、彼らに相応しい生活を送るようになった。
  また、もっとも凶悪な霊たちは、地中深い地獄に閉じこめられることになった。そのほかの者たちは、そのレベルに応じて居住地が決められた。

 霊界では、人間の本質だけが問題になる

  霊界を比喩的に言うと、人体のように全体として統一されている。長い間、解剖学を研究してきた私には、この比喩で説明するのがわかりやすく思われる。
  この霊界という“人体”を形づくっているのは、それぞれの霊にほかならない。つまり、それぞれの霊は霊界において、霊界という人体のそれぞれの部分をつくっていることになる。だから、この観点から見ると、個々の霊が霊界でどんな生を送るかということは、霊界という人体のどの部分になるかということなのだ。
  ある者は頭になり、ある者は手足、ある者は胸や腹になるだろう。そして、個々の霊がどの部分になるかは、それぞれの霊の性質によって決められる。
  人体でもっとも大切なのは、何と言っても頭脳である。それがすべてを決める。同じように、霊界では最上界の天国が頭脳にあたる。なぜなら、霊界の生命や知恵の源泉は、最終的には霊界の太陽にあり、その太陽から流れ出る知恵の流れは、最上界の天国から中間の天国、そして下位の天国へという径路を通って流れているからだ。
  では、どんな人間が霊界という人体のどの部分になるのかについて述べる前に、次のことを思い出してほしい。
  「どんな人間も、霊界のどれかの団体と通じて生きている」
  霊界のいろいろなレベルの団体とは、つまりは霊界という人体の各部分を構成している要素なのだ。私たちは人間だったときから、すでにこれらのどれかの団体と通じることで生きている。
  だから、私たちの死後は、人間だったときに自分と通じていた霊界の団体の霊となって生きるのだ。私は質問を受けるとこう答えた。
  「死後においてその人間がどんな霊的な生を送るかは、人間だったときにどんな生き方をしたかによる」
  つまり、人間は人間であったときにも、霊界のどれかの団体と通じて生きている。そして、死後も原則的にはその団体の霊となるからである。
  霊の世界は、その人間のもっとも内部にある本質が明らかにされる。だから、人間だったときの外面は、霊界ではまったく役に立たない。それをもっとも典型的に示す例は、学者だった者などの外面的知識とか、宗教家たちの偽の信仰などが、霊界でまるで役に立たなくなるケースである。私はそんな実例を飽きるほど見てきた。

  外面が役に立たなくなるばかりでなく、その内面が暴露された例を紹介しよう。
  それはセイレン(ギリシャ神話に登場する女の悪霊)の場合である。セイレンは悪霊中の悪霊である。彼女は、他の霊たちにも、この世の人間にも、さまざまな悪事を行なっていたのだ。それでは人間だったときにどんな女だった者がセイレンになるのか。私が数多く会ってきたセイレンの例からすると、次のように言える。
  まず、彼女らは人間だったときに、世間的にいろいろな意味でいい境遇にいた女たちの場合が多い。彼女らはあらゆる面で恵まれたうえ、女性としても美貌の持ち主であった。そんな表面的なことを自分自身も誇りにし、うれしがっていたタイプの女性なのだ。社交界で花形だった女性もいる。社交的にいい格好ができることをうれしがり、いい評判を得るために何でも装ってきたのであった。また、いつも他人から親切な人間と思われるような行動をしていた。
  たとえば、教会の催す貧民救済のための行事などがあれば、そのために率先して働くといったこともした。しかし、内心は貧民への親切心ではなく、自分の世間的評判のためだった。
  これらの表面的な善が、「天の理」とは正反対のものであることは言うまでもない。なぜなら、動機はあくまで「自分を主とする」ものであり、「天の理を主として自分を従とする」のとは逆だからだ。彼女らは“表面善・内面悪”で、ただそのテクニックだけが天性と思えるほどだ。そして、内面のみが姿を見せる霊界では、彼女らは悪の心とテクニックに長けた、悪霊中の悪霊になるというわけだ。セイレンが地獄的な生を送っているのは言うまでもない。

 地獄の霊になるのは、どんな人間か

  では、地獄のことから話をしよう。ここには、利己主義、強欲者、権力亡者、犯罪者など、いろいろな人間が入るのは想像の通りである。人間の汚れた欲望には限りがない。その欲望も種々雑多だから、それに見合う地獄も大繁盛(?)にならざるを得ない。
  それほど程度のひどくない地獄の光景は、ほかの霊を押しのけてでも天国に入ろうと、いつも焦っている霊たちの姿だった。彼らのことを天国の霊に尋ねてみた。すると、「あの連中は人間だったときに、いつも他人の上に立ちたがっていたのだ」ということだった。彼らは霊の世界でも、自分より恵まれた者たちを羨望し、そのために地獄にいるのだということだ。羨望も嫉みも、自分を中心とする感情であることは言うまでもない。
  地下の穴蔵のようなところに、薄暗いろうそくを点して暮らしている霊も多い。これにはいろいろなタイプの者がいるが、たとえば、金を貯め込むことばかりに熱心だった強欲な人間、学問(私に言わせれば、表面的な記憶にすぎない知識を追う学問)に熱心だった学者などを、よく見たものである。
  彼らの学問は、それが本当の意味での内奥の心と結びつき、そこから発しているものではなかったのであった。彼らは人間だったときにも、学者としての名声がほしいために学問をしていたのである。

  私は霊界で乞食の集団を見たことがある。彼らはみな、人間だったときに労働を嫌って乞食をしていた者たちで、霊界でも怠惰な生活をしたがっていた。しかし、霊界はそんな怠け心を満足させてくれるところではない。上位の天国になればなるほど、霊界全体のために役に立つ役割を忙しく果たしているのが霊界である。だから、怠け心が染みついた乞食たちは、霊界では地獄的な生き方をしていた。要するに彼らは、虫のいいことばかりを考えている者たちがグループをつくっているのだった。
  乞食と言えば、私はひとりの女性の霊に会ったことがある。彼女は人間だったときには裕福な家に生まれたわけではなかったが、のちに裕福になった。そうなると、なによりも食卓のぜいたくにふけった。霊となった彼女は、乞食のようなボロをまとって、あちこちと霊界の物を漁り歩く霊になっていた。
  私は、このほかにも地獄的な生を送っているたくさんの霊たちと会っている。人間だったときに、表面的な名誉ばかりを追い求めていた者の霊、ごまかしの愛情で女を誘惑していた好色な人間、口先ではきれいでも実際の行動は反対だった人間、他人をだますことばかりしていた人間、それに殺人者、泥棒、海賊など、数えきれないほど雑多な霊に会ったものである。
  本人が地獄の霊になったわけではないが、霊界でも地獄的な生を余儀なくされていたケースでこんなこともあった。
  それは人生に絶望的な気持ちになって、ナイフで自殺した人間の霊だった。そういう暗い気持ちになったのは、悪霊に絡まれたがためであった。彼は低い霊国にいて、こんなふうに嘆いていた。
  「いまでも奴らは私に絡んでくるので、気持ちが晴れることがないのです。私はこっちに来てからも、ひどい目に遭わされ続けているのです」
  彼は霊になっても手にナイフを握っていて、自分の首に刺さないように、必死にナイフを捨てようとしているのだが、それができないのだった。
  霊界においても悪霊に絡まれて苦労する実例は他にも知っているが、彼の場合は珍しいケースだった。死ぬ時の状況が、死後かなり長い間影響を残し続けることがあるのを知った。つまり、人間だったときにどんな生を送ったかということだけではなくて、どんなふうに死んだかということも、霊界での生き方にかなり大きな要素になるということである。

 天国に招かれる人間の条件

  では、天国の霊となり、天国的な幸福の中で永遠の霊的生活を送れるのはどんな人間なのか。
  ここでこんな質問をしてみよう。
  「あなたは、手に抱いた幼い子供に頬ずりしている母親の姿を見て、どんな気持ちになるだろうか」
  この光景は、心和む気持ちにさせるに違いない。幼児の姿には無垢なものを感じ、母親の姿には愛を感じるからだ。ここには確かに天国のひとつの光景がある。無垢と愛は天国の姿だからである。これに悟りの知恵が加われば、それが天国のすべてだとさえ言っていい。
  天国の霊となっている者は、その心が天国の本質と同化している者なのだから、天国に行ける霊はそういう心を持った霊だと言えば、これが回答になる。天国は「天の理」を悟り、それに無垢な信頼を寄せている者の国にほかならない。そのために、天国の霊はほかの霊に対し、自分を愛する以上の愛情を持っている。

  どんな人間が天国に招かれるかを知ってもらうために、私が見てきた2つの国のグループのことを紹介しよう。
  私はあるとき、未開民族の霊たちが集まっている天国の団体に行った。そして彼らと「信と善行」について議論もした。彼らはさかんにこう強調したのだった。
  「隣人に対する愛情はとても大事なことだ」
  彼らと議論した「信」とは「天の理」の本質を理解するということだが、「信」だけではまだ知性のレベルなのだ。それは次に「意志」の中に流れ入って「善行」という行動になって初めてホンモノになる。彼らは人間だったときから、単純明快にそういう生き方をしていた人間だったのだ。
  もう一つの例は、無学だが素朴な者たちの集まった天国の団体で、彼らはその姿も美しく輝いていた。私がここでもっとも印象に残ったのは、彼らは外面のものがきれいにぬぐい去られ、最高のレベルの霊に導かれて暮らしていることであった。
  彼らは人間だったときには無学だったとはいえ、いまは有名な学者などより、よほど高い知恵に満ちていた。霊的な世界の知恵とは、この世の外面的な記憶などを元にする知恵(学者の知識は、ほとんどこのレベルの知恵にすぎない)とは性質もレベルも根本的に違うものなのだから、これも当然であろう。

  いまの2つの例から大切なことがわかるだろう。そのひとつは、「行為(善行)」の大切さということだ。いま紹介した未開民族の霊などは、天国に入りやすい霊たちだった。
  これに対して、天国に入りにくいタイプの人間がいる。せいぜい霊国ぐらいにしか入れない者たちだ。それは、人間だったときに自分の内面に関することには無関心で、外面的なこと、この世的なことばかりに熱心だった霊だ。彼はまだ天界に行くには準備不足の段階なのだ。それは、彼が人間だったときに、あまりにも外面の殻をつけすぎてしまったためであった。
  人間は本来、霊的内面と、肉体という外面を持った存在である。また、外面というと、人はどうしても「肉体」という形に見えるものだけを考えてしまう。しかし、私がここで言う「外面」とはそれだけではなく、食欲などの欲望、また普通の視覚、聴覚、などの五感も、物事を覚えているといった記憶も、外面に入る。
  なぜなら、このような欲望や感覚、記憶は、肉体を持った人間が生存を確保していくために奉仕する心理的、感覚的な作用だからである。これなしには、肉体を持った人間は生きていくことはできない。だが、これだけなら実は動物たちも持っている。だから、これがあるからといって、それだけで動物と人間を区別することはできない。
  しかし、人間は動物と違って、これらのほかに霊的なものを内面深くに持っていて、そのために、霊の世界や天国と通じている。人間は人間であるときには、いまの外面的なものを強く持っているので、人間そのままでは天国には入れない。しかし、死んでそれが除かれれば入ることができる。
  ただし、人間だったときにその内面を深く耕していた人間と、そうでなくて、まだ外面的なものを強く残している人間とでは、大きな差が出てくる。前者は容易に天国に入れるのに対し、後者はそれを取り除くのに時間がかかるので、なかなか天国に入れなかったりする。
  そして、内面を耕すのに必要なのが、実は善行という行為なのだ。これは、「善を知って実践する」ということにほかならない。単純に「信」があるだけでは、内面は十分には耕されない。その「信」は、「意志」を通じた「善行」という行為になって初めて効果を発揮するものなのだ。

  さて、いま述べたことで、どんな人間が霊界のどこに行って、どんな霊的な生活を送ることになるかは見当がついたに違いない。そこで私は、本章の最後にぜひ、このことを言っておきたい。それは、「事態は時を経るにつれて次第に悪くなってきた」ということである。
  私は霊界で、古代の多くの偉人たちにも会った。彼らはみな、最上界の天国にいて、その姿も輝き、後光やオーラを背負っている者も少なくなかった。私は彼らともいろいろな話をしたが、彼らも「時が下るにつれて、次第に悪い時代になっている」と、同じような指摘をしていたものである。そして、「だから、最上の天国に入れる霊は、時代とともに少なくなっている」とも言っていた。
  では、なぜそんなことになったのか。この結論は、世間の人びとが科学とか学問とか、あるいは社会的栄達とかいった外面のことばかりに関心を持ち、内面のことを忘れるようになったためである。
  東洋のある宗教は、悪業が時間とともに積み重なって、人間は最後にはより大きな刑罰を受ける、ということを教えているという。これはカルマと言われるそうだ。
  私は、人間の中にある生得の外面的な悪が、親から子へ、子から孫へと蓄積されるために、時代がその質を低下させてきているのかも知れないと思っている。外面への傾斜という時代の流れは、この世だけが人間の生きる場であるならともかく、霊界というより大きな世界における私たちの生を考えるとき、きわめて由々しき問題である。
第5章
 第5章 恐るべき悪霊から逃れられるか   [TOP]

 この世の不幸は悪業の仕業

  争い、病気、不幸や不運、それに犯罪や自殺など、この世の凶事の多くは悪霊のなせる業だと言っていい。悪霊はみな、地獄とつながっている霊たちで、彼らは人間が気づかないやり方で、人間をそそのかし、不幸をもたらす。だが同時に、善霊は人間を守ってくれている。しかし、現実にこの世に生きる私たちは、悪霊を恐れ関心を持たざるを得ない。
  私は、30年にわたる霊とのつき合いの中で、たくさんの悪霊たちともつき合ってきた。正確に言えば、彼らが私を苦しめようとして“からんできた”のだ。そこで、私が見てきた悪霊の本質を述べてから話を進めよう。
  悪霊は、善とは何かを理解している。しかし、悪とは何かをまったく理解していない。彼らは、霊にも人間にもさまざまな悪事をするが、それが悪事だとはまったく思っていないのだ。なぜなら、彼らは悪なるものが存在していることさえ気づいていないからだ。
  彼らは善とは何かを知っていると言ったが、彼らの善とは、実は悪なのだ。たとえば、他人を支配するのが好きだとか、他人の嘆きを見て喜ぶといった心情を、霊になっても浄化しきれていない霊がある。その霊にとっては、他の霊や人間を苦しめることは嬉しいこと、喜ばしいことである。そして、自分にとって嬉しいこと、喜ばしいことが、彼らの善なのだ。
  彼らの中では善悪が逆転している。このような形で善を理解している彼らに、悪などは当然存在しないことになる。人間を苦しめることは、彼らにとっては嬉しいこと、喜ばしいことであり、それが彼らの善なのであって、悪ではないのである。
  このような本質を持つ悪霊の本性は、さまざまな不幸を人間にもたらして、人間を破壊することにある。この世にいろいろなタイプの悪人がいるのと同様に、悪霊にもいろいろなタイプがある。なかでも、もっとも凶悪で、大きな不幸や災難、苦しみを人間に与えるのは、復讐の悪霊というべきタイプである。
  この世の人間に対して復讐の念を燃やす悪霊は実に多い。復讐心は、普通の人間の世界では、公然と口にしたり、行動に移したりするのは許されていない。それだけに、人間だったときの彼らの心の中に積もり積もって、それが霊界に行っても浄化されないためかもしれない。
  彼らは復讐のことを“喜び”と呼んでいるくらいだ。彼らに見舞われた人間は不幸のどん底に落とされる。彼らはさまざまな手を使って復讐の喜びを果たすが、対象にした人間をひどい病気にして、その身体を破壊するぐらいでは満足しない。その人間の心まで狂わせて、愚行や悪行を行なわせる。
  彼らは悪のテクニックにも長けているので、最初は善霊のような顔をして近づいてくる。私も、善霊だと思ってつき合っていた霊が復讐の霊だったと知ったときには、彼らの詐術の巧みさにびっくりした経験がある。
  霊の世界で聞いたところでは、彼らは集団をつくって行動しているという。復讐の念に燃える悪霊は数えきれないほどいる。だから彼らは、自分たちだけの団体をつくっているというわけだ。彼らの団体の内部統制はしっかりしていて、同じ団体の者どうしでは互いに傷つけ合うことはないのだという。

 人間を騙す悪霊のテクニック

  悪霊の特徴は、さまざまなテクニックを使うことである。悪霊がやってくるときには、地獄の光景とでもいうべき恐ろしいビジョンが見えてきたりする。しかし、これは比較的単純な悪霊の場合で、たいていは少し悪知恵があり、美しいビジョンを見せて人間を誘う。
  私の体験から2つほど紹介しよう。
  ある朝、私は眠りから覚めると、極めて静かで平和な気分になっていた。それは、天国の霊がやって来るときに感じる気分と同じで、私はてっきりそうだと思った。湯加減のちょうどいい湯にゆったりつかっているような気分だった。いま考えると、あれが悪霊の誘惑の手だったことはわかるが、そのころは霊界の体験もそれほど深くなかったので、それがわからなかった。
  その朝の気分は確かに天国的な気分ではあったが、それは比較的外面的な甘美さ、つまり物質的な甘美さだった。これに比べ、本当の天国的な喜びは、もっと内面的なものである。したがって、ずっと長く続くものなのだ。この朝の気分は長くは続かなかった。
  このような偽物の天国的気分と本物とを見分けることは、普通の人にはできにくい。そういういい気分にさせたあとで、悪霊は人間が気づかないうちに、さまざまな凶事や不幸に陥れるのだ。
  悪霊はこのほかにも、恐怖のビジョンを自在につくり出して、恐怖におののかせたあとで、自分の思うとおりに人間を操ろうとする。また、恐怖だけでなく、人の心をかき乱すことで人間を不安にしたり、逆に信じ込ませて安心させたりして、人間を自由に操ろうとする。彼らはそれを、類いまれな演技力や創作能力を使って行なう。彼らの演技力や創作能力には、どんな名優も劇作家もかなうものではない。彼らは人間にはない才能を持っているからだ。
  彼らの演技力や創作能力の中でも、特に目立つのはウソやでっち上げを自由自在に行なうことである。彼らは、あることないことをまことしやかにでっち上げ、それを真実らしく語る。
  私があるとき出会った悪霊は、自分の知識を誇って私を圧倒し、敬服させるために、土星の住人についてとうとうと語った。彼によれば、土星の人間は地球の人類よりもずっと体は小さいが、いい性格を持った人間なのだそうだ。

  彼らは演技力によって人をたぶらかす。たとえば、悪霊と話しているうちに、人間がこんなことを言ったとしよう。
  「あなたはもしかして、死んだ友人のAではないのか」
  彼らのどこかに、自分の知り合いだった人物と似たところを感じたりすることは多い。そこで人間の方は、うっかりこのようなことを言う。こうなると、もう完全に彼の手の内に陥ってしまう。彼は、友人のAのふりをしたほうが好都合だと見れば、Aの声や話しぶりまで真似て話す。人間のほうは、これですっかり騙され、彼の言うことはなんでも信じてしまうことになる。
  友人Aのことを知らない悪霊に、どうしてAの真似ができるのかと疑問に思うかもしれない。しかし、彼らの能力は人間の能力をはるかに超えたものなのだ。
  彼らの演技力は、まさに超能力なので、その程度のことはいつでもできる。ある時はAに、あるときはB、C、D‥‥にと、その時の都合に応じて、どんな人間をも装うことができるのだ。
  いまの土星の話とか、死んだ友人のように振る舞うといった程度では、自分は騙されないと思うかも知れない。確かに、普通ならそんな荒唐無稽な話や演技には騙されないだろう。
  しかし、それはあくまで私たちが平静な精神状態にいるときの話だ。まず悪霊は、天国的なビジョンを見せたりして人間の心の平静さを失わせる。そのうえで騙しにかかるのだ。こうなれば普通の人間はひとたまりもない。

 聖者エゼキエルも警告する悪霊の手口

  悪霊の特徴は大言壮語することである。なかでも最も目立つのは「自分はキリストだ」とか、「キリストの使者だ」というタイプのものである。普通なら、私たちはこんな大言壮語には騙されない。しかし、それまでに見たこともないような天国的なビジョンを見せられ、度肝を抜かれている人間の場合はどうだろうか。すでに普通の精神状態ではなくなっているので、誰だったころりと参ってしまうだろう。
  悪霊をキリストだとか、その使者だと信じ込んだ人が、彼らの思いのままに操られ、さまざまな不幸、不運に陥るのは不思議ではない。

 どうすれば悪霊から自分を守れるか

  では最期に、悪霊と関連したいくつかのことを述べておこう。まず悪霊防衛術について始めよう。私は以前に、他の本でこう書いたことがある。
  「霊が人間に向かって話しかけてきたら、人間は彼らの言うことを信じないようにしないといけない。彼らはいろんなことを言うが、みな勝手に作り上げたことだ。うそつきだからだ。彼らは天国について話し、そこがどんなところかなどともったいぶって話すので度肝を抜かれるが、それはウソばかりである」
  防衛術のポイントは、彼らの言うことを信じないこと。それから、話のとっかかりを与えるような受け答えをしないことが大事である。「もしかしたら、あなたは死んだ友人の誰々か」などといったことを悪霊に尋ねるのも、彼らに話のとっかかりを与えるものである。
  もっとも役に立つ防衛術とはどんなものか。それは、善霊が守ってくれるときには、たとえ悪霊が来ようとも心配はいらないということだ。悪霊の力は、最終的には「天の理」や善霊には及ばないのは前にも言った。ここにもっとも効果的な悪霊防衛術のカギがある。
  また、私の体験からはっきり言えるのは、悪霊は無理に追い払おうとしてもだめで、そうすればするほど彼らの術中にはまるということである。逆に相手にならずにいると、彼らは自分から退散していく。
  だから、彼らは無視するのが一番いいのだが、実はこんなことも善霊がついてくれて初めてできることなのだ。善霊がついていなければ、人間は心の平静を失わされて、悪霊のなすがままになるのがオチだからだ。
第6章
 第6章 霊界で会った人物たち   [TOP]

 宗教界のリーダーたちは地獄に堕ちていた

■なわ・ふみひとの註釈――この項では、スウェデンボルグが霊界で会った著名な人物のことを述べています。登場する人物とその特徴を要約すると以下の通りです。
@ ニュートン〜「天の理」をよく理解していて、他の霊たちに愛されていた。
A アリストテレス〜正気で健全な霊の仲間の中にいた。
B マホメッド〜地獄の霊によって誘惑され、試されていたが、彼はゆるがなかった。
C ダビデ〜自分を世界の主としてあがめさせようとしていた。彼は、自分は神をも従えられると錯覚をしていた。彼は人間だったときから狂った考えを持った人物だったのだ。
D パウロ〜ダビデと同様に自分が神になりたがる霊で、霊界では他のキリストの使者たちからも受け入れられず、悪霊とコンビになっていた。
E 聖アントニウスやルーテル〜パウロ同様、立派な霊にはなっていなかった。
F ベネディクト14世〜ずる賢い霊になっていた。


  私は霊界で、この世にいるときに聖者とされていた人びとと会って、聖者には3種類があることがわかった。
  第1の種類は、自分が聖者としてあがめられるのを嫌っていた人たちで、彼らは霊界では最上の天国にいるのだった。
  第2の種類は、口では聖者としてあがめられるのを嫌っているように言っていたが、内心はそうではなかったというタイプの聖者である。
  第3の種類のもっともレベル低い愚かな聖者は、自分があがめられることを求めた者たちであった。

 統治者たちは霊界で何をしていたか

■なわ・ふみひとの註釈――この項では、@ルイ14世、Aカール12世、Bユルリカ女王、Cカール11世と王妃、D副学長ヤーネ、について述べられていますが、私たちにはあまりなじみのない人物たちなので、内容は割愛します。
著者紹介
 ★ 著者紹介 ★
  
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エマニュエル・スウェデンボルグ  Emanuel  Swedenbolg  1688-1772
スウェーデン人。自然科学、数学、物理学、哲学、心理学など20もの学問分野で、多くの業績を上げた天才であると同時に、巨大な霊能力の所有者としても世界中に知られる。1747年、いっさいの科学的研究の活動を放棄し、後半生の約30年間、心霊的な生活と霊界の研究に没頭した。生きながら霊界に出入りする「霊的生涯」を送り、ヨーロッパ中の大きな話題を集めた。彼が霊界で見聞、実体験してきたことを書き記した膨大な著書は、現在もロンドンの大英博物館に保管されている。1772年3月29日、自分が予言した日に没し、いまなお人類史上最大の不思議な人物とされる。
 
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