シルバーバーチの スピリチュアルな法則 |
フランク・ニューマン・著 近藤千雄・訳 ハート出版 2003年刊 |
シルバーバーチと名のる霊が無意識状態のモーリス・バーバネルの口を使って初めてしゃべったのは1920年のことで、当時バーバネルは18歳、知人に誘われて交霊会に出席した時だった。自分では“うたた寝”をしたと思い込んで、目が覚めると慌てて“非礼”を詫びたが、出席者たちから「あなたは寝ていたのではない。シルバーバーチとか名のる霊があなたの口を借りてしゃべりましたよ。あなたもいずれこうした交霊会を催すようになるそうです」と言われて、何のことやら、それこそキツネにつままれたような気持ちだったという。 が、それが間もなく現実となる。バーバネルは自宅でもトランス状態にさせられて、やはりシルバーバーチと名のる霊がしゃべるようになった。最初のうちは居合わせた者だけが聞く程度で、記録というものを一切遺さなかったが、その後速記録を取って霊言の抜粋を翌週の『サイキック・ニューズ』紙に掲載するようになり、それがまとめられて単行本として発行されるようになった。第1巻が出たのは1938年。 シルバーバーチは、初めのうちは「自分は地上でアメリカ・インディアンだった」と述べ、霊視能力を持った人の目には確かに叡智あふれるインディアンの顔が映り、それを描いたフランス人画家による肖像画がシルバーバーチその人であるという認識が固定した。 ある時期から、「実は自分はインディアンではない。三千年前に地上で生活したことがあるが、長い長い生命の旅の末に、もうすぐ地上圏に別れを告げて二度と地上に戻れない階層へ旅立つところまで到達した、いわば“古い霊”である」と告白した。しかし、地上時代の姓名・民族・国籍・地位などの個人的なことは、ついに述べずに終わった。 バーバネルは1981年に他界し、それがシルバーバーチ交霊会の終わりともなったが、ほぼ半世紀にわたって速記録と録音によって遺された膨大な量の霊言は、サイキック・ニューズ社のスタッフによってまとめられたものが全部で16冊も出版されている。 出現した霊が地上時代にどういう立場の人間であったか、姓名を何と言ったかを知りたいと思うのは自然であるが、これはいろんな意味で危険をはらんでいることを知っておくべきである。そのためには次の2つの事実を念頭においておく必要がある。 ひとつは、人間は死後も、個性も本性も容易には変わらないこと。もうひとつは、低階層つまり地上界に近い階層で暇をもてあましている霊ほど交霊会に出たがるし、また出やすいということ。 ここで忘れてならないのは、霊の側からは出席者の姿が見えても、出席者の目には霊の姿は見えないことで、そうなると、たとえば歴史上の著名人の名を名のっても、本当かどうかを証明することは不可能ということになる。いかにもそれらしい態度で語られると、何となくそう思えてくるもので、それが他界した親族、とくに父親や母親、早世した我が子であると言われれば、人間的な情に流されて抱き合って喜んだり感動したりするものである。 スピリチュアリズムの本来の目的はそんなところにあるのではない。それを、著者ニューマン氏がシルバーバーチの言葉を引用しながら説いてくれている。 シルバーバーチの最大の特徴は、成熟した大人の精神をもつ人間の理性的判断力に訴える態度に終始したことです。つまり自分が説くことで理性が反発を覚えることがあれば、遠慮なく拒否して欲しいと明言し、常に人類への慈しみの心で臨み、愚かしい質問にも決して腹を立てず、失礼な態度を咎めることもなく、その態度と教説の内容は、「宇宙の大霊から遣わされたメッセンジャー」に恥じないものでした。 もう一つの特徴は、自分にハクをつけるために地上時代の高貴な身分や仰々しい肩書き、歴史上の姓名を名のるようなことはしないという、厳しい掟を自分に課したことです。 さらにシルバーバーチは、私の専門であるバイブレーションの変換によって、自分よりさらに高い次元から送られてきたものを、地上で北米インディアンに所属していた霊を地上界(霊媒のバーパネル)との直接のアンテナとして送り届けているのであって、その教えは自分が考えたものではないと率直に述べている点でも、極めて特異です。上には上があり、そのまた上にも上があり、宇宙は事実上無限の彼方までつながっていると言うのです。それは、言い換えれば叡智にも際限がないということになります。理解度が到達した次元までの知識を授かるのであって、それは一人ひとり違うことになります。 自分とは何か 信仰さえあれば知識はどうでもよいのではないかと思っている人も多いようですが、次のシルバーバーチの言葉をよく噛みしめてください。 知識は常に必要で、常に求め続けるべきものです。もうこれで十分だと思って求めることをやめる人は、自分の無能を宣言し、堕落し、錆びついていくことを求めているようなものです。魂は向上するか堕落するかのどちらかであり、同じ位置に留まっていることはできません。人間は永遠に休むことのない旅人なのです。 地上界にもたらされる恩恵は、発明も発見もことごとく霊界にその根源があります。あなた方の精神は、地上界へ新たな恩恵が届けられるための受信装置のようなものです。 新しい真理というものはありません。それを受け入れる用意ができているか否かによって、そのレベルが決まります。皆さんも子供の時は能力に似合ったものを教えられます。アルファベットから教わって、知能の成長にしたがって単語を覚え、文章が読めるようになります。 その単語に含まれている意味も、一度にわかるわけではありません。少しずつ分かっていきます。どれだけ理解できるかは、当人の理解力によります。精神的に、そして霊的に受け入れる用意ができただけのものを手にすることができるのです。 自ら思い立って真理探究を志し、行為と想念でもって意思表示をすれば、その人物がそれまでに到達したレベルに相応した知識と教えを授かるように法則が働いて、その波動と調和し始めます。そのレベルには限界というものはありません。なぜなら人間みずからが無限の霊性を宿しており、真理も無限に存在するからです。 学ぶ前に、それまでの知識を洗い直さないといけません。正しい思考を妨げてきた夾雑物をすべて捨て去らないといけません。それができて初めて霊的成長の準備が整ったことになり、より高い真理を授かる用意ができたことになります。 真理探究の道はこつこつと絶え間なく続きます。魂が進化し、それに精神が反応して広がれば広がるほど、境界線はますます広がっていきます。 知識、真理、叡智、成長に限界がないことに気づいた時、あなたは真の意味で自由になるのです。心の奥で間違いであることに気づき、理性が反発するものを即座に捨て去ることができるようになった時、あなたは自由になるのです。 第三者の指導によってそういう状態に導くというのも一つの方法ですが、まだ真理に目覚めていない人に、それがどういうものであるかを説明する時は注意が必要です。それで良しという満足感を抱かせる結果になりかねません。 要するにスピリチュアリズムの根本理念は、地上人類を物質的に豊かにすることではなく、霊的に豊かにすることです。いったい自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのかについての理解に必要な摂理と実在についての知識をもたらすことです。 それが理解できない人はいるでしょう。そんなものは必要ないと考える人もいるでしょう。子供と同じで、まだオモチャが手放せない人もいますから、そういう人にはそういう人なりの教え方が必要です。 スピリチュアリズムは、長いあいだ地上界を取り巻いてきた暗闇、今の時代になって次第に分かってきた悪逆非道の原因を根絶することが目的なのです。そうした邪悪の根源には霊的摂理への無知があります。唯物主義とそれが生み出す私利私欲の悪弊を吹き飛ばしさえすれば、地上界を最大の呪いから救うことができるということを、もうおわかりいただけると思います。 皆さんが偶然の産物でないこと、気まぐれの遊び道具ではないこと、無限のエネルギーを秘めた無限なる霊すなわち神の一部であることは、既にご存じの通りです。この真理が世界的規模で受け入れられれば、またこの物質界の彼方にも別の世界が存在すること、地上界で送る自分の生活には自分が責任を取らされ、それが次の世界に反映されること、そこには完全な公正をもって働く永遠不変の摂理が存在すること――こうしたことを単なる知識としてではなく実感をもって認識できるようになれば、人生の新しい基盤ができたことになります。 私たちがこうして地上界へ戻ってきた理由はそこにあります。すなわち、たった一人の人物、たった一冊の書物、たった一つの教会、物質界であろうと霊界であろうと、たった一個の存在に忠誠を尽くすのはおやめなさい――ひたすらに大霊の摂理にのみ忠誠を尽くしなさい、と説くためです。誤ることのないのは大霊の摂理だけだからです。 進化のいかなる段階においても、暗闇の中を歩むより光の中を歩む方が良いに決まっています。無知でいるより知識を身につけている方が良いに決まっています。ですから、知識の探究は人生の基本的な目的であらねばなりません。それを怠ると、迷信と偏見と不寛容と頑迷さがのさばるようになり、それを抑えきれなくなります。 しかし、知識には責任が伴います。これも埋め合わせの原理の一環です。かつて所有していなかったものを手にした時、天秤のもう一方には、その知識をいかなることに用いるかという責任が生じます。 知らなかったが故に犯す罪にもそれなりの代償は免れませんが、知っていながら犯す罪にはより重い代償を支払わなければなりません。 魂の進化 生命は一つです。が、それにはいくつもの等級があります。人間は物質に勝ります。人間は精神と霊で成り立っており、その精神には精神的生活があり、霊には霊的生活があります。さらにこの物的世界を超越した超物質界に属するバイブレーションもそなえております。 人間はその2種類の世界、すなわち今生活しているこの世と、いずれ赴くことになっているより大きな世界の、双方のバイブレーションを感知することができます。物質でできた身体と霊でできた身体、そしてその両者を結びつけるコードないしはライフラインがあります。 あなた方が生き、動き、呼吸し、考え、反省し、決断し、判断し、思いをめぐらし熟慮するのも、霊の力のお陰です。あなたのなすこと全て、あなたの存在を形成するもの全てが霊力のお陰なのです。なぜなら、物質界の全て、あなたの物的身体も、霊的エネルギーの流入があるからこそなのです。 皆さんには肉体の鋳型としてのエーテル体の身体(ダブル=複体)があります。が、これには筋肉とか胃液とか聴覚とかはそなわっていません。これは霊が肉体として顕現し有効に機能するための中継役的存在であり、死とともに、霊が次の段階の生活にそなえるための基本的な役目を終えます。 それは程なくして脱け殻のように剥がれ落ち、代わって別の身体が用意されます。霊的純化の過程を重ねるためにはいくつもの身体が必要なのです。皆さんにはそのための身体が幾種類もそなわっています。 人生の目的は進化であり、成長であり、成就です。進化するにつれて自動的に古い身体を捨てて、次の段階に必要な新しい身体をまといます。 現段階においても、皆さんにはいくつもの身体がそなわっていて、それぞれの次元で顕現しているのです。肉体を捨てると今度は幽体をまといますが、それは地上生活中もずっとそなわっていて、その次元のバイブレーションで機能していたのです。肉体が今のあなた方には実感があるように、その次元においては幽体に実感があるのです。 あなた方には複数の身体がそなわっています。それを幽体とか霊体とか本体と呼んでいます。到達した次元にふさわしい身体で自我を表現します。次の次元の階層へ行けば、それまでの身体は毛虫が脱皮するように脱ぎ捨てます。到達して発達段階にふさわしい形態で自我を表現するのです。そうした形で発展が無限に続くのです。 見方によっては地上界も幽界の一部であると言えないこともありません。全ての階層が個別に仕切られているのではなく、互いに浸透し合っているからです。全宇宙の生命の全階層が互いに混じり合い、浸透し合っており、それに霊的側面、幽的側面、物的側面があるということです。今こうして地上で生活している皆さんも、同時に霊的世界とつながっていることになります。 全生命は一つで、それに無限の進化の段階があるということです。あなたはいずれ霊界の住民となりますが、今この時点でも立派に霊界の住民なのです。要はバイブレーションの問題です。死んでから霊的存在になるのではありません。 あなたは霊なのです。これまでもずっと霊でしたし、これからも霊であり続けます。今の自我意識は物的身体を通して顕現した部分だけの意識です。あなた方のおっしゃる“死”のあとさらに進化していくにつれて、それまで未開発の部分が顕現されていきます。しかし、霊そのものはどこかへ行ってしまうわけではありません。これからもずっと存在し続けます。 もしも皆さんが、自分が肉体をたずさえた霊的存在であること、地上界が全てではないことを自覚してくだされば、賢明なるあなたは自然の成り行きで、未来の生活の場である死後の世界にそなえた生活を送るようになることでしょう。あなたの行為のすべてが、到達した霊的覚醒のレベルに似合ったものになることでしょう。 オーラを霊視し、その意味を解釈できる人には、その人物の秘密のすべてが丸見えということになります。魂が今どの程度の段階にあるか、精神がどの程度まで発達しているかが分かります。要するに霊的進化の程度をオーラが物語っているのです。 あなたが口にしたこと、あなたが心に抱いたこと、あなたが行なったことのすべてが、オーラに刻まれています。外面をいくら繕っても、あなたの内部の本性をそのまま表しておりますから、オーラは言わば永遠の鑑定書のようなものです。 皆さんと私たちの間では、常に何らかの思念を授かったり授けたりしています。私たちと同じ波長の次元にいる人間、つまり霊性が似通っている人間は、私たちが送る思念を受け取りますし、彼らもまた私たちに通じる意念を送ってきます。その波長は霊性の進化の程度によって決まります。 結局皆さんは受信局であると同時に送信局でもあるわけです。思想や概念を自分一人でこしらえることは滅多にありません。ラジオにもテレビにもチャンネルないしはバイブレーション(周波数)というのがあり、それに合わせると聞こえたり見えたりするのです。 皆さんにも皆さんの波長があり、それと同じ波長をした霊たちから思想や概念、提案、インスピレーション、指導、その他もろもろのアイディアを受けています。それが皆さんの個性によって色づけされて放出され、また誰か別の人が受け取ったりしています。 完全なる因果律 〜 死後につながる現世での所業 あなた方は死後に赴く次の世界に今も立派に存在しているのです。バイブレーションの次元が違うに過ぎません。死ぬことで霊的存在になるのではありません。 あなたは今この時点において立派に霊なのです。今この特殊な物的バイブレーションの階層における幽体のバイブレーションが、死後あなたが赴く階層を自動的に決めるのです。 これまでの地上界の寿命を生きてきたその生き方と、その結果として発達した意識レベルが、今のあなたの幽体がどの次元で機能しているかを決定づけます。死後に目覚める階層のバイブレーションについてもこの原則が当てはまります。 (その階層は)互いに混ざり合っています。空間に充満している無線通信のバイブレーションと同じです。さまざまな波長があり、さまざまなバイブレーションがあります。が、その全てが同時に同じ空間を占めているのです。 境界というものはありません。バイブレーションが異なるだけです。異なる階層、ないしは異なる意識レベルで機能しているだけです。 こちらの世界では、各自の霊性の成長度にふさわしい階層、つまりは環境との調和が最もしっくりくる階層に落ち着きます。知的・道徳的・霊的成長度が自動的にそこに落ち着かせるのです。他の階層との違いは、そこに住まう霊の質の違いです。 霊的に高い次元にいる人ほど、質的に高いということです。他人への思いやりが強いほど、慈悲心が大きいほど、自己犠牲の意識が高いほど、地上界にあっても無意識的に高い階層に生きていることになります。 (地上生活を送っている間じゅうも)皆さんは霊の世界の最高界から最低界までの全階層の影響を受ける状態にありますが、実際に影響を受けるのは各自が到達した霊性と同じ次元のものだけに限られます。邪悪な魂は邪悪なものを引き寄せ、高潔な魂は高潔なものを引き寄せます。それが摂理なのです。 (死後の世界について誤った知識を教え込まれ、「最後の審判」の日を待ちながら居眠りを続けている霊の問題について) 彼らの魂そのものが、そうした信仰が現実になると思い込んでいるのです。ですから、その信仰の概念が変化するまで、外部からは手の施しようがありません。そうした人々は事実上、地上での全生涯を通じて、「死んだらガブリエルがラッパを吹くまで墓で寝て待つのだ」という思念体を形づくり、それを毎日のように上塗りしてきているので、魂の内部での調整が進んでその思念体を切り崩すことができるようになるまで、その牢獄に閉じ込められているのです。 自分が死んだことを認めようとしない者も同じです。無理やり信じさせることはできません。死んだという事実を得心させることがいかに難しいか、皆さんには想像できないことでしょう。 肉体器官の機能が残っているかどうかも意識の程度次第です。死後の生命についてまったく無知で、死後の世界があるかどうかなど考えたこともない人間は、肉体の機能がそのまま幽体に残っていて、死んだことに気づかないまま、地上時代と全く同じ生活を続けています。 もちろん、死後の世界でも罪を犯します。こちらの世界での罪悪は「利己主義」という罪悪です。こちらではそれがすぐに外部に現れます。心に宿すと、直ちに知れます。その結果も地上よりはるかに早く出ます。 それは罪を犯した当人にすぐに現れ、霊性が低下するのが分かります。どういう罪かと問われても「自己中心的思考が生み出す罪」と表現する以外、地上の言語で具体的に説明するのは困難です。 (死後の生命存続を知っていた人は)幽体の希薄化(=より高い次元への変化)が進みます。無用であることを知っている器官は次第に萎縮していき、ついには消えてなくなります。 (その進み方は)当人の意識の程度によって違います。意識が高ければ高いほど、調整の必要性が少なくなります。 地上界の次の階層(=精霊界)は物質の世界と生き写しです。もしそうでなかったら、何も知らずにやってくる多くの新参者が、あまりの違いにショックを受けることになるので、初期の段階は馴染みやすい環境になっているのです。それまで生活していた環境とよく似ています。死んだことに気づかずにいる者が多いのはそのためです。 こちらは本質的には思念の世界です。思念が実在なのです。ですから、思念が表現と活動を形成します。地上界に近く、また相変わらず唯物的な人生観を抱いた男女が住まっていますから、発せられる思念は至って低俗で、何もかもが物質的です。 彼らは物質から離れた人生が考えつきません。かつて一度たりとも純粋に物的なものから離れた存在というものが意識の中に入ったためしがないのです。霊的なものを思い浮かべることができないのです。 しかし、幽界生活にも段階があります。そうした生活の中においても霊的意識が徐々に目を覚まし、粗悪さが消え、洗練されていきます。すると彼らの目に、生きているということに物的側面を超えた何かがあることが分かり始めます。そう気づいて霊的感性が目覚めた時から、彼らは幽的世界に対して「死んだ」も同然になり、いつしか霊的世界で生活し始めることになります。かくして生命活動にはいくつもの「死」といくつもの「誕生」があるのです。 こちらの生活の場は平面的に区切られているのではなく、無数の次元に分かれており、それらが渾然一体となっております。各次元の存在はあなた方の言う客観的な実在であり、そこで生を営む者にとっては同じに見えます。丘があり、山があり、川があり、せせらぎがあり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。すべてに実感があります。 (病気などの)肉体の苦痛から解き放たれ、(疲労などの)肉体の束縛から逃れた霊の世界での生活は、物質の生活には譬えるものがありません。行きたい所へはどこへでも一瞬のうちに行けますし、思ったことがすぐに形態を持って現れますし、思い通りのことに専念できますし、お金の心配もいりません。 以心伝心という、地上の言語では説明できない手段で意思を通じ合う世界です。思念そのものが生きた言語であり、電光石火の速さで伝わります。 お金の心配をする必要もなく、競合する相手もなく、弱い者が窮地に陥ることもありません。こちらで“強い者”という時は、自分より幸せでない者に自分のものを分けてあげる人のことです。 失業者もいません。スラム街もありません。利己主義者もいません。宗教団体などもありません。“大自然の摂理”という宗教があるだけです。聖なる教典もありません。神の摂理のはたらきがあるだけです。 痛みというものを知らない身体で自我を表現し、その気になれば地上界を一瞬のうちに巡ることができ、しかも霊的世界のぜいたくを味わうことができるようになる(=死ぬ)ことを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。 この世界では芸術家は地上時代の夢が存分に叶えられます。画家や詩人は大望を実現し、天才は存分に才能を発揮します。地上的抑制の全てが取り払われ、天賦の才能と才覚がお互いのために使用されます。 こちらには皆さんが見たこともない種類の花があります。皆さんが見たこともない色彩があります。景色にしても森にしても、小鳥にしても植物にしても、小川にしても山にしても、地上界のものとは比べものにならないほど美しいものばかりです。 摂理と調和 〜 真実の愛にめぐり合うために 大霊とは宇宙の自然法則のことです。物的世界と霊的世界の区別なく、全宇宙の生命の背後ではたらいている創造エネルギーです。皆さんが知るに至った小さな部分だけでなく、まだ地上人類に明かされていない大きな部分も含めた全宇宙に、くまなく行きわたっております。 皆さんの世界だけではありません。私が住まっている霊的世界を含めた全宇宙、皆さんがまったく知らずにいるさまざまな世界においても、大霊の法則(摂理)が絶対的に支配しております。皆さんのお一人お一人、人間的存在のすべて、地球上だけでなく無数に存在する惑星上で生を営む存在のすべてが、神――私の言う大霊―― の不可欠の存在なのです。大霊は宇宙間に存在するものの総体であると同時に、それを超越したものだからです。 宇宙は偶然によって支配されているのではありません。法則と秩序によって支配されているのです。宇宙のどの方角に目を向けても――星雲の世界の広大さや地平線の彼方を知るために望遠鏡を向けても、あるいは顕微鏡で極微の世界の創造物をのぞいて見ても――そこに存在するものはすべて不変不滅の自然法則によって支配されております。あなたは偶然の産物ではないということです。原因と結果とが寸分の狂いもなく計算されてはたらく秩序整然たる宇宙に、“偶然”の入る余地はありません。 そうした規則ないしは摂理は、全生命を創造した大霊がその統治のために定めたものです。構想においても組織においても完璧です。全生命は本質的には霊ですから、摂理も霊的なものです。霊力は目に見えません。いかなる人間的尺度でも計れません。長さもありません。広さもありません。高さもありません。重さもありません。色もありません。味もありません。臭いもありません。科学者、化学者、医学者がそれぞれの分野でいくら探しても、生命の動力である霊の居どころは見つかりません。 大霊は全能ですと申しあげるのは、その霊的な力が宇宙そのものと、そこに存在するあらゆる形態の生命を支配する摂理にゆだねられているからです。その霊力が火炎となって燃えさかっていた地球に生命の息吹を吹き込んだのです。人間を泥のかたまりから神性を秘めた霊的存在にまで引き上げたのです。 霊力は魂がまとう衣です。全生命を創造し、自然現象のあらゆる動きと突然の変化をコントロールする力、四季の巡りを規制し、一つひとつの種子、一つひとつの植物、一つひとつの花、一本一本の低木、一本一本の高木の生長を管理する力、要するに、ありとあらゆる側面の生命進化の全機構を管理する力が霊力なのです。 (「大霊をどう説明したらよいか」と問われて) 私だったら大自然の絶妙な巧みさに目を向けさせます。夜空のダイヤモンドとも言うべき星に目を向けさせます。ささやくような風、太陽のこうこうたる火炎と、幽玄な月の明かりに目を向けさせます。ささやくような風、それに吹かれてなびく松の枝、さらさらと流れる小川と怒濤さかまく海へ目を向けさせます。そうした大自然のありとあらゆる側面がそれぞれの目的をもった摂理によって営まれていることを説いて聞かせます。そしてそれが大霊の働きであると結びます。 さらに私は、人間が自然界にいかなる新しい発見をしようと、それも摂理の範囲内に存在するものであること、その発展も管理され規制されていること、広大で複雑に入り組んでいながら、全体として調和がとれていること、天体も昆虫も嵐もそよ風も、その他、顕れ方がいかに複雑であっても、全宇宙には完璧な秩序が行きわたっているということを付け加えます。 大霊は雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他ありとあらゆる存在にかならず存在するように、あなた方にも存在します。大霊はあらゆるものに内在しています。あらゆるものが大霊なのです。魂は自分を自覚しているがゆえに大霊を知っております。 生命が人類において初めて個別化されるように、大霊も自然界のエネルギーとしてだけでなく、意識を持った個的存在として顕現されることになります。 ですから、あなた方は人間的存在として大霊の枠組みの中に組み込まれており、従って大霊とつながっているのです。ということは、あなた方も大霊の不可欠の一部としての存在位置を占めているということです。そこに人間と下等動物との違いがあります。人間は個性を持った霊であり、大霊の一部なのです。 一個の人間として、一階層の人間として、一国家の一員として、あるいは世界人類の一人として、あなた方は自然の摂理に調和した生き方をするか、それともそれに逆らった生き方をするかのどちらかです。逆らった生き方をすれば、暗黒、病気、困難、混乱、破滅、悲惨、流血といった結果を招きます。反対に摂理にのっとった生き方をすれば、霊的存在としてのたまもの、すなわち叡智と知識と理解力、真理と正義と公正と安らぎを手にすることになります。 あなたはロボットではありません。自由意志を行使することができます。もちろん一定の範囲内のことではありますが、自分で判断して選択する自由が許されているのです。個人でも国家でも同じです。その判断が摂理にかなっていれば、つまり原則として人の役に立つものであれば、自然界と、ひいては宇宙と調和した結果が巡ってきます。 私たちは行為と行動、各自の毎日の生き方が大切であることを説いているのです。その中でも絶対的に大事な摂理として“因果律”を説きます。すなわち、大霊のはたらきは絶対であり、その摂理をする抜けられる者は誰ひとりいないこと、自分が自分の救い主であり贖(あがな)い主であるということです。自分の犯した過ちは自分が償い、他人に役立つ行為は“霊的成長”という形で報われるということです。 私たちは「大霊の摂理は機械的にはたらく」と申しあげています。優しさ、寛容心、思いやり、貢献は、それを実行に移したというそのことが自動的によい報いをもたらし、利己主義、悪行、不寛容は、自動的に良からぬ報いをもたらします。 その法則は絶対的で、変えることはできません。安直な執行猶予はありません。子供だましの恩赦もありません。全宇宙を絶対的に公正が行きわたっております。霊的な小人に霊的な巨人のマネはできません。死の床でも悔い改めも叶いません。 地上の幾百万とも知れない人々が、今自分が住んでいる世界が唯一の世界だと思い込んでいます。こういう生活が人間生活だと思い込んで、せっせと物的財産を、いずれはあとに残して行かなければならない地上的財宝をため込もうとしています。 戦争、流血、悲惨、病気――事実上これらのすべての原因は、「この地上に生きている人間も、今この時点で立派に霊的存在であり、この肉体が自分ではない」という人生の秘密を知らないことにあります。人間も、肉体という媒体を通して自我を表現している霊なのです。 皆さんとしては、あらゆる事態に備えることです。相手の魂に「成長しよう」という意欲がなければ、あなた方はなすすべはありません。あなた方にできるのは、霊的真理を広めること、無知や頑迷や偏見を追い払うことです。とにかく霊的知識のタネを蒔くことです。 私たちの仕事は、皆さんとともに真理の光を広めることです。そのうちきっと真理の光が地上界に広がり、醜さと卑劣さを生み出すものが姿を消し、大霊のささやかな粒子である人間にふさわしい環境へと変わることでしょう。 そうしさ醜さと邪悪の大半は、スラム街ができるような仕組みの方が儲かることを知っている悪がしこい者たち、自分の懐(ふところ)さえ肥やせば同胞はどうなっても構わないカネの亡者たちがいるからであることを知らねばなりません。その邪悪の根源は、実は、そうした亡者たちが死後に落ちた奈落の底からの悪い想念によって増幅されていることもあるのです。 しかし、だからこそ次のことも知らねばなりません。すなわち、人間は無限の可能性を秘めた存在であること、人生は暗黒から光明に向けて、低い次元から高い次元に向けて、か弱い存在からより強い存在へ向けての絶え間ない闘争であること、進化を通して人間の霊は絶え間なく大霊へ向けて上昇している――ということです。もしその闘争がなかったら、人生には霊にとって何一つ征服するものはないことになります。 今日もっとも必要されているのは、そうした単純な真理の普及です。すなわち、墓の向こうにも生活があること、誰ひとりとして見放されたり、独りぼっちにされたりすることはないこと、見えざる次元から温かい愛に満ちた目で見守り導いてくれている存在がいること――を確信させてあげたいからです。 これは永遠に変わることのない真理です。理性が要求するいかなるテストにも答えられます。あなた方の知性を侮辱することもありません。至って簡単で単純なことばかりです。ごく普通の人々にも理解できます。人のために役立つこと、滅私の行為、自分より恵まれていない人に手を差し伸べる行為、弱い人に力を貸してあげる行為、重荷を背負い過ぎている人の荷を少しでも肩代わりしてあげること――こうしたごく当たり前のことこそ霊的資質を発揮する行為であり、本当の意味での宗教であると言っているのです。 現在のところ、この永遠の真理、すなわち基本的にはあなた方も霊的存在であり、一人として隔離されることはなく、ともに手を取り合って霊的進化の道を歩んでいること、進むも退くも一蓮托生であることが、まだ理解されておりません。 そこにあなた方の義務があります。真理を手にした者は、その時点からそれをどう扱うかの責任が生じます。いったん霊的真理の真実性に目覚めたら、いったん霊的な力のはたらきに気づいたら、今日や明日のことで取り越し苦労をしてはならないということです。 あなた方が今地上にいるのは、霊性を磨き上げるためです。霊性は地上だけでなく、こちらへ来ても成長をやめることはありません。地上界は体験を積むための学校です。その学校はまだ完全ではありませんが、あなた方もまだ完全ではありません。あなた方は、その不完全な地上世界で完全性を少しでも多く発揮しようとしている不完全な存在です。 |
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