【新装版】人生は霊的巡礼の旅

人生は本当の自分を探す
スピリチュアルな旅

近藤千雄・著 ハート出版 2002年刊
類魂説
「類魂説」と守護霊の存在

  近代スピリチュアリズムにおける最大の発見の一つは、この「類魂説」であると言っても過言ではないと思う。これは『人間の個性とその死後の存続』の著者フレデリック・マイヤースが、死後、ジェラルディーン・カミンズという女性霊媒を通じて送ってきた自動書記通信『永遠の大道』で明かした霊界の秘密の一つである。
  要するに、肉体に生みの親がいるように、魂にも親がいるということである。その親の親をたどって行くと、そこに大きな魂の家族が存在するということになる。これをマイヤースは「グループソウル」と呼び、浅野(和三郎)氏が「類魂」と訳した。
  私はその原典を大学生の時に入手して、浅野氏の抄訳を手掛かりにしながら読み進んでいくうちに、この「類魂」の章に至って、大宇宙の雄大にしてロマンに満ちた大機構にふれる思いがして、止めどもなく熱い涙があふれ出たのを思い出す。今でこそ私にとっては当たり前の霊的知識になり切っているが、私はこれは地球人類にとって破天荒の大原理であると言っても過言ではないと考えている。
  そこでこれから、いささか長文にわたるが、その『永遠の大道』の「類魂」の章と、それと密接に結びついた『個人的存在の彼方』の「再生」の章とを全訳して紹介しようと思う。そのあとさらに、浅野氏の「評釈」が非常に示唆に富んでいるので、それも転載して参考に供したい。
魂の家族
魂の家族(『永遠の大道』より)    [TOP]

  類魂は、見方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリット(中心霊)が複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中にいくつかの中枢があるように、霊的生活においても、一個のスピリットによって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分をこのスピリットからもらうのである。
  地上時代の私も、ある一つの類魂に属していた。が、自分以外の類魂と、そのすべてを養う中心霊は、超物質の世界にいた。もしも霊的進化の真相を理解せんとするならば、ぜひこの類魂の原理を研究し、また理解しなくてはならない。これによって、例えば従来の再生説では説明のつかない難問の多くが見事に片づく。
  人間が地上に生をうけるのは、前世での罪の代価を払うためであるというのは、ある意味では真実である。が、その前世とは、自分の生涯といえると同時に、自分の生涯ではないとも言える。つまり前世とは、自分と同じ霊系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯をさすもので、それが現在の自分の地上生活の型をこしらえているのである。
  現在私が居住している超物質界には無限に近いほどの生活状態があるので、私はただ私の知っていることしか述べられない。断じて誤ってはいないとは言わないが、大体これから述べるところを一つの定理と考えていただきたい。
  さきに私は、帰幽霊を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」に分けたが、このうち、「魂の人」となると、大部分は二度と地上に戻りたいとは思わない。が、彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そして、そのスピリットが類魂どうしの強い絆となって、進化向上の過程において、互いに反応し合い刺激し合うのである。従って私が霊的祖先という時、それは肉体上の祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びついている類魂の先輩たちのことをいうのである。
  一個のスピリットの中に含まれる魂の数は、20の場合もあれば100の場合もあり、また1,000の場合もあり、その数は一定しない。ただ、仏教でいうところの宿業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことをさすことがある。
  同様に私も、自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくしてわれわれは、いずれも独立した存在でありながら、同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。
  仏教徒が唱道する再生輪廻説、すなわち何度も地上生活をくり返すという説は、半面の真理しか述べていない。この半面の真理は往々にして完全な誤謬よりも悪影響を及ぼすことがある。私自身は二度と再び地上に現れることはないであろう。が、自分と同型の他の魂は、私がかつて地上でこしらえたカルマの中に入ることになる。ただし、私がカルマという用語を用いる時、それは従来のカルマと同じものではない。私は私としての王国を持っている。が、それすら大きな連邦の一単位にすぎないのである。
  こう言うと、中には「魂の人」にとっても一回の地上生活では十分ではないのではないかと言う人がいるかも知れない。が、こちらで進化を遂げると、同一の霊系の魂の記憶と経験の中へ入りこむことができるようになるのである。(中略)
  この説は、天才のケースに適用した時にきわめて興味深い。われわれ以前に出現した魂は、精神的にも道徳的にも、当然われわれに何らかの影響を与えるに相違ない。従って、ある特殊な類魂の内部で、ある特殊な能力、たとえば音楽的才能が連続的に開拓されたら、最後にはその特殊な能力が地上の代表者の上に顕著に現れるはずである。すなわち、いくつかの前世中に蓄積された傾向が驚くべき無意識の情報となって、一人の地上の代表者の所有物となるのである。
  われわれは、この死後の世界へ来て霊的に向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして、ついには個人的存在に別れを告げて類魂の中に没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち、一つは形態の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。
  地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとはしないかも知れない。たぶん彼らは死後においても不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が、私の類魂説の中には、その二つの要素が見事に含まれているのである。すなわち、われわれは立派な個性をもつ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一存在でもあるのである。
  私のいう色彩界(幽界の上層部)、とくに次の光焔界(霊界の下層界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、またいかに美しいかがしみじみと分かってくる。「存在」の意義がここに来て一段と深まり、そして強くなる。またここに来て初めて地上生活では免れない自己中心性、つまり自己の物的生命を維持するために絶え間なく他の物的生命を破壊していかねばならないという地上的必要悪から完全に解脱する。
  各自は、色彩界に到達した時にはじめて類魂の真相が分かりかけ、その結果、ここに一大変化を遂げることになる。彼は一歩一歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際、もしも彼が「魂の人」であると、時としてとんでもない過ちを犯しやすい。類魂たちの知的ならびに情的経験に通暁していくうちに、時として類魂中にある一部分に作りつけの雛型に逢着することがある。うっかりすると彼は、その雛型にはまり込んでしまい、幾千万年にもわたって一歩も踏み出せなくなるのである。
  この雛型というのは、つまりは地上生活中に作り上げられた宗教的信条といった類のもので、たとえば狂信的仏教徒や敬虔この上ないキリスト教徒が、地上時代の信仰の轍(わだち)にはまり込んでしまう。そこでは恐らく同系統の仲間も同じ教説によって足かせをはめられていることであろう。一歩も進歩しないまま、キリスト教的な夢想ないしは仏教的な幻想がこしらえた想念や記憶の中に留まり続けるのである。言うなればタコの触手に引っかかったようなものであろう。その「タコ」が地上でこしらえた「死後」に関する想念であり、宇宙観なのである。
  そうした境涯が進歩の大敵であることは断るまでもないであろう。別な譬えでいえば、それは一種の「知的牢獄」のようなもので、そこでは過去の地上での考えが金科玉条として墨守されている。向上の道にある者が客観的にその境涯を考察するのは差し支えない。しかし、断じてその中に引き込まれたり、拘束されたりしてはならない。


  この中でマイヤースは「守護霊」という言葉を用いていないが、類魂の中の一人が中心霊から指名をうけて、地上生活中はもとより、死後もずっと面倒を見る役目を仰せつかってその任に当たるのが守護霊である。英語の「ガーディアン」という用語にも「守る」という意味がこめられているために、日本でも西洋でも、とかく守護霊とは何かにつけて守ってくれるものと思い込んでいる人が多いようである。
  が、マイヤースの通信を読んでも想像がつくように、本来の使命は、本人の地上での使命の達成と、罪障消滅、つまり因果律の成就にあるのであって、その使命を挫折または阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の「魂の試練」まで免除してくれるようなことはしない。
魂の旅路
魂の旅路(『個人的存在の彼方』より)  [TOP]

  地上での動物的本能の赴くままに生きた人間が、こんどは知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上へ戻ってくることは、これは紛れもない事実である。言いかえれば、私のいう「肉の人」はまず間違いなく再生する。
  私のいう「魂の人」の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない。が、いわゆる輪廻転生というのは、機械的なくり返しではない。一個の霊が機械が回転するごとくに「生」と「死」をくり返したという例証を私は知らない。100回も200回も地上に戻ってくるなどということは、まず考えられないことである。その説は明らかに間違っている。
  もちろん原始的人間の中には、向上心、つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるであろうし、そういう人間は例外的に何度も何度も再生をくり返すかも知れない。が、大部分の人間は、2回から3回、せいぜい4回くらいなものである。
 もっとも、中には特殊な使命または因縁があって、8回も9回も地上へ戻ってくる場合もないではない。従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間という形態で50回も100回も、あるいはそれ以上も地上をうろつくというようなことは絶対にない。
  こう言うと、たった2回や3回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか、とおっしゃる方がいるかも知れない。が、その不足を補うための配慮がちゃんと用意されているのである。
  乞食・道化師・王様・詩人・母親・軍人――以上は無数に存在する生活形態の中から、種類と性質のまったく異なるものを無雑作に拾いあげてみたのであるが、注目すべきことは、この6人とも五感を使っているという点においては同じであること、言い換えれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては、まったく同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているにすぎないということである。
  そうは言っても、たとえ彼らが地上生活を6回くり返したとしても、人間的体験としてはほんの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといってもたかが知れている。 人情の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということは、まずできない相談だと言ってよい。それなのに私は敢えて、地上生活の体験を十分に身につけるまでは(特殊な例外を除いては)死後において高い界層には住むことは望めない、と言うのである。
  その矛盾を説くのが、私のいう類魂の原理である。われわれは、そうした無数の地上的体験と知識とを身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識とを我がものとすることができるのである。
  誰にでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、今旅している現在があり、そして、これから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験を持たないが、私の属する類魂の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を、実際と同じように体験することができるのである。
  その中には仏教の僧侶だったものもいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私がうまく吸収すれば、わざわざ地上へ降りて生活する必要はないのである。
  こうした類魂という「より大きな自分」の中に入って見ると、意志と精神と感性とがいかに威力を増すものであるかが分かってくる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて、性格と霊力とが飛躍的に大きくなっている。幾世紀にもわたる先輩たちの叡知を、肉体という牢獄の中における「疾風怒濤」の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛という吸引力によって我がものとすることができるのである。
  不幸にして不具の肉体をもって生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのがいちばん効果的であるとの判断があったと解釈すべきである。

  再生には定まった型というものはない。一人ひとりみな異なる。死後の生活においては、誰しも地上生活を振り返って、その意義を深く吟味する時期が必ず訪れる。原始的人間であれば、それが知性ではなくて本能によって、つまり一種の情感的思考によって行なわれ、魂の深奥が鼓舞される。その時、類魂を統一しているスピリットが、再び地上に戻るようにとの考えを吹き込む。といって、強制はしない。あくまでも本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとってもっとも効果的な道を示唆し、個々の類魂も大抵の場合それに従うことになる。
  初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別の保護が必要なので、類魂との霊的関係がとくに密接となり、その結果、直接の管理に当たる霊(守護霊)のカルマが強く作用することになる。その霊はたぶん3回ないし4回の地上生活を体験していることであろう。が、まだ完全に浄化しきってはいない。言い換えれば、霊的進化にとって必要な物的体験のすべてを吸収しきってはいない。そこで、その不足を補うためには次の2つの方法が考えられる。
  1つは、さきほど紹介した、類魂の記憶の中に入っていく方法。もう1つは、地上に誕生していった若い類魂の守護霊となって、自分が残したカルマの中でもう一度その類魂とともに地上生活を送る方法である。後者の場合、地上の類魂は言わば「創造的再生」の産物である。言ってみれば、自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。
  霊とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくて、どうしても創造主の心の中に入りこむことができない者がいる。そんな時、類魂を統一しているスピリットは、永遠不滅の超越界へ入る資格なしとみて、今一度、始めからのやり直しを命じる。
  が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中にあずけられ、仲間の活用に供されるのである。
  私は確信をもって言うが、私のいう「霊の人」のうちある者は、たった1回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエスはエリアの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の意志の直接の表現、すなわち、言葉が肉となったのである。イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとに帰って行った。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用だった。そこにイエスの神性の秘密が存在する。

浅野氏による評釈
浅野氏による評釈(『永遠の大道』より)  [TOP]

  マイヤースの通信中、この類魂説の説明はとくに重要無比の一節であるから、読者の精読を希望する。マイヤースも述べている通り、地上の人間生活にあって何人(なんぴと)も逢着する最大の疑問は、一見すると因果律を打破するような人間生活の不公平・不平等である。これを合理的に説明し得ない宗教は、宗教としての役目を果たさない。(中略)
  不敏ながら私も、心霊学徒の末席を汚す者である。従って私の最大の関心事の一つは、いかに交霊の原理によってその真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが「創造的再生説」である。これは全部的再生説に訂正を加えたものなので「再生」という文字を踏襲したのであるが、実をいうと必ずしもこの文字を使わなくてもよい。むしろ「創造的地上降臨説」とでも命名した方が正当であるかも知れない。
  私の調査したところによると、超現象の世界には各自の自我の本体、いわゆる本霊(スピリット)がある。そして本霊から分かれた霊がたくさんいて、それぞれに異なった時代に地上生活を営んでいる。それらの分霊中で地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く関係も深い一個の霊で、それが私のいう守護霊である。つまり守護霊というのは多くの分霊中もっとも親密な一代表者を指したもので、同一系統に属する他の霊とも、ことごとく連動関係にあることは言うまでもない。
  以上が私の「創造的再生説」の概略であるが、今マイヤースの「類魂説」を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容はほとんど一から十まで同一と言ってよい。ここに一個の中心霊(スピリット)があり、それから幾つかの魂(ソウル)が分かれて、それぞれ異なった時代に地上生活を営んでいる。霊的進化の各段階に置かれたこれらの魂の間には反射作用が行なわれ、いわば連帯責任をもっているのである。
  なかんずく、その類魂の中で自分ともっとも関係の深い魂――霊的祖先がいる。「自分の前世とはつまりは自分と同系の魂の一つが、かつて地上で送った生活を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎づけることになる」――マイヤースはそう説いている。「守護霊」という文字こそ使用していないが、私のいう守護霊説の内容はマイヤースも立派に認めている。自分の地上生活の模型を残し、自分のこしらえた前世の業を伝えている類魂の一つ――これが私のいう守護霊以外の何者であり得よう。

霊的因果律
「霊的因果律」の存在と霊性の進化    [TOP]

  「因果律」とは文字通り「原因」と「結果」の法則である。すなわち原因にはそれ相応の結果が生じ、その結果が新たな原因となってさらなる結果を生んでいくという説である。
  これを道徳的に表現したのが「善因善果・悪因悪果」で、これに類するものが、古来、いろいろな形で表現されている。「因果応報」「親の因果が子に報い」「因果が縁の糸車」等々。しかし、こうした表現には、どこか単純な懲罰的観念が含まれている感じがしてならない。つまり、その懲罰を与える者がどこかにいて、それを仮に「神」と呼ぶとすると、その神は人間的な情緒を多分にもって臨んでいる感じがする。言ってみれば、勧善懲悪を売りものにしたドラマの主人公のような印象を与える。
  もちろん、善を勧め、悪を懲らしめてくれないと困る。が、問題はいったい何が善で何が悪かということである。スピリチュアリズムではそれを「霊性の進化」を基準にして考える。すなわち進化を促すものが善であり、それを妨げるものが悪であるという考えである。となると、一般通念から言って、それは必ずしも愉しいもの、楽なもの、幸せなものとはかぎらないことになろう。むしろ、辛く、苦しく、そして我慢を強いられるものであることの方が多いであろう。
  「艱難、汝を玉にする」というが、古今東西、そして今後いかに科学技術が発達して便利な世の中になっても、これは変わらぬ真実であろう。スピリチュアリズムがいわゆる「御利益」を説かない理由はそこにある。説けないのである。
  また、高級霊が口を揃えて、「組織をもってはならない」と忠告してくる理由もそこにある。霊性の進化の程度は一人ひとり違うのであるから、同じ教理、同じ信条を唱えて、同じワクの中で行動するということは、理屈から言っても不可能なことであり、それを無理強いしようとすると、軋轢(あつれき)が生じる。そんな対立から生じる悩みは、霊性を歪めることにしかならない。
  このようにスピリチュアリズムでいう因果律は、機械的に自動的に作動するものではあっても、その背後に霊性の進化を促すという目的があるという点が肝心なところであるが、そのほかにも大切な要素が2つある。1つは、因果律は一平面上の図式的なものではなくて無数の次元があり、それらが複雑に絡み合っていること。もう1つは、それとも関連していることであるが、因果律は自動的にすぐさま作動するものであるが、今も言うように次元の異なる要素が複雑に絡み合っているために、必ずしも地上生活の期間中に結果が生じるとは限らないということ。端的に言うと、こういうことをすればこうなるという因果関係は、人間の推理の範囲を超えているということである。次のシルバーバーチの言葉が参考になるであろう。

  あなたのこれまでの成長の度合いによって、これから先の成長の度合いが決まります。もっとも、その成長を遅らせることはできます。が、いずれにせよ、あなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。その一つ一つが自動的に働くからです。自分の自由意志で選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は、(目先の損得勘定を無視して)いっそうの進化を促す道を選ぶものです。
インペレーター
インペレーターの霊言    [TOP]

  われわれが知るところの神、そしてそなた(モーゼスのこと)に確信をもって説く神こそ、真実の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲はすべての創造物に及び、尽きることを知らない。いかなる者にも分け隔てせず、すべてに絶対的公正をもって臨む。その神と人間との間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の言葉をたずさえ、神の意志を時に応じて啓示する。その天使の働きによって神の慈悲が途切れることなく人類に及ぶのである。これぞわれわれが説く神――摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神である。
  では、人間についてわれわれはどう説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懺悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしい教義への忠誠の告白行為一つで、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の「不滅の魂」なのか。
  違う! 断じて違う! 人間は、より高き霊的生活を得るために、ほんのわずかな期間を肉の衣に包まれて地上にいるにすぎない。霊の世界にあっては地上生活でみずから蒔いたタネが実をつけ、みずから育てた作物を刈り取るのである。待ち受けているのは永遠の無活動の天国などという、児戯に類する夢まぼろしのごとき世界ではなく、より価値ある存在を目ざして絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのである。
  その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は魂を堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化、すなわち一歩一歩と神に近づく過程にこそ見出されるのである。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂のよろこびを味わう。ものぐさな怠惰をむさぼる者など一人もいない。より深く、より高い真理への探求心を失う者もいない。人間的情欲・物欲・願望のすべてを肉体とともに捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活にいそしむ。これぞ真実の天国である。
  地獄――それは、個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しない。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛にさいなまれる――これぞ地獄である。その地獄の状態から抜け出る道はただ一つ――たどり来る道を後戻りして、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。
  罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりであるが、その罰とは、怒りと憎しみに燃えた神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪を知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へ導くための、自然の仕組みにほかならないものであり、お慈悲を乞い、身の毛もよだつドグマへの口先だけの忠誠を誓うような、そんな退嬰的手段によるものではない。
  幸福とは、宗教的信条には関わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性に適い宗教心に発する行ないをする者なら、誰もが手にすることのできるものである。神の摂理を意識的に侵す者には必ず不幸が訪れるように、正しき理性的判断は、必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を捨てた霊との区別はない。
  霊的生命の窮極の運命については、われわれも何とも言えぬ。何も知らないのである。が、現在までに知り得たかぎりにおいて申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間もわれわれ霊もともに、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守する者は幸福と生きがいとを味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道をたどることになることだけは、間違いなく断言できる。

古代霊シルバーバーチの出現
古代霊シルバーバーチが60年間にわたって出現  [TOP]

  バーパネルの背後霊団の中心的指導霊は、シルバーバーチと名のる三千年前の古代霊である。三千年前というとイエス・キリストより一千年も前ということになる。ところがそのシルバーバーチも、自分たちは地上でイエス・キリストと呼ばれた霊を最高指揮者とする地球浄化の大事業の一翼を担う霊団の一つにすぎないと言い、「あなた方はイエスの本当の偉大さを知らないばかりか、その教えを歪曲し、勝手に解釈して、イエスの真実の教えを台なしにしてしまっている」と、現在のキリスト教を徹底的に糾弾する。(中略)
  では、そのシルバーバーチの霊言の中から特徴のよく出ている箇所を二、三紹介してみよう。

  人間は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではありません。肉体は霊が宿っているからこそ存在することができるのです。それは神の火花であり、すべての存在に内在しており、すべての生命を通して顕現しているのです。

  あなたは今そうして地上にいる時から立派に霊的存在です。死んでから霊的存在になるのではありません。霊的身体は死んでから与えられるものではありません。死は肉体の牢獄からあなたを解放するだけです。これはカゴの中の鳥が放たれるのと同じです。

  死んで間もない段階では、地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖も、そっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲ぶかい人間は相変わらず欲ぶかです。無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、そのうち霊的覚醒の過程が始まります。

  人間は物的身体という牢の中で生活しています。その牢には小さな透き間が5つあるだけです。それが五感です。みなさんはその身体のまわりで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅ぐことのできるもの以外の存在は確認できません。ですが、実際にその身体のまわりで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないというにすぎません。

  厳密に言えば、霊が身体に宿るという言い方は適切ではありません。霊と身体は波動の異なる存在だからです。本当のあなたは体内にいるのではありません。たとえば心臓と肺の間に小さく縮こまっているのではありません。地上で生活するためにこしらえられた物的器官を通して自我を表現している「意識」です。

大自然が

大自然が一大物質化現象    [TOP]

  アルフレッド・ウォーレスはその著『心霊と進化と』の中できわめて示唆に富んだことを述べている。

  現代の自然科学の説くところによると、巨大な宇宙のエネルギー現象も、限りなく精妙な物質の粒子の波動であり、千変万化の自然現象もその波動現象にすぎないという。それからまた、目に見えない光とか熱、電気および磁気、あるいは、たぶん活力や引力までも、元はといえば宇宙に瀰漫(びまん)するエーテルの波動にすぎないという。
  したがって春夏秋冬の移り変わりも、その四季折々の自然の美しさも、たった一つのエネルギーの「変化」にすぎないわけである。地球はその当初から限りない変化をくり返してきている。山が平野となり川となり、あるいは正反対に平野が隆起して山となり谷を造ったが、そのエネルギーの根元はどこにあるかといえば、太陽エネルギーに動かされたエーテルの現象である。地中深く埋もれた鉱脈にしても、輝く鉱石にしても、同じエーテル現象であることに変わりはない。地上を美しく飾る野山の緑も小道の花も、太陽の熱と光という名の波動から生命と生長をうけている。
  一方、脳というバッテリーをもち、神経組織という配線をそなえた動物、さらにその上に「知性」をあわせもつ人間も、おそらく同じエーテルの波動現象にすぎないのであって、ただ驚異的な複雑さをもっている点が他の創造物と異なるだけである

奇跡的治癒
奇跡的治癒も霊力のなせる業    [TOP]

  「心霊治療」に対するシルバーバーチの説明

  健康とは、肉体と精神と霊が一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病という結果が生じます。調和を保つには、その三者がそれぞれの機能を果たす必要があります。霊には素晴らしい威力が秘められております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げるようなことをすれば、天罰はてきめんです。
  しかし、痛みや苦しみを取り除いてあげること自体が心霊治療の目的ではありません。あくまでも手段なのです。つまり眠っている魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段にすぎないのです。
  身体の病気が治ることよりも、その治癒体験がキッカケとなって真実の自我に目覚めることになる方が、はるかに大切なのです。
  一方、患者の魂に条件が整っていない時は、心霊治療も功を奏しません。いかにすぐれた治療家でも治せない病気があるのはそのためです。従って、治らないからといって、心霊治療というものを批判するのは的はずれなのです。患者の魂が、まだまだ苦しみによる浄化を十分に受けていないということです。
  むろん、苦難が人生のすべてではありません。ほんの一部にすぎません。が、
苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。しかし、完璧になる可能性を宿しています。人生の目的はその可能性を引き出して、一歩一歩と、魂の親である神に向かって進歩していくことです。
  苦しみには苦しみの意味があります。悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在がわかるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真実の自我が目を覚ますのです。


  エドワーズの治病統計で、何の治療効果も見られなかった患者が20パーセント、という数字があったが、以上のシルバーバーチの説明をよく理解していただけば答えがでてくるものと思う。絶対不変の因果律が存在し、それが「苦」という形で顕現している場合、それがそれ相当の存在価値を発揮しきるまでは、いかなる手段をもってしても取り除くことはできないということであるらしい。
  それを従来は「業(ごう)」とか「カルマ」といった用語で表現されてきたが、私の主観的意見をのべさせていただけば、どうもこれらの用語には「罰」という暗い印象がつきまとっている感じがして好きではない。その点、シルバーバーチはこれを「進化」の促進剤としての苦という捉え方をして、それが何の代償であれ、積極的に受け入れて自分で解消していくという態度を称揚している。
  苦しみ抜いてそれを乗り越えた時に、思いがけなく見渡す新しい心の眺望――その瞬間に味わう、その人だけの魂の奥底から湧き出るよろこび、それを本当の悟りというのではなかろうか。
シルバーバーチの霊言
古代霊シルバーバーチの霊言(あとがきから)    [TOP]

  神は、地上の人生を、人間であるがゆえの弱さの限界に達したかに思えた段階で、本当の強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず、絶体絶命と思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。

  地上生活のどこかの段階で、その人なりの真理の受け入れ態勢が整う時機が到来します。それは神が一人ひとりに用意してくださる絶好機です。それが、時として病気、死別、危機という過酷な体験を通して届けられることがあります。しかし、それが魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。

  悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも、とくに深甚なる意味をもつものです。それが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を開かせるのです。魂は物的身体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためには、よほどの体験を必要とするのです。
  悲しみ・病気・不幸等は地上の人間にとって、教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値はないことになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。
 
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