人間の覚悟
経済が、絆が、国が壊れていく。
ついに
「覚悟」をきめる時
が来た。
五木寛之・著 新潮新書 2008年刊 

 覚悟するということ ―― 序にかえて

 そろそろ覚悟を決めなければならない。
 最近、しきりにそんな切迫した思いがつよまってきた。
 以前から、私はずっとそんな感じを心の中に抱いて、日をすごしてきていた。しかし、このところ、もう躊躇している時間はない、という気がする。
 いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟がさだまってきたのである。「諦める」というのは、投げ出すことではないと私は考える。「諦める」は、「明らかに究める」ことだ。はっきりと現実を見すえる。期待感や不安などに心をくもらせることなく、事実を真正面から受けとめることである。
 では「諦める」ことで、いったい何が見えてくるのか。

 私たちは無意識のうちに何かに頼って生きている。
 「寄らば大樹の陰」
 とは昔から耳になじんだ諺だ。
 しかし、もうそんなことを考えている段階ではない。私たちは、まさにいま覚悟をきめなければならない地点に立っているのである。

 1945年の夏、中学1年生だった私は、当時、平壌とよばれていた街にいた。
 現在の北朝鮮の首都、ピョンヤンである。
 平壌は美しい街だった。大同江という大きな川が流れ、牡丹峰という緑の台地がそびえている。古代の楽浪郡の遺跡には、瓦の破片や土器などが転がっており、ポプラ並木を涼しい風がわたった。
 美しい街だった、などというのは、私たち日本人の目から見た傲慢な感傷にすぎない。私たちは、植民地支配者の一員として、その街に住んでいたのだから。

 1945年、夏、日本が敗れた。戦争に負けたとき、旧植民地支配者が受ける苛烈な運命に、私たちは無知だった。
 そもそも日本が敗れる、ということすら想像もつかなかったのだ。
 あの第二次世界大戦の末期、私たち日本国民の大部分は、最後まで日本が勝つと信じていた。
 ふつうに新聞を読めば、戦局の不利はだれの目にもあきらかだったはずだ。それにもかかわらず、私たちには現実をまっすぐ見る力がなかったのである。米軍が沖縄までやってきているというのに、私たちは敗戦の予測さえついていなかった。
 これがイギリスやフランスなど植民地経営に歴史のある国の国民なら、自国が敗れる前に、さっさと尻に帆をかけて逃げ帰っていただろう。
 しかし、私たち日本人にはまったく現実が見えていなかったのだ。当時、ラジオ放送は絶大な信頼感をもたれていたメディアだった。
 敗戦後しばらく、ラジオは連日のように、
 「治安は維持される。日本人市民はそのまま現地にとどまるように」
 と、アナウンスしていた。私たちはそれを素直に受け取って、ソ連軍が進駐してくるのを、ただ呆然と眺めていただけだった。
 実際には敗戦の少し前から、高級軍人や官僚の家族たちは、平壌の駅から相当な荷物をたずさえて、続々と南下していたのである。
 ソ連軍の戦闘部隊が進駐してからのしばらくは、口には出せないような事態が日本人居留民をおそった。私の母も、その混乱のなかで残念な死に方をした。
 私たちは二重に裏切られたのである。日本はかならず勝つといわれてそれを信じ、現地にとどまれといわれて脱出までの苛酷な日々を甘受した。
 少年期のその体験にもかかわらず、いまだに私自身、いろんな権威に甘える気持ちが抜けきれないのだ。
 愛国心は、だれにでもある。共産主義下でのソ連体制を徹底的に批判しつづけたソルジェニーツィンも、異国に亡命した後でさえロシアを愛する感情を隠そうとはしなかった。
 どんな人でも、自分の母国を愛し、故郷を懐かしむ気持ちはあるものだ。しかし、国を愛するということと、国家を信用するということとは別である。
 私はこの日本という国と、民族と、その文化を愛している。しかし、国が国民のために存在しているとは思わない。国が私たちを最後まで守ってくれるとも思わない。
 国家は国民のために存在してほしい。だが、国家は国家のために存在しているのである。
 私の覚悟したいことの一つはそういうことだ。

 国を愛し、国に保護されているが、最後まで国が国民を守ってくれる、などと思ってはいけない。国に頼らない、という覚悟をきめる必要があるのである。
 国民としての義務をはたしつつ、国によりかからない覚悟。最後のところでは国は私たちを守ってはくれない、と「あきらめる」ことこそ、私たちがいま覚悟しなければならないことの一つだと思うのだ。

 頼らない、ということは、信じない、ということではない。自分の覚悟があっての信頼なのだ。
 国に頼らない覚悟、そこからそれまでと全然ちがう新しい国への確信が生まれてくるのではあるまいか。
 お金を銀行にあずけて頼りにしていられる時代ではない。年金もおまかせでもらえるわけではない。
 子供の教育は学校がしてくれる、などと呑気なことを考えているわけにはいかない。
 祖父が孫を殺し、高齢者さえもが無差別殺人に走る時代である。家族、家庭、夫婦、人脈、すべてに対して頼る気持ちを捨てる覚悟がいるだろう。
 高齢者に優しい社会などない、と覚悟すべきだ。老人は若者に嫌われるものだ、と覚悟して、そこから共存の道をさぐるしかないのである。

 無償の善意はなかなか人に伝わらないものだ。むしろ警戒されるときもある。隠れた善行も、それに対するむくいなど期待しないほうがいい。善意が悪意でむくわれることのほうが多いのが世の中だ。

 
地獄の門がいま開く

 闇が深さを増してきました。
 時代は「地獄」へ向かって、劇的に近づきつつあるようです。母親の子殺し、無差別殺人はすでに衝撃的な事件ではありません。
 少し前の朝日新聞の1面のトップに、自殺者が10年連続で3万人を超えたという記事が載りました。その数自体もさることながら、自殺が全国紙の1面にでてくるというのはじつに象徴的なことだと思います。
 平成3年に年間1万9千人台だった自殺者が2万人を超えたのがその翌年、それでもせいぜい社会面のベタ記事扱いでした。その当時から私は、「未曾有の自殺の時代がくる」とことあるごとに発言してきましたが、マスコミからは「もうちょっと明るい話題をお願いできませんか」といわれて、ぜんぜん記事にもならなかったのです。
 それでも繰り返し、悩み多き時代が来る、不安だ、鬱だといいつづけているうちに、「オオカミ爺さんみたいですね」と揶揄されるしまつでした。
 それから15年以上がたち、平成10年に3万人の大台を超えたころから少しずつメディアの姿勢が変わり、政府が自殺対策基本法を立ちあげたと思ったら、ついに朝日の1面トップを自殺の記事がかざりました。
 いままでは「くるぞ、くるぞ」であったのが、今度は「本当にきてしまった」。紙一重のようでこのちがいは大きい。この国は平和で裕福で、この先もそうだろうという幻想はもはや捨てなければならない時がきた。
 私は敗戦後60数年間、新聞を読んできましたが、いまほど残忍で目をおおいたくなるような犯罪が社会面を賑わせたことはかつてありません。
 明治時代の「毒婦お伝」や昭和の阿部定、平成の酒鬼薔薇少年など世間を騒がせる事件はいつの時代にもありますが、しかし、それは異常な事件だからこそ人びとの伝説となり世間が恐れおののくのであって、どんなに凶悪な事件でも10日もすれば忘れ去られるような現在とはまったく様相がちがいます。
 これほど人間の命、生命というものに対する軽さがドラスティックに進んでいる時代はないのではないか。最近、話題の『蟹工船』の冒頭の一文、「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」になぞらえるなら、これからは地獄へ行くのだと覚悟しなくてはなりません。
 『蟹工船』や『下流社会』『格差社会』といった“貧困本”がブームなのは、経済的な理由だけではないはずです。親の子殺しや子の親殺し、無差別殺人が毎日のように報じられ、それを受けとる側は心を麻痺させたように沈黙している。
 みなが無言で崖っぶちから谷底を覗いているような気配がある。
 地獄の入り口の門が、ギギギ、と音を立てて開き始めているような実感がある。
 生き物の予感、民衆の察知力というのは、じつはすごいものがあります。まもなく地獄がやってくるという予感が、野ネズミの感覚のように、人間のあいだに広がっているのかもしれません。それが社会全体に満ちてきて、その中でも特に敏感な小動物が発狂するように、自殺行為や他殺行為が激増しているのではないか。
 しかし、ずっと昔からいまにいたるも、人間の世の中には変なものや、おかしなことは無限にあります。人の世とは不条理なものなのですから、私はそれについて悲憤慷慨する気はまったくないし、社会に対してあれが悪いとか、なぜこうしないのかと文句をいうつもりもありません。
 ただ、自分が「覚悟」することはできるのではないか。消極的で受け身の姿勢と思われるかもしれませんが、人の世とはこういうものだ、人間とはそういうものだ、そう覚悟することは、だれにでも可能だと思うのです。

 
「命が安い」時代の新たな差別

 いまは、戦中から戦後を通じても、命そのものが「安い」時代に入ったようです。
 人間は、サラ金苦や病気に追い詰められてどんなに苦しい状態に置かれても、「かけがえのないこの命」という感覚がどこかに残っているかぎり、なかなか自殺はできません。
 もう死ぬしかない、と思うことと、本当に死んでしまうことの違いは相当に大きいのです。そして、自分の命の実感が持てない、というのはじつに深刻な状況です。
 自分の命の実感がないからこそ死を選ぶ人が多くなるわけですが、それは裏を返せば、自分の命の実感がなければ、他人の命への実感は持ちようがないということです。かけがえのないこの命、絶対に奪えない命と思っていればこそ他人の命も尊重できるのです。
 自分の命が安い人にとっては、他者の命も同じで安易に奪うことができる。自殺者が増えるということと、他人の生命を損なう凶悪事件が多発するのは表裏一体なのです。
 人の命が簡単に失われ、また奪われる社会では、急速に命のデフレーションが進みます。命がどんどん安くなれば、人間の雇用と労働力はどこまでも安く買い叩けることになる。
 秋葉原での無差別殺人事件は、フリーターや派遣社員のような不安定な職業についている人たちに、大きな心の傷をあたえたにちがいありません。報道では格差社会やワーキング・プアが槍玉にあげられましたが、世の中には格差は昔からあると考えるのが常識です。
 いつの時代でも人間の世に格差はついてまわります。しかし、現代においてはそれが固定化し、世襲化されていくことが問題なのです。
 依然としてある格差社会、それはいま持てる者と持たざる者があるだけでなく、やがて固定され世襲されると考えなければなりません。
 いい家の子は小さい頃から家庭教師をつけて東大に入る。名門、学歴というのは生涯影響しますから、いい仕事について、いい家の子同士が結婚する。その子どもたちもまたいい教育を受けられる。一方で、貧しい家の子どもはろくな教育を受けられないから、学歴社会の中で良いポストに就けない。その子どももまた同じように貧困の中で育つしかない。
 格差がいけないのではない。上流と下流の格差がどんどん拡大し、定着してしまうことが、格差の悪なのです。
 韓国などではすでに顕著だそうですが、かつてのソ連のノーメンクラトゥーラ(共産貴族)みたいに、社会の中で世襲されていく新たな階級制度が形成されつつある。
 昭和の時代は、田中角栄のように貧しい農家の出で小学校しかでていなくても、一国のトップに這い上ってくることが可能でした。しかし、これから先は、いったん固定した格差はなかなか崩れなくなるにちがいない。政治の世界ではすでにして世襲があたりまえで、それがスポーツから最近では文化の世界にまで及んでしまっています。

 
地獄は見えるが、見ていない

 しかしながら当時とちがうのは、そこで何か宗教でも信じて極楽へ行きたいという人は、まずいないことでしょう。神も仏も知ったことか、というぐらいに無関心で、この世でエアコンがあれば暑さ寒さも関係ない、音楽はiPodで何でも聴ける、極楽浄土で蓮の葉に座ってもしかたないだろう、という感じで、だれも浄土や天国などに憧れなくなりました。
 銀座のレストランでは超高価なワインを空けながら食事に百万単位の金を使う客がおり、成田空港に行くと旅行者でごった返している。国内線はスーパーシートから埋まっていく。新幹線もグリーン車におおぜい人が乗っているのは不思議でもあり、少々気味が悪い気がします。
 労働者の賃金が上がらないなら少しでも貯金するのが普通なのに、ミシュランで星がついた店は予約が一杯だという。若いOLたちはコンサートや歌舞伎やオペラ、海外旅行に合コンと、日々何かのイベントを楽しんでいるようにも見えます。ブラジルのリオのカーニバルが熱狂的なのは、年に一度のイペントで、そのために普段から節約して我慢もするからですが、日本では、年中お祭りさわぎがつづいている。
 表面的には意識していない抑圧感や、将来への不安をそうやって解放しているということもあるでしょう。
 しかし、生活保護世帯が百万を超え、給食費が払えない家庭がたくさんある一方で、ワイン1本が数万円するようなレストランが繁盛するのはいったい何だろうかと考えると、社会構造が、以前のようなある意味で安定したピラミッド型ではなく、富裕層と貧困層のあいだにいた分厚い中間層がへりつつあるという感じがする。上に上がっていく層がいる一方で、どんどん下へ落ちたりしているということかもしれません。
 「格差地獄」「労働地獄」「貧困地獄」「介護地獄」――、他にいくらでも挙げられますが、日本の社会というものにメリメリと大きな亀裂が走り、その奥はすでに見えてきています。かつてのような緑の森や水をたたえた自然もなくなって、荒涼たる砂漠が広がるアフガニスタンの荒野のような世の中が、やがて目の前に出現してくるにちがいないと予感する。しかし、怖くてそれを直視できずにいるのです。
 教育もだめ、医療もだめ、年金もだめ、国を守る防衛省でも不祥事が起きる。官僚のモラルは崩壊し、企業では、利益優先の前で人間の世界が草刈場になっている。宗教の世界はオウム真理数の事件以降、まったく権威が失墜してしまっている。普通の家庭で育ったはずの子が、とてつもなく残忍な犯罪を起こす。人はそれを右から左へ忘れてしまう。
 これも挙げればきりがないほどで、日本の社会はついにここまできたのかという思いがします。
 こういう世の中で、鬱にもならず明朗活発に生きていられる方が人間としてどうかしているのではないか、とさえ思われてくる。
 地獄の入り口の門が、きしみながら開きはじめ、間もなくはっきりとした地獄が見えてくる。しかし、いくらそう言われても、人は事実を実感できないものなのです。
 日米開戦前、『日米もし戦わば』みたいな日米戦争をシミュレーションした本は、トンデモ本扱いでした。しかし、結局、本当にそうなりました。それどころか、ミッドウェイ海戦で敗退し、ガダルカナル島を撤退し、アッツ島で玉砕した時点で日本軍の負けは見えていたのに、米軍が沖縄に上陸し、空襲で東京が焦土と化し、長崎と広島に原爆が投下されても、まだ大丈夫だと多くの日本人は思っていたのですから異常です。
 玉音放送の前日、翌日大事な発表があると聞いた私の父親は、これは日本がソ連と同盟して米英に当たるということで、これで大丈夫、必ず神風が吹くのだといっていました。
 敗戦は、すでに早くから見えていたと後から言う人がいます。しかし、見えていたなら、何でもっと大きな声で知らせないのかと思うと腹が立ちます。一部の情報通や新聞社は、かなり前からポツダム宣言を受諾すると知っていたようですが、国民の多くはみな天皇の玉音放送で泣き崩れたのです。
 人は見えるものではなく、見たいものを見るのだ、といいます。人間に見えている世界には、いつも期待が作用しています。私の世代は、地獄のような焼跡にも闇市の活気を思い出すせいか、妙に期待を込めて地獄を想像するのかもしれません。しかし、高級な知識人たちは、いま地獄の門は開いた、とはいいません。
 いずれにせよ、そうなってほしくないという期待と一緒に現実を受けとめるから、本当の地獄はまだ見えないのでしょうし、煮えたぎる地獄の釜の中に放り込まれるその時まで、わからないのではないでしょうか。
★ なわ・ふみひとのひとくち解説 ★ 
 ここで五木寛之氏の書籍をご紹介しましたのは、「覚悟を決めなさい(諦めなさい=現実を直視しなさい)」ということと「国家はいざとなったら国民を守ってはくれません」というメッセージをお伝えしたかったからです。
 五木氏は戦後体験の中からそのことを実感し、いまこの国が崩壊の縁に向かっていることを早く「諦めなさい」と呼びかけているのです。残念ながら、日本がなぜこのような情けない国になってしまったのかという原因については考えが及んでいないようです。
 この国の国民を劣化(愚民化)させることを意図して、幕末からさまざまな働きかけをしている「陰の超国家権力」の存在などは、五木氏の関心の中にはないため、ただなんとなく日本の国が悪くなってしまったように受けとめておられます。
 それが一般的に知識人と呼ばれる人たちの実情でしょう。
 それでも、五木氏は「この国の終わり」を実感しておられるだけでもまだ救いがあると言えます。この本を読みますと、既に五木氏はこの国の崩壊に対して心の準備はできあがっているようです。
 しかしながら、多くの日本人はまだ「ゆで蛙」の状態にあります。長年にわたってぬるま湯の中につかってきたため、お湯がヒートアップしている(=この国が大変危機的な状態に陥っている)ことに気がついていないのです。
 蛙が湯の温度の異常に気がついた時は、すでにゆであがった状態になっていますから、熱湯の中から飛び出すことはできず、突然死を迎えるわけです。
 これからこの国が「未曾有の」経済的困難を経験することになることは、副島隆彦氏、浅井隆氏、藤原直哉氏など経済アナリストたちが警鐘を鳴らしてくれています。
 しかしながら、私がこの国を「ゆで蛙」にたとえる理由は、そのようなオピニオンリーダーと目される人たちであっても、この国の危機を主として経済の危機としてとらえている点なのです。いま世界中を覆っている危機の本質がわかっていないということです。
 確かに、これから「ゆで蛙」となった日本人が味わうことになる危機は、食料をはじめ生活に必要な物資が満足に手に入らないという経済的危機がまず表面化することでしょう。しかしながら、それは危機の入り口でしかないのです。
 そのような危機は戦後の復興期にすでに当時の日本人は経験しています。そして、物資不足の中で日本人は見事に立ち直り、戦後復興を成し遂げ、その後高度経済成長によって物の豊かな社会を実現することができたのです。
 その過程で、お金がもっとも大切で、お金があればすべての問題が解決する、お金がないと幸せになれないという「お金万能主義(拝金主義)」が社会に蔓延することになりました。いま、その「お金を中心とするシステム」が世界中で行き詰まりつつあるために、深刻な経済危機が訪れているということです。
 ですから、多くの人は「危機=経済危機」というとらえ方になっています。
 先ほどご紹介したオピニオンリーダーたちも、この危機から身を守る方法としては「お金をどのように運用したらよいか」という処方箋を述べる人がほとんどです。これこそ、「お金万能主義」に毒された姿と言わざるを得ません。
 私が危機と思うのはそのことなのです。「お金が問題を解決する」という考え方しかできない国民になってしまっていることが、第一の危機ということです。
 二つ目の危機の兆候は「自分さえよければ、世の中のことは関係ない」という個人主義、利己主義が社会に定着してしまったということです。
 これは偶然そうなったのではなく、アメリカに代表される先勝国を支配する勢力が、緻密な計画に基づいて、この国の学校教育とマスコミをコントロールすることによって、国民の愚民化計画を実施した結果なのです。
 蛙は自分たちが浸かっているお湯を意図的に暖めている存在を見ることができませんので、「個人の権利」という自分に都合のよいぬるま湯の中で気持ちよく生活をしてきたのです。国や社会のことは気にかけず、時の政府を「国」と見立てて権利を主張し、自らが納付した税金から「権利」に見合う分け前をぶんどることが勝利だと思わされてきたのです。
 その結果、多くの国民が権利を主張しあって、自らは同朋としての義務を果たさない社会になってしまいました。それが今日の日本の姿です。
 これから多くの日本人が直面する危機は、国がなくなる危機と言ってもよいでしょう。「国民は国から守ってもらう権利がある」と憲法には唱ってありますが、その国がなくなれば(他国の完全支配下に置かれれば)、国民を守る政府は存在しない状態ということができます。もちろん、国民の権利など守られることはなくなります。
 のんびりと「ゆで蛙」の状態でいるのでなく、いま私たちが直面している危機はそのようなレベルにあるのだということに早く気づかなければいけません。もうお湯は沸騰寸前まで来ていることを認識する必要があります。そして「覚悟」をきめるのです。
 では、どのようにして覚悟を決めるのかということにつきましては、本書をぜひご購読ください。
「終末論」等に無縁な方には大変参考になると思われる考え方が述べられています。
 
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