天理教「おふでさき」 なわ・ふみひとの超解釈 |
原典 『おふでさき通訳』 (芹澤 茂・著/天理教道友社) |
おふでさきとは |
この本(=『おふでさき通訳』)によりますと、天理教の「おふでさき」は明治2年から同15年の間に、教祖(おやさま)・中山みきに降ろされたものとされています。天理教の神さま(親神=天理王命)は、教祖に「おふでさき」以外の一切の文字記録の執筆も閲覧も禁じたと言われています。教祖が筆を執ると、暗闇でもひとりでに筆が動いて、言葉がお歌となって紙に記されたとか。一般的に“自動書記”と言われている現象です。従いまして、ここにご紹介している「おふでさき」の語り手は天理教の親神さまということになります。
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★ なわ・ふみひとのコメント ★ |
『大本神諭』天の巻の冒頭に次のような神示があります。
‥‥天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮(うしとら)の金神が現れて、世の立て替えをいたすぞよ。世の立て替えのあるということは、どの神柱にも判りておれど、どうしたら立て替えができるということは、判りておらんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、もう一厘の肝腎のことは判りておらんぞよ。(明治25年) この神示によりますと、天理教は世の立て替えを告げる神示の草分けということになります。“一厘”の肝腎のことはわかっていないとありますが、残りの九分九厘は知らしてあるということですから、天理教の教祖(おやさま)に降ろされた神示の内容は『大本神諭』と一致しているものと思われます。 ということは、2つの神示の一致する部分こそが、世の立て替えに関する重要な教えであると見ることができます。ということで、その「一致する部分」が何であるかを確かめてみたいと思います。 神示の解釈は芹澤茂氏の解説を参考にしましたが、私の独自の解釈を加えていますので、天理教の教団での解釈とは異なっている部分があることをお断りしておきます。 |
いまゝでハ神のゆう事うたこふて なにもうそやとゆうていたなり このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは、神の言うことを疑って、何でも「嘘だ」と言ってきたが、この世を始めた神の言うことだから、千に一つも違うことはないのだ。これからだんだんと現象が現れてくるから得心せよ。心で思ったことはみな現象として現れるのだ。 ★ おふでさき ★ よろづよのせかいぢふうをみハたせバ みちのしだいもいろいろにある このさきハみちにたとえてはなしする どこの事ともさらにゆハんで やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり ほそみちをだんだんこせばをふみちや これがたしかなほんみちである このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれがわが事 【なわ・ふみひとの解釈】 霊界・現界を含めたすべての世界(三千世界)を見渡すと、(これから人類が進む)道の状況もいろいろ違うようだ。これから先は道に例えて話をしよう。どこの地域のことと限定しているわけではない。 これからは山があり坂道があり、茨の道に崖道もある。剣(「戦争」の暗喩)の中を通り抜けたら、火(火災=火山の噴火、核戦争)の中もあり、淵中(洪水、津波)もあり、それを乗り越えたら道が細くなっている。だから、簡単に通ることはできない。細い道(=終末の大峠)を越せば大きな道に出る。これが本道(=神の世)である。 この話は関係ないことではない。神の一条の大事な話なのだ。自分に関することと思っておきなさい。 ★ おふでさき ★ これからハをうくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで 上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた ちゃつんであとかりとりてしもたなら あといでるのハよふきづとめや このつとめとこからくるとをもうかな 上たるところいさみくるぞや たんたんと神のしゆごふというものハ めつらし事をみなしかけるで にちにちに 神の心のせきこみを みないちれつハなんとをもてる なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや せきこみもなにゆへなるとゆうならば つとめにんぢうほしい事から このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを このたすけいまばかりとハをもうなよ これまつたいのこふきなるぞや 【なわ・ふみひとの解釈】 これからはあの世(神霊界)とこの世(物質界)を行き来できる「往還道」をつくっていく。この世の人間の心を改心させるためである。守護神が改心するに従って、いつ大峠が来てもおかしくない時節となったのだ。 お茶の葉を摘んであとを刈り取ってしまったら、そのあとに出てくるのは用木(ようき=神が用いる木)である。このように、人が神の手足となること(ようきづとめ)が大切なのである。この用木づとめはどこから始めると思うだろうか。それは守護神から諫める(説いて聞かせる)のである。 これからは神の守護によってだんだんと珍しいことを見せていく。神が一日も早くと急いでいるのに、人民はなんと思っているのか。何があっても病気や苦痛というものはなくなる。神の急ぐ気持ちを伝える手伝いをしてほしいのだ。 なぜこんなに急いでいるのかというと、改心した(ようきづとめの)人間がたくさん必要だからである。では、何のために「ようきづとめ」をするのかと思っているだろう。それはすべての守護神と人民を助ける段取りをするためだ。助けると言っても今だけのことではなく、万古末代のきまり(古記)となるのである。 ★ おふでさき ★ これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい とふぢんがにほんのぢいゝ入りこんで まゝにするのが神のりいふく たんたんとにほんたすけるもよふだて とふじん神のまゝにするなり このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる いまゝでハ上たる心ハからいで せかいなみやとをもていたなり これからハ神がたいない入りこんで 心すみやかわけてみせるで 【なわ・ふみひとの解釈】 これからは外国と日本の話をする。何を言おうとしているのかは、すぐにはわからないだろう。外国人が日本の地に入り込んで勝手気ままにしているのが神の立腹の原因なのだ。だから、だんだんと日本を救う段取りをして、外国人を神の思うままにする。これから先は外国人(の魂)と日本人(の魂)は分けていく。これを分けることができたら世界は平穏になるのだ。 これまでは魂の違いが分かっていなかったので、世界中の人はみんな同じだと思っていただろう。これからは神が人間の体内に入り込んで、心の違いをすっきりと分かるようにしてみせる。 ★ おふでさき ★ これからハ水にたとゑてはなしする すむとにごりでさとりとるなり しんぢつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい このはしらはやくいれよとをもへども にごりの水でところわからん この水をはやくすまするもよふだて すいのとすなにかけてすませよ このすいののどこにあるやとをもうなよ むねとくちとがすなとすいのや このはなしすみやかさとりついたなら そのまゝいれるしんのはしらを はしらさいしいかりいれた事ならば このよたしかにをさまりがつく このはなしさとりばかりであるほどに これさとりたらしよこだめしや 【なわ・ふみひとの解釈】 これからは、水に例えて話す。水が澄んだり濁ったりすることから理解してもらうことにする。神が急いでいるのは、人間の魂に「しんのはしら(真の神の柱)」を早く入れたいからである。この柱を早く入れようと思っても、魂が濁り水のように濁っているためどこに入れたらよいかわからないのだ。この濁り水を早く澄ます段取りをどうすればよいかと言えば、それは水嚢(すいのう)と砂に掛けて澄ますようにするのだ。そんな水嚢がどこにあると思ってはいけない。心に思うこと(むね)と、口から出る言葉(くち)とが砂と水嚢の働きをするのである。 この話がすっきりと理解できたら、そのまま真の神の柱を入れる。真の神の柱をしっかり入れたら、この世の中は平穏になるのだ。この話を頭で理解できたなら、その理解の程度を試すことにする。 「むねとくちがすいの(水嚢)である」という内容を、芹澤氏は「胸=悟り」「口=諭し」と解釈されていますが、「おふでさき」全体を読みますと、「胸=心に思うこと」「くち=口から出る言葉」と解釈するほうが意味が通じます。これは『大本神諭』や『日月神示』でも述べられている「心、口、行ない」のうち「心、口」に対応しているのです。以下は『大本神諭』天の巻の中の一節です。 これからは、筆先通りが世界に現れて来るから、心と口と行(おこない)と三つ揃うた誠でないと、今度神から渡す荷物は重いから、‥‥ このように、私の場合、「おふでさき」の解釈にあたっては『大本神諭』と『おふでさき通訳』を交互に読んでいますが、2つの神示の波長はまったく同じものです。“取り継ぎ”が、かたや中山みき、かたや出口ナオという違いがあるだけで、神示の響き(神意)には違いが感じられません。 実は、この「おふでさき」に基づいて宗教団体をつくったことに関して、『大本神諭』の神さまは痛烈に批判されているのです。その最も厳しい内容を以下にご紹介しておきます。 ‥‥天理、金光、黒住、妙霊、皆この大望がある故に、神から先に出したのであれども、後の取り次ぎは神の心がわからんから、皆教会にいたしてしもうて、神の思わくは一つも立たず、口過ぎ(=生活を立てること)の種に神をいたして、我が神の真似ばかりを致して、日本の神の名を悪くいたしておるが、これが四つ足の守護であるぞよ。教会の取り次ぎよりも、平の信者の方に誠があるぞよ。今の取り次ぎ、「これでよい」と思うておるから、真の生き神の申すことは、ちっとも耳に入らんぞよ。‥‥(『大本神諭』火の巻/明治33年旧8月11日) 「取り次ぎ」というのは教団を運営している指導者・関係者のことです。この神示を読みますと、神の言葉を正しく理解し、伝えていくことが、いかに難しいことであるかが分かります。常に謙虚に受けとめていきたいと思います。 そういう意味では、私の解釈もけっして「これしかない」と申しあげているつもりはありません。もともと神示には何通りもの解釈法があるとも言われますので、これもひとつの参考意見としてお読みいただきたいと思います。 ★ おふでさき ★ このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ それがたんたんさかんなるぞや このたびハたすけ一ぢよをしゑるも これもない事はしめかけるで いままでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから 【なわ・ふみひとの解釈】 この世の人間を創造した元の神については、誰も知らないであろう。泥海の中から身を守る方法を教えはじめ、それによってだんだん文明が栄えてきた。このたびは(世の終わりにあたって)人間が助かるための一番大切な方法を教えるのだが、これも今までに一度もなかった事を始めるからである。今までに一度もなかったことを始めるというのも、世の元を創造した神であるからできるのである。 ★ おふでさき ★ だんだんとせかいぢうをしんぢつに たすけるもよふばかりするぞや そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや いまゝでハなにの事でもしれなんだ これからさきハみなをしゑるで 【なわ・ふみひとの解釈】 だんだんと、世界中を真実に助ける段取りばかりするのである。それが終わったらあとの世は、病気もなく、死ぬこともなく、体が弱ることもなく、自分が望むならいつまでも生きておれるようになる。またその先もっと年限が経ったとしても、老いるということが全くないのである。このように今までは知らなかったことを、これから先はなんでもみな教えることにする。 ★ おふでさき ★ このよふハいかほどハがみをもふても 神のりいふくこれハかなハん めへめへにハがみしやんハいらんもの 神がそれそれみわけするぞや これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで このはなしみな一れつハしやんせよ をなじ心わさらにあるまい をやこでもふうふうのなかもきよたいも みなめへめへに心ちがうで 【なわ・ふみひとの解釈】 この世でいかに我善しの気持ちを持っていても、神の怒りを受けたらどうしようもないのだ。自己中心の考え方はしてはいけない。神がその心の中を見分けてしまうのだ。神が善い心と悪い心は見分けてしまうから、そのことをよく理解しておきなさい。この話はどんな人間でも必ず心に留めておきなさい。人間は一人として同じ心ではないはずだ。親子でも夫婦でも兄弟姉妹でも、みなそれぞれに心の中は違っている。 ★ おふでさき ★ いまゝでハなにをゆうてもみへてない もふこのたびハせへつうがきた これからハよふきづとめにまたかゝる なんの事やら一寸しれまい これまでハいかなハなしをといたとて ひがきたらんでみへてないぞや これからわもふせへつうがきたるから ゆへばそのまゝみへてくるぞや 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは何を言ってもこの世に現れていないが、いよいよ現れる時節がきた。これからはまたようきづとめ(=神の手足となる生き方)の段取りにとりかかるが、何のことかはわからないだろう。これまではどんな話をしても期日が来てないので実現しなかった。これからは時節が到来したので、言えばそのことがそのまま実現するようになる。 ★ おふでさき ★ けふまでハなによの事もせかねとも もふせきこむでをふくハんのみち このみちハせいなみとハをもうなよ これまつだいのこふきはぢまり このにんぢうとこにあるとハゆハんでな みのうちさハりみなくるであろ このさハりてびきいけんもりいふくも みなめへめへにしやんしてみよ このはなしなんとをもうてきいている かハいあまりてくどく事なり どのよふにいけんりいふくゆうたとて これたすけんとさらにゆハんで にんけんのハがこのいけんをもてみよ はらのたつのもかハいゆへから しやんして心さためてついてこい すえはたのもしみちがあるぞや 【なわ・ふみひとの解釈】 今日までは何事も急いではいなかったが、もう急いで(神霊界と現界を結ぶ)往還の道(=カルマの法則)をつくらなくてはいけない。この道づくりを世間並みのことと思ってはいけない。これこそ万古末代の決まり(法則)となるものである。この(往還の道をつくる対象となる)人民がどこにいると限定しているわけではない。(神霊界とつながると)身の身辺に病気や不幸な出来事が起こってくるだろう。このような不幸な出来事が起こるのは、神の忠告であり、立腹によるものであるから、それぞれによく考えてみるがよい。 この話をどんな気持ちで聞いているか。これは人民が可愛いあまりに説いて聞かせているのだ。どんなに忠告し、立腹していると言っても、決して人民を助けないと言っているのではない。人間が我が子に忠告をするときのことを考えてみよ。腹を立てるのも我が子が可愛いからであろう。そのことをよく考えて、心を決めてついてきなさい。末には頼もしい道があるのだから。 ★ おふでさき ★ いまゝでハ心ちがいわありたとて ひがきたらんてみなゆるしていた このたびハなんでもかでもむものうち そうちぢするでみなしよちせよ むねのうちそうぢをするとゆうのもな 神のをもハくふかくあるから このそふぢすきやかしたてせん事に むねのしんぢつわかりないから この心しんからわかりついたなら このよはぢまりてつけるなり 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは心違いがあっても、時節が来ていなかったのでみな見逃していた。このたびはどんなことでも心の中を掃除するので、覚悟しておきなさい。心の中を掃除するというのは、神の深い思惑からすることである。人民の心の中の掃除をすっきり仕上げてしまわないと、本来の心の持つ本当の働きが理解できないからである。この心の働きが理解できたなら、この世(新しい世)の始まりに手をつけることにする。 ★ おふでさき ★ いまゝでハ神があらハれでたるとて まだしんぢつをしりたものなし このさきハどのよな事もしんぢつを をしへてをいた事であるなら それからハ神のはたらきなにもかも ぢうよぢざいをしてみせるでな しんぢつの神のはたらきしかけたら せかい一れつ心すみきる はたらきもいなかる事とをもうかな 心うけとりしだいかやしを このかやしなにの事やとをもうかな みちのりせんりへだてありても この事ハなにをゆうてもをもふても うけとりしだいすぐにかやしを このかやしなんの事やとをもうなよ せんあくともにみなかやすてな よき事をゆうてもあしきをもふても そのまゝすくにかやす事なり この事をみへきたならば一れつわ どんなものでもみなすみわたる 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは神が現れ出たといっても、まだ本当のことを知る者はいない。これからはどのようなことでも、教えておいた本当の神の働きを自由自在にしてみせる。本当の神の働きを見せたら、世界中の人民の心はみな澄み切るだろう。 神の働きはどういうものかと考えるであろうが、神は人間の心を受け取り次第に「かやし(お返し)」をするのである。この「かやし」は普通に考えられるようなものではなく、道のりが千里も隔たっていても返すのだ。何を言っても思っても、受け取り次第直ぐに返す。この「かやし」はどんなものかと思うな。善も悪もともに皆返すのである。善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに返すのである。この法則が人民にわかるようになったら、だれでもみんな心が澄み渡るようになるだろう。 次からの神示には「月日」ということばが繰り返し出てきますが、これはその後「おや」と言い換えられ、そのために天理教の神さまのことを「おやがみさま」と呼ぶことになります。つまり、天理教の元となる神さまのことです。それが「日月神示」の「日月」と共通していることにも要注目です。同系統の神さまということを意味してるいるようにも思われます。 ★ おふでさき ★ このよふの月日の心しんぢつを しりたるものわさらにあるまい これまでハいかなる神とゆうたとて めゑにみへんとゆうていたなり このたびわとのよな神もしんぢつに あらハれだしてはなしするなり いまからハなにをゆうてもをもふても そのまゝみへるこれがふしぎや なにもかもあきをあいづにみへかける よふきづとめにはやくかゝれよ 【なわ・ふみひとの解釈】 この世の“月日”の本当の心を知っている者は全くいないだろう。これまではどんな神であっても目には見えないと言っていたが、これから新しい世になると、その神が本当に現れて話をするようになる。また、これからは何を言っても思っても、そのことがすぐに現象となって現れてくる。なんと不思議なことか。 そのようなことがすべて秋(=終末の大峠)を境にして見えるようになる。だから早くようきづとめ(=身魂磨き)を始めなさい。 ★ おふでさき ★ いまゝでもたいてくどきもといたれど まだゆいたらん月日をもわく このたびハなにか月日のさんねんを つもりあるからみなゆうておく このところたすけ一じよとめられて なんてもかやしせすにいられん このかやしたいしや高山とりはらい みな一れつハしよちしていよ このはなしなんとをもふてきいている てんび火のあめうみわつなみや こらほどの月日の心しんバいを せかいぢうハなんとをもてる たんたんとくどきなけきハとくけれど しんぢつなるの心たすける どのよふなものも一れつハかこなり 月日の心しんばいをみよ このよふハ一れつハみな月日なり にんけんハみな月日かしもの せかいぢうこのしんぢつをしりたなら ごふきごふよくだすものわない こゝろさいしんぢつよりもわかりたら なにもこわみもあふなきもない 月日よりをしゑる事ハみなけして あとハにんけん心ばかりで 【なわ・ふみひとの解釈】 今までもほとんど大切なことは述べてきたが、月日(=日月の神)の思わく(=経綸)についてまだ言い足りないことがある。このたびは月日の残念な気持ちが積もり積もっているから残らず言っておく。このいまの世の中において、人民を助ける一番の方法を止められて、まず何事にも“かやし(お返し)”をしないといけなくなっている。 この“かやし”というのは、上に立って権勢を誇っている人民は、その権力を取り払われることになる。いったいどんなことだと思って聞いているのか。それは天火・火の雨・海は津波という形で現れるのだ。それで人民が大変なことになるのを“月日(=日月の神)”は心配をしているのに、世界中の人民はなんと思っているのだろうか。だんだんと説教し、嘆きたい気持ちを説明しているが、誠の心になった者は助けるのだ。どんな者でもみな我が子である。“月日(=日月の神)”がいかに心配しているか(考えてみてほしい)。この世のすべての存在は“月日”の体なのだ。人間の体といえども“月日”が貸し与えたものである。世界中の人民がこの真理を知ったら、もはや豪気・強欲を出すものはいないだろう。心でこの真理を理解しさえしたら、恐いことも危ないことも経験する必要はなくなる。“月日”の教えることをみな消してしまって人間心だけで考えるから(わからないのだ)。 ★ おふでさき ★ 上たるハそれをしらすにめへめへの わがみしやんをばかりをもをて 月日にハたんたんみへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので 月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ にんけんわが子をもうもをなぢ事 こわきあふなきみちをあんぢる それしらすみな一れハめへめへに みなうゝかりとくらしいるなり このせかいなにかよろづを一れつに 月日しはいをするとをもゑよ このはなしどふゆう事にをもうかな これからさきのみちをみていよ どのよふな高い山でも水がつく たにそこやとてあふなけわない なにもかも月日しはいをするからハ をふきちいさいゆうでないぞや 【なわ・ふみひとの解釈】 人の守護神がそれを知らずに、それぞれが自分のことばかり考えて(=我善し)いるのが残念である。“月日”にはこれからの人間世界の行方(=終末の姿)がだんだん見えてきたが、この先には恐い危ない道があるので、人民に早くその道のことを知らせなければと気になっているところだ。それは人間がわが子のことを思うのと同じで、(可愛い子供が)恐い危ない道に進みはしないかと心配しているのである。 そんなことも知らずに、人民はそれぞれみんな自分のことばかり考えてうっかりして暮らしている。この世界のことはなんでもすべて“月日”が支配していると思っておきなさい。この話はどんなことを意味しているのかと疑問に思うかも知れない。これから先に起こることを見ているとわかるだろう。どんな身分の高い者でも水に溺れることがある。身分の低い人間だからといって必ずしも危険な目に遭うということでもない。 すべて“月日”が支配するのであるから、大きいとか小さいとかいったことは問題ではないのだ。 ★ おふでさき ★ これまでもなんでもよう木ほしいから たいていたづねいたるなれども このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり このきいもたんたん月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや それからハにちにち月日みさだめて あとのよう木のもよふばかりを この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく 【なわ・ふみひとの解釈】 これまではどうしても“よう木(=終末の御用をしてくれる人民)”が必要だから、あちらこちらと探しまわっていたけれども、このたび身分の低い人間のなかにちょっとした役に立ちそうな“よう木”がたくさん見えている。この“よう木”に“月日”が出入り(=神憑かり)をして立派な人材に育て上げたら、新しい世を導く国の柱となるだろう。それから先は、毎日“月日”が人民の見極めをして、後継者づくりの段取りだけをすればよくなるのだ。 この終末の御用をしてくれる人民は、女性であろうと男性であろうと関係ない。どのような人民でも“月日”の判断で引き寄せて御用をさせるのだ。 ★ おふでさき ★ 一れつのむねのうちよりしんぢつに はやくわかりた事であるなら それからハ月日よろづのしはいする なにかよろづのたすけするぞや このたすけはやくりやくをみせたさに 月日の心せくばかりやで なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで このはなしどこの事やとをもうなよ みなめへめへのうちのはなしや めへめへにむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみへるで 【なわ・ふみひとの解釈】 人民がみんなこの真理を理解することができたら、それからは“月日”がすべてを支配して、すべてのことの手助けをしてやるぞよ。この手助けがどのようなものであるかを早く見せたいので、“月日”は心が急(せ)いているのだ。それだけ急ぐことなので、胸の内の掃除を急いでやってほしいのだ。 この話をどこのことだろうと思って聞いていてはいけない。みんな人民一人ひとりの胸の内のことを言っているのだ。それぞれが自分の胸の内を掃除して誠の心になれば、直ぐに真理がわかるようになるのだ。 ★ おふでさき ★ いまゝでも今がこの世のはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら このたびのぢうよぢざいでとくしんせ いまゝでこんな事ハしろまい 月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいをみなしてみせる こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを はなしするのはいまはじめやで 【なわ・ふみひとの解釈】 いままでにも、「今が新しい世の中の始まりの時だ」と言ってきたけれど、人民には何のことかさっぱりわからなかっただろう。このたびは自由自在に手助けをしてみせるから、それを見て得心するがよい。 今までこんな(すごい)ことができるとは知らなかっただろう。“月日”が人民の肉体に入り込んで(=神憑かりして)、自由自在にコントロールして見せるのだ。神が人間を自由自在にコントロールするという真理について話をするのは、今回が初めてのことだ。 ★ おふでさき ★ このせかい一れつみゑる月日なら とこの事でもしらぬ事なし 月日よりみなそれそれとみさだめて 善とあくとをみハけするぞや 月日よりなんでこのよにくどいなら あしきみへるがきのどくなから たんたんとをんかかさなりそのゆへハ きゆばとみへるみちがあるから とのよふなものでも月日しんぢつを うけとりたならみなたすけるで いまゝでハどんなはなしをしたるとも なにもみゑたる事ハなけれど これまてもみなみへきたる事なれど ほんもとなるをしらん事から かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく この事をいまゝでたれもしらんから このたび月日さきゑしらする 【なわ・ふみひとの解釈】 この世界のことをすべて見通すことができる“月日”であるから、どこで起こることでも知らないことはない。“月日”がそれぞれの人民を見極めて、善と悪の区別をするのだ。“月日”がどうしてこんなにもくどく言うのかと思うだろうが、人民の悪い心や行ないが見えて、その結果がどういう状態になるかがわかっているからなのだ。 だんだんと因果が積もり積もって、牛馬のような畜生の道に落ちていく姿が見えている。それでも、いまどのような心の人間であっても、この“月日”が教える真理を受け取ってくれればみな助けてやるのだ。いままではどんな話をしても、それが形に現れなかったと思っていただろうが、実はこれまでも心に思ったことや言葉にしたことはすべて現象として我が身に降りかかっていたことなのだ。その本元の仕組み(=経綸)がわからないから、因果関係がわからなかっただけなのだ。 雷も地震も台風も洪水も、すべて“月日”の残念な怒りの表現なのだ。このことを今までは誰も知らないから、このたび“月日”が先に知らせておく。 ★ おふでさき ★ けふからハせかいを月日みさだめて むねのそふぢにかゝる事なり このそふぢうちもせかいもへだてない めゑめゑの心みなあらわすで 【なわ・ふみひとの解釈】 今日からは“月日(=親神)”が世界を見定めて、人民の心に蓄積しているカルマの掃除を始める。この“掃除”というのは、心の中もそとの世界も同じことなのだ。要するに人民一人ひとりの心(=潜在意識)にあるものを現象として現していくことになる。 私は『2012年の黙示録』の中で、「カルマは人の潜在意識に沈殿した心の癖(=波動の傾向)である」と述べました。それは一種の精神的エネルギーとして蓄積されていますので、この物質世界に現象として表面化するのを待っているのです。 そして、人がそのカルマの原因となるような心の使い方を続けるならば、さらにそのカルマは蓄積されていくことになります。それはひとくちに言えば「心配する気持ち」だとか「不安な気持ち」などで表現されるものから、人を憎んだり呪ったりする気持ちまでいろいろとあります。 私の本の中では、「気持ち=心=念」と置き換えて、「懸念」「残念」「執念」「怨念」の4つを「マイナスの波動」すなわち「負のカルマ」として説明しました。それらはこの三次元の世界でさまざまな“不幸な現象”として表面化するのですが、その表面化するまでの時間がだんだん短くなっているというのが、これまで述べてきたことでした。 それを『大本神諭』や『日月神示』には神さまの言葉として「時節がきた」と表現されています。つまり、ついに終末を迎えたので、これから大峠となる2012年に向かって時間がますます圧縮され、それにともなって別次元に蓄積されている個人や国、民族、人類全体のカルマが次々に、そして最後は一斉に表面化していくことになるということです。 天理教の「おふでさき」も、じっくり読むとまったく同じことが述べられていることがわかります。しかしながら、明治の初め、まだラジオ放送も始まっていない時代にあって、地方(今の奈良県)に住む一老女(=教祖中山みき)に憑かった神さまが、当時の人民に「世の終末」を伝えるには、言葉選びに大変苦労されたことと思います。 神さまの言葉を受け取った側も、今日のようにマスコミから簡単に情報が手に入るわけではありませんから、言葉の中に述べられている内容を推し量ることには苦労されたことでしょう。しかも、「おふでさき」は短歌の形で言葉少なに表現されていますので、その解釈はさらに困難を極めたことと思います。芹澤茂氏による『おふでさき通訳』の訳文を読んでも、そのままでは理解できない内容がたくさんあります。 そういう観点から、今日世の中に出回っている多くの情報をもとに、再度「おふでさき」の解釈を試みることは意味のあることだと思っています。天理教という宗教団体からすれば門外漢に過ぎない私が、畏れ多くも親神様のお言葉である「おふでさき」の解釈にチャレンジさせていただいたのはそういう判断に基づくものです。 ★ おふでさき ★ このはなしなにの事をばゆうならば にほんもからもてんぢくの事 これからハせかいぢうを一れつに 月日そうぢをするでしよちせ 【なわ・ふみひとの解釈】 この話は何のことかと言えば、日本だけでなく中国やインドなどの外国も含め、世界中の人民の心を一れつに(=すべて)、この“月日(=親神)”が掃除をするということだ。このことを承知しておきなさい。 この「おふでさき」に述べられている「人民の心の掃除」が、単に当時の奈良県に住む人たちや、日本の国民だけを対象にしているわけではないことがわかります。要するに人類全体の問題として述べられているわけで、このことからも並のレベルの神憑かり現象ではないことがうかがえます。 ★ おふでさき ★ いかほどにくどきことハりゆうたとて たれかきゝわけするものハない それゆへだんだんひがらたつけれと いつかこれやとわかるめハなし けふの日ハもふせへつゝがきたるから 月日でかけるみなしよちせよ 【なわ・ふみひとの解釈】 どれほど言葉で説明し、わからせようとしても、誰もわかるものがいない。そのためにだんだん時間が過ぎていくばかりで、いつになったらわかってくれるかめどが立たない。もう時節が来たから、“月日(=親神)”が出て行って人民の心の中の掃除にかかる。そのことを承知しておきなさい。 ★ おふでさき ★ このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら 月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ 【なわ・ふみひとの解釈】 これから先、世界中の人民はお互いに、すべての面で助け合いをするなら、その「人を助ける」という人民の心を受け取って、今度は“月日(=親神)”がその人民を助けてやろう。(これが「助けるものは助けられる」というカルマの法則なのである) ★ おふでさき ★ なにもかも神のゆう事しかときけ なにをゆうてもちがう事なし しんちつにめつらしたすけをしへたさ そこでとのよな事もゆうのや このよふを初てからにない事を どんな事をもをしへたいから 【なわ・ふみひとの解釈】 何でも神の言うことをしっかりと聞きなさい。神の言うことはどんなことも間違いはないのだ。本当に珍しい“たすけ(=カルマの法則)”を教えたいので、いろんなことを言って聞かせている。この世界をはじめてから一度もなかった(終末に関する)ことを教えるのだ。 ★ おふでさき ★ けふの日にどのよな事もゆうほどに なにをゆうてもしよちしてくれ いまゝでも神のをもハくまゝあれど ひがきたらんでしかゑいたるで だんだんともふひがつまりきるからハ どんな事でもゆうておくぞや 【なわ・ふみひとの解釈】 今日はいろんなことを言うが、すべて理解してほしい。今までにも神の思惑はいろいろあったが、時節が来てなかったので言うのを控えていた。しかしながら、いよいよ時節が迫ってきたので、もうどんなことでも言っておくことにする。 おふでさき」には、ここにあるように「ひがきたらんで」「もうひがつまりきる」という表現がよく出てきます。これは『大本神諭』や『日月神示』に出てくる「時節が来た」という言葉に対応していると見られます。つまり、「終末の大峠が近づく」という意味です。このことは、私が「おふでさき」を終末に関する予言だと断定する根拠の一つでもあります。 ★ おふでさき ★ けふまではどんなあくじとゆうたとて わがみにしりたものハあるまい この心神がしんぢつゆてきかす みないちれつわしやんしてくれ せかいぢういちれつはみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや 高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい それよりもたんたんつかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ それしらすみなにんけんの心でわ なんどたかびくあるとをもふて 月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに 【なわ・ふみひとの解釈】 今日までは、自分が悪いことをしたら、どんなこともすべて自分の身に(“かやし”として)返ってくるということを知っている者はいないだろう。この原理について神が本当のことを言って聞かせよう。みんなよく考えてみてほしい。 世界中の人民はみんな兄弟姉妹なのだ。お互いに他人ということは決してないのである。この元となる真理を理解できる者がいないので、“月日”は常々残念に思っている。身分や地位の高い者であっても社会の底辺にいる者であっても、みんな同じ魂なのである。それよりもぜひわかってほしいことは、人間が使っている体の諸機能はすべて“月日”から貸し与えているということだ。それを知らないものだから、人間心で考えて、人には身分の違いがあると思っている。 “月日”としては、人間はみな同じ魂で、その体は神からの借り物であるということを、世界中の人民にしっかりわからせたいと思っている。これさえちゃんとわかってくれたら、もうお互いが傷つけ合うことになる根本原因はなくなってしまうはずだ。 「人を傷つけることは自分を傷つけること」という新約聖書にも出てくる普遍の真理が述べられています。それは、「人の魂はみな繋がっているから」なのです。お互いに他人と思っている相手も、実は“神”という広大な海にできた別々の波であると見ることができます。その波ができて消えていくまでが一つの人生だということです。 波はすぐに消えて海を構成する水となって還元されます。そしてまた新しい波となって生まれるのです。同じタイミングでできた波をみて、自分と他人、高貴な人と卑しい人、富者と貧者、といった区別をしますが、それはつかの間にできた波の形の違いでしかないということですから、傷つけ合ったり、いがみ合ったりすることは意味がないと諭しておられます。これは道徳律として述べられているのではなく、宇宙の真理が説いてあるのです。 ★ おふでさき ★ いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで けふまでハたいしや高山はびかりて まゝにしていた事であれとも これからわをやがかハりてまゝにする これそむいたらすぐにかやすで 【なわ・ふみひとの解釈】 いままでは“月日”と名乗って説いていたが、もうこれからは名前を変えることにする。今日までは高い地位にある権力者たちが幅を利かして、この世の中を自由にしていたけれども、これからは“親”がそれに代わって世の中を自由にする。この親に反抗する者には、それ相応の報いをすぐに与える。 ★ おふでさき ★ いまゝてハ高山とてけんけんと まゝにしていた事てあれども これからハいかほどたかい山でもな たにそこまゝにさらにてけまい このさきわたにそこにてハだんだんと をふくよふきがみゑてあるぞや たんたんとよふぼくにてハこのよふを はしめたをやがみな入こむで このよふをはじめたをやか入こめば どんな事をばするやしれんで とのよふな事をしたとてあんぢなよ なにかよろつわをやのうけやい この事をはやく心をしいかりと さためをつけてはやくかゝれよ 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは高い地位にある権力者たちが威張りちらして、世の中を自由にしていたけれども、これからはどんなに高い地位の者でも、身分の低い人民たちを自由にすることは決してできないのだ。これから先は、身分の低い者の中に、“ようき=用木=新しい世の中を導く人材”がたくさん見えている。 その“ようぼく=用木=ようき”には、これからはこの世界を始めた神がだんだんと入り込む(=憑依する=神憑かる)のだ。この世界を始めた神が入り込めば、どんな驚くようなことをするかわからない。しかし、すべては神が請け負ってやることだから、どんなことがあっても心配する必要はないのだ。このことを心にしっかりと刻んで、早く(心の掃除を)始めなさい。 ★ おふでさき ★ これからハこのよはじめてなにもかも ない事ばかりゆいかけるなり このはなしとこの事ともゆハんでな みのうちさハりこれでしらする どのよふな事でもわがみする事に 神のしらんとゆう事はわない けふの日ハみちがいそいでいるからな どんな事てもはやくみへるで それゆへにでかけてからハとむならん そこで一れつしやんするよふ 【なわ・ふみひとの解釈】 これからはこの世が始まってから一度もなかったことばかりを語るのだ。この話がどこかよその話を言ってるのではない。人民の身の回りに起こる不幸な出来事として現すのだ。どんなことでも人民がすることで神が知らないということはないのだ。 今はもう(終末の大峠への)道が忙しくなって、どんなことでもすぐに現れるようになっている。だから、いろいろな現象が現れはじめてから(心の掃除を始めて)はどうにもならない。そのことをみんなによくわかっておいてほしいのだ。 ★ おふでさき ★ いまゝてハなにもゆうたりをもふたり まゝにしていた事てあれとも このさきわ神がしはいをするからハ とんな事でもまゝにてけんで にんけんのめゑにハなにもみへねども 神のめゑにハみなみへてある こしらゑをやるのハしばしまちてくれ とろみづなかいはめるごとくや 【なわ・ふみひとの解釈】 今までは何を言っても思っても、(すぐには“かやし”がなかったので)自由にできていたが、この先は神が(言葉や思念を)管理するから、言葉や思念を自由にはできなくなるのだ。人間の目には何も見えていないだろうが、神の目にはこれから先に起こることはすべて見えている。将来に備えて財産をつくるのはしばらく待っていなさい。そんなことをしても、(これからの大峠の天変地異によって)泥水の中に落としてしまうことになるからだ。 ★ おふでさき ★ もふけふハなんてもかてもみへるてな こくけんきたら月日つれいく けふの日ハもふぢうふんにつんてきた なんときつれにでるやしれんで つれてくも一寸の事てハないほとに をふくみへるがたれもしろまい いかほとのたかいところとゆうたとて もふけふからわもんくかハるで さあしやんこれから心いれかへて しやんさだめん事にいかんで 【なわ・ふみひとの解釈】 もう今日は何もかも見えているのだ。終末が近づいたら人民を(別次元へ)つれて行かねばならない。今日は十分に時節が迫ってきたから、いつ何時つれにくるかわからないぞ。つれていくと言っても少しの人数ではない。たくさんの人民をつれて行くことになるのだが、だれも(自分のことだとは)思ってないだろう。いくら高い地位にいる者であっても、もう今日からは忠告ではなく警告に変わる。さあもう心を決めなさい。いままでのような(自分さえ善ければよいという)心を入れ替えようと決心しなければいけない。 ★ おふでさき ★ 月日にハどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ いんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる 月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ いまゝでハどんなものでもむねのうち しりたるものわさらにあるまい このたびハとんなところにいるものも むねのうちをばみなゆてきかす これまでハかへひとよにてへたてたら なにをゆうても一寸しろまい けふからハよこめふるまもないほどに ゆめみたよふになにをするやら 【なわ・ふみひとの解釈】 “月日”には、どんなところにいる者であっても、心の状態通りにすべて受け取るのだ。だから、いままではどんな(善くない)心を持っていたとしても、その心を一晩の間にもすっかり(善い心に)入れ替えれなさい。 本当に心を入れ替えて善い心になったら、その心を“月日”がすぐに受け取る。“月日”にとっては世界中の人民はみなわが子だから、可愛いばかりなのだ。この(心の入れ替えという)ことが一番大事にしてほしいことである。 今までは、だれも他人の心の内を知ることは全くなかっただろう。これから(新しい世になれば)、人の胸の内がすぐにわかるようにする。これまでの世では、壁一つ隔てていたら、言っていることが少しと言えども他人に知られることはなかった。今日からは脇目を振る暇もない間に、夢を見たと間違うような(驚くことを)が起こるようになる。 ★ おふでさき ★ 月日にハせかいぢううのこどもわな かハいばかりをふもているから それゆへにせかいちううをどこまても むねのそふぢをしたいゆへから このそふぢどふゆう事にをもている たすけばかりをふもているから たすけでもあしきなをするまてやない めづらしたすけをもているから このたすけどふゆう事にをもうかな やますしなすによハりなきよに こんな事いまゝでどこにない事や このしよこふをしらしたさやで これまてハどこにたつねてもない事や このたび神がはじめたさやで 【なわ・ふみひとの解釈】 “月日”には、世界中の子供(=人民)は、可愛いとばかり思っている。だから、世界中の人民の心の中の掃除(=身魂磨き)をさせたいのだ。この掃除とはどういうことだと思うか。人民を助けるために必要なことなのだ。 助けると言っても、不幸な出来事に遭わないようにするということだけではない。珍しい助けをしてみせようと思っているのだ。この珍しい助けとはどういうことだと思うか。これからは人間は病気もなく、死ぬこともなく、老いて体が弱るということがないようにするのだ。 このような世になるということは、これまではどこにもないことだ。その証拠を早く見せたいと思っている。これまではどこを尋ねてもないことである。このたび、神がそのような世にしたいから(いろいろと述べてきたのだ)。 これで天理教の「おふでさき」解釈シリーズを終わらせていただきます。 すでにおわかりかと思いますが、結論から申しますと「おふでさき」で発せられているメッセージは、『大本神諭』や『日月神示』の内容と同一のものであることがわかります。「おふでさき」を“終末預言”とみなければ解釈できない内容がたくさんありましたが、私の場合は『大本神諭』と読み比べながら解釈を試みましたので、比較的スムーズに理解することができました。 ただし、あくまでも「なわ・ふみひとの個人的解釈」ですので、「おふでさき」原文と十分読み比べたうえで判断していただきたいと思います。 そして、天理教の信者や関係者の方には、私のような門外漢が、大切な教典に関してこのような大胆な解釈を試みましたことをお許しいただきたいと思います。 |
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