魂との対話

ゲーリー・ズーカフ著 坂本貢一・訳
サンマーク出版 2003年刊
 
 わたしが何度も読み返し、皆様に自信を持ってお勧めできる良書です。(なわ・ふみひと)
 

《進化》
真に進化した人間
 真に進化した人間は愛にあふれている

 私たちが学校で学んだ進化は、物理的形態の進化である。

 魚は海綿より複雑であり、それゆえに海綿より進化している。馬は蛇よりも複雑であり、それゆえに蛇よりも進化している。猿は馬よりも複雑であり、それゆえに馬よりも進化している。そして最終的に、人間はこの地球上でいちばん複雑であり、それゆえにこの地球上でいちばん進化している。これが学校で習う進化の定義である。

 私たちはこれまで、長年にわたり、この進化の定義が不完全であることを知ってきた。ただし、その理由は理解しないままにである。たとえば、2人の人間を比較したとき、彼らはどちらも組織的複雑性の点では同等に進化している。しかし、もし1人は心が狭く、意地悪で、身勝手な人間であり、もう片方は心が広く、他人思いであったとしたら、私たちは後者のほうが進化した人間であると自然に考える。

 私たちの内なる理解は、「真に進化した人間とは、自分よりも他人のことを考え、物理的な世界のなかにある物理的なものよりも、愛を重んじる人間である」と語っている。
外側のパワーを
 外側のパワーを求める意識が暴力と破壊を生んだ  [TOP]

 この物理的世界は極上の学習環境である。それは、私たちが進化のために必要なことを学ぶための学校であり、そのなかで私たちは、さまざまな実験を通じて、何が私たちを大きくし、何が小さくするのか、何が私たちを成長させ、何が衰退させるのか、何が私たちの魂を養い、何が消耗させるのか、何が私たちに機能し、何が機能しないのか、といったことなどを学ぶことになる。

 物理的世界が五感のみで認識されているとき、そのなかにおけるもっとも強力な動機は恐れである。そのとき私たちの目には、自分の環境とそこに住むほかの人たちを支配するパワーが、不可欠なもののように見えてくる。

 環境およびそのなかに住む人々を支配するためのパワーは、私たちがふれたり、嗅いだり、味わったり、聞いたり、見たりできるものに対するパワーである。

 このパワーは、ほかの誰かから、あるいはどこかから入手できるものだと考えられている。誰かが外側のパワーを入手すると、別の誰かがその分のパワーを失うことになる。パワーを外側のものとして眺めたことの結果が、暴力や破壊である。

 お金はまさしく、外側のパワーのシンボルである。お金をいちばんたくさんもっている人たちが、彼らの環境と、そこに住むほかの人たちを支配する能力をいちばんもっており、お金をいちばんもたない人たちは、環境とそこにすむ人たちを支配する能力をいちばん少ししかもっていない。損な構図ができあがっている。お金は獲得され、失われ、盗まれ、相続され、頻繁に争いごとを引き起こす。

 教育、社会的地位、名声、そしてさまざまな所有物。もし私たちがこれらから安心感を得ているとしたら、あるいはこれらを失うことを恐れているとしたら、これらもまた外側のパワーのシンボルである。私たちが失うことを恐れているものはみな、たとえそれが家であろうと車であろうと、魅力的な肉体、あるいは頭のよさや信念であろうと、外側のパワーのシンボルである。

 私たちはこのようにして進化してきた  [TOP]

 パワーが外側のものとして眺められているとき、私たちの社会的、経済的、政治的階層構造、さらにはこの宇宙のさまざまな階層構造は、さながら、それぞれの構造内で誰がパワーをもち、誰がパワーをもたないかを私たちに一目で教えてくれる図解のチャートのようである。そこでは、「いちばん上の層にいる者たちはいちばん力をもち、それゆえにいちばん価値があり、いちばん攻撃されにくい。逆に、いちばん下の層にいる者たちはいちばん力がなく、それゆえにいちばん価値がなく、いちばん攻撃されやすい」という構図ができあがっている。

 私たちはこれまで何世紀にもわたって、個人的にも集団的にも野蛮な行為をくり返してきたが、その事実は、「パワーを外側のものだとする認識の下に横たわる恐れは、外側のパワーをいくら蓄積しようと、癒すことなど不可能である」ことの動かぬ証拠である。

 私たちはこれまで、このようにして進化してきた。そしていま、そのような進化から離れようとしている。

 宇宙は知的で思いやりに満ちている  [TOP]

 私たちのより深い理解、内なる理解は、別の種類のパワー、すなわち、この世に存在するいかなる形の生命をも愛するパワー、自分が出会ういかなる人間をも裁かないパワー、そして、どんなに小さな生命あるいは物事のなかにも意義と目的を見いだすパワーへと、私たちを導いていく。
 これが真のパワーである。

 私たち人類はいま、外側のパワーを追求する種から、真のパワーを追求する種へと進化しつつある。自分たちの進化の唯一の媒体としてきた物理的な世界の探検から離れつつある。

 私たちは五感型人間から多感覚型人間へと進化しつつある。私たちの五感は、一体となってひとつの知覚システムを形成し、物理的現実を認識するようにつくられているが、多感覚型人の知覚は、その物理的現実の先まで広がっている。それはいうなれば、「私たちの物理的現実を一部とする、より大きな力学システム」にまで延びているのである。

 五感型人間の認識からすると、この物理的な世界は偶然にもたらされたもので、私たちはそのなかに偶然に生まれ、そこを支配することで生存を果たそうとしている。しかし、多感覚型人間の認識からすると、この物理的な世界は、それを共有する魂たちが共同で創造した学習のための環境であり、そのなかで発生することのすべてが、彼らの学習に役に立つ。
 五感型人間の認識からすると、意図にはいかなる結果もともなわない。そして、行動の結果は物理的であり、すべての行動が私たちあるいはほかの人たちに、必ずしも影響を及ぼすわけではない。しかし、多感覚型人間の認識からすると、行動の背後にある意図が、行動の結果を決定し、すべての意図が、私たちやほかの人たちの双方に影響を及ぼし、その影響は物理的な世界をはるかに超えたところにまで殺到する。

 不可視の領域が存在し、そのなかには、私たちのより深い理解の源がある、と述べることにどんな意味があるのだろうか? 五感によっては感知不可能だが、人間のもつほかの能力によっては知られ、探検され、理解されうる領域の存在を考慮することに、どんな意味があるのだろうか?
 通常の知覚領域のなかでは、回答が不可能な疑問がもち上がったとき、その疑問は一般にバカげた疑問として一笑にふされるか、不適切な疑問として却下される傾向にある。しかしながら、もし私たちが、自分の意識をその疑問への答えを発見できる知覚領域まで拡大できたならば、話は別である。

 無意識の進化から意識的な進化へ  [TOP]

 この地球上であなたが下す決断や、あなたがとる行動が、あなたが進化を果たすために利用する手段である。あなたはことあるごとに、自分の体験を形づくることになる意図と、自分の注意を集中して向けるものとを選択しているが、その選択の内容が、あなたの進化のプロセスを決めている。これは誰に関してもいえることだ。
 
 人間であることを特徴づけるものとされている恐れや、そのほかのネガティブな感情は、パーソナリティーによってのみ体験されるものである。

 裁いたり、操ったり、搾取したりすることができるのも、パーソナリティーのみである。外側のパワーを追求するのも、パーソナリティーのみである。
 パーソナリティーはまた、ほかの人たちとのかかわりのなかで、愛することも、思いやることも、賢さを示すこともできる。しかし、愛と思いやり、そして賢さは、パーソナリティーからやってくるのではない。それは魂からやってくる。
 あなたの魂は、永遠に死ぬことのないあなたの一部である。すべての人間が魂をもっている。しかし、五感の知覚領域内にとどまりつづけているパーソナリティーは、それ自身の魂の存在に気づかず、それゆえに、その魂によるさまざまな影響を認識することができない。
 パーソナリティーがそれ自身の魂を認識するには、五感の限界を打ち破り、多感覚的にならなくてはならない。そうなったときから、パーソナリティーは、自分の直観、ひらめき、フィーリングといったものを重視するようになる。そしてそれは、自分自身、ほかの人々、および周囲の状況に関する、五感のみをもちいていたのでは入手できない情報を入手できるようになる、ということにほかならない。
 そのときからパーソナリティーは、言葉や行為の背後にあるさまざまな意図を知覚できるようになり、ひいては他人の言葉や行為に対してよりも、その背後に存在する意図に対して反応するようになる。そのときからそれは、一見荒々しく怒り狂っているかのような態度の背後にある暖かい心や、いかにも親切でやさしそうな言葉の背後にある冷たい心を、明確に認識できるようになる。

 もしあなたが自分の魂について知りたいならば、最初のステップは、自分が魂をもっているということを認めることである。
 そして次のステップは、このように考えることを自分に許すことである。
 「もし私に魂があるのだとしたら、それはどんなものなのだろう? 魂は何をほしがっているのだろう? 魂と私はどんな関係にあるのだろう? 魂は、私の人生にどんな影響を及ぼしているのだろう?」
 魂のエネルギーは、それがパーソナリティーによって知覚され、認識され、尊重されたときから、パーソナリティーの生命をふるい立たせはじめる。もしも、パーソナリティーが、それ自身の魂のエネルギーに充分に奉仕できるようになったとしたら、そのときこそが、パーソナリティーにとって真のパワーに満たされるときである。
 そして、そうなることこそが、私たちがかかわっている進化のプロセスのゴールであり、そこに行き着くことこそが、私たちがいまここに存在している理由である。

《カルマ》
魂には始まりも
 魂には始まりもなければ終わりもない  [TOP]

 私たちのほとんどは、「私たちが進化のプロセスに参加できるのは、ひとつの生涯の存続期間のみである」という信念になじんでいる。それは五感型パーソナリティーの観点を如実に投影した信念である。
 多感覚型人間もまた、自身の肉体とパーソナリティーは、この生涯を超えては存続しないと理解している。しかし彼らは、同時に、不滅の魂の存在を明確に認識している。
 あなたのパーソナリティーの一生は、あなたの魂が体験する無数の人生のうちのひとつである。

 魂は、それ自身が体験する人生ごとに異なったパーソナリティーと肉体を創造する。
 パーソナリティーと肉体は、五感型人間にとっては、一生を体験するための唯一無二の媒体であるが、魂にとってそれらは、それぞれの生涯ごとに異なる、それぞれの生涯の目的に完璧に合致した、ユニークな道具である。

 五感型パーソナリティーは、自分の魂がほかにも多くの人生を体験しているということに気づいていない。しかし多感覚型パーソナリティーは、それらの人生の存在に気づいている。そしてときには、それらを自身の前世や来世として認識することがあるかもしれない。それは厳密にいえば、そのパーソナリティー自身が生きてきた、あるいは生きることになっている人生ではなく、そのパーソナリティーの魂による体験である。
 また、魂の観点からすると、それが体験する人生は、すべてが同時に存在する。言い換えるなら、魂が創造するいくつものパーソナリティーのすべてが、一度に存在するのである。よって、ひとつの人生のなかでネガティブな特徴が排除されたとしたら、その好影響は、その人生のみならず、魂が体験しているほかのあらゆる人生にも及ぶことになる。
 魂はそれ自体、時間による制限を受けないため、パーソナリティーが恐れや疑いの流れを放出すると、その好影響はパーソナリティーの未来のみならず、過去にまでも及ぶことになる。

 パーソナリティーとその肉体は、それら自身の機能を果たしつづけ、やがてその生涯を終えることになる。それはいうなれば、魂が体験しているひとつの人生の終わりであり、そのとき魂は、その人生を生きてきたパーソナリティーと肉体を放棄する。その時点で、それらは終わりを迎えるのである。
 しかし、魂は終わらない。ひとつの人生が終わると、魂は、それ自身の本質である不滅の時間のない状態に戻っていく。そうやってそれは、思いやりと明晰さ、そして際限のない愛であふれた、それ自身の自然な状態へと戻るのである。
 これが、私たちの進化が発生する背景である。魂のエネルギーの持続的な具象化、言い換えるなら、魂の生まれ変わり、輪廻転生、地球という学校への度重なる帰還、このくり返しの過程で私たちは進化を果たすのである。

 あなたは永遠に責任から逃れられない  [TOP]

 私たちのほとんどは、「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアに慣れ親しんでいる。たとえば、自分が何かをして周囲の人たちと仲がよくなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。

 あらゆる行動、思考、フィーリングが、意図によって動機づけられている。意図は、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようにきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。
 私たちは、自分の意図の果実のすべてを、みずから食べなくてはならないのである。よって、自分のさまざまな意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果をつくり出すかを整理し、自分がつくり出したい結果につながる意図を選択することは賢いことである。

 他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することになる。キリストが「山上の説教」のなかで行なった、「自分がしてもらいたいと思うことを、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学にもとづいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「あなたは自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。
 カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙はけっして裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システムの内のエネルギーバランスをふくむ、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。

 結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれる状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしもひとつの生涯のなかでとられるとはかぎらない。

 一般にパーソナリティーは、それ自身の魂の数あるパーソナリティーのうちの別のパーソナリティーがつくり出した結果を、頻繁に体験する。と同時に、それとは裏腹に、それ自身の生涯のなかでは正されえないエネルギーのアンバランスをつくり出したりもする。よって、魂、輪廻転生、およびカルマに関する知識をもたなければ、パーソナリティーは、人生内で発生するさまざまな出来事の重要性や意義、あるいはそれに対する自分の反応の結果を、必ずしも理解できるとはかぎらない。

 たとえばあるパーソナリティーが他人をだましたとしたら、そのときそのパーソナリティーは、「他人にだまされることで正される必要のある、エネルギーのアンバランス」を創造したことになる。そして、もしそれが、そのパーソナリティーの生涯が終わるまでに正されなかったとしたら、同じ魂の別のパーソナリティーが、他人にだまされることを体験することになるだろう。
 そして、その別のパーソナリティーが、他人にだまされることは過去につくられた原因の結果であるということ、および、その体験によって、ある非個人的なプロセスが完結することになる、ということを理解していなかったとしたら、そのときそのパーソナリティーは、自分の魂の観点からではなく、個人的な観点から反応を示すだろう。
 そのときそれは、怒り狂い、復讐心をたぎらせるかもしれない。あるいは、ひどく落胆するかもしれない。そして、そういった反応のすべてが、バランスをとられる必要のある別のエネルギー・アンバランス、すなわち、カルマを創造することになる。このようにして、いわゆるカルマ的負債が支払われるのと同時に、新しいカルマ的負債が次々とつくられていくのである。

 他人を裁くことは誰にもできない  [TOP]

 完全に調和のとれた存在になるために、魂はそれ自身のエネルギー・バランスを整えなくてはならない。魂は、それ自身がつくった原因の結果を体験しなくてはならない。

 交流中のパーソナリティー同士は、共に癒しを求めている魂である。魂間の交流が癒しにつながるかどうかは、それにかかわっているパーソナリティーが、パーソナリティーの境界を超えて、魂同士の交流に目をやることができるかどうかにかかっている。

 私たちは、それぞれの交流のなかで何が癒されようとしているのか、つまり、どんなカルマ的負債が支払われようとしているのかを知ることはできない。そもそも、自分たちが見たことを裁いたりはすることができない。

 たとえば、冬の寒空の下、側溝のなかで眠り込んでいる人間を見ても、その魂がそれで何を完結させようとしているのか、私たちにはわからない。

 裁くことのない正義とは何か?  [TOP]

 
魂の観点を知りたいならば、たとえどんなに理解しがたい状況や出来事に直面しても絶対に裁いたりしないよう、肝に銘じておく必要がある。宗教裁判やホロコーストなどの残虐行為、乳児の死亡、癌による長い死の苦しみ、寝たきりの人生など、理不尽だとしかいえないような出来事や状況はたくさんある。しかし、そういった苦痛を通じて何が癒されようとしているのか、あるいは、どんなエネルギーがどのようにしてバランスを取り戻そうとしているのかを、私たちは知らない。
 そういった状況を目撃して同情を感じることは妥当なことである。そして、その心情にもとづいて行動を起こすことも妥当なことである。しかしながら、それらの状況や出来事、あるいはそれらにかかわっている人々を裁いてしまったとしたら、そのとき私たちはバランスをとられる必要のあるネガティブなカルマをみずから創造し、いつしか、そのアンバランスを解消するための状況を体験しなくてはならなくなる。
 もし私たちが裁かないとしたら、正義はどうなるのだろうか?
 ガンジーは生前、人々にたびたび殴られ、瀕死の重傷を負ったことが二度もあった。にもかかわらず、彼を攻撃した者たちをけっして訴えなかった。「彼らは彼らなりに、自分たちが正しいと考えたことを行なっている」ということを知っていたからだという。この「裁きのない理解」こそが、ガンジーの人生の中心テーマだった。

《畏敬の念》

 私たちは生命を軽視している  [TOP]

 私たちの進化を可能にしているカルマと生まれ変わりのシステムは、中立である。物理的世界内の作用と反作用の数々が、エネルギーを活性化し、それによって私たちの体験がつくり出され、その過程で、魂がまだ学んでいないことが次々とはっきりしてくる。
 もしも私たちの行動がほかの人たちの心を乱したとしたら、私たち自身もまた、今回の人生か別の人生のなかで、同じような心の乱れを体験することになるだろう。また、もし私たちの行動が、ほかの人たちの心に平和とパワーをもたらすことになったとしたら、それも、いつしか同じように体験することになる。このようにして私たちは、自分がつくり出した原因の結果を体験するとともに、それを通じて、真の責任の所在を学ぶことになる。 カルマと生まれ変わりの枠組みは非個人的であり、すべての魂に、それらのパーソナリティーの行動に反応する形で、進化に必要な体験の数々を平等に提供する。よって、進化のプロセスにかかわっているパーソナリティーの姿勢が、魂が進化のために必要とする体験の質を決定することになる。
 たとえば、怒りっぽいパーソナリティーは、人生で遭遇する困難な状況に怒りで立ち向かい、そのために、怒りによって導かれるたぐいの結果を体験することになるだろう。悲しみに満ちたパーソナリティーは、同じようにして、悲しみによって導かれるたぐいの結果を体験することになる。
 ただし、たとえ怒りに満ちていても、生命に対する畏敬の念をもつ人間は、人生で直面する困難な状況に、ただ怒りっぽいだけで生命を敬うことのない人間とは、まったく異なった反応をしめすだろう。生命を敬わない人間は、生命に対する攻撃を躊躇することがない。
 人を殺すこと、あるいはほかの生き物を殺すことを通じて放出される凶暴性は、怒りに満ちた言葉を通じて放出される凶暴性より、はるかに規模が大きい。殺すことで生み出されるカルマ的負債、エネルギーのアンバランスの解消は、それと同等に残酷な体験によってのみ可能となる。しかし、畏敬の念をもつ人間は、それをもたない人間には避けがたい極端に厳しいカルマ的体験を、自動的に回避できる。

 私たちは生命というものを軽く見過ぎている。そして、その認識が、あらゆる認識に染みこんでいる。たとえば、私たちは動物の王国に目をやり、その王国内のさまざまな活動を、自分たちの生き方を肯定するためのものとして眺めている。私たちはある動物が別の動物を殺して食べているようすを見て、弱い生命体は強い生命体を養うためにだけ存在すると結論づけている。自分たちが自然の摂理だと認識するアイデアを盾に、生命を食い物にする自分たちの行為を正当化しようとしている。

 畏敬の念とは生命を尊ぶ姿勢  [TOP]

 私たちの種は傲慢になってしまった。私たちはいま、地球を好き勝手に使うことのできる所有者であるかのように考え、その考えにしたがって行動している。地球に住むほかの生命体のニーズ、あるいは地球じたいのニーズは無視するいっぽうで、自分たちののニーズは意欲的に満たすことに努め、その過程で、地球の陸地を、海を、大気を汚染してきた。
  私たちは、「自分たちには意識があるが、宇宙にはそれがない」ものと思いこんでいる。また、「自分たちの存在は、この生涯で終わってしまう。よって、他人に対しても宇宙に対しても、自分たちは何の責任も負う必要がない」と考えている。
 畏敬の念をもつ人間にとって、自分の友人、仕事仲間、町、国家、あるいは惑星を不当に利用することなど、絶対に行なえないことである。

 畏敬の念をもつということは、あらゆる形あるものと、深いレベルで接触することである。それは、人間、植物、鳥、動物、およびその他のいかなる形あるものとかかわるときにも、その内側、その本質と接触することである。
 そのためにはまず、「目に見えているものは、たんなる外層、あるいは殻であり、その下にこそ真のパワー、本質が存在する」ということを知っていなくてはならない。その本質こそが畏敬の念を向けられるべきものである。
 成長のプロセスもまた、畏敬されてしかるべきものである。生命の開花、その成熟のプロセス、そして真のパワーで満ちるにいたるプロセスは、明らかに、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。
 この地球上のさまざまな生命の循環もまた、畏敬の念を向けられてしかるべきものである。それらは果てしない年月にわたって存在しつづけてきた。それらは、ガイアの魂、すなわち、ひとの生命体としての地球の意識の、自然な息吹を投影するものである。
 その意識は、さまざまな力の場を動かし、多様な生命の循環を導いてきた。もし私たちがそれらに畏敬の念を向けていたとしたら、この地球の生態環境ほどに大切なものとして何かを眺めたり、そのバランスを危険におとしいれてしまいそうな何かを行なったりすることなど、どうしてできただろう。
 畏敬の念は、生命を尊ぶ姿勢である。生命にやさしくしたり、生命を愛したりすることは、真のパワーで満ちていなくてもできることである。真のパワーは手にしてはいないが、畏敬の念はしっかりと手にしている、という人はたくさんいる。彼らは、いかなるものにも危害を加えない。とても情け深く、愛情にあふれた人たちであるが、彼らがそうなったのは、多くの場合、過去にひどい苦しみを体験してきたからである。

 なぜ私たちは破壊しつづけてきたのか?  [TOP]

 破壊のなかにも、もちろん学習はふくまれている。しかしながら、暴力や破壊にかかわることで手にするカルマ的負債には、とてつもなく高価な支払いが待っている。言い換えるなら、私たちには誰かの生命を犠牲にしてまで何かを学ぶ必要などない、ということである。自然を破壊してまで進歩を果たす必要も、どこにもない。
 しかし、生命に対する畏敬の念なくして、誰が生命の破壊を気にするだろう。畏敬の念がなければ、生命はまるで安物の日用品である。私たちの惑星上で、生命はまさにそのとおりに扱われている。ここではいま、進化のプロセスとその神聖さがまったく無視されている。
 私たち人類はこれまで、畏敬の念とともに生命を眺め、畏敬の念とともに自分たちの進化のプロセスを理解するという作業を怠ってきた。もしそれを行なっていたとしたら、いまごろ私たちは、人生、すなわち生命の物理的な体験に感動を覚えつつ、この上なく深い感謝の念とともにこの地球上を歩いていただろう。

 魂はけっして裁かない  [TOP]

 畏敬の念は、「裁くことのない正義」を推奨する。魂はけっして裁かない。

 畏敬の念をもつ人間は、自分はほかの誰かより、あるいはほかの何かよりもすぐれている、などとはけっして考えない。あらゆる形の生命のなかに神性を見、それを畏れ敬っているからだ。

 畏敬の念をもたないとき、私たちの行ないは野蛮であり破壊的である。畏敬の念をもつことで、私たちの行ないは思いやりとやさしさに満ちてくる。私たちは、遅かれ早かれ、生命のすべてを畏れ敬うことになっている。私たちに選択できるのは、それを行ないはじめる時期と、そこにいたる学習の過程で手にすることになる体験の質のみである。

 あらゆる魂が、いずれは光に包まれる  [TOP]

 まず第一に、悪をどのようなものとして理解するかが、私たちにとって、とても大切なことである。悪は、それとして正しく理解されなくてはならない。悪とは、光の不在によって引き起こされる力である。それは、人間が戦う準備をすべきもの、遠ざかろうとすべきもの、あるいは追放を試みるべきもの、などではないのである。悪というものを、光が存在しない状態として理解することで、私たちは自動的に光と呼ばれるものに目を向けることになる。
 
 「悪とは光の不在である」ということを理解したら、次に私たちはどうしたらいいのだろう? 悪に対して、私たちはどんな反応をしめすべきなのだろう?
 「不在」の治療は「存在」をもって行なうべきである。悪は光の不在であり、光の不在によっては癒されない。もしあなたが、悪あるいは悪に手を染めた人間を憎んだとしたら、そのときあなたは、光の存在ではなく、その不在に手を貸したことになる。悪を憎んだところで悪はけっして消滅することがない。それどころか、それによって悪は強化されるのである。
 光の不在は、それを体験しているパーソナリティーに苦悩をもたらす。そこには痛みが存在する。そして、あなたが彼または彼女を憎んだとき、あなたはその苦悩をあなた自身に引き寄せる。悪を憎むことの影響は、憎まれた人間ではなく、憎んだ人間に及ぶのである。憎んだ人間は憎しみに満ちた人間となり、光から遠ざかる。
 悪を光の不在として理解したからといって、消極的な生き方をすべきだ、あるいは邪悪な行為を見ても無視すべきだということには、けっしてならない。あなたは、たとえば虐待されている子どもを見たとき、あるいは苦しめられている人々を見たときに、その子を守るために、あるいはそれらの人々を助けるべく、可能なかぎりのことを行なってあげるべきである。
 しかしながら、そのときにもし、あなたのハートのなかに被害者に対する思いやりだけでなく加害者、すなわち思いやりをもたない人たちに対する思いやりも存在していなかったとしたら、あなたも彼らと変わりない人間になってしまう。


 思いやりに満ちたハートは、悪に対してどんな軍隊よりも効果的である。軍隊はほかの軍隊とはかかわれるが、悪とはかかわれない。思いやりに満ちたハートは悪と直接かかわれる。それは、光が存在しない場所に光をもちこめる。
 悪を光の不在として認識したときから、あなたはきわめて自然に、自分のあらゆる決断を、「これは自分を光に近づけるものなのだろうか? それとも光から遠ざけるものなのだろうか?」という視点から吟味するようになるだろう。
 そのときからあなたは、悪いことを行なっている人たちにも、たとえ彼らの行為に異議は唱えたとしても、少なくとも心のなかでは思いやりをしめせるようになるだろう。そしてそれはとりもなおさず、自分をネガティブなカルマの創造から守ることにほかならない。これが、悪に対する妥当な反応である。

《直観》

 あなたは孤独ではない  [TOP]

 多感覚型人間がもっている中心的な認識のひとつに、「自分は孤独ではない」というものがある。彼らは、ほかの進歩した知性との意識的なコミュニケーションを行なえる。そしてそれは、物事の判断を自分自身の認識や解釈のみに頼る必要がない、ということを意味している。

 多感覚型人間は、どんな状況に直面したときにも、より妥当な選択を可能にしてくれる、思いやりに満ちた非個人的な援助を意識的に利用することができる、という意味である。

 五感型人間も、もちろん孤独ではない。しかし、五感型人間は、つねに自分に与えられているこの援助に気づいていないために、それを意識的に利用することができないでいる。
 五感型人間は、ほとんどのことを自身の物理的体験を通じて学ばなくてはならない。そして、その学習にはひどく時間がかかる。なぜならば、そのようにして学ばれる知識は、密度の高い物質空間を通じてもたらされるものであるからだ。
  たとえば、信頼について学ぶ必要のある人間は、まず他人に対する不信を体験することになるだろう。つづいてその不信がさまざまな誤解を生み、さらにはそれがまたさまざまな緊張や不愉快な出来事を発生させることになる。
 五感型人間は、不信が原因で発生する不愉快な出来事を、人々との交流のなかでその源に気づき、それを変化させないかぎり、この人生においてのみならず別の人生においても、えんえんと体験しつづけることになる。

 直観は思いやりに満ちた導き  [TOP]

 多感覚型人間は、五感型人間よりもずっと速く学ぶことができる。多感覚型人間は自分が手にするさまざまな体験の意味、すなわちそれらがどんな理由で、どのようにして発生し、自分はそれにどのようにかかわっているのかといったことを、より速やかに理解することができる。

 五感型人間は、あらゆる衝動や洞察を自分自身のもの、つまり自分の心のなかで発生するものだと考えている。しかし多感覚型人間は、必ずしもそうでないことを知っている。
 私たちはこれまで、種としての起源以来、進化の道の上で、衝動やひらめき、突然の洞察などの形でもたらされる支援を数限りなく受けてきた。その種の導きに私たちが気づいてこなかったのは、現実を五感のみを通して見ていたからである。五感的観点からすれば、洞察や直観、ひらめきといったものが発生する場所は、心以外には考えられない。
 しかし、多感覚的な観点からすれば、それらは自身の魂からの、あるいは自身の魂の進化の旅を支援する進歩した知性群からのメッセージなのである。

 あなたが導きを求めれば、それは与えられる。たとえば「自分はどうしてこんな気分になるのだろう」と自問したとき、宇宙に「私にそれがわかるように援助してください」とお願いしたことになる。そして、その援助は必ずもたらされる。

 求めよ、さらば与えられん  [TOP]

 あなたはこの種の自問に対する答えを、つねに「聞く」ことはできないかもしれない。また、その答えは期待した形ではもたらされないかもしれない。しかし、それは必ずやってくる。
 その答えは、ときにはフィーリングの形でもたらされることもある。単純な「イエス」または「ノー」のフィーリングであることもある。特定の事柄の記憶として、また、偶然思いついたようなアイデアとしてやってくることもある。ときには、夢のなかにあらわれてきたり、何らかの出来事に刺激されて手にする認識としてあらわれてきたり、ということもあるかもしれない。
 聞いてもらえない質問はひとつもない。答えをもたらされない質問もひとつもない。「求めよ、さらば与えられん」は、まさしく真実であり、つねに機能しているルールである。しかし、あなたは求め方と与えられ方を学ばなくてはならない。

 直観を磨く四つのステップ  [TOP]

 第一のテクニックは、感情の流れをきれいな状態に保つことである。感情の流れが汚れているということは、それが流れにくくなっているということであり、そのときあなたは、自分が何を感じているのかを知ることができない。
 そして、自分が何を感じているのかを知らないでいるとき、あなたは感情をもたないに等しく、とてもネガティブな人間である。当然のごとく、肉体的にも病気にかかりやすい状態にある。
 感情の流れをきれいな状態に保つことで、ネガティブな感情的要素はあなたのなかに住めなくなる。その結果、どんどん気分が軽くなっていく。と同時に、あなたの直観の経路が大きく開かれる。(中略)
 これはいうなれば、あなたの振動数が上昇するということであり、そのときにあなたが受け取る導きは、何物にもじゃまされないスッキリした姿で、あなたのなかに入り込んでくるだろう。

 二つ目のテクニックは、肉体をきれいに保つ、正しい食事を心がけることである。毒素にまみれた肉体も、直観を激しく妨害する。

 三つ目のテクニックは、受け取る導きを尊重することである。

  あなたは、自分の直観が語ることを意欲的に聞き、それにしたがって行動しなくてはならない。

 四つ目のテクニックは、「発生する物事に理由がある」ということ、そして「その理由は、本質的にはつねに思いやりと善に満ちている」という信念とともに、あらゆる問題にアプローチすることである。

《光》

 あなたは非物理的な現実からやってきた  [TOP]

 直観というものを五感の観点から説明することは不可能である。なぜならば、直観は非物理的な世界の声であるからだ。よって私たちが直観を、非物理的な現実の存在を考慮せずに理解することは不可能なことである。魂やハイアーセルフに関しても同様だ。

 私たちはここまでの進化の過程のどこかで、たとえば「私たちの目では見ることができないほどに小さな生き物は存在するのだろうか?」という疑問に直面した。五感的観点からすれば、その答えは「ノー」だった。しかし、誰かがその答えを受け入れず、やがて顕微鏡を発明した。
 するとつづいて、「この自然界には、顕微鏡でもみることができないほどに小さなものは存在しないのだろうか?」という疑問がわき上がった。五感的知覚による答えはまたしても「ノー」だったが、私たちはそこでも歩みを止めることなく、原子や亜原子の発見と、それらに関する豊かな理解へと歩を進めた。

 非物理的な現実とは何なのだろう?
 それはあなたの故郷である。あなたは非物理的な現実からやってきて、やがて非物理的な現実へと戻っていく。そして、あなたの大部分は、いまも非物理的な現実のなかに存在し、そこで進化を遂げている。これは、この惑星に住む何十億もの人間すべてにいえることである。よって、あなたとほかの人たちのあいだの交流の大部分は、非物理的な現実のなかで起こっている。
 たとえば、もしあなたがある人物を思いやる思考をめぐらしたとしたら、そのときあなたは、自分の意識の質を変化させたことになる。そしてその変化は、その人物のエネルギー・システムにも即座に影響を及ぼすことになる。
 たとえば、父親を恨みつづけていた娘が、自分と父との関係に関する、より深い理解へと進化を遂げたとする。彼女に愛や責任といった重要なレッスンを学ばせるべく父親が演じてきたカルマ的な役割を彼女は理解した。そして、もし彼女の、自分自身を癒そうとする意図、および自分と父親との関係を癒そうとする意図が明確で深いものなら、その変化は、たとえ彼女が何も言わなくても、またたく間に何らかの形で父親に伝わることになる。
 そのとき父親は、意識的にはそれに気づかないかもしれない。しかし、彼は、自分の全存在を通じて、彼女の内側で起こっていることを感じとることになる。彼の意識的な心は、それを初めて体験する突然の感傷的な物思いとして知覚するかもしれない。あるいは突然、娘の子ども時代の写真に目をやり、理由もなく胸をつまらせる、ということもあるだろう。
 あなたはこの種のいわば情報交換を、あらゆる魂たちとのあいだで、また規模の違いはあるものの、人生で接触するそのほかのあらゆる魂たちとのあいだでも行なっている。あなたが自分のデータバンクの内容を変え、特定の魂に送る情報を変化させると、それはその魂のシステムによって即座に処理されることになる。あなたが発生させる内なる変化がほかの人たちに影響を及ぼすのは、このレベルにおいてである。
 それはどのようにして起こるのだろう?

 あなたは光そのものである  [TOP]

 あなたは、ほかのあらゆる人間と同様に、光のシステムである。あなたの光の振動数は、意識と連動している。あなたの意識のレベルが変化すると、光の振動数も変化する。もしあなたが、悪いことをしてきた誰かを憎みつづけるのではなく、許すことを決めたとしたら、そのときあなたは自分の光の振動数を変えたことになる。誰かに対するよそよそしさや嫌悪感を、好意や親近感に変えたときにも、あなたは自分の光の振動数を変えたことになる。
 感情は、その内容によって特定の振動数をしめすエネルギーの流れである。私たちがネガティブだと考える感情、たとえば、嫌悪、羨望、軽蔑、恐れといったものは、好意、喜び、愛、思いやりといった、私たちがポジティブだと考える感情よりも振動数が低く、パワーも劣っている。
 もしあなたが、たとえば怒りのような低い振動数のエネルギーを、許しのような高い振動数のエネルギーで置き換えたとしたら、そのときあなたは、自分の光の振動数を上げたことになる。あなたは自分のシステムを通じて、より高い振動数のエネルギーを流すことを選択したとき、より多くのパワーを獲得することになる。
 たとえば、人間は絶望しているとき、あるいは不安に脅えたりしているとき、肉体の消耗を感じてもいる。というのも、そのときその人間の内側では、低い振動数のエネルギーが流れているからだ。そのような状態にある人間は、体が重く、力が入らない。それに引き替え、喜びにあふれた陽気な人間は、自分のシステムを通じて高い振動数のエネルギーを流しており、そのために体が軽く、パワーに満ちあふれている。
 異なった思考は異なった感情を創造する。たとえば、仕返しをしようとする思い、暴力的な思い、他人を利用しようとする思いなどは、怒り、嫌悪感、羨望、恐れといった感情を引き起こす。それらは低い振動数のエネルギーであり、あなたの光、あるいは意識の振動数を低下させる機能をもっている。
 いっぽう創造的な思考、愛に満ちた思考、思いやりに満ちた思考は、感謝、寛容、喜びといった高い振動数の感情を誘発し、その結果として、あなたのシステムの振動数を高めることになる。
 もしあなたが、低い振動数のエネルギーを引き寄せるような思考をめぐらせつづけたとしたら、あなたの姿勢は、肉体的にも感情的にも悪化することになり、そのあとには感情的あるいは肉体的な病気がつづくことになる。
 それに引き替え、高い振動数のエネルギーを引き寄せるような思考は、あなたの感情的および肉体的な健康を保証するものである。
 振動数の低いシステムは、それよりも高い振動数をもつシステムから、自然にエネルギーを受け取る傾向にある。もしあなたが、あなたよりも低い振動数の持ち主といっしょにいて、自分の感情や思考に無頓着であったなら、あなたの振動数は低下を避けられない。言い換えるなら、そのときあなたは、自分のエネルギーの一部をそのシステムに奪われることになるわけだ。
 私たちはよく、暗い人間を描写する際に、「あの人といると疲れてしまう」あるいは、「あの人にはエネルギーを吸い取られてしまいそうだ」などと言ったりするが、あれは文字どおりの真実なのである。
 いっぽう、充分に高い振動数をもつシステムは、あなたを自然に落ち着かせ、穏やかにし、活気づけることになる。あなたのシステムに、そのシステムの高い振動数の光が注がれるからである。まさに光り輝くシステムである。

 非物理的な世界に関する説明を、光や振動数、低振動、高振動エネルギーといった言葉、すなわち物理的な光の研究を通じて私たちがなじむようになった言葉をもちいて行なうことは、たんなる隠喩的な説明にとどまらない。これは、その世界に関する説明を行なうための、とても自然でパワフルな方法なのである。なぜならば、物理的な光は、非物理的な光の投影にほかならないからだ。
 ただし、物理的な光は、あなたの魂の光とまったく同じではない。物理的な光は、ある一定の速度で飛行し、それ以上の速度では進めない。しかし、あなたの魂の光は、どんなところにも即座に到達する。娘が父親に対する思いやりに満ちた意図を抱いてから、父親の魂がその意図を理解するまでのあいだには、いかなる時間も存在しない。
 この瞬時性は、あなたの人生の重要な一部である。非物理的な現実のなかであなたが下す、自分のエネルギーをどのようにもちいるかに関する決断は、その影響が瞬時に周囲に及ぶことになる。

 すべての生命体がかけがえのない存在  [TOP]

 可視光が、振動数が累進的に変化する光のスペクトル内のほんの一部であるように、人間が存在している振動数域も、非物理的な光のスペクトル内のほんの一部を構成しているにすぎない。そして、その非物理的な光のスペクトル内のほかの周波数域のなかには、別のさまざまな知的生命体が存在している。
 ただし、それらの生命体は、私たちとは別の場所に存在しているというわけではない。赤外線や紫外線、マイクロ波など、私たちの目には見えない異なった振動数域の光が同じ場所で可視光と共存しているように、非物理的な光のさまざまな周波数域に存在する生命体もまた、同じ場所で私たちと共存しているのである。
 要するに、あなたがいま座っている場所には、人類以外のいくつもの異なった生命体、あるいは生命体グループが一緒に存在しているのである。それらはそれぞれ、みずからの現実のなかで活発に活動し、自身の方法で進化を遂げつつある。そして、それらの現実は、マイクロ波が可視光と共存しているのと同じように、あなたの現実と共存していて、やはり同じようにあなたの目では見ることができない。
 人類はいま、非物理的な光のスペクトル内の、ある振動数域から、別のより高い振動数域へと進化しつつある。これは、五感型パーソナリティーから多感覚型パーソナリティーへの進化である。多感覚型パーソナリティーは、五感型パーソナリティーよりも輝かしく、エネルギッシュである。それは、それ自身の魂の光を認識している。さらに、五感型パーソナリティーには見ることのできない生命体たちを知覚し、それらとのあいだでコミュニケーションを行なえる。
 宇宙は上端も下端もない階層構造をしていて、すべての階層のあいだで「より高度の認識レベルにある存在は、認識の拡大に努める低い次元の存在たちを援助できるし、そうすべきである」という合意が成立している。つまり、より高いレベルからの支援がつねに与えられているのである。あなたも間違いなく、このプロセスにかかわっている。ただし、あなたのパーソナリティーはそのことに気づいていない。なぜならば、これはあなたの魂のレベルで行なわれていることだからだ。

 五感型パーソナリティーは、階層構造内の階層を価値のレベルと結びつけている。階層が下であればあるほど価値がなく、他者を支配する能力に欠け、攻撃されやすい、というのが彼らの認識である。
 しかしながら、宇宙の観点からすると、あらゆる階層の生命体が同等の価値をもち、同等にかけがえのない存在である。ただし、高い階層に属する生命体は、低い階層に属する生命体よりも、鮮明に見る能力、愛と知恵のなかで生きる能力、そして、ほかの者たちが同じ愛と知恵のなかへと進化を果たすのを手助けする能力に長けている。

 あなたの魂をサポートするガイドたち  [TOP]

 人間の魂はみな、それぞれが複数の非物理的なガイドと教師をもっている。ガイドは、教師ではない。ガイドたちは、それぞれがいわば特定の分野の専門家たちであり、私たちの進化の助けとなりうる情報をつねに提供してくれている。

 非物理的な教師は、あなたを、あなたの魂へと果てしなく導いていく。それは、あなたの注意を「垂直な道」へと、また「垂直な道」と「水平な道」のあいだの相違点へと引き寄せる。
 「垂直な道」は認識の道である。それは、意識と意識的選択の道である。意識して自身の霊的成長をめざしている人間、意識してハイアーセルフを認識する力を高めようとしている人間は、「垂直な道」の上にいる。

 「水平な道」は、あなたのパーソナリティーを満足させる道である。たとえば、お金をためることのみに心血を注いでいるビジネスマン、あるいはビジネスウーマンたちは、「水平な道」の上にいる。

 自分自身のニーズ、たとえば自分自身の性的、あるいは感情的なニーズを満たすだけの目的で人間関係をつくりあげている人間は、どの人間関係も本質的には同じで、自分の人生のなかにいる人たちはすべて置き換えが可能である、という結論にいたるだろう。
 それは「水平な道」である。その道の上では、新しい体験が実際にはけっして新しくない。どんなに新しい体験でも、本質的には前の体験と変わらない。
 私はいま、「学習の機会となりえない状況も存在する」などと言っていない。あるいは、「水平な道を歩んでいる人間は永遠に真のパワーを手にできない」などとも言っていない。遅かれ早かれ、すべての魂が真のパワーへの意識的な歩みを開始する。そして、すべての状況がその歩みに貢献し、いずれは、すべての魂が真のパワーで満ちることになるのである。
 ガイドや教師たちは、魂の進化をあらゆる側面から支援する。魂がもつガイドと教師の数は、それが達成をめざしていること、および、それが到達しているレベルによってまちまちである。当然ながら、一般に、より規模の大きなプロジェクトを引き受けている魂ほど、多くの支援を必要としている。
 あなたの魂は、それ自身のガイドたち、および教師たちを知っている。あなたの魂は、あなたの人生を計画する際に、彼らの知恵と思いやりを頼りにした。よって、あなたはどんなときにも、愛に満ちた導きと支援を与えられている。どんなときにも、光のなかへと移動するよううながされ、激励されているのである。
 ただし、あなたが直面する決断はあなたのものであり、すべてあなた自身が下さなくてはならない。非物理的な教師たちは、あなたの人生を代わりに生きることもできなければ、そうしたいとも考えない。彼らは、あなたが人生のなかで行なうさまざまな学習を手助けするだけである。

《意図

 すべてが意図とともにスタートする  [TOP]

 形をもつもののすべてが物理的であるというわけではない。たとえば、思考も形をもっている。では、思考は何からつくられているのだろうか? 思考は、意識によって形づくられているエネルギー、または光である。いかなる形も、意識がなければ存在しない。
 光が存在する。そして光が意識によって形づくられる。これが創造である。エネルギーが、つねにあなたを通じて流れている。それは、あなたの頭の天辺から入り、あなたの体を貫いて下がっていく。あなたは静止したシステムではない。あなたは光の存在であり、あなたを通じて流れているエネルギーに休みなく形を与えている。あなたはそれを、あなた自身のひとつひとつの思考や意図によって行なっている。

 意図のもつ力は驚くほどに大きい。意図は、あなたの人生のあらゆる側面に影響を及ぼすさまざまなプロセスをスタートさせる。たとえば、もしあなたが仕事を変えたいとしたら、その変化は、それを起こそうとするあなたの意図とともにスタートする。

 あなたはその種の決断を持続的に下していて、あなたの瞬間、瞬間の体験は、本質的にはそれらの決断によって創造されている。
 結局、あなたの現実を創造しているのはあなたの意図なのである。

●著者のプロフィール  [TOP]

ゲーリー・ズーカフ GARY ZUKAV
 米国カンザス州生まれ。ハーバード大学を卒業後、ベトナム戦争に参加。1979年に書いた『The Dancing Wu Li Masters』でアメリカン・ブック・アウォード科学部門賞を受賞。量子力学を学びたい人たちのバイブル的な存在となった。1989年に発表された、人類の進化と魂に関する本書(『THE SEAT OF THE SOUL』)は、またたく間に全米のロングセラーとなる。1999年には『SOUL STORIES』を刊行。またもや全米のベストセラーとなった。以上の本の売上げ部数は会わせて450万部を超えており、世界16カ国でも翻訳されている。

 
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