会津武士道
「ならぬことはならぬ」の教え
星亮一・著 青春出版社 2006年刊 
★なわ・ふみひとの推薦文★ 
 この本には真正・日本人の姿が紹介されています。終戦後、占領軍(GHQ)の手によって完膚無きまでに破壊されてしまった「日本人の魂」とも呼ぶべき会津武士道の精神を、いつまでも心の奥底にとどめ、語り継いでいきたいと思います。
 会津武士道の郷・福島県が、東日本大震災による(と見せかけた)原発事故(私はテロと見ています)によって、土地そのものまで汚されてしまっているのは何とも口惜しいかぎりです。

 白虎隊の里

 山川健次郎の故郷、会津若松はなんといっても白虎隊の里である。
 戊辰戦争のとき、健次郎とほぼ同年代の少年たちが、城下を見下ろす飯盛山で自刃した。墓前は焼香が絶えず、会津若松を訪れる人は、必ずといっていいほどここに参拝する。
 墓前に立つと、人間の死がいかに厳粛で尊厳に満ちているかをいつも感じる。
 山川健次郎は国家をもっとも大事にした人間だった。
 戊辰戦争に破れた会津の人は亡国の民だった。国を追われ、放浪の生活を余儀なくされた。そこからはいあがった健次郎は、国家のために命をささげた白虎隊の若者たちを、生涯忘れることはなかった。

 幕末、悲劇の会津戦争を体験した。
 会津藩は幕府の命令で京都守護の大役を仰せつかり、年間1千人もの兵を京都に送った。京都には革命の嵐が吹き荒れていて、すべての人が尻込みをした。あえて火中の栗を会津藩が拾った。
 薩摩、長州との確執が深まると、兵員は2千人近くにもなる。失費も大変で、会津の領内は疲弊した。
 朝廷と幕府との間に立って懸命に努力をしたが、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らとの政争に敗れ、朝敵の汚名を着せられ無念の帰国となった。
 いきつくところは戦争だった。
 会津藩は老若男女も参戦し、必死の戦いを繰り広げたが、3千人の死者を出して惨敗した。
 武士の社会では、戦争もありだった。だが、この戦争には武士の情けがなかった。女分捕り隊や物品略奪隊まで編成し、城下を荒らし回り、死者の埋葬も許さない冷酷無残な戦争であった。それが、人情を大事にする会津人の心をひどく傷つけた。

 郡長正の自刃

 会津藩の教育制度は非常に厳格だった。
 サムライは上、中、下の3つの階級に分かれ、上士の者は下士の者を切り捨てる権利を持っていた。これはえらいことだった。自分の判断で相手を切り捨てることができた。しかしそのときの状況が一方的だったり、逆に上士に誤りがあったりした場合は、切腹だった。サムライには責任があった。たとえ子供であっても刀を差したら、悪ガキではすまなかったのである。
 会津戦争後のことだが、壮絶な切腹をした少年がいた。
 旧家老萱野権兵衛の次男郡長正、16歳である。
 権兵衛は戦争の責任を負って自刃、萱野姓は剥奪され、遺族は郡姓を名乗った。
 会津藩は消滅となり、青森県の地に斗南藩を創設し、会津藩の再興を期したが、極寒の地で困苦を強いられ、とても勉学どころではなかった。
 そこで豊前豊津藩に依頼し、明治3年、6人の少年を豊津藩校育徳館に内地留学させた。長正は「食べ物がまずい」と母親宛てに手紙を書いた。不覚にもその手紙を落とし、育徳館の生徒に読まれてしまった。「会津藩の恥辱」として留学生仲間からも糾弾された長正は、豊津藩と会津藩の剣道の試合で完勝したあと、「武士の名誉を汚した」と潔く自刃した。同じ会津の留学生が介錯した。
 武士の対面を汚した場合、たとえ少年であれ、腹を切る。そうした道徳、倫理観が徹底していた。
 育徳館は現在、福岡県立豊津高校となっており、校庭の一画に長正の碑がある。
 「まことに気の毒なことだった。しかし豊津高校生は、そのことを肝に命じ、今でも長正を慕っている」
 卒業生の一人はそう話し、この人は山川健次郎の胸像建設運動が起こったとき、九州地区の募金を担当した。

 遊びの什

 会津藩の子供は六歳から勉強を始める。
 午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、一カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。一人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。
 仲間は10人1組を意味する「什」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。
 遊びの集会場は什の家が交替で務めた。
 1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。

一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言をいうてはなりませぬ。
一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
 そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。

 この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。
 遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。
 家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。
 年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。
 このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。

 厳しい罰則

 その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。
 一、無念、軽い罰則は「無念」だった。
 「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びた。
 二、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。
 三、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供ではなく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だったのだ。
 罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、十石二人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。
 「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。
 会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。
 なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。

 凛々しい母親

 幼児教育は母親が受け持った。どこの母親も子供を厳しく育てた。
 母親たちは素読の稽古から帰ると、子供を先祖を祭る神前か仏壇の前に座らせ、「武士の子は死を恐れてはなりませぬ」と切腹の稽古をさせた。武士はいつでも主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。会津人の芯の強さ、頑なさは、こうした武士道教育にあった。
 「婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」という一節は、昨今の女性からは「封建的」とすこぶる評判が悪いが、これもこの時代では当たり前の社会風潮だった。
 男女の規範は薩摩も長州も同じである。男子は塾や学校があったが、婦女子は家庭で教育を受けた。親は娘に「凛々しくあれ」と説いた。子供たちは、そのような母親から教育を受けた。
 そして娘が嫁ぐとき、父親は娘に懐剣を渡した。一つは身を守るためだが、もう一つは、何事かあれば、家名を汚すことなく、命を絶てという意味だった。
 主君松平容保が京都守護職に就任した文久2年(1862)以降、母親の力はさらに強くなった。男たちが京都に出かけ、母子家庭になったためである。
 当初は1年交替だったが、薩摩や長州との抗争が激化するとともに、1年が2年になり2年が3年になり、父親の長期不在の家庭が増えた。必然的にこれらの少年の監督は、母親が受け持った。
 実はここが重要なところだった。母親や祖父、祖母が教師がわりだったので、頑固さの中にも優しさがあった。
 会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりだった。
 煙草のポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、こういうことの戒めを盛り込んだ新「ならぬことはならぬ」を幼児教育に取り入れれば、日本の混乱を救うことができるのではなかろうか。そう思わざるを得ないのである。

 柴司の切腹

 切腹は武士道精神の華といわれた。
 「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にあるように、切腹と武士道は密接不可分の関係になった。
 京都で会津藩士柴司が切腹していた。まだ20歳の青年だった。
 新撰組が池田屋を急襲し、薩長土佐などの浪士を斬った。元治元年(1864)六月五日のことである。風の強い日に京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて会津藩の本陣や新選組の屯所を襲い、御所に乱入して孝明天皇を拉致し、革命政権を起こさんとする陰謀を画策していた。これを未然に防ぎ、会津藩と新選組の名前は一気に高まった。
 その5日後の6月10日、祇園に近い茶屋明保野亭に長州勢が集まり密議をこらしていると急報があった。会津藩から柴司ら五人、新選組から15人ほどが茶屋に向かった。
 司は柴五郎の家の分家筋の家柄で、兄弟3人で京都に来ていた。
 明保野亭を取り囲むと、突然、2階から一人の男が刀をふりかざしてかけ降りて来た。男は垣根を飛び越えて逃げようとした。司がその男を追い詰めた。男が抜刀し、今にも切りかからん勢いである。司は槍の名手だった。司は咄嗟に男の胸を突いた。鈍い音がして男は倒れた。
 「拙者は土佐藩の麻田時太郎である。なにゆえの狼藉か」
 男が土佐藩と名乗ったことで、司は愕然とした。長州ではなかったのだ。
 「なぜ逃げられたのか」
 司の問いに麻田は黙ったままだった。
 麻田の懐中に鏡があり、司の槍はそれをかすめて脇腹を刺したので、決して重傷ではなかったが、即刻、土佐藩に知らせなければならない。
 会津藩から土佐藩邸に使者が飛び、状況を説明した。土佐藩は意図的に刺されたとして会津藩に厳重な抗議が申し込まれた。
 土佐藩の兵士のなかには会津藩本陣に攻め込め、と叫ぶものもいる、という。
 会津藩は再三、公用人を土佐藩邸に送り、偶発的な事件であり、土佐藩に対する悪意はまったくないと弁明し、麻田を見舞った。
 ところが土佐藩には戦いで手傷を負わされた者は、自ら切腹する習慣があった。武士にはいずこにも厳しい掟があったのである。
 このことが会津藩に伝えられ、事態は深刻になった。麻田が自刃すれば、司もこのままではすまない。事態を沈静化させるためには、司も自刃せざるを得ないことになる。
 司には何ら問題はなかった。
 しかし土佐藩の事情によって事態は意外な方向に発展し、結局、司も自刃に追い込まれた。武士とはそのようなものであった。兄たちは号泣した。
 藩当局はそのかわり次兄外三郎に10石3人扶持を与え、司に代わりて新規召し出しとした。
 長兄幾馬が母に宛てた次の手紙が残されている。

 母上さま、皆様にはいかばかりか、お嘆き遊ばされたと存ずるが、切腹の儀も残すところなく立派に終わることができました。君のために身命を投げ捨てたことが、諸家にも追々伝わり、皆、感嘆いたしております。このように天下へ英名を顕し、かつ外三郎が召し出しに成り、一家を起こすことができたのは異例のことです。これもひとえに司が士道に生きたために、かような御賞誉に預かったのです。誠に身の余りありがたき次 第です。かようなことなので、司のことはあきらめてくださるよう願い奉ります。

 現代語に訳すと、このような手紙だった。母は耐えなければならなかった。このことも、あっという間に城下に伝わった。武士の妻にとって、切腹は他人事ではなかった。いつ自分の子供にふりかかるかわからない身近な問題だった。会津藩では妻たちも覚悟が必要だった。

 安川財閥

 健次郎は生粋の教育者だった。
 人を育てることが、好きだった。現場で生徒や学生と触れ合うことに、喜びを感じた。
 明治39年(1906)9月のことである。
 東京の健次郎の自宅に財界の大物が来ていた。
 北九州の大実業家安川敬一郎である。
 安川は旧福岡藩士の家に生まれ、後、安川家の養子になり、福沢諭吉の慶応義塾に学び、石炭の採掘、販売で成功し、日支鉱業を起こし、日清戦争前後から海外に雄飛した。
 この日の用件は九州に、新しい実業専門学校をつくることだった。健次郎に総長就任を要請するため安川が上京したのである。
 安川がなぜ専門学校設立を考えたのか。
 1つは安川の知性である。安川は藩命によって京都、静岡に留学し、勝海舟に洋書の手ほどきを受け、福沢諭吉に学んだ経歴は、当時の社会では、希有のものだった。
 目にとまった森鴎外の論文にも啓発された。
 明治33年頃、鴎外は第12師団の軍医部長として九州小倉に来ていた。
 鴎外は福岡日々新聞に、「吾れもし九州の富人たらしめば」と題し、国の発展によってもたらされた財は、ため込んだり、無駄使いしたりするのではなく、国益のために使うべきだと訴えた。
 鴎外は日清、日露戦争の特需で利潤をあげた貝島、麻生、安川の「筑豊御三家」と呼ばれる炭田王に世の中のために金を使えと注文をつけた。
 安川はこの記事にも刺激を受けた。
 「これからの日本にとって、大事なことは人材の育成です」
 安川はおのれの信念を述べ、「その学校の総裁になっていただきたい」と単刀直入に、健次郎に協力を求めた。
 子孫のために美田を残すのではなく、国家のために貢献したいという安川の考えに健次郎は共感した。
 かねて私学の振興を考えていた健次郎は、全面的に協力すると安川に約束した。
 アメリカの財界人は教育に利益を還元するが、日本にはそういう気風がない。

 明治専門学校開設

 健次郎は東京帝大の全面的な支援のもとに、総裁として学校の建設に着手、明治42年(1909)、明治専門学校(現在の九州工業大学)を開校させる。
 財界人としての安川と、教育者の健次郎が見事に合体した専門学校だった。
 旧制中学校の卒業生、2百人が受験した。英語の試験は健次郎が自ら担当した。
 英語読解の試験に突然、やせ型の老人が現れたと思うと、流暢な英語で、飛行機が飛んだという新聞記事を読みあげた。それが健次郎だった。はじめて聞く本物の英語に受験生はただポカンと口を開けて老人を見つめるだけだった。
 第1回の人学生は採鉱科20人、冶金科15人、機械科20人の55人だった。
 競争率は4倍、優秀な学生を確保することができた。
 官立の高等工業学校は3年制だが、ここは4年制である。1年多くしたのも高度な技術者を養成するためだった。しかも、ここは全寮制だった。
 4年間、全校生徒が日夜をともにして、人間性豊かな技術者を養成せんと、健次郎が決めたのである。学生は毎朝5時にラッパの音で起床、全員で浴槽に飛び込んで冷水摩擦を行ない、それから朝食、授業開始という規律ある日々だった。
 東京帝大総長を務めた教育界の大御所が、朝から寮につめて生徒の育成指導に当たるのだ。
 周囲の人々は、その熱意に打たれた。
 健次郎でなければ、とてもできないことだった。
 会津藩の出身者のなかで、自分は恵まれた立場にある。
 その恩を社会に還元しなければならない。その思いが、健次郎の情熱をかきたてた。
 日本の近代化は、薩長だけでなしえたものではない。
 会津も頑張っていることを、世に示したかった。
 健次郎は教育方針として、徳目8カ条を定めた。それは会津藩校日新館の教えがベースになっていた。

一、忠孝を励むべし。
一、言責を重んずべし。
一、廉恥を修むべし。
一、勇気を練るべし。
一、礼儀を濫るべからず。
一、服従を忘るべからず。
一、節約を励むべし。
一、摂生を怠るべからず。

 列強に伍して世界に飛躍するために、必要なことばかりだった。
 明治専門学校の仮開校式で健次郎は、生徒と父兄に徳目8カ条を詳しく説いた。

 智育と徳育

 生徒諸君、入学おめでとう。
 本校は官立の高等工業学校に、決してひけはとらない学校である。
 諸君は設立者の安川氏の恩を決して忘れてはならない。
 わが校の方針は智育と徳育である。
 従来、学校は橋をかける人、鉄道を敷設する人、船に乗る人、法律に明るい人、鉱山を開く人など仕事のできる人の養成に当たってきた。しかし智育に重きを置き過ぎた結果、道義心がひどく悪くなった。そこで、わが明治専門学校は技術に通じたジェントルマンを養成することになった。諸君はこのことを、くれぐれも忘れないでもらいたい。
 本校の重点事項は、次の通りである。

一、忠孝を励むべし。

 忠君と孝行は人間、片時も忘れてはならない。
 今日の若者は孝行を間違えている。父母に対して愛と敬をもたなければならない。
 世界の強国はイギリス、ロシア、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本である。このなかで国力は日本が一番下である。しかし愛国心は一番である。
 愛国心を失ったとき、日本民族は滅亡する。

一、言責を重んずべし。
 いったん口に出したことは、必ず実行することである。
 日本国民は士族平民の区別なく、国防の任に当たっているから皆、武士である。
 武士に二言はない。これを忘れてはならない。
 外国から日本人は当てにならないといわれてはならない。

一、廉恥を修むべし。
 卑怯なことをしてはならない。
 おのれの利益のために、他人の利益を顧みず、不正なことをしてはならない。
 何事も、自分の良心に従って行動することである。

一、勇気を練るべし。
 勇気は決して粗暴の振る舞いではない。国家のために一命をなげうつ勇気である。
 勇気を練るには、狼狽しないこと、我慢すること、おのれに克つこと、考えることである。

一、礼儀を濫(みだ)るべからず。
 礼儀を軽く見てはならない。
 江戸時代、礼儀は大変重いものだった。ところが明治維新の戦乱で、社会の秩序がくずれ、礼儀を重んずることが薄れた。

一、服従を忘れるべからず。
 学校では師を敬わなければならない。
 わが明治専門学校の生徒は、先生に絶対服従である。
 それを忘れたときは、相当の処分を課す。

一、節約を励むべし。
 奢侈は亡国のもとである。
 ローマは大昔、盛んであったが、人民が奢侈に流れたため、滅びた。
 日本は貧乏国で20幾億という借金がある。
 同胞の数が5千万とすると、ひとり40円の借金である。
 もし明治37年に20幾億の借金があったなら、ロシアに対して、どうすることもできなかったであろう。
 ロシアは日本に対して復讐を考えており、わが国は節約し、いざという場合の国難に備えなければならない。

一、摂生を怠るべからず。
 第一に飲食に注意する。第二に清潔にする。第三に運動をする。これが大事である。
 追々、剣術、柔術、弓道場、テニスコート、水泳プールを整備する。

一、兵式体操
 諸君はいったん緩急あれば、国防に従事しなければならない。
 兵式体操はもっとも大事な教科である。

一、英語
 官立高等工業学校の英語は、申し訳程度のものである。
 わが校は英語を重視している。それは外国語を知らずして、新しい知識を得ることはできないからである。
 諸君は中学校で英語を学んでいるのだから、英語、フランス語などを自由に使えるようにしなければならない。
 諸君の入学試験の英語の答案はわが輩が調べたが、英語の力が弱かった。
 学校としては、1クラスの生徒数を30人から25人に減らし、英語の勉強に力を入れるので、生徒は十分に勉強してもらいたい。

 これらの方針に不同意の者は、入学を取り消してもらいたい。
 健次郎の訓示は、厳しいものだった。
 新入生は緊張して健次郎に見いった。
 学校の方針に従わない者は退学させる、と健次郎は厳しくいった。
 父兄も度肝を抜かれた訓示だった。
 こうして明治専門学校は開校した。寮生活を通じて先輩、後輩の結び付きも強く、この学校は独特の校風を形成していった。
 
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