神の理性
ジナ・サーナミラ・著 大自然界・訳
たま出版
 
★なわ・ふみひとの推薦文★
 本書には私が当サイトを通じて発信していることのエキスとも言える内容が述べられています。現代社会の行き詰まり現象に心を痛めながら、新しい時代の息吹を模索されている方にお奨めしたいと思います。

  世界中多くの人々は、宇宙人たちが他の天体から地球を観察するために来ている可能性を信じている。UFOが地上に降りて、宇宙人が現れたということも、かなり報告されている。驚くべきことには、世界中の数多くの聖典には、キリスト教聖書も含めて、同様な記述がある。

 その例として代表的なものは、エゼキエル書第一章である。

 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。彼らはおのおの四つの顔をもち、四つの翼を持っていた。(以下略)

 聖書に記されているこの声や出現は、本当は神や天使ではなく、地球の原始的人々の文明化を助けるためにやってきた宇宙の訪問者ではなかったろうか?

 ヒンズー教の宗教的経典『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』には、多くの宇宙船の記事があり、すべての形やサイズまで説明されている。エスキモーの最初の種族は金属の翼の神によって北へ連れて来てもらったと言っている。初期のアメリカインディアンの伝説では、雷の鳥が火と果物を彼らに運んで来てくれたことになっている。

 人類は軍隊を持ち、軍事的破壊、環境破壊、産業公害、化学的汚染、大気汚染、水質汚染、海洋汚染、土壌汚染、人口爆発、過度の機械化等々のことを、科学技術を駆使して行なっており、全生物の生存が危ぶまれるほど地球を荒廃させているのだ。
 この危機的状況を救うためには科学と宗教の観念を逆転させることが必要かつ緊迫していることだと宇宙の訪問者は思うだろう。
 しかし、宇宙の訪問者である彼が意味したのは、狭い宗教宗派の独善的で非理性的な宗教的観念や価値観ではない。彼が意味したのは最も基本となる永遠普遍の大自然界の真理法則である。全宇宙に普遍妥当性のある洞察や視点である。
 例えば、キリスト教で黄金律と言われている「自分が他の人からしてもらいたいことを、他の人にせよ」というようなものである。愛の観念の未発達である人間の性格や利己主義に凝り固まった性格を考慮すれば、「自分が他の人からしてもらいたくないことを、他の人には絶対するな」と言ったほうがより効果的かも知れない。
 ショーペンハウエルやシュヴァイツァー博士によれば、この宗教的ルールは人間だけではなく全生物や全存在に当てはめることが必要であると主張する。植物・動物・魚類・鳥など生命ある全ての存在と、さらに大気・水・海洋・土地など全ての存在に対してである。なぜなら、全宇宙の全存在は大自然界の大いなる生命力(生命エネルギー)によって構成されているからである。大自然界の大いなる生命力の営みがなければ、全宇宙・物質現象界そのものが存在しない。すべてはこの大自然界の大いなる生命力によって創造されているのだ。
 海も山も川も大気も全てが、本質的には私たちと同様に生命ある存在なのだ。地球・太陽系・銀河そして宇宙全体が、本質的には生命ある存在である。

 他に与えたものは、やがて自分に返ってくる。したがって、他から自分がしてもらいたくないようなことを他に与えれば、やがて自分に帰ってくる、というこのルールを「循環の理法」という永遠普遍の真理の次元まで高めて理解・認識したらよいだろう。大自然の全ては「循環の理法」によって成立している。大気・海洋・水・地球・銀河など全てが循環し、大宇宙全体が循環している。
 「循環の理法」は大宇宙の全てに通用し、全ての現象や存在に当てはめることができる永遠普遍なる真理なのだ。新しき理性の時代には、人類が大自然界の真理法則を基に生存のあり方を考える必要があるだろう。なぜなら、私たち全生物は大自然界の力と働きによって活かされて生きているからだ。
 大自然界の「循環の理法」によって、蒔いた種は必ずその通りに循環して生えてくる。麦を蒔けば麦が生える。麦の種からは麦しか収穫できない。黄金律もこの「循環の理法」に基づいた訓戒であるのだ。人間がもし大気を汚染したら、汚染した大気が人間を汚染する。「循環の理法」である。
 この大自然界の真理法則を知らずに、地球人類は今大気や海洋や土壌を汚染し続けているのだ。人類は必然的に自分たちが行なった種の結果を受けることになるのだ。全生物に対して人間がマイナスの行ないをすれば、その結果は必ず返ってくる。
 生命とは力と働きそのものである。生命はエネルギーである。生命エネルギーは「エネルギー保存の法則」によって永遠になくならないものである。したがって、私たちの生命は永遠普遍に循環を繰り返すものと推論することができる。古今東西のさまざまな宗教で言われてきた輪廻転生という観念は、大自然界の「循環の理法」に立脚した考えである。このことを黄金律と考え合わせて、今後の人類の科学技術の使い方や行動を考えるべきだと思う。

 人類が犯している事柄は、生命に対する冒涜と、生命を与えてくれた大自然界、つまり神に対する冒涜である。
 人間は食料を生産するために、酪農や養鶏などの技法を科学的に開発発展させた。それは人件費を節約し、より大きな利益をあげるための科学的方法である。養鶏の場合、鶏は自分の体が回れない程の小さなワイヤーのカゴの中に入れられ、太陽の光を受けることも、大地を自分の足で踏むことも、自由に動き回ることも出来ずに一生を終わるのだ。餌は化学的に配合されたものであり、卵の増産のために、昼夜を分かたずに電灯が明るくつけられている。
 養豚の場合も同様である。生まれた子豚は直ぐに母親から離され、人工的な管理のもとに、人間の嗜好に合った肉になるための飼育がなされるのだ。人間は生命科学と言って、人間の食べやすいように、あるいは利益が上がるように、品種を改良する。それは、決してその生物の発展のためではないのだ。この青く輝く地球の上で、人間は自分たちが楽しむために、人間以外の他の生物の生きる権利を奪って悪魔的な生き方をしているのだ。
  命に対する冒涜を行なっているのは、世界中で日常行なわれている科学実験の研究所であろう。アメリカ議会の調査委員会の報告によると、実験のために動物を壁にぶつけて衝撃の実験を行なったり、飢餓状態での反応を調べたり、焼いたり、凍らせたり、盲目にしたり、溺れさせたり、無理に泳がせたり、死ぬまで走らせたり、異常に興奮させたり、眠らせなかったり、放射線をかけたり、皮を剥いだり、その他ありとあらゆる手段で苦しみと恐怖を与えている。医学研究では、手術を行なった後に、肉や骨を砕くほどの衝撃を与えるなどの実験も行なわれ、動物たちの痛みや苦しみに対しては何ら考慮が払われない。これではまったく悪魔的行為といわざるを得ない。

 科学や医学の発展のためにはこのような実験が必要だ、という人たちもいる。しかしこのようなことに反対する人たちの中に医学者も含まれている。その中のひとりチャールズ・メイヨー博士は「私は生体解剖に嫌悪感を感じる。科学の進歩や発見は生体解剖という野蛮で冷酷な実験がなければできないものではない。このような行為は悪魔の仕業である」と語った。
 動物に痛みがなければ、動物実験を行なってもよいのだと正当化したのは、17世紀の哲学者デカルトであった。この地球という惑星の歴史上、男性の哲学者が多くの愚論を表明してきたが、デカルトのこの発現ほど愚かしいものはないだろう。更にカトリックの高僧たちは、「動物には霊魂がない」と言って動物実験を正当化した。この憶説は全く根拠のないものである。動物に霊魂があるなしにかかわらず、彼らは明らかに情緒的・感覚的反応を示す。このことだけでも、動物虐待はすべきではないという十分な理由なのだ。

 マハトマ・ガンジーは「生体解剖とは、神と神の創造物に対して人間が行なったすべての罪のなかでも最大の悪と思う」と語った。しかし、このような思想家たちは少数ではある。今こそ人類すべてが、この倫理的道徳観に目覚めるべき時だと思う。

 人間は、生命の尊厳性なしには来るべき水瓶座、理性の時代を経験できずに滅んでしまうであろう。「(神の創造せし)いと小さきものに対して(マイナスを)行なう者は、私に対して行なうことである」とイエスは語ったと記されている。

 新しい時代には肉体的死の恐怖は人類にとって一切なくなるだろう。なぜなら、人びとは自己の本質が生命そのものであることを理解し、自己の生命の永遠性を実感できるからだ。したがって、現れては消え、消えてはまた現れる物質界への執着心はなくなるだろう。物質や肉体は生命の霊的成長発展と素晴らしき味わいを収穫するための材料であることを知り、人類は今日一日の生存の味わいを互いに喜びあって通れるようになるだろう。人生の色々な問題は苦しみ悩む材料として受けとめられるのではなく、自己の生命の霊的成長発展のための価値ある材料として解釈判断され、人類が持っていた今迄の事情や身情というマイナスの観念はなくなるだろう。
 新しい時代には大自然界の大生命の存在は生命の大親として誰もが生命的愛の感動をもって実感し、地球は生命の喜びの惑星となるだろう。人類がかつて持っていた罪の子、因縁、業生、罪汚れという宗教的なマイナスの観念は転換されて、全てが大親である大生命の神性なる生命の御子としての観念をもって通るようになるだろう。

 人類が大自然界の「循環の理法」を悟る事により、マイナスを行なう者達が居なくなるだろう。なぜなら、自分が他に対して行った事が自分に返る事が判るからである。他にマイナスを行なったら必ず自分に返ってくる。他の生命に対してプラスを行なえば必ずプラスが返る。
 人々は次元の低い意識で他に対してマイナスの事を行なっても価値がない事を大自然界の真理法則によって悟るようになるだろう。従って現在の地球上にある様な犯罪は殆どなくなると思う。物質界の人間社会の金・地位・財産・権力などに執着すればする程自己の生命の霊的段階が低くなる事を悟った人類は犯罪やマイナスの事をしなくなるだろう。消え去ってゆく物質界の事柄や人間社会の事柄に執着して自己の本質である生命の霊的段階を低下させる事の虚しさを悟るからである。偉大なる始祖達が行なったように、生命的愛をもって他のために一生を役立てる事の価値を悟るからである。
 新しい時代には人類は宗教宗派を超越し人間・動物・植物の差異も超越して、全てが大自然界の大生命の大親心を悟り、互いの霊的成長発展の為に尽くし合う惑星地球になるだろう。
 物質現象界の地球における生存の目的は自己の生命の霊的成長発展を行なう事である。肉体や物質に囚われたり、執着したりする肉体的生存の段階から生命的次元・霊的次元の生存の段階へと止揚してゆく事が成長発展である。

 物質的・肉体的生存の段階とは、物質や肉体に囚われた生き方である。自己の欲求の段階が低いのだ。人間社会の物・金などの物質や肉体に執着した人生は自己の生命の霊的段階の低下である。物や金などを他の生命の為に役立ててこそ価値がある。
 もともと地球も銀河も大宇宙も物質界の全ては生命の御子らの霊的成長発展に役立てる為に大自然界の大生命が創造された存在である。それ故に生命ある御子らが素晴らしき生存の味わいや喜びの為にプラスし合って使用する事が大自然界の理に叶った生き方である。現在の地球人類はこの事が悟れていない。
 人類はこれまで戦争の歴史を通し土地や金や物を奪い合って来ているのだ。新しき理性の時代にはこの事を悟り、互いに助け合う為の材料として土地・金・財産などは使われるようになるだろう。この一生を通して他の生命の役に立った分だけが自己の生命の霊的成長発展であり、肉体的・物質体的に生きた生命的・霊的収穫なのである。

 
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