霊は存在する、しかし
近藤千雄・著 潮文社 2000年刊
★なわ・ふみひとの推薦文★
 本日ご紹介した内容は、巷間でもっとも誤解されやすい「守護霊」「背後霊」といった言葉の真の意味について解き明かしています。著者(故人)はこの道で本格的な修行を積んでいて、我が国におけるスピリチュアリズムの研究家としては第一人者と言ってよい人物です。ご一読ください。

 背後霊はどういうことをするのか

 “背後霊”という用語はたぶん浅野和三郎が用いはじめたものと思われるが、要するに見えざる世界から人知れず人間を個人的に世話している霊のことである。
 これには守護霊を中心にして指導霊と支配霊とがいる。もっとも霊界側にしてみれば自分は守護霊である、あなたは指導霊である、彼は支配霊であるといった、名称上の区別をしているわけではなく、あくまでも人間側から便宜上そう区別しているに過ぎないことを承知しておいていただきたい。
 いずれにせよ、背後霊というのはもともと本人のためを思って付いている、いわば“善霊”を意味するのであるが、最近はそれが俗にいう“因縁霊”のことにまで用いられるようになってきた。
 所詮は用語の解釈の問題にすぎないので、どういう意味で用いているかが明らかであれば問題はないのであるが、そこにどうも気になる誤解もからんでいるようなので、ここで解説しておきたい。

(1)守護霊の仕事

 “守護”ということの意味

 守護霊のことは英語でもガーディアン、またはガーディアン・エンゼルと呼んでいて“守護する霊または天使”ということになっているために、日本だけでなく欧米でも、とかく、何でもかでも守ってくれる霊という印象を抱きがちである。
 しかし、それが事実でないことは現実を見ればわかることである。もしも守護霊が本当にわれわれを災難に遭わないように、病気にならないように、不幸にならないように守ってくれているとしたら、こんなにまで地上に悲劇や病気は起きないはずである。
 が、現実には毎日のように事故が起きたり病気になったりしている。苦しみのあまり自殺する人もいる。一家心中する家庭もある。いったいその家族の守護霊、とくに父親の守護霊はどうしているのかという疑問が生じてもおかしくはない。
 しかし少なくともスピリチュアリズムでは“守護”の意味を、あずけられた人間がこのたびの地上生活における所期の目的を果たす――言いかえれば天命を全うするように導くことと解釈しており、そのためには敢えて病気にさせることもあるし、どうしても苦しみは避けられなくて、心を鬼にしてただ見守るだけという場合もあるし、窮地に陥っても、みずからの力で脱出するのを見守っているということもある。

 守護霊も全知全能ではない

 守護霊といえどもかつては人間だったのであり、現在でもなお大なり小なり人間性を残している。けっして全知全能ではなく、したがって指導に絶対に手落ちがないとはいいきれず、配慮に知恵が足りなかったという市態も十分ありうる。
 その点は地上の人間の親と子の間の関係と同じで、立派に成人させるためには親は子をどう育てるべきかについては親によって違ってくる問題であり、また、こうだという信念のもとに育ててもそれが間違いである場合もありうるし、知恵が足りない場合もあるであろう。
 それと同じことが守護霊と地上の人間との関係にあり、必ずしも思う通りにはいっていないようである。これには二つの重大な要素がからんでいる。

 自由意志の問題

 その一つは、人間は理性的判断力が芽生えた段階から一定限度内の自由意志が生じているということである。人間界の法律のように“与えられる”性質の自由ではなく。生得の能力として、みずからの意志で選択する自由が生れるのである。
 その自由だけは、たとえ守護霊といえども侵害することは許されない。
 もっとも、これは地上界でも同じで、親や先生から“それはいけません。おやめなさい”と言われたら素直にやめるかといえば必ずしもそうとは限らない。みんなやはり自分の判断でやっている。
 しかし自由には責任が伴う。つまり、みずからの意志で行ったことによって生じる結果については責任を取らねばならない。
 ところが他方には、さきに述べたごとく、守護霊としてその人間の天命を全うさせる責任がある。そこでそのための埋め合わせ、やりくりといった手間をかける必要が生じてくる。
 強いて人間界の事情にたとえるならば、ヨチョチ歩きをはじめた子供を追いかけまわしている母親にも似ていよう。危険がいっぱいで、現に転んでケガばかりしているが、所詮その行動範囲もケガの程度も知れているということである。

 カルマの問題

 もう一つ重大な要素として、カルマの問題がある。カルマとは、右の自由意志の問題の中で述べたように、自分の選択によって行うことには責任が伴うのであるが、その選択が間違っていた場合、言いかえれば摂理に違反している場合に生じる結果に対して十分な責任を取らずに残していった、言うなれば地上にあずけたままの“質”のようなものである。
 もっとも、一章の“心霊現象を研究した学者たち”の中のマイヤースの項で引用した“類魂説”の一節の中で述べられているように、類魂の一人である守護霊自身が残したものである場合も考えられる。
 いずれにせよ、それに対する償いをしなければならない時機が到来した時は、守護霊といえどもかばってやることは許されない。禁じられているという意味ではなく、不可能なのである。そういう摂理になっているのである。
 五章の心霊治療の中で述べたように、“治らない病気”の原因の一つにこのカルマがあり、たとえ無邪気な幼児であろうと純真な乙女であろうと、あるいは真面目一方の篤志家であろうと、その前世での“質”を返しきるまでは絶対に治らないのである。そして守護霊もその苦しみを分かち合うのである。
 さて守護霊は類魂の一人であり、右のような責任ある仕事を遂行できる霊格と霊力とを身につけた、比較的高級な霊である。その霊が自分の修行もかねて、地上に降誕した未熟な類魂の一人を生涯にわたって、さらには死後もずっと面倒をみることになるが、人間の親でも子供の成長に合わせて学校へ通わせたり、家庭教師をつけたり、音楽の先生のところへ通わせたり、絵を習わせたり、その他、要するに親自身に出来ないことをその道の先生にお願いするように、守護霊もその人間の発達に合わせて、自分よりも能力的にふさわしい霊に指導を依頼することがある。
 それが指導霊である。

(2)指導霊の仕事

 指導霊は一般の人間の場合と霊媒の場合とに分けて説明した方がよさそうである。

 一般人の場合

 一般人の場合は至って常識的なことが行われていると思えばよい。赤ん坊の時代は母親の指導霊が一切の面倒をみるケースが多いが、幼児期に入って友だちが出来はじめるころになると、幼児期に他界した霊が当てがわれて、いっしょに遊んでいることが多い。五感が完全に発達しきっていない間は心霊能力を無意識のうちに使用しており、親の目には見えなくとも子供は霊界の子供と遊んでいることが多いものである。
 やがて学校へ通いはじめると、勉強の方で指導する霊が当てがわれるのが普通で、その意味では親はなるべく干渉しない方がよいのであるが、最近の親は学業を一種の宗教的信仰のごとく狂信的になって、成績の上がり下がりに一喜一憂し、特定の学校へ行くことを目標にして次から次へとお膳立てをしていく。
 が、すでに述べたように人間一人一人のこのたびの地上生活には前世とのかかわり合いのもとでの目標、いわゆる天命があり、総監督である守護霊にはその天命を全うさせる責任があり、それを最優先させた上で指導霊を当てがっている。
 勉強の成績がいいばかりが人生の成功のカギでないことは実社会を見れば明白である。一流校へ行くことばかりが幸福への道ではないことも分かりきったことである。したがって指導霊は、運命的にエリートコースを歩むことになっている場合(そういう人物も中にはいるはずである)は別として、大半の人間の場合はそれはまったく別の目標をもって指導するものである。
 私はこれまで三十年間にわたって心霊関係の英書を翻訳するかたわら、中学生と高校生を対象に私塾という形で英語教育を続けてきたので、現代の日本の英語教育の中身と受験戦争の実態を知悉しているつもりである。
 そして、やはり親がスピリチュアリズム的な人生観をもつ以外に打開の道はないことを痛感している。

 霊媒の場合

 さて、これが霊媒という純然たる霊的な仕事をする人間の場合になると、かなり様子が違ってくる。霊が人間を道具として、ある使命のために指導するのであるから、何といっても心霊的能力そのものを開発させる必要がある。
 が、それと同時に大切なことは、それを阻止せんとする邪霊・悪霊による誘惑に負けないだけの霊格を身につけさせることである。                  その一例として二章で紹介したステイントン・モーゼスの場合を詳しく紹介してみよう。

 モーゼスの背後霊団

 モーゼスはジョージ・オーエンと同じく初めは英国国教会の牧師だった人で、教区民から絶大な信頼を得ていたが、何度も大病を患ったことが原因で辞職した。その病気療養中にスピリチュアリズムを知り、最初のうちは反発を覚えていたが、みずからの霊的体験も手伝って次第に関心を深めていき、そのうち自動書記能力が出はじめた。
 それからほぼ十年間にわたって断続的に綴られたものの中からモーゼス自身が編纂したのが『霊訓』である。
 その内容は、モーゼス自身がオックスフォード大学で学び、卒業後牧師として赴任してからさらに深く研究し、信者にも説き、それによってみずからも身を修めてきたキリスト教の教理と真っ向から対立するものだった。
 不満でならなかったモーゼスは“質問”の形で反論を試みた。それに対してインペレーターと名のる最高指導霊が威厳と情愛にあふれる態度でこんこんとキリスト教の間違いを指摘し、それに代わって正しい霊的真理を説くのだった。
 モーゼスはそれが容易に承服できず、繰り返し反論し、それに対してインペレーターも最大限の寛容的態度で返答するということが積み重ねられた。それがモーゼスの精神と肉体に影響を及ぼし、気分転換のための旅行までしている。
 一方霊側もモーゼスのあまりの頑迷さに手を焼いて、一時は霊団の総引き揚げの最後通告を出すほどの熾烈な闘いの様相を呈するまでに至った。が、その間に他界したモーゼスの友人の霊界における執りなしによって事無きを得ながら、ついに十年間に及ぶ顕幽間の一大論争もモーゼスの納得という形で終息した。『霊訓』はモーゼスの次の言葉で終わっている。
 《本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この『霊訓』は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかもしれないし受け入れられるかもしれない。が、真摯にそして死に物狂いで真実を求めんとしてきた一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在がたゆむことなく働きかけそして遂に成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。》
 さて最高指導霊のインペレーターによると、モーゼスの背後霊団は総勢四十九名から成り、七名ずつで七つの小霊団を構成し、各霊団に役目が割り当てられていた。
 たとえば思想的な面を指導する霊団、幅広い知識の習得を受けもつ霊団、人間性を豊かにさせることを受けもつ霊団、等々に分けられていて、最も低い次元を担当するのは、いわゆる心霊現象を起こさせる霊団だった。

 指導霊の入れ代わり

 この霊団に関する説明で興味ぶかいのは、たとえば心霊現象を担当するのは地縛霊的状態から脱出したばかりで人間臭が抜け切っていない者が主で、その仕事の中での高級霊の接触を通じて更生への道を歩んでいたということである。すっかり更生した者は別の次元の仕事を与えられ、代わって新しい未熟霊が補充されるということが繰り返し行われていたという。
 結局六人の高級霊が六つの霊団を監督・指導し、その全体をインペレーターが総指揮していた。が実はさらにもう一人、プリセプターと名のる超高級霊が背後に控えていたらしい。それについては多くを語ってくれていないが、私の憶測によれば、それがモーゼスの守護霊であろうと思う。
 もっともインペレーターを含む七人の高級霊もみなモーゼスとともに同じ類魂に属していたことは間違いないであろう。

(3)支配霊の仕事

 よく指導霊と混同して使用されるものに“支配霊″がある(“支”を“司”と書くこともある)。英語でも同じことで、ガイド(指導霊)とコントロール(支配霊)とがどっちつかずの使われ方をしていることが多く見かけられる。
 が、前にも言った通り元来そういうふうに色分けされた霊が存在するわけではなく、人間が便宜上そう呼んでいるだけなので、用語にあまりこだわる必要はない。指導霊でもあり支配霊でもある場合もあるのである。

 霊媒の専属支配霊

 これは入神霊媒つまり無意識状態において霊がその身体を使用する現象を専門とする霊媒の場合に、霊言現象であればその発声器官を、自動書記現象であればその腕を使用して通信を届けてくれる霊のことで、いつも同じ霊である場合と考えればよい。モーゼスの場合はインペレーター、バーバネルの場合はシルバーバーチがそれである。
 もっともシルバーバーチは指導霊的な役割も果たしていた。何しろバーバネルが母親の胎内に宿った瞬間からそのための準備を開始したのであるから、バーバネルの精神的機能ならびに心霊的能力はすなわちシルバーバーチのものと言ってもよいほど完全な一体関係にあり、その霊言の純粋度は百パーセントに近かったと言えよう。

 通信霊

 それとは別に、その支配霊の許しを得た上で一時的に霊媒の身体を使って地上の肉親と語り合ったり通信文を書かせてもらったりする霊がいる。これを通信霊と呼んでいる。入れ代わり立ち替わり、まるで霊媒の身体を電話器かタイプライターのように使用することになる。
 もっとも、ぜひとも認識しておいていただきたい大切なことは、霊なら誰でもいつでも通信できるとはかぎらないことである。霊媒の身体を使用するにはそれなりの技術と練習とエネルギーがいるのであり、それが出来ない霊も当然いることになる。その場合は専属の支配霊が取り次いでくれることになる。
 ごく最近の英国の心霊紙サイキックニューズ(一九七八年八月二十二日付)をにぎわした話題の一つに、エルビス・プレスリーの十周忌を記念してプレスリーの霊を呼び出す交霊会を国際的にやろうということになり、英国からもよい霊媒を世話してほしいという依頼がサイキックニューズ社に電話で届けられた。
 が、編集主幹のトニー・オーツセンはそれを一蹴し、編集手帖の中でそうした非常識な催しを批難してこう述べている。
 《霊というのはこちらから呼び出せるものではない。向こうからちゃんとした計画をもって出てくるのである。それが理解できないような霊媒はもう一度霊能養成会に戻って一からやり直すしかない》
 
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