エドガー・ケイシーの
人生を変える健康法
福田高規・著 たま出版 1993年刊
★なわ・ふみひとの推薦文★
 エドガー・ケイシーは催眠術にかけられた状態で、病気の相談に訪れた人の治療法や食事の改善、運動の必要性などを的確に処方したとされる人物です。その処方箋の内容のことを「リーディング」と呼んでいます。くわしくはネットで確認してください。ケイシーに関する書籍は本書以外にもたくさん出版されていて、私の書棚にも数冊が並んでいますが、本書は具体的な健康法について述べられているのが特徴です。いま我が国は多くの人が病気予備軍となりつつありますので、参考になる書籍として推薦いたします。

 病気の最大原因は恐怖心

 誰でもそう感じていて、まさにそのとおりのことは、病気になってしまってからそれを治そうとするのは大変な仕事だということである。特に人生の態度・理想・感情のコントロールのように目に見えない分野の調整が困難で、大小さまざまな落し穴が私たちを待っている。
 そこで健康なうちから心身の健康を人生の大きな理想として、明日のため、今日の暮らしの中で、時間をつくって暝想し、運動し、良い食事をとり、自分がどこから来てどこに行くのかを知って、最後の日まで元気に暮らしてゆきたいものである。
 リーディングは、私たちが行なうことや思うことは、一つのこらず私たちの全人格に関係し、また食べるものは思想に影響をおよぼし、食物と思想はともに、行動、感じ方、容ぼう、外観にも影響する、という意味のことをくり返し述べている。そこで当然、食べるものや思想に間違いがあれば、確実に私たちの人生の途上に困難や病気が現われることになる。

「感情というものはひどいものだ。理想でしっかりと制御しなければ、足をすくわれてしまう」

「実のところ、この実体の態度が身体の状態に影響を及ぼしている。周囲の人を嫌わなければ、胃や肝臓を痛めることはない。ねたまず、他の人の怒りを許す人は消化器の具合を悪くしないし、心臓の変調をおこさない」

「恐怖は、それが自分の自信のなさから来ようと、自分が他人にどう思われているか、どう見られているかという不安から来ようと、人間の大多数の病気の根元である」

 病気とは、ある日突然にやってくる侵略者でも悪魔でもない。身体や自然の法則に反した行ないから起きる。たとえていえば、熱いものにさわったらやけどをしたというほどの因果関係にある。同様に心の法則に反した思いによって心は大やけどを負い、それが肉体にも現われてくる。
 法則に反した行ないや心の結果は、ときには無意識の中に生きているが活動はしていないタネとなってしまいこまれ、忘れさられてしまう。私たちの無意識の土の中には良い種ばかりではなく、今日、あるいははるか昔にとり入れた恐ろしい種も宿っていて、狂気の爪を出す時期を待っている。その時は今日かも知れない。忙しさ、運動不足、睡眠不足、栄養のかたより、不注意、飲食過剰、短気、怒り、あざけり、自分勝手、恐怖心。恨み、憎しみ、他人を見くだすこと。怠慢、悪意――これらは、私たちの創り主であり健康をもたらす力である生命エネルギーの働きを弱めてしまう破壊的な力である。私たちの心が破壊的な力に左右されていて、支配下の神経系がこの影響を受けているとするならば、どうして健康が保てようか。
 これらのうちでも、病気の種として無意識の中にひそんでいる私たちにとっての最大の敵は恐怖心である。そして先に述べた破壊的な力の一つ一つをふり返ってみれば、それぞれの底辺に恐怖が横たわっていることがわかる。
 忙がしさにかりたてているのは何であろう。将来への不安か? 睡眠不足の原因は? 運動不足はエネルギーの出しおしみか、それとも時間がないというのだろうか。栄養のかたよりは嫌いなものを食べられないからか。不注意は考え過ぎか、考えがいたらないのか。自意識の過剰ではなかろうか。不注意なことをしたことにより、他人や自分に対する恐れが発生していないだろうか。短気は自分や他人を信頼できないからか。――という具合に問いかけてみれば、その影に恐怖がかくされていることがわかる。
 そしてそのどれもにいえることは、病気のときに身体の組識や器官の中で起きている不調和やリラックスのなさが、そのまま私たちの心の中にも起きているということである。私たちの多くは気づいていないが、私たちが他人をあざけったり、恨んだり、見くだしたり、憎んだり、悪意を持ったとき、実は自分の生命に対してそのようにしたのである。それらは調和と協力に反することであり、間違いなく私たちの無意識という土の中に恐怖という種をまいたのである。同様に利己主義や自意識の過剰は、生命エネルギーや他の人との協力、調和がないことから、恐怖の手を握っていることになる。
 私たちに恐怖があるときは緊張がおこる。その緊張は交感神経系、脳脊髄神経系の神経節に不調和をもたらし、その支配下の器官にも不調和、不協力、緊張を強いているのである。
 このように心身にとって最大の敵である恐怖は、私たちの上に大きくおおいかぶさって、実際に髪を白くしたり、心臓を止めたり、膝を曲がらなくしたり、食事もできなくしてしまう力である。けれども恐怖の闇をはらうのには、いま私たちの内で活動している唯一で無限の生命エネルギーを認めるという光があれば充分である。恐怖はこの世界には存在せず、明らかに私たちの心が作り出した実質のない幻影に過ぎないものだからである。

 恐怖心はだれもがもっている

 恐怖というと、私には恐怖心なんてないとたいていの人はいうが、それなら自分や他の人たちに対する心配といいかえてもよい。将来の心配、交通事故や病気の心配、しなくてはいけないことの心配、自分の責任をはたせないのではないかという心配など、心配の種はつきることがない。
 これでもまだ、私には何の心配もありませんといいはる肩こりさんや腰痛さんがいる。その人たちのためには緊張といい直したらよいかも知れない。
 世の中は広いし一すじなわではいかない。私は緊張なんてしていませんという頭痛さんや神経性の胃炎さんがいる。その人たちには落着きのないことといいかえねばならない。
 財産があって働かなくてもよい、あるいは仕事は遊びみたいなもので、そばには愛してくれる夫もいる、かわいい子供もいる、それでも心臓が……という人たちも多い。その人たちには、感謝の心や自分のもっとも大切なものを与える気持の欠乏といいかえた方がよい。そのような人たちに「あなたの一番大切なものを出さなければ」というと、お金とかダイヤモンドとか土地のことと考えてかゾーッとした顔をされるが、そういうものはあげてももらっても、それで幸福になれるものではない。ときにはあげたことが仇になる場合もある。その人がいま一番必要としているものを理解する心、そのために誠意をもって行動すること、関心、奉仕、親切、希望、理想の追求、祈り――私たちのもっとも大切なものとはそれらである。
 さて、それもやっているがなお具合が悪いという方もおられるだろう。そのような方々のためには、他の人たちと同じように自身も愛さなければ、やはり恐怖はやってくると申し上げねばならない。
 このように恐怖は私たちを広くおおっている。そして恐怖がやってきたときこそ、光であり、力であり、法則であり、希望であり、ただ一つの巨大な意識である生命エネルギーを期待しなくてはならない。
 しかも、それを期待できるということは、常日頃から、この全てを含んだ完全、どんなときにも頼りになる第一の理想との密接な交流がなければならない。

 希望こそいのちの導き役

 私たちが生まれてからこのかた、自分の身体の複雑な構造や生理について何も知らなくても、内にあって私たちを育ててきた生命エネルギーの知性と意識は、三〇兆以上もある身体の細胞の一つ一つをみつめていて、今私たちの身体の中で何が起こり、何が必要であるかを知っている。その制限されるべきではない生命エネルギーに目的もなく不用意で自分勝手な制限を加えることをやめて、やさしさ、親切、リラックスしてまかす辛抱強さ、楽しさなどを実行すれば、恐怖からくる心身の緊張がとれて、調和であり光である生命エネルギーが自由に活動することができる。

「主はあなたのことをよく知っておられる。あなたは主の一部であるから。あなたがたは皆、主の一部である。あなたがたは身体の具合が悪くならなければ拍動に気がつかないでいる。しかしあなたがたをこの世におくり出した主のふところにいるあなたがたが困っているとき、主はあなたがたが何で困っているのか気づかれている。だから気持を静かにして主に気を合わせつづけなさい」

 気を合わせつづけるとは、たとえば日々食べる物がどんなふうに私たちの身体の血となり、肉となり、骨となり、エネルギーとなるかについて何の知識がなくても、自我からきた心配で主の力を制限しなければ、その複雑な身体をよく御存知の生命エネルギーは充分うまくやってくれると信じて、よけいな力みを捨て、理想をかかげて、主に気をおくりつづけることである。
 このようにして、調和であり光である生命エネルギーを信じて自分をまかせたら、そのとき“いま、ここ”がそのまま恐怖のない世界になっていることに気づくはずである。しかし世の中には変わった人たちが大勢いるもので、すでに消えてしまった恐怖をそれと気づかないままに再び拾って胸に抱いている人たちをよく見かける。たとえば、「私は病人だから何もできない。もっと親切にしてくれ。この病気は治りはしない」と決めこむ人たちなどである。しかしもとどおりに治らない病気であっても、いやそのときこそ、希望という理想をかかげなくてはならない。この希望は、この病気が治ったらどうしようという希望ではない。希望そのものを理想とし、その理想を行動することなのである。
 どうやってか? その方法はいろいろあろうが、リーディングがすすめるのは、他の困っている人のもとへ行って希望を与えてくることである。それはことばで、笑顔で、絵で、音楽で、何でもよい。もしそのようにしている人が私たちの目前にいたら、私たちはその人を病人と呼ぶだろうか。
 具合が悪くてそれさえもできない場合だってあろう。そのときは、私たちの内にいて話を聞いてくれる父である生命エネルギーに、自分の理想と希望をもって語りかけよう。父は私たちの問いかけを、昼でも夜でもトイレの中でも待っておられるのだ。

「父はだれも苦しまれるのを望まれていないし、人が苦しむときは逃げ道を用意しておられる。父はさがせばすぐに見つけられ、会いたければすぐに会える。これは間違いなく、変わることもない、この世を統べる法則である」

「あなたのほほ笑みによって――ひとこともしやべらなくても――その日は他の人にとって輝かしい日となる。そしてその一日を輝かせることによって、たとえほんの少しの間であっても、あなたは全世界の情勢に寄与しているのだ」

「全て治るということ、全ての助けは、建設的な考え、建設的な行動、そして何よりも第一に建設的な生命エネルギーよりのインスピレーションからやってくることを知って、忍耐強く働くことである。身体の不調は、よりよい偉大な自覚へと押し上げる踏石とするようにしなさい」

「悪を想わず、悪を言わず、悪を耳にしない。そのとき、真理が生命エネルギーの流れとなって、心のすみずみを浸し、やがて肉体を浄らかにして活力を与え、失われた生気をとりもどしてくれる」

 人間関係は病気のバロメーター

「もっとも偉大な人とは、すべての人たちに奉仕することのできる人である」

 私たちはともすると、私たちの中にいて、いつどんなときにも黙々と働き、呼べばすぐに答えてくれ、日々想っていることがかなえられるようにとり計らってくれている生命エネルギーになんの恩恵も感じることなく生活している。
 この私たちを生かし、私たちを通して人生を体験している生命エネルギーそのものは、私たちのつくった御馳走を食べてくれはしないし、私たちのつくった家に住んでくれないし、私たちのつくった道具を使ってくれないし、私たちのサービスを受けてはくれないし、私たちの笑顔にも反応してくれない。しかし、それを受けて、楽しんで、喜んでくれる他の人という姿をとって私たちの前に現われて、善意や奉仕を導き出し、それを経験しようとして待っているのだ。
 その他の人たちに対して、私たちは日々何を思っているのか、充分に注意しているだろうか。

「正しい行為とは何であろうか。これはまさに親切であること、まさに高い理想を持つこと、まさに自己をささげること、まさに喜んで盲人に手を貸すこと、足の悪い人のためにはその足となることである」

「親切を語り、やさしさを語れ。忍耐強くあれ。人のあら探しをするな。他人を非難するな。あなたがたがこれから歩む道すじに、あとで困るようなものは置かないことだ。他人の非難をあびるような無駄口をたたくな。このことが身体の状態の前途を変えるかもしれないのだ」

 私たちが日々に他の人たちにしていることは、まさに、私たちの内にあって私たちを生かしている生命エネルギーにしていることなのである。
 いつも調和と協力を説きっづけているリーディングは、私たちの人生の途上に病気や何か具合の悪いことが起きてきたら、まず自分と他の人との関係の状態を調べることをすすめている。意識的にも無意識にも、ことばでも態度ででも、他の人たち一人一人をどう思い、どう感じ、どう接しているのか。
 もちろん他の人とは、自分以外の人たちのことをいうわけであるが、リーディングがいっているのは、抽象的な「他人」ではない。妻であり、夫であり、母親であり、父親であり、子たちで あり。隣の人たちであり、仲間であり、職場の人であり、知人であり、また困っている人たちのことである。重要なのはその人だちからどんな賞賛を受けるかではなく、私たちがその人たちのために何ができるかである。

「友好的でありなさい。子供たち皆にほほえみかけなさい。若い人やお年寄りにもほほえみかけなさい。やさしいことばは激怒を変えて喜びにする。あなたにもっと喜びのある一日をもたらす。他の人たちにも、もっと喜びのある一日をつくってあげなさい。そうすることが、自分にも平和と調和と喜びを見出すことなのです」

「他の人たちをよく思うようにしなさい。もし他の人のことをよくいえなければ、まったく何もいわないで、そんなことを考えることもしないようにしなさい」

「決して他の人をきらいになってはいけない。人ではなく、その人が表わしていることをきらいになりなさい。そしてその人の良いところをみるように」

 よく世間には、「私は他の人に上手をいうことができない性質でして」と自己主張をしてとくとくとしている人や、オベッカつかいは大きらいという人、他の人をけなしてもほめることをしない人がいるが、それは他の人の欠点ばかりを選んで観ている人であろう。
 他の人の良いところをしっかりと観ていれば、どうしてそのことに感心したり感激したりしないでいられようか。私たちはそれを素直に表現することによって、やがてそのことばどおりの結果に出会っていくという世界に住んでいるのだ。

 「人助け」ってなんだろう?

 他の人たちを援助するとなると私たちの多くは不思議なほど同じ落し穴に落ちて、そんなはずではなかったのにと大混乱に陥ってしまうので、ここで幾重にも注意しておかなくてはならないことがある。
 それは、優位に立っている自分が他の人の上に君臨して、おせっかいをやいて自分の考えるとおりに納得させて、または腕ずくでも引っぱっていくという意味では決してないということである。ことばをかえていえば、自分より弱い立場の人たちを、かわいそう、かわいそうといって、その弱いままにさせておくことではなく、その人の個性を観て、育て、その人に自分でやる気になってもらい、自分自身の理想を明確にして自分の足で前進するように援助することである。
 リーディングも次のように表現している。

「少し離れて見まもっている態度」
「その人の美徳を観ていく。自分の自由にしたり、手をくだして干渉しないようにする」

 そうすることによって、その人が自分で自分の問題を解決する力を発揮できるようにしむけることである。なぜなら、私たちは自分一人ではどうやっても進歩することはできない。ただ私たちが助けた人たちの腕にすがって、その人たちの道案内でしか高みへ達することはできないからである。
 援助とは、人を引っ張り上げることではなく、はじめおしりを押しあげて、やがてその人によって引き上げられるようにその人をすることなのである。
 くり返すが、自分ばかり苦労して強くなり、人にこうしろ、ああしろとまつわりつくよりも、その人にこそ強くなってもらうことを考えていかなければ、その人の苦しみはあとになってさらに増えてふりかかってきてしまう。
 そして私たちが他の人を助けるとは、その人が自分自身で、私たちの主であり父である生命エネルギーを活かして生活することができるようにしむけることであって、けっしてその人を物質的に援助して、それだけでよしとすることではないし、またその人が自分でしなくてはいけない機会をうばって、私たちがどんどんやってしまうことでもない。

 同じように、調和、協力といっても、自分たちの都合のよい目的のためにのみ、お互いに調和、協力するのではなく、また自分を捨てて他の人のいいなりになって調和、協力するのでもない。それは身体を構成している各細胞の意識が、私たちの変動する心よりも、私たちを生かしている生命エネルギーに調和して身体のいのちを生きることに協力して健康を保っているように、私たちもまず、唯一にして全てである生命エネルギーへの調和、協力を第一の理想にして、それにそって他の人との調和、協力を考えていかなければならない。
 自分たちだけの調和、協力ばかりで全体のいのちのことを考えない行動をとっていれば、あたかも身体の中のガソ細胞と同じ行動を、社会や生命エネルギーに対してしていることになってしまう。

 利己主義はこわい

 これは私たちの間でもよくみかける光景であるが、身辺に恐怖の種をみつけると、心でも、ことばでも、行動でも、喜んでそれを追いかけていく人たちがいる。その人たちのあとから混乱が追いついてくる。そこでまたなんとかしようと恐怖の心で行動してしまうが、これではどうしようもない。
 このように恐れや怒りなどが私たちの心身の健康をおびやかすということはどちらかというと理解されやすいが、私たちに理解されにくく、心身にも大きな影響を与えるもう一つの心の態度がある。リーディングによると、その心の態度とは「他人との関係において、しなくてはいけなかったことを利己主義によってしなかったこと」であるという。
 ことばをかえていえば、他人が困っているのを援助できる立場にいながら、利己主義で無視してしまうような態度のことである。この習性に気づくことなく過してしまうと、それは無意識の土の中にしっかりと根をおろして、他日、他の人たちと調和できる日まで、ときには身体を失っても無意識のうねりの中で連続していって、後の生涯で再び身体をもったときにその弱みとして現われてくる。
 私たちはそのことに気づき、これを自覚し、積極的な態度をとるように決意し、それを行動しなければ改善されることはない。
 ある四六才の女性がたずねた。「病気というものが罪であるならば、私の腸と排せつの具合の悪いのはいったい何に原因しているのですか」。答はこうであった。

「他の人を無視した罪である。この怠慢な態度は、他の人に悪意を抱くことや他の人を恨むのと同じように、たいへんな罪となる。それは怠慢である」

 法則であり、愛である生命エネルギーの立場からみると、私たちが犯した生命エネルギーに対する反逆は、すでに許されているのだ。ただその反動は必ず私たちにやってくる。そのとき、私たちが犯したときのその場に進歩をしないで立っていれば、その波をまともにかぶってしまう。反動の波が来る前に、私たちが進歩していてその波を受ける必要のない高さに立っていれば、その波は私たちには無力である。
 たとえば、人を恨んだとしよう。愛である生命エネルギーはもう許しておられるのだ。しかし私たちが自分の無意識の中にまいた種は時を経て、縁によって鏡の世界にI身体には病気という姿で、社会生活の場ではなにかの困難となって返ってくるが、私たちが進歩していればそれは負担にならない。病気は治り、困難な状況は改善される。そしてもっと進歩していれば、それはやってこない。
 しかし、そのどちらの場合であっても、私たちをこの世につかわした生命エネルギーのためにしなければいけないことをしなかったという怠慢は、決してそのまま許されはしない。しなければいけない状況が鏡の中に、それをするまで何回でもやってくるというわけである。
 積極的に人生を生きる必要性がここにある。それが忍耐でもある。
 
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