輪廻する赤ちゃん
平野勝巳・著 人文書院 1996年刊
★なわ・ふみひとの推薦文★
 本書の帯には「胎児は親と環境を選んでこの世に誕生する」と書かれています。今日ではよく知られるようになった生まれ変わりの仕組みが述べられた本ということです。「子どもが親を選ぶ」ということですが、もちろん事前に霊界で誕生に関しての合意形成がされてのことです。親はそのような合意のプロセスを認識することができませんが、子どもの方は誕生までの前世の記憶を持っている場合があることが最近でも数多く報告されています。

平田篤胤を夢中にさせた輪廻転生物語

 輪廻転生説は、近代になってすっかり顧みられなくなり、迷信だとかファンタジックなおとぎ話としてしか受け入れられなくなった。しかし、この説は歴史を通じて人びとの心をとらえ続けてきた。例えば、国学者の平田篤胤を夢中にさせ、江戸の町の話題をさらった勝五郎という少年の生まれ変わりの話は、じつに興味深い内容である。
 ここでは、勝五郎の不思議な話を振り返ってみよう。
 江戸時代・文政五年(一八二二年)の一一月、武州多摩郡中野村(現在の八王子市)に住む百姓源蔵の三人の子どもが田んぼのほとりで遊んでいた。長女ふさ、長男乙次郎、次男勝五郎の三人である。
 ふと、八歳になる勝五郎が兄に向かって奇妙なことを口走った。
「兄ちゃん、いまのこの家に生まれてくるまえは、どこの家の誰の子どもだったの?」
 兄の乙次郎は、真面目な顔で尋ねる弟の顔を不審気に見ながら、「おいらはそんなこと知らないよ」と答えた。
 勝五郎は、今度は姉に向かって同じことを聞いた。「そんなこと知らないよ。変なことを聞く子ねえ」とふさも相手にしなかった。
 ふたりの反応に勝五郎は納得がいかないようすで、「それじゃ、兄ちゃんも姉ちゃんも生まれるまえのことは何も知らないの?」と再び問い質してきた。
 さすがに兄と姉は怪訝に思って、「では、おまえは生まれるまえのことを知っているとでもいうの?」と聞き返すと、勝五郎はこう答えた。
「よく知っているよ。ぼくはね、もともとは程窪村の久兵衛という人の子どもで、藤蔵という名前だったんだよ……」
 これが当時、江戸市中の話題をさらった「勝五郎再生譚」の始まりである。この話はその後、国学者の平田篤胤によって『勝五郎再生記聞』という詳細な記録にまとめられる。
 生まれ変わりの思想は仏教の教えのなかにあるが、篤胤は勝五郎へのインタビューを通じて、それまで国学者として非難の対象にしてきた仏教の一側面を評価する、という思い切った“自説修正”も行っている。それほどに勝五郎の話は篤胤に衝撃を与えたらしい。
 勝五郎の話のさきを進めよう。
 兄姉に話したことを、勝五郎は「父さんや母さんには言わないでくれ」と頼んだ。しかし、まもなく話が両親の知るところとなる。
 しかたなく勝五郎は詳しく語り始めた。
「ぼくは、もとは程窪村の久兵衛の子どもだったんだよ。そのときの母さんの名前は“おしず”と言った。ぼくが小さいときに、父さんの久兵衛が死んで、そのあとに、半四郎という人がきて新しい父さんになったんだ。半四郎さんはぼくをとてもかわいがってくれたけど、ぼくは六歳のときに死んじゃった。そのあと、この家の母さんのお腹のなかに入って、こうして生まれてきたんだ」
 勝五郎の両親はびっくりしたが、事の真相をさぐるよりも、世間体を考えて勝五郎の話は聞かなかったことにした。
 しかし、しばらくして勝五郎が「程窪村の父ちゃん、母ちゃんに会いたいよ」と言い出した。そして、勝五郎は祖母に連れられて程窪村に行った。
 久兵衛もおしずも実在の人物だった。半四郎も話の通りだった。かつての実家に帰った勝五郎は喜びながら、向かいの煙草屋の屋根を指さして「前にはあの家の屋根がなかったよ。あの木もなかった」などと話した……。
 この程度のことなら知恵がはたらく子どもなら調べることはできる、と考える人もいるだろう。周囲から注目されたいために八歳の少年が企んだ悪戯だという可能性もないわけではない。
 しかし、勝五郎はそんな疑念を払拭する証言もしているのである。
 その証言も含めて、勝五郎が程窪村で死んで、生まれ変わってくるプロセスの話がとても興味深いので、『勝五郎再生記聞』の記述を現代語訳で紹介する。

 《前世のことは四歳ごろのことまでしかよく覚えていない。薬がなくて死んだ。死ぬときは何の苦しみもなかったが、そのあとしばらく苦しいことがあって、また少しも苦しくなくなった。棺桶のなかに入れられるとき、(幽体離脱して)桶の傍らにいた。白い布で被われた龕(ずし)のうえに乗って行った。
 お坊さんのお経は何の役にも立たなかった。ばからしくなって家に帰って人に声をかけたりしたが、聞こえないようすだった。そのあと、白髪で黒い着物を着たおじいさんに誘われてだんだんと高いところに行くと、花が咲き乱れる草原に出た。木の枝を折ろうとすると、小鳥に脅された。このときの恐さは今もよく覚えている。
 そうして、しばらく遊んだあと、おじいさんと家(源蔵の家)のまえを通るとき、おじいさんが指さして“この家に入って生まれなさい”と言った。おじいさんと別れて、庭の柿の木の下にたたずんで三日間、家のようすをながめていた。そのあと、窓から家のなかに入って、かまどのそばでさらに三日間ようすをうかがっていると、母親になる人が、父親とどこか遠いところへ行くという話をしていた。
 その後、母の胎内に入ったらしいが、よく覚えていない。母が苦しかろうと感じたときは、母の傍らにいたことは覚えている。
 生まれるときは、何も苦しいことはなかった。そのほかいろいろなことは四、五歳のころまでよく覚えていたが、だんだん忘れてしまった》

 この証言は、心理学などで研究対象になっている死後体験、胎児期体験の証言と多くの点で重なっている。
 死後に幽体離脱することは、先ごろ話題になった「臨死体験」の証言とよく似ている。お花畑が出てくるのは日本人共通の冥界のイメージなのだろうか。また、霊界に案内してくれたおじいさんも、守護霊的にしてしばしば登場するキャラクターである。
 おじいさんに紹介された家に生まれることを決めてようすをうかがう場面は、さきに紹介した松本東洋さんのクライアントも、類似する体験を語ることが多い。魂は、自分が入るべき母親とその胎内をじっくりと観察するのだという。
 さて、勝五郎の話の信憑性は、この“胎内観察”の前後六日のあいだの証言で決定的になる。庭の柿の木の下で三日間、家のなかのかまどのそばでさらに三日間。このあいだに《母親になる人が、父親とどこか遠いところへ行くという話をしていた》と勝五郎は語っている。そして、平田篤胤が源蔵から聞いたところでは、勝五郎の話は事実とぴったり一致したのである。
 源蔵は次のように証言している。
「勝五郎の生まれた年の正月のある夜、夫婦は閨中(ねや)で相談をした。家が貧しいうえに子どもが二人いて、老母を養うこともままならない。そこで、三月から妻を江戸に奉公に出すことに決めた。
 このことを二月になってから老母に告げ、三月に妻を奉公に出したが、そのときすでに妻が懐妊していることを知った。そのため、奉公先の主人にいとまごいをして家に戻った。妻が妊娠したのはちょうどこの年の正月で、月満ちて十月十日に勝五郎が生まれた。
 このことは自分たちの夫婦以外は誰ひとり知らない話だ。だから、勝五郎がこのいきさつを知っているのはとても不思議だ」
 篤胤はこの勝五郎の証言を記録したあと、生まれ変わりの実例を歴史的な文書から捜している。篤胤にとって、勝五郎の証言は自分の思想に深くかかわる一大事件だったのである。
 
[TOP]