大東亜戦争の正体
それはアメリカの侵略戦争だった
清水馨八郎・著 祥伝社 2006年刊
★なわ・ふみひとの推薦文★
 「アメリカという性悪のガキ大将にいじめ抜かれたまじめな日本少年」という正しい歴史が書かれた本です。日本人であれば「常識」として知っておくべき内容が述べられていますが、現実はアメリカ(を裏から支配する層)のマスコミと教育界を使った巧妙な操作によって、日本人は正反対の自虐史観を植え付けられているのが現状です。夏になると繰り返されるマスコミの嘘報道を鵜呑みにせず、このような良書を通じて真実を知る努力をしていきたいものです。

アメリカの日本侵略、百年来の野望のはて
――アメリカは反省し、日本に謝罪しているという事実



アメリカによる侵略戦争の常套手段

 アメリカが1776年7月4日に独立を宣言してから、今日まで、わずか230年足らずの間に、世界に突出した超覇権帝国に躍り出られたのは、原住民や他民族への侵略に次ぐ侵略の歴史かあったからである。星条旗の星の数か当初の13からあっと言う間に50に増えたことでも明らかだ。日本に仕掛けた大東亜戦争もその一つにすぎない。前章で挙げた日本の国難、元寇と同様、大東亜戦争を米寇とみれば、これも米国襲来の侵略戦争であったことか明らかとなる。
 米の侵略史の第2ページは先住民の殺戮・征服である。アメリカ・インディアンはアメリカ大陸に1万年以上の歴史を持つ東洋出身モンゴロイド系の先住民族で、当時約200万人から500万人と推定されたが、新来のアングロサクソン移民によって森の木を伐るごとく、殺戮されてしまった。白人は彼らを人間と見ず、バッファローと同じ自然の一部として、奸計を以て悪逆無道の殺戮を繰り返し、1890年(明治23年)には、先住民の人口は20万人にまで減少した。この残虐な行為をアメリカ史では、アメリカ人の勇敢な開拓者精神、パイオニア精神の発揮と誇っている。
 この西部侵略が東から西へと向かい太平洋岸に達した時、今度はその矛先を太平洋に向け、ハワイ、グアム、フィリピンと進み、ついに日本列島に達したのが大東亜戦争であった。したがって、この戦いもアメリカの一貫した西部へ西部への侵略戦争の延長とみることができる。
 アメリカはわずか半世紀の間に、先住民を亡ぼし、大陸の覇権を確立していった。今度は侵略の矛先を西から南に転じ、メキシコと戦端を開くに当たって、有名な「アラモの砦を忘れるな」の合言葉を以て戦意昂揚を図った。これは後の「真珠湾を忘れるな」に通ずる、アメリカ侵略戦争開始の常套手段となっていった。
 一八三六年、アメリカは当時まだメキシコ領だったテキサスのサンアントニオに、独立運動の象徴アラモの砦を築かせた。これはメキシコ軍が襲ってくるのを見越した上のことだったが、案の定、籠城した200人の人々はたちまちメキシコ軍の攻撃を受けて全滅してしまった。アメリカはこの事件を「リメンバー・アラモの砦」という合言葉で、国民の戦意を鼓舞し、戦争を正当化して侵略戦争を起こした。この米墨(墨=メキシコ)戦争の勝利で、米国はニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など当時のメキシコ領の半分にあたる広大な領土を併合し、国旗の星の数を一挙にふやした。
 メキシコ戦に味をしめた米国は、1898年(明治31年)、同じ手口でスペインと戦端を開くことになった。今度は「メーン号を忘れるな」であった。米国はキューバのハバナを表敬訪問中の戦艦メーン号を自ら爆沈させ、260名ほどの犠牲者を出した上で、こ
れを敵の仕業だと因縁をつけ、スペインに宣戦布告した。これによってカリブ海のスペイン領プエルトリコなどを占領し、中南米諸国を支配するきっかけを作った。

太平洋を越えた征服事業の数々

 一八九八年の米西戦争は、カリブ海だけでなく、太平洋、極東において、アメリカがスペインを押さえてアジア、太平洋の覇権を握る一大契機となった。
 米艦隊は極東のスペイン領のフィリピンを侵略するに当たって、フィリピン民族独立軍のアギナルド将軍に対し、スペイン撃退後のフィリピン独立を約束し、その協力をとりつけた。ところが、スペインか敗退降伏すると、アメリカは約束を反故にし、フィリピン併合を宣言し、それどころかアギナルド軍を攻撃し、将軍を処刑してしまった。明らかに裏切りである。
 アギナルドは米軍との戦いに先立ち、その援助を日本に求めてきた。彼は日本亡命中の孫文を介して日本の志士だちと接触し、犬養木堂(毅)などによって、武器弾薬の支援もあったが、1902年(明治35年)鎮圧されてしまったのである。
 この結果スペインは、「パリ条約」でキューバを放棄、プエルトリコ、グアム、ミッドウェー、ウェーク、フィリピンをアメリカに割譲させられた。
 ハワイはアメリカの手のこんだ謀略工作でカメカメハ王朝が崩壊し、1898年に併合されてしまった。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2,000人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきたが、当時の日本には米国と戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかった。
 アメリカは、ヨーロッパ列強からも、アジア大陸からも、大西洋、太平洋という大海原を越えて侵略される心配がない。それなのにこの国は、建国以来数十回も戦争を繰り返しているのである。だからそのすべては、自ら創った戦争、すなわち侵略戦争の連続なのである。
 しかも後世の歴史に正当性を残すため、いかにも敵が先に侵略してきたので、正当防衛として立ち上がらざるをえなかったかのようにみせかけるため、子供だましのような技巧を凝らしてきた。「リメンバー・パールハーバー」とまったく同じ手口で、日本を挑発し、先に手を出させることで、侵略戦争に持ちこむという、お得意の方法であった。
 最近の父ブッシュがイラクに進攻した湾岸戦争も、息子ブッシュによるフセイン打倒のイラク戦争も、同じトリックか隠されていたのではないか。これも30年後にアメリカ公文書館のアーカイブスがすべてを発表すれば、真相が分かるようになるはずである。
 このようにアメリカの侵略の歴史は、繰り返されているのに、日本の政治家も識者も、いまだに日本が無謀な侵略戦争を米国に仕掛けたものと洗脳されているのは、あわれである。

ペリー来航以来、一貫したアメリカの野望

 アメリカが日本を仮想敵国として、いつかは征服しようと戦略を立てたのは、いつの頃からであろうか。今までの日本の識者の見解では、セオドア・ルーズベルト大統領か日露戦争後の講和会議をポーツマスで仲介してくれた直後に立てたオレンジ計画(1905年)あたりが最初と考えられていた。だか実際には、その50年も前の嘉永6年(1853年)6月3日のペリー黒船来航の時点ですでに始まっていたと考えるべきである。
 その証拠に、昭和20年8月、日本のポツダム宣言受諾を知ったニューヨーク・タイムズは「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に「われわれは初めて、ペリー以来の野望を達した。もはや太平洋には邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、我が物になったのだ」との記事を載せた。これはアメリカ朝野の長年の願望が叶えられたことに対する偽らざる喜びの声であった。
 このことを裏付けるように、大東亜戦争終戦直後の東京湾上で行なわれた日本の降伏調印式で、会場となったミズーリ号の艦上のマストには、古びた二旒の星条旗が高らかに掲げられた。一つはペリーの黒船来航時、旗艦ミシシッピ号に掲げられていたもの、二つ目はフランクリン・ルーズベルトが日本を戦争に挑発することに成功した12月7日のホワイトハウスに揚がっていた星条旗である。今は亡き、ペリーとルーズベルトという日本侵略の立役者を称え、野望が叶ったことを両英雄に知らせ、感謝する瞬間を演出したのである。
 ペリー来航の表だった目的は、米国の捕鯨船などが給炭、食料補給のために立ち寄る港の開港を迫ったものであったが、黒船がかなり長期にわたって付近の海洋調査などを実施したところをみると、やがて遠征軍を以て日本を侵略し征服する野望が当初からあったことは明らかである。

オレンジ計画という対日敵視政策

 日露戦争は、白人が近世初めて黄色人種に敗北した戦争で、日本の勝利は世界の非白人の植民地民族を感動させた。当初英国も米国も、日本が彼らのライバル、ロシア帝国を破ってくれたことを歓迎した。ところがヨーロッパの白人は極東の日本の台頭を見て、白人が一方的に世界帝国主義支配を継続する上での危機を感ずるようになってきた。その代表かドイツのウィルヘルムニ世の「黄禍論」であった。
 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも日露戦争では日本を応援し、ポーツマス講和会議を仲介してくれたか、一方心の底では日本のアジアでの発展は、米の太平洋やアジア覇権には必ず障害になると考え、日本を仮想敵国に位置づけることになった。ここに早くもオレンジ計画という日本打倒の国策が打ちたてられた。これは米国の日本に対する黄禍論の嚆矢とみてよい。
 十九世紀の末まで白人の世界制覇は順調そのもので、あと一歩で完全支配を達成しようとした矢先の日本の出現は、白人にとって大変な驚きであったろう。英米のリーダーたちは、なんとしても日本が強くならないうちに打倒しておかねばならないと構想を練った。この底意による入念な戦略が、ついに形をなしたのが英米による大東亜戦争であった。つまり日露戦争の勝利が遠因となって、英米の大東亜戦争勃発へとつながっていったのである。
 このオレンジ計画は、日米戦のあらゆる場面を想定した侵略戦争計画で、その後の日米交渉、開戦から終戦、占領政策のすべてに貫かれている。
 大正三年(1914年)のパナマ運河の開通から、太平洋はわが海とばかり、アメリカの縦横無尽の活動が始まった。このアメリカのアジア・太平洋への野望を妨げる勢力としても、日本の存在は目障りだったのである。
 昭和七年(1932年)、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選した。彼は当初から日本を極端に嫌い、憎み、叔父のセオドア・ルーズベルト大統領が生み出したオレンジ計画を信奉して、在位三期の長期政権担当の期間を通じて、一貫して日本打倒の謀略に情熱を傾けていた。

対日侵略戦争の布石

 第一次世界大戦の終結で、パリ講和会議(1919年)が開かれた。戦勝国側の日本は、この会議で存在感を示そうと人種差別撤廃を強く提案した。人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた(委員19名中、11名賛成)。ところが議長のアメリカ大統領ウィルソンは、英国と組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつげ、可決したはずの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都合が悪いからであった。日本に対するあからさまな挑戦であった。
 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、否決と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情し、解放の時を目指して決意を新たにした。
 日米戦を予想していた米国は、その戦力を日本より優位にしておく必要から、ワシントンでの軍縮会議を提唱してきた(1921年、大正10年)。日米戦は海軍力の競争になるとの予想から、海軍主力艦の日英米比率が3・5・5に決められた。日本側、特に海軍は猛反対だったが、当時の政府は財政上、軍縮計画を歓迎した。
 ワシントン会議は、戦艦と航空母艦についての保有比率だったが、補助艦艇については制限がなかった。そこでアメリカは補助艦艇についても制限しておく必要から、ロンドン会議で海軍軍縮条約を提案した(1930年)。平和を望む日本政府は、財政上も軍備縮小を歓迎し、このロンドン会議の提案にも賛成した。かくて英米対日本の戦力は10対6.97に抑えられた。こうしておけば、英米はいつ日本と開戦しても負けるはずがない
ものと安心した。
 ワシントンとロンドンでの二つの会議は、名目上は「軍縮会議」といいながら、英米にとっては軍拡であり、日本のみが軍縮を迫られることになった。当時の日本はまさか英米二大国と戦争を起こすことなど思いもよらなかったので、安心して軍縮に応じたが、お人好しの日本は、これが、英米の対日侵略戦争の布石であることに気がつかなかった。

アメリカの狙いは満州、邪魔者は日本

 アメリカは白人植民帝国主義の歴史で、最後に遅れて登場した国だ。アメリカがアジア大陸にその侵略の矛先を向けた頃には、英仏などの白人先進国にほとんど占領されて、残っていたのは満州だけだった。ここに無理に割り込もうとすれば、先発の日本と衝突するのは目に見えていた。
 満州には、日露戦争以来の日本の利権があり、すでに五族協和を理想とする満州国が成立していた(1932年)。そんなことにお構いなしに、アメリカは日本を満州から追い出し、利権を独り占めしようと企み、次から次へと日本叩き政策を採って、日本を挑発しつづけた。満州は緯度の上からも、広さからも、米国本土と類似し、資源が豊かであり、可能性が高い土地であった。米国がここにこだわる意味があったのである。
 かくて満州の利権をめぐって、先発の日本と後発の米国が最終対決戦に入るのは時間の問題と、世界の世論は見ていた。
 戦後の日本の野党や進歩的文化人たちは、戦前の日本は西欧列強を真似て、遅れて大陸に侵略した、後発の植民帝国主義だったと見なしているが、これはすべて違うのである。 その頃までに南北アメリカ大陸や東南アジアは、すべて地球の反対側の白人が占領しつくしていた。中国の要所は英、仏、独、露に蚕食されていた。もし日本の力がなければ、満州も朝鮮も白人(ロシア)傘下に入っていたはずである。日本がその生命線である朝鮮半島や満州に進出しだのは、白人のアジア侵略を防ぎ、巻き返すための当然の反撃だったのである。日本の行為は、白人のアジア支配と同日に論じられてはならない。日本のそれは近隣諸国と日本の生命線を守るための自衛であり、白人らのそれはすべて植民地拡大の侵略行為であった。
 さて、日露戦争直前に結んだ日英同盟(1902年)は、戦争に実に有効に機能した。バルチック艦隊の長路の日本遠征では、途中の英領関係の港での寄港を拒否、妨害され、食料補給、給水などに支障をきたした。これは、ロシア軍にとっては大変な痛手となった。
 日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、友邦の英国を日本から切り離しておかねばならないと考えた。そこでロンドンの軍縮会議を機に、日英同盟の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、英国はすでにその使命が終わったとして、米国の提案に賛成した。その頃から、米英は協力して日本の勢力拡大を抑える反日の姿勢を明らかにしていったのである。

支那事変で、日本と国民党を戦わせようとした陰の力とは

 大東亜戦争の日本の真の敵は、前門の虎、アメリカのルーズベルト大統領と、後門の狼、ソ連のスターリン、この二人であった。この二人とも白人に刃向かう唯一の有色人種の国として日本を感情的に憎んでいた。
 特にスターリンは、日露戦争の敗北の怨みを、いつかは晴らそうと、陰険な謀略を策していた。彼は戦わずして勝つ孫子の兵法を巧みに使った。それは一つ、敵同士を戦わせる。二つ、できるだけ長期戦に誘導する。三つ、両者が疲れ果てた時、割って入って漁夫の利を得る、以上三策であった。
 ソ連にとっては、英独も日米も資本主義国で、ソ連の敵であった。そこでまず資本主義国同士を戦わせ、混乱させ、最終的には世界共産革命を完成しようと企んだのである。第二次大戦で彼は、これを見事に実践して成功させた。あの戦いで、領土を拡張し、共産国を増やし、戦争の目的を達しだのはソ連だけであった。この点から見ると、ルーズベルトも完全に騙されたのだ。悪知恵ではスターリンはルーズベルトより一枚も二枚も上手だったのである。
 支那事変の発端となった盧溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き、中国共産軍に仕掛けさせた罠であった。目的は蒋介石軍と日本軍を無理矢理戦わすことにあった。日本側がいくら隠忍自重、不拡大方針を採っても、中共軍は日本人虐殺の通州事件、上海事件といったテロ事件を次々起こし、日本軍を大陸のドロ沼に誘い込んでいった。まさにそれは「モグラ叩き」さながらの終わりなき戦いの様相を呈していった。日本軍は完全に嵌められたのである。
 かくて支那事変は、日本が大陸に進んで侵略戦争を仕掛けたものでなく、中共軍が、国民を反日にそそのかし、次々に各地でゲリラ事件を起こし、その鎮圧のため日本軍が大陸に進駐せざるをえなくした計画的な挑発であった。
 これは、米国の真珠湾と同じく、ソ連、中共によって作られた計画的な謀略戦争であったのだ。日本側がいかに不拡大方針で自重しようとしても、中共軍によって日本の居留民や駐留日本軍に次々テロ活動を起こされたのでは、軍は救助に行かざるをえない。
 次に米国は、やがて始めようとする日本戦に備えて蒋介石軍に肩入れし、大量の援蒋物資を送って、日本軍を疲れ果てさせようとした。直接的には、アメリカの正規軍である「ブラインダータイガー」と名乗る300人の空軍兵士を送り、戦闘にも参加させているのである。この段階ですでにアメリカは、対日戦争に突入していたのである。
 日本政府はこの望まざる戦闘行為を北支事変といっていたが、逆に全支に拡大されて、これを支那事変といわざるをえなくなった。だから日本にとっては正式な国家の対支宣戦布告もなく、事件として処理しようとしているのに、支那側はこれを日本の中国侵略の「日中戦争」に格上げして内外に宣伝していった。
 日本が直接戦わされた相手である国民党軍にしても、蒋介石は、共産党軍との来るべき対決を考えると、日本戦に深入りすることは得策ではなかったのに、いつの間にか身動きかできないようにされてしまった。かくして、この支那事変の性格を二言で言うと、蒋介石と日本が、米ソの謀略で無理矢理戦わされた、挑発された戦争であったのだ。
 かく考えると、大東亜戦争も、現在の中共が言う「日中戦争」も、一方は東からアメリカ、一方は西から中国が日本に向かって攻めてきた侵略戦争であったことが分かる。

ルーズベルトの執念が実った日本との開戦

 ルーズベルトは1933年(昭和8年)3月4日、第32代米国大統領に就任した。
以来すなわち支那事変が起こる前から、彼はアジア・ヨーロッパに及ぶ大陸支配を確立しようとする大構想を持っていた。それについて「ルーズベルトが大統領に就任した時、日米開戦はすでに決定づけられていた」と説く識者もいる。実はそのとおりであった。
 彼は生まれながら、叔父のセオドア・ルーズベルトによる日本打倒のオレンジ計画を信奉して、着々とその策略を実行していったのである。白人は一般的に人種差別観念の持ち主であるが、彼はその中でも徹底した人種差別論者で、特に日本人に対する憎悪は強烈だった。彼は国家としての日本の存在を容認したくなかった。
 当時ホワイトハウスには、ルーズベルトの外に陸軍長官ヘンリー・スチムソンがいた。この二人こそ日本と日本人を最も敵視し侮蔑し憎悪した、札付きの反日派巨頭であった。彼らは「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等の相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めたのである。
 日本が真に名誉ある独立国たらんとする限り、かくのごときアメリカと最後に戦うほかなかったのだ。それなのにお人好しの日本人は対米協調共存が可能であると錯覚していた。このことは後の昭和16年春から11月まで続いた駐米大使・野村と、国務長官ハルとの日米交渉で実証された。いくら日本が下手に出ても、アメリカは一歩も譲歩しなかったのである。
 アメリカの日本叩き、日本いじめ政策の第一弾が、1924年(大正13年)の排日移民法の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この移民法の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである。
 ルーズベルトは何とか日本を戦争におびき出すため、今度は経済政策を採るのである。それは石油と屑鉄の日本への輸出禁止である。当時、すでに「石油の一滴は血の一滴」といわれる時代に、米国は日本への石油輸出を全面的に禁止した。石油の大半をアメリカに依存していた日本の打撃は致命的であった。
 日本は生きるために、東南アジアの石油資源に頼らざるをえず、南方進出はやむをえない措置だった。さらに米国は英中蘭の三国をそそのかして、いわゆるABCDラインという経済封鎖を敷いて、日本を封じ込めるといういじめにも等しい政策を実行してきた。
 日本はこの危機を脱するため、誠意をもって日米交渉を進めた。野村駐米大使とハル国務長官の日米交渉は昭和16年3月8日から11月26日まで、9カ月にも及んだ。も
とよりアメリカに交渉をまとめる意図はさらさらなく、戦争を準備する時間稼ぎにすぎなかったのである。そのため当初から日本側を苛立たせるだけで、解決の糸口はまったく見つからなかった。米側は日本側が到底呑めないことを承知で、次々難題を突きつけ、開戦せざるをえないように挑発しつづけた。
 そして11月26日、最後通牒としてハルノートを突きつけてきた。これは明らか
に一方的な宣戦布告であった。日本よ大陸から出ていけ、日本よ死ねと迫ったのである。

歴史が証明するアメリカという国の恐ろしさ

 日本はそれまで、米国に対して豊かな文明国として尊敬し、友好関係の維持に努めてきた。一度として米国領土を侵略するような意図も持たず、行動も起こしていない。してみると日米交渉は、初めから日本を戦争に巻き込むための一方的挑発行為で、米国の日本への明らかな侵略戦争行為であった。
 かの日本無罪論のパール博士は、アメリカの歴史学者A・J・ノックの言を引いて、このような挑戦を受ければ、モナコのような小国でも武器をとって米国に立ち向かったであろうと述べている。
 正に「窮鼠猫を噛む」の心境で決然として、対米戦に立ち上がったのである。人は大道で屈辱を受け、強者に裸にされ、上衣を脱げ、さらに猿股も脱げと辱められれば、死を覚悟で敵に立ち向かうであろう。この最後通牒を受けて当時の日本には、自殺するか、降服するか、さもなくば、戦うかの選択しか残されていなかったのである。
 一方当時ヨーロッパ西部戦線では、英国がヒットラーの攻撃を受けて苦戦中であって、チャーチルは一刻も早い米国の参戦をルーズベルトに懇願していたのである。
 ルーズベルトは国民に対し、「私は二度でも三度でも繰り返して言いたい。皆さんの息子さんたちを、決して外国の戦争に引き出すことはない」と言いつづけ、国民を騙して大統領に当選した。この言をくつがえして国民を戦争に立ち上がらせるためには、さらに大きな騙しの手を打たねばならない。そのためには、今度は日本がパールハーバーを攻撃するよう挑発し、自国の兵士を2,000人余り見殺しにするという犠牲まで払うことになっだ。こうして彼は巧妙な演出によって米国民と日本国民の両方を騙して、まんまと念願の戦争に突入できたのである。
 以上によって、今次日米戦争は、アメリカが計画的に日本に侵略戦争を仕掛けてきたものであることか明らかである。戦後マッカーサーの捏造した東京裁判史観の、日本の軍国主義者が共同謀議して、中国大陸に対する侵略戦争を起こしたという歴史認識も誤りであることが分かる。ここでも歴史認識のコペルニクス的転回が迫られるわけである。
 「殴られたら、すぐ殴り返す」という開拓時代からのカウボーイ的精神は、今なおアメリカ人の気質のなかに連綿と受け継がれている。そこに肉食人種の攻撃本能を見る。アメリカは恐ろしい国なのである。アメリカ人は弱い人間を徹底的に狙って叩く、あるいは相手の弱いところに狙いを定める。その上、アメリカ人は自分自身に強い確信を持っている。このアメリカ人の「自己に対する確信の強さ」は、持ち前の「ヤンキー魂」と相まって、他人に対する強い「自己主張」となり、敵に対する「野性的攻撃」に転化してゆく。
 この個人としてのアメリカ人の性格は、国家としてのアメリカについても当てはまる。
再度言うが、殴られたら殴り返す国、撃たれたら撃ち返す国であることを忘れてはならない。そして受けた傷が深ければ深いほど、反撃する力も強く野蛮になる。
 その実例は沢山あるか、パールハーバー攻撃の日本に対するアメリカの対応、近くは9・11テロに対するアフガン、イラク戦争の猪突猛進振りに、はっきりと見られる。

世界中のどこの国にも歓迎された日本の真珠湾攻撃

 ヨーロッパで第二次世界大戦か勃発した当初(1939年)、アメリカはこの大戦への不介入を表明していた。だが当時の英国首相チャーチルは、米の参戦なくしてドイツに勝つのはむずかしいと考え、その参戦をルーズベルトに再三要請していた。だが、不介入を表明した以上、参戦には、国際社会や国民を納得させるだけのよほど強い大義名分がなくてはならない。そこであせった米国は、おとり船を大西洋に出してドイツ潜水艦の攻撃を誘ったのだが、ヒットラーはその手に乗らなかった。そこで日本に向かってその罠を仕掛けたのが真珠湾の日本の先制攻撃であった。
 この知らせを受けたチャーチルは、跳び上がって喜び、これでこの戦争は必ず勝てると、早速ルーズベルトに電話をかけ、「いまやわれわれは同じ船に乗ったのです」と伝えた。事実、アメリカはこれを機に、日本に対するのと同時に、ドイツ、イタリアに対しても宣戦を布告したのである。
 戦後、日米戦がルーズベルトが巧妙に仕掛けた謀略であることを告発した書物は、数多く出版されている。その中でも第一級の資料は、ルーズベルトの長女の夫であるカーチス・B・ドールが身内から告発した書で、『操られたルーズベルト』(馬野周二訳)である。真珠湾攻撃の前日、家族との朝食の席で大統領は「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ。明日戦争が起こる」と話していたという。
 このことを知っていたのは、大統領と、ハル国務長官とスチムソン、ノックスの陸海軍長官の四人だけだった。その半年前にスチムソン陸軍長官は、「私たちの戦争準備はすべて終わった。あとはハル国務長官、あなたの出番ですね」と洩らした。それは、戦争に持ちこめるか否かは、日米交渉で、ハルがいかに日本をいじめて、日本に開戦の決断をさせるかにかかっているということを示唆した発言と受けとれる。
 実は、日本の真珠湾奇襲の成功は、世界中を感動させこそすれ、悲しんだり、困ったりした国は一つもなかったという事実を確認せねばならない。アメリカ大統領をはじめとする例の四人組が陰謀の成就を喜んだのは当然として、世界一の軍需産業で栄える死の商人国・アメリカの国民の大部分も、密かに戦争景気を期待、歓迎し、内心喜んだはずである。
 英国首相チャーチルや、仏・蘭などの連合国側も皆歓迎したのは当然であった。一方スターリンも敵同士の開戦は大歓迎し、枢軸国のヒットラーもムッソリーニも、仲間が立ち上がったことを喜んだ。
 奇襲成功による日本国民の感動はもちろんだが、アジア・アフリカの被抑圧植民地の民は、有色人種の代表日本が白人を攻撃して、大成功したニュースを聞いて、植民地解放近しと奮い立つだのは当然であった。
 タイの元首相プラモート氏は、「これはアジアの忠臣蔵だ。十二月八日の昭和天皇の決断を忘れてはならない。アジアの独立国を生んでくれるお母さんの日本に感謝しよう」と叫んでいた。以上のように真珠湾の奇襲攻撃成功を、世界のどの国も悲しむどころか喜んだのだ。これを境に、世界史が、世界地図か大転換することになったからである。

非を認め、謝罪しているアメリカ

 米の歴史学の権威チャールズ・ビアード博士は、終戦間もない一九四八年、米の公式資料に基づいて『ルーズベルト大統領と日米戦争』の著書を発表している。この中で博士は、日米戦は好戦大統領の周到な準備で日本を挑発し、仕掛けた謀略、つまり米の一方的侵略戦争であったことを痛烈に告発した。この本からも、ルーズベルトは米国民自身と日本国民とを同時に騙して、無謀な戦争に突入したことが明らかになる。日本は「騙し討ちという騙し」に乗せられたのである。
 戦後、アメリカ人で青年詩人のコーエン氏は、ビアードの本を大学の図書館で読んで仰天。大統領が戦争を仕組み、無実の日本の指導者を処刑したことに、心から詫びたい気持ちでいっぱいになり、わざわざ来日して、巣鴨処刑場跡の記念碑の前で次の詩を書き残した。

「ああ、アメリカよ、汝は法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、今黄泉にて汝の非道に涙す」と。

 一九四八年、かの有名なヘレン・ミアーズ女史は『アメリカの鏡・日本』を刊行した。マッカーサーは占領が終わらなければ、日本人にこれを日本語で読ませてはならないと、日本語版の出版申請を却下してしまったほどの本である。
 この本は、終戦50年目にやっと陽の目を見た。その結論は一言でいえば、米国が行なっていたことは、日本という鏡に映った欧米列強自身の姿であるということだ。
 ミアーズ女史によれば、日本が目指した「大東亜共栄圏」は、すでに欧米植民地主義による「共栄圏」になっていた。この戦いは日本がアジアを代表して植民地宗主国連合に対する「革命戦争」だった。欧米列強が日本を許せなかったのは、自分たちか「暴虐によって」、せっかく分割支配している既得の経済圏を、日本が力で解放しようとした点にあった。つまり、白人文明国の世界支配に逆らうとは許せないということだ。つまり自分たちの泥棒したものを横取りするとは何事だということである。

マッカーサー自身による反省と悔悟の弁

 東京裁判の不当性を突き、日本の無罪論を展開していたのはインドのパール判事だけではなかった。海外では多くの国際法の専門家や著名な文化人らが、大東亜戦争の世界史的意義や東京裁判の不当性を論評しているが、そのうち80人を選んで、『世界がさばく東京裁判』という本が国際法の権威、佐藤和男教授の解説で出版されている。
 判事ではオランダのレーリンクも、仏のベルナールも、裁判自体の不当性を強く訴えている。ウェッブ裁判長も、当時鬼の検事と言われたキーナン検事も、揃って、あれは行き過ぎだったと反省している。
 当のマッカーサー自身も帰国後、2回にわたって公の席で日本の過去の戦争はすべて自衛のための戦いで、自分が実行させた東京裁判は間違っていたと述懐している。日本の戦争が自衛のための戦い、つまりセキュリティ(Security)だったということは、裏を返せば、アメリカが侵略戦争を仕掛けたことを婉曲に認めていることになるのである。
 さらにアメリカが日本に悪い戦争を仕掛けてしまったという反省、謝罪の事実は、米国上院議員のフルブライトが創設した対日留学生制度にもみられる。彼は原爆投下など日本に与えた残虐行為に対する懺悔の印としてこの制度を始めたと、はっきり明言しているのである。この制度の下で、竹村健一氏ら多くのリーダーが育てられた功績は大きい。フルブライトの気持ちは、米国の多くの識者に共通の心情であろう。
 また、終戦後連合軍が暗に謝罪の意志を間接的に示していたことを示す事実は、サンフランシスコでの講和条約で、不思議にも日本に賠償金を要求しなかったことである。当の米英も中(蒋介石の中華民国)も蘭も放棄している。悪いのは自分たちであることを知っていたからである。
 ところが日本と直接戦争をしていない共産党の中国と韓国が、しきりに賠償や戦争責任を取れと日本に迫るのはナンセンスである。それは日本が意味なく謝罪しつづけるから、これ幸いと脅し、たかりの外交カードに使いつづけられるからである。
 
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