神社仏閣へのお参りの仕方 |
眼下に神戸市街が広がる高取神社の境内から |
今年も初詣に行かれた方は多いことでしょう。日本人は特定の宗教を持たない人が多いと言われていますが、正月ともなると全国の神社仏閣は大賑わいです。 もともと日本人は神様や仏様の世界(霊界)に対する畏敬の念を持ち続けている人種なのです。最近ではあまり言われなくなりましたが「罰(ばち)が当たる」とか「お天道様が見ている」という言葉は、私の子供のころは大人たちからよく聞かされたものです。 さて、正月の風物詩とも言える初詣風景ですが、人々は神仏に何を願っているのでしょうか。一般的な願い事としては、「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「無病息災」といったことや、「病気が治る」「受験に合格する」「愛する人と結ばれる」「試合に勝つ」といった内容、あるいは「スポーツ選手になる」「政治家になる」「歌手になる」などの内容が多いのではないでしょうか。 それぞれの願いを受け止める神仏の側から見れば、大半はほほえましい願い事でしょう。しかしながら、神社仏閣は異次元との交流の道筋ができあがった、いわばこの世におけるパワースポットとも呼ぶべき場所ですので、他愛もない願い事であっても、その心の波長に応じて異次元から何らかの干渉が起こることは十分考えられます。 つまり、願い事をするときのその人の心の波長に同調して、異次元の存在が関わりを持ち始めることになるということです。「類は友を呼ぶ」というのが波動の法則ですから、幸せな気持ちで祈ればさらに幸せな状態を実現するための働きかけがあるでしょうし、逆の場合はますます暗い気持ちにさせる出来事を呼び寄せることになるかも知れません。 ということで、「さわらぬ神にたたりなし」とか「生兵法は大怪我のもと」という諺にもありますように、異次元とのつながりがますます濃くなりつつある今日においては、神頼み的な願い事はしないほうが望ましいと言えるでしょう。 それでは神社仏閣には行かないほうがよいのか、ということになりますが、そういうわけではありません。ここで、私が長年続けている「神社仏閣への参拝の仕方」をご紹介します。「フツーの人が実践している安全なお参りの仕方」ということで、ご参考にしていただけたらと思います。 1.お賽銭の額と捧げ方 お賽銭は1回のお参りごとに千円と決めています。なぜ決めているかと申しますと、その都度「今回は2千円にしようか、それとも5百円でいいかな」というふうに心を動かしていると、その心の動きはそのまま賽銭に刻印されて神仏の世界に届いてしまうからです。 基本的にお賽銭は、「その人が、失ったら少し痛いと感じる金額」が妥当だと言われています。私の場合はそれが千円だというわけです。 ところが、一般的に初詣の時には、多くの人が財布の中の小銭を拾い集め、参拝している人たちの頭越しに賽銭箱めがけて投げ入れている姿を見かけます。要するに、失っても痛くない程度の小銭を投げ込んで、神仏に「私の願いを叶えなさい」と命令しているのです。もちろん、神様も仏様も広い心の持ち主のはずですから、そのことでご機嫌を損ねることはないでしょうが、大切なお金を投げつけてくる姿は、決してほほえましいものではないでしょう。そういう意味では、本体の神様というよりも、その眷属のところで機嫌を悪くされる可能性はあるかも知れません。 お賽銭の「賽」には「神仏の恵みに報いる」という意味があるそうです。ということは、日頃の神仏のご加護に対するお礼のためのお金ということになります。つまり、「お礼の後払い」だというわけです。そのお礼のお金が財布の中を掃除する程度の少額で、しかもそれを投げて渡すということは、それまでにいただいた神仏の恵みに対してそれほど感謝もしていない証拠です。日々の恵みに感謝するどころか、「これから私にちゃんと幸運をください。その幸運の前払いとして百円玉(あるいは十円玉、五円玉、一円玉)を投げ込んであげたからね」と神様に催促しているようなものです。まるで「これまでの人生は満足のいく内容でなかったから、これからはよくしてくれよ」といわんばかりの態度です。これでは神様仏様も苦笑いということになるのではないかと思います。 お賽銭は「お礼のためのお金」だとすれば、やはり謹んで捧げるという形が正しいでしょう。その「捧げる」という気持ちがそのまま神仏の世界に通じるのです。 2.お願いの仕方 既に申し上げたとおり、神社仏閣にお参りするのは日頃のご加護に対するお礼のためですから、新たに何かを願う必要はないのです。こうして神仏にお参りすることができることに、まず感謝しなければなりません。広い意味でいえば「生かされていることに感謝する」ということです。 現在の状態に不満のある人は、その不満な状態を満足な状態に変えてくださいという意味で願い事をするわけですから、神霊世界には「私はいまの状態は不満です」という形で伝わります。その心の動きが、それに同調する異次元の存在やそれ相応の出来事を引き寄せてくることになるのです。場合によっては、ますます不満な状態を生み出してくることにもなりかねません。 「類は友を呼ぶ」という波動の法則によって、不満な気持ちはさらに不満な出来事を引き寄せるからです。その波動の法則を「笑う門には福来たる」あるいは「泣き面に蜂」という諺が教えてくれています。 何か物が欲しいという願いにしましても、既に手にしている物であれば人は欲しがりません。欲しがるのは自分がまだ十分なだけ手にしていない物です。ですから、願う気持ちは「まだ与えられていない」という心の波動となって異次元に伝わってしまうのです。 特に、「我善し」の願い、つまり自分の個人的な利益を期待する願い事は要注意です。一時的にその願いが実現することがあっても、その後により大きな不満な気持ちを生み出す出来事が待っているものです。 ということで、神社仏閣では願い事はせず、心静かにお礼を申し上げることが大切です。もし願い事をする場合でも、自分のことでなく世の平和を願うとか、少なくとも他者の幸運を祈ってあげるという心の姿勢を持つことが好ましいと言えます。 そうすれば、その神社仏閣に宿っておられる神様は、参拝者がいちいち願い事を申告しなくても、その人がその時点でもっとも必要とするものがなんであるかはちゃんとお見通しのはずです。それが“神様”なのです。逆に、私たちの拝む対象が「何がほしいのかをちゃんと言ってくれないとわからないよ」という頼りない存在だとすれば、いくらお賽銭をはずんでも願い事を実現してもらえる可能性は低いのではないでしょうか。 3.おみくじの引き方 神社仏閣におみくじはつきものです。山あり谷ありの人生ですから、神様にこれからの自分の運勢を尋ねる気持ちは不純なものではありません。できれば「大吉」という太鼓判を押してもらって、これからの人生を安心して渡っていきたいと思う気持ちから、多くの人はおみくじを引き、その「卦(け)」の内容に一喜一憂します。 一般的におみくじには「大吉」「中吉」「吉」「小吉」「末吉」「凶」「大凶」などの卦があります。「吉」のつくおみくじであれば「大吉」でなくてもまだ安心できますが、正月早々から「凶」や「大凶」を宣言されると、多くの人は心が暗くなってしまうことでしょう。「今年はついてない」「何か不幸なことが起こるのではないか」と、「凶」の文字がなかなか心から離れないはずです。 こういう場合にはどのように対処したらよいのでしょうか。私の体験からヒントを差し上げましょう。 かつて友人と一緒に奈良県の弥山という山に登ったことがあります。下山して麓にある天河神社でおみくじを引いたところ、友人の分は「凶」だったのです。その友人は「縁起が悪い」と気にしている様子でしたので、私はそのおみくじにしっかり感謝をした上で、焼却することを勧めました。すると彼はその通り実行したのです。その後の彼の運勢がどうであったかということですが、少なくとも特筆するような不幸な出来事に遭遇したわけでなかったことは、その後の彼の言葉で知ることができました。 彼を含む仲間たちとの忘年会などの席で、彼は少し酔いが回ってくると必ずその時のおみくじのことを話題にして、「あの凶のおみくじを焼いた時から僕の人生は開けてきたんや」と、まるで自慢話のように語るのです。 このことからも、おみくじは「卦」にこだわるのでなく、そこに書かれた文章の意味を噛みしめることが大切だということです。その文章の意味を正しく受け止め、その後の行動に反映させていくことが求められていると考えるべきであることが、このエピソードからもわかります。 最近も似たようなケースがありました。昨年の元旦に神戸の長田神社で引いたおみくじが、私も妻もともに「凶」だったのです。私はその2人分のおみくじを家に持ち帰り、書かれた内容をじっくり読み返した後、台所のガスコンロの火で焼却しました。感謝の気持ちを込めて――。 そうして始まった2009年は、一般的な禍福吉凶とはあまり縁のない、静かな1年でした。むしろ、我が家は明るい話題に包まれ、私自身も妻も、大変充実した1年を送ることができたと思っております。俗な表現をすれば「素晴らしい1年」だったのです。 このように、おみくじに載っている「卦」の内容は気にしなくてよいことがわかります。逆に「大吉」であるからと慢心し、人生を甘く見ることがあれば、それ相応の冷水を浴びせるという形で予期せぬ出来事に見舞われることになるかも知れません。そのことは「大難に遭うところだったのに、この程度の出来事で目を覚まさせていただいた」という意味では「大吉」ということになるでしょう。 初詣のときのおみくじは「大吉」だったのに、受験に失敗したり、家族が重大な病気を患うといった出来事が起こることがあるかも知れません。それでも、すべてその人にとって必要な出来事だと考えるべきなのです。神様は、その人(の魂を磨くため)にもっとも都合の良い形で願いを実現してくださるからです。それは本人が神様に“命令”した内容とは逆の場合もあるのです。願い事が必ずしもその通り実現しないことが多いのはそのためです。 ですから「必要なことが必要な形で現れるのだ」「人生で起こることに不要な出来事はない」と考えれば、おみくじの「卦」に振り回される必要はまったくないことがわかります。 おみくじは、そこに書かれた文章にもっとも深い意味があるのです。そこには、戒めたり、励ましたりと、その時その人にもっともぴったりとくる表現が盛られていることは間違いありません。その意味するところが理解できなくても、1年が過ぎて改めて読み返してみると、十分理解できるようになっているはずです。でも、できればおみくじを引いた段階でそれを理解し、それからの行動に活かす方が、気づきが早まるということになると思います。 以上、神社仏閣にお参りする方法についてのお説教(お節介?)でした。 |
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