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家族の命を救った手紙

  
 ある日のこと、いつものように朝早く家を出ようとする時に、お母さんはお兄ちゃんがまだすやすや寝ている枕許に、一通の置き手紙を書きました。
 ――お兄ちゃん、今夜は豆を煮ておかずにしなさい。七輪に火を起こして、お鍋に豆を浸しておいたからそれをかけて、豆が柔かくなったら、おしょう油を少し入れなさい――
 文字通り薄いせんべい蒲団の中で、体を寄せあって眠っている二人の子に、もう一度蒲団を寒くないようにと掛け直すと、まだ暗い中を働きに出ました。
 自殺する人の多くは、瞬間に死を決意するそうですが、その日は普段よりも一層強く子供達と一緒に死んでしまおうとお母さんは意識していたそうです。
 どういう風にして手に入れたかは聞いていませんが、お母さんは睡眠薬を多量に買い込んで家に戻りました。心身共に疲れ切っていて、納屋の戸を、すでに寝ている子供達にがたぴしという音を聞かせないように開けるのさえ容易ではありませんでした。
 薄暗い豆電球を一つつけただけで二人は眠っていました。普段から電気代を節約しなくては駄目よと言ってあるのを、子供達はよく守っていてくれているようでした。
 寒いけれども七輪に火を起こす気にもなれず、お母さんは板張りの床の上に敷いた茣蓙(ござ)の上に、べったりと座り込んでしまいました。
 どうしたらこの子達に睡眠薬を飲ませることが出来るのか、可能なのは何かの手段で二人を殺した上に、最後に自分が大量に睡眠薬を飲めばいいのか、恐ろしい空想が頭の中を駆けめぐりました。
 お母さんはふと気がつきました。お兄ちゃんの枕許に紙が置いてあり、そこに何か書いてあるようなのでした。お母さんはその紙を手に取りました。そこにはこう書かれていたのでした。
 ――お母さん、おかえりなさい。
 お母さん、ボクはお母さんの手紙にあった通りに豆をにました。豆がやわらかくなった時に、おしょうゆを少し入れました。
 夕食にそれを出してやったら、お兄ちゃんしょっぱくて食べられないよと言って、ごはんに水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。
 お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ボクはほんとうに一生けんめい豆をにたのです。
 お母さん、あしたの朝でもいいから、ボクを早くおこして、もう一度、豆のにかたを教えて下さい。
 お母さん、今夜もつかれているんでしょう。
 お母さん、ボクたちのためにはたらいてくれているんですね。
 お母さん、ありがとう
 おやすみなさい。さきにねます――
 読み終わった時、お母さんの目からはとめどなく涙が溢れました。
「お兄ちゃん、ありがとう、ありがとうね。お母さんのことを心配してくれていたのね。ありがとう、ありがとう、お母さんも一生懸命生きて行くわよ」
 お母さんはそうつぶやきながら、お兄ちゃんの寝顔に頬ずりをし、弟にもしました。
 納屋の隅に落ちていた豆の袋を取り上げてみると、煮てない豆が一粒入っていました。
 お母さんはそれを指でつまみ出すと、お兄ちゃんが書いた紙に大切に包みました。その時からお母さんは紙に包んだ豆を、いつも肌身離さず持っています。
「もしお兄ちゃんがこの手紙を書いてくれなかったら、私達はお父さんを追って天国へ行っていたことでしょう。いいえ、私だけが地獄へ落とされたと思います。その私を救ってくれたのは、お兄ちゃんの『お母さん、ありがとう』の言葉でした」
「今でも?」と聞きますと、お母さんはハンドバッグを開けて、すっとあの一粒の豆が入った小さな紙包みを取り出して見せてくれました。
「お兄ちゃんには話したのですか」
[いいえ、私がほんとうに死ぬ時に、あの子にありがとうを言うために、それまではそっと自分だけのものにしておきたいと思っています。私の人生の最高の宝物です」
 いま、日本の広い空の下に、一粒の豆を包んだ紙を大切に身につけているお母さんが、どこかに一人いるのです。私もお母さんの秘密を守って行きます。私のほうがたぶんお母さんより先にこの世を失礼するはずですので、守り切れると信じています。
 最もかんじんなのは、お母さんが一生懸命に生き抜いている姿が、子供達の心に鮮明に焼きつけられていたことです。
 
ありがとう物語』 鈴木健二・著

財団法人 モラロジー研究所
 
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