石ころ 
 
  きのうは子供を
  ころばせて
  きょうはお馬を
  つまずかす。
  あしたは誰が
  とおるやら。

  田舎のみちの
  石ころは
  赤い夕日に
  けろりかん。
 
 
 『みすゞコスモス…わが内なる宇宙』
矢崎 節夫・著  JURA出版局
【著者解説】
 『石ころ』を読むと、なんともいえない、のどかで、おだやかな気持ちになります。〔きのうは子供を/ころばせて/きょうはお馬を/つまずかす。〕
 ころばせたのも、つまずかせたのも、石ころです。でも、この石ころは田舎の道で、そんなことは全く気にかけず、〔赤い夕日に/けろりかん。〕としているのです。
 ころばせて、大変だ! とか、つまずかせて、だいじょうぶかな、なんて考えもしないのです。石ころはずっと前から、そこにあるのですから、動くこともできずに、ずうっと。
 子どもや馬は、自分で動いているのに、ころんだり、つまずいたりするのです。
 原因も結果も、こちらのせいなのに、石ころのせいにしがちな、自分を見ているようです。
 〔けろりかん〕
 竹が天を突き抜けるような、すかっとしたいいことばです。
 『大漁』のところで「木だったことも、草だったことも‥‥石だったこともあるのです」と書きましたが、ヘルマン・ヘッセは『シッダールタ』(高橋健二訳・新潮社)の中で、石について、次のように書いています。
 〔シッダールタはかがんで、地面から一つの石を拾いあげ、手のひらで軽く動かした。「これは石だ」と彼は戯れながら言った。「石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物、あるいは動物、あるいは人間が生じるだろう。昔なら私はこう言っただろう。‥‥だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになり得るだろうからではなく、ずっと前からそして常に一切であるからだ。〕
 悠久の時間の中では、石は石であり、またほかのすべてでもあるというのです。
 私のいのちを一冊の写真集にすると、次のようになるでしょう。
 タイトルは私の名前、表紙はもちろん私です。しかし、表紙を一枚めくると、あとは一度も私はでてきません。木や、草や、鳥や、魚や、人や、石や、地球や、銀河や、はるかな星々の写真がいっぱいあって、最後は、ビッグバンと、その前の光の粒で、私のいのちの写真集は終わります。
 鰮の写真集も、表紙は一匹の鰯ですが、あとは人や木や‥‥私の写真集と同じものが写っているのです。木や、鳥の写真集もみんな同じです。
 今、たまたま私を生き、鰮は鰮を生きている、ということです。
 長いいのちの年の中で、“自分は自分を一度きりしかできない”のです。
 “たった一度きりだから、大切で、美しいいのちです”
 あなたも私も、この世のすべてがそうです。
 過去から未来に続くいのちですが、自分は一度きりだと思うと、キラキラ輝いている自分です。
 
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