花屋の爺さん 

  花屋の爺さん
  花売りに、
  お花は町でみな売れた。

  花屋の爺さん
  さびしいな、
  育てたお花がみな売れた。

  花屋の爺さん
  日が暮れりゃ、
  ぽっつり一人で小舎のなか。

  花屋の爺さん
  夢に見る、
  売ったお花のしあわせを。
 
 
 『みすゞコスモス…わが内なる宇宙』
矢崎 節夫・著  JURA出版局
【著者解説】
 “辛い”ことから“幸せ”に出合えると書きましたが、みすゞさんのしあわせは、“幸せ”という字ではありません。
 「花屋の爺さん」を読むと、このことがよくわかります。
 〔花屋の爺さん/夢に見る、/売ったお花のしあわせを。〕
 売ったお花がしあわせなのは、どのような時でしょうか。それは、花を買った人が花を見て、「きれいだな」と、しあわせな気持ちになってくれた時です。
 花屋のおじいさんが売った花のしあわせを想うとは、まず、花を買ってくれた人が花を見て、しあわせな気持ちになってくれるといいなと願う心なのです。
 “花だけがしあわせ、ということはない”のですね。
 花にとっては、花を見た人がしあわせになってくれない限り、花のしあわせはないのですから。
 私たちだって、同じです。
 “一人だけがしあわせということはない”のです。
 ですから、みすゞさんのしあわせは、“幸せ”という字ではなく、“幸せ”の隣りに、もう一人、人を置いた“倖せ”という字なのです。
 “幸せ”は、こちら側だけのしあわせ、“倖せ”は、むこう側もしあわせという字です。
 “辛い”ことがあって、“幸せ”に出合い、さらにこちら側だけの“幸せ”から、むこう側へと“倖せ”を広げていけたらいいなと想います。
 “倖せとは、しあわせがこだましあっている姿”です。
 ところで、しあわせとは、物の多さやお金がいっぱいあるなしではなくて、朝起きて、「おはよう」といえ、夜、「おやすみ」と、なんの不安もなく眠れることだと、この頃、やっと思えるようになりました。
 “夜、なんの不安や心配ごとがなく眠れるということほどしあわせはない”と、つくづくこの頃、思います。
 そのうえで、家族の笑い声や、友だちとの楽しい語らいがあれば、これはグリコのおまけ以上のおまけです。
 若い時は、とかく物やお金にこだわりがちですし、もちろん、それはあったほうがいいのですが、少しずつ歳を重ねていくと、それ以上に大切なことが見えてくる、そんな気がします。
 日々の生活そのものが、特別のことがなく、昨日に続く今日のように、今日に続く明日のように、ゆったりとした雲の流れに似て、おだやかに過ぎていくことが、どれほどしあわせなことかと感じられるようになってきました。
 秋になって、木が葉をすべて落として、木そのものの姿になって、凛として立っているように、“歳を重ねるということは美しい行為”なのでしょう。
 このことに気づくため、親はある時期、我が子のことで悩んだり、心配したり、不安な夜を過ごすのかも知れませんね。
 
[TOP]