ファティマの予言
『UFOはこうして飛んでいる』
コンノケンイチ・著 徳間書店 1990年刊 

 1917年、ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
 第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
 そこで人々は、第三の予言の発表を待ち望んだ。なぜかこの予言だけは、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
 だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
 第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
 その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。

 事件の発端は、ヨーロッパの西、ポルトガルの真ん中にある小さな村ファティマ。主役は羊飼いの家の末娘で、10歳になった女の子。名をルシアという。脇役はルシアのいとこにあたる9歳のフランシスコとヤシンタ。とりたてて特徴のある子たちではない。
 事件は1917年5月13日、快晴の昼日中に起こった。ルシアたち3人は羊を連れて、村から2キロ先のコバ・ダ・イリアという窪地にやって来た。正午を過ぎたころ、突如、空中に強烈な閃光がきらめいた。少女たちは輝く光にとらえられ、目がくらみそうになった。
 光の中心に、小さな美しい貴婦人が出現した。彼女は子供たちに、毎月13日のこの時刻に、6回続けてこの場所に来るように告げられた。
 3人は秘密にすることを約束したが、一番小さなヤシンタは母親に問い詰められて話してしまった。そのため3人は村中の笑い者になった。
 2回目の6月13日には、それでも噂を聞いた村人が6〜70名現場に来た。彼らはルシアが目に見えない存在に話しかけている様子を、まるで別の世界に引き込まれて行くような気持ちで観察した。ブーンという蜂の羽音のようなものが聞こえた者もいた。ルシアの対話が終わったとき、目撃者全員が爆発音を聞き、小さな雲がヒイラギの木のそばから昇って行くのを目にした。
 3回目の7月13日には、目撃者は5千人にふくれあがった。この3度目のコンタクトでは、時期が来るまでは口外してはならないという命令とともに、重要なメッセージが預言された。これが「ファチマ予言」である。
 内容は25年後に、バチカン当局から次のように発表された。

1 第一次大戦は終わりに近づいたが、このままでは次の法王(ピオ11世)のときに大きな不幸が起こる。

2 次の大きな不幸の前に、夜間に不思議な光が見える。これは神の警告のしるしである。

3 ロシアは誤りを世界にまき散らし、戦争をあおりたて、多くの国が滅びる(この後に重要な「第三の予言」が続くのだが、徹底した秘密となっている)。

 第二の予言は、1938年1月26日の夜9〜11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝いた。これは説明つかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた。
 この不気味な光に呼応するかのように、ドイツではヒトラーが台頭し、まもなく第二次世界大戦の火ぶたが切られた。(中略)
 4回目の8月13日、今度は2万人の群衆が現場に集まった。しかし、ルシアたち3人は姿を見せなかった。世間を惑わすという理由で、官憲によって投獄されていたからだ。だが、子供たちの不在のまま、雷鳴がとどろき、閃光がきらめき、ヒイラギの木のそばに小さな白雲が出現、数分後青空に上昇して溶け去った。
 5回目になると、群衆は3万人にふくれあがった。その中には、奇跡をあばこうと目を光らせている3人のカソリック司祭もいた。
 正午、明るく輝いていた太陽が急に光を失い、周囲は黄金色に包まれた。青空のかなたから銀白色に輝く卵型の物体が現れ、ゆっくり東から西へと飛びながら、子供たちのいるヒイラギの木の上に静止すると、白雲が生じて物体を包みこんで見えなくなった。
 人々がこの奇妙な光景に目をこらしていると、白い綿状のものが空から降ってきた。人々が手を伸ばしてつかんだり、帽子で受けると溶け去ってしまった(註、これはエンゼルヘヤーといわれる典型的なUFO付帯現象である)。
 貴婦人とルシアの間で会話が始まり、10月13日の奇跡の再現が繰り返された。15分後、「お帰りです」というルシアの声が響いたとたん、また銀白色の卵型物体が出現し、青空にゆっくりと上昇して消えていった。
 一部始終を目撃した司祭は、銀白色の球体を「あれは天国の乗り物で、聖母を王座からこの荒野に運んできた」と語った。以来、貴婦人を「聖母マリア」、卵型物体は「聖母の乗り物」といわれるようになった。
 最後の6回目の出現は、予告どおり10月13日に起こった。その日は老若男女、あらゆる階層の人々が現地につめかけ、その数は7万から10万人に達したという。中にはヨーロッパの主要新聞の記者や科学者なども含まれていた。その日の奇跡現象は今も語り継がれるように、さすがに凄い。
 聖母の出現に先立って閃光がきらめき、付近一帯にはバラの花のような奇妙な甘酸っぱい芳香がただよった。子供たちとの対話が始まったが、群衆には聖母の姿は見えず、声も聞こえなかった。ただ、子供たちの顔が、うっとりとなっていく変化を目にしただけだった。
 聖母が子供たちと話し終え、コバ・ダ・イリアを去って行くとき、予告されていた奇跡現象が起こった。その日は、あいにくの土砂降りの雨だったが、突然ピタリと止み、厚い黒い雲が割れて青空が見えた。と、そこから銀色に輝く見慣れぬ太陽が出現したのである。周囲にはさまざまな色光が放射され、火の車のように回転している。
 かがやく太陽のようなものは回転を中止すると、水平に移動、また元の位置に戻ると再び回転を始め、凄まじい色光を発する、という行動を3回くりかえした。と、突如として赤く輝いたと思うと、今度は群衆の図上に稲妻のようにジグザグに落下してきた。群衆は恐れおののき、ほとんどの人は最後の時がきたと思い込み、自分の犯した罪状を告白し始めた。しかし、太陽は再びジグザグに上昇し、青空に納まって行った。
 見慣れぬ太陽が消え去り、本物の太陽が輝き始め、我に返った群衆は仰天した。自分たちの衣服をはじめ、木々も地面も完全に乾燥していることに気づいたからである。
 この奇跡は、ファチマから数10キロ離れた場所でも大勢の人に観察された。
 物体はファチマを中心とする半径40キロの範囲で目撃された。少なくとも直径千メートルぐらいの巨大な物体だったらしい。
 ともかく予告どおりに大奇跡は起こり、事件はポルトガルだけではなく、全ヨーロッパに大反響を巻き起こした。日本(大正8年)の新聞にも、ヨーロッパにマリア様が出現して大奇跡が起こったと報道されている。

 ファチマの奇跡は百パーセントの確率でUFO現象と断定できる。
 したがってファチマの奇跡現象は異星人による演出となり、10万人の大群衆の目前で異星人のメッセージが人類に手交されたという、史上空前ともいえる希有な事件だった。しかも当時の新聞記者に写真まで撮られているのである。現代なら大変な騒ぎになっていたろう。
 ファチマ事件で重要なことは、メッセージの内容が聖書の「預言書」と細部まで一致していることと、人類を『わが子よ』と表現していることである。これらを踏まえて全体を俯瞰すると、次のようになる。

・ ファチマ事件はUFO現象(異星人の演出)である。

・ 奇跡現象を起こした超知性体(異星人)は、人類のルーツとなる聖書の「主」と同存在だった。

・ ファチマ奇跡は、聖書に預言される『終末』のリハーサルだった。


 光の乱舞は戦争を表わし、現在(当時は第一次世界大戦のさなかだった)のような世界大戦は3度起こる。そして、最後の第三次大戦(核戦争)直後には、この太陽のようなものが戒めとなって、みなの頭上に火の玉となって落下するであろうと、このような素朴なイメージでファチマのUFOは人類に警告していたのである。

 日本人は、日本を尺度に世界を考えるという『合成の誤謬』を常に犯しているが、ソ連という国の恐ろしさや、歴史的な凄さはあまり知らないようである。(中略)
 だいたいソ連という国の歴史的な権力闘争の凄絶さは、他国には例を見ない。スターリンだけを例にとっても、第二次世界大戦前から戦後にかけ、彼の意志にそぐわない高級将校や軍人を数百万人も処刑した。また、戦後の集団農場制度の移行では、クラーク(地主階級)たちを収容所に収監して大量に虐殺した。その数はなんと1千万人にものぼるという物凄さである。 ナチのアウシュビッツ収容所におけるユダヤ人虐殺は600万人といわれてきたが、それも戦争という狂気が支配する時代のさなかのことである。それも、実際はもっと少ない人数だったと、近年になって訂正された。
 しかし、ソ連の場合は戦時中の虐殺ではない。しかも、外国人でない自分たちの同胞を、スターリンの時代だけで2千万人というケタ違いの人数を虐殺しているのだ。

 聖母奇跡はファチマがスケール的に最大といえるが、世界各地でも小規模ながら実に頻繁に起きている。
 ファチマの原形といえるものは、1830年にフランスのパリで起き、キャサリン・ラブレという若い尼僧が聖母マリアからのメッセージを授けられている。
 16年後の1846年には、フランスのラ・サレットという小さな山村で、マキシマン・ジロー(11歳)とメラニー・マシュー(15歳)の前に聖母マリアが出現し、秘密のメッセージを伝えており、その後に、かの有名なルールドの奇跡が起きている。
 1879年には、アイルランドのノックという小さな村に聖母マリアが出現し、かなりの人数が、その姿を目撃している。
 1888年には、イタリアのカステルペテソでも同様に出現があり、500名ほどの人々がその姿を目撃している。いわば、こうした小手調べの後に、クライマックス的な一大ページェントが、ポルトガルのファチマを舞台にして展開されたことになる。
 ファチマ以後の主な聖母奇跡としては、1932年にベルギーのボーレーンで、翌年には同じくベルギーのバヌーの子供たちの前に出現している。1961年7月には、スペインのガラバンダル、同年九月にはイタリアのサンダミアノ、1968年から3年にわたって、エジプトのゼイトウンにも出現した。アメリカでは、ニューヨーク・ベイサイドで、1979年後半に起きている。(中略)
 1985年8月には、ベルギー北部のマースメヘレンでは、高さ75センチの聖母像が涙を流すという不思議な現象が発生した。
 このように、聖母奇跡は世界中の地域にわたって発生しているが、共通するのはファチマのような寒村、僻地といえる場所に多く出現していること。カソリック教国に限定されていないこと。UFO現象が多発する場所であること、などである。
 この共通点に関しては日本も例外ではない。場所は、秋田市湯沢台にあるカソリック修道会聖体奉仕会。そこに所属する全聾の笹川修道女の前に聖母が出現し、メッセージを授けている。 出現に前後していくつかの超常現象が見られ、目撃者は延べ千人を超える。
 自然現象としてあり得ないことが聖母像に生じたのは、1975年1月4日を最初に、1981年9月15日まで、実に101回に及ぶ。
 超常現象の主なものは、聖堂に置かれた全長1メートルに足りない聖母像が、光ったり、汗が出たり、目から涙が出たり、掌から血まで流れ出たというものである。とくに目から涙があふれる瞬間は、昭和54年にテレビ東京の放映で克明に映し出され、大きな反響を呼んだ。
 
[TOP]