人生は霊的巡礼の旅 スピリチュアリズムの死生観 |
ほんとうの“自分”を求めて |
■スピリチュアリズムの思想に出会うまで 昭和十年生まれの私にとって、小学生時代は十六年に勃発して二十年に終わった世界大戦と完全に重なる。とくに五年生のころからは空襲また空襲の毎日で、学校の授業は疎開先の山に掘った防空壕の中で行なわれることが多かった。 細長く掘られた暗い洞窟の中で雑然としゃがみ込んでの授業では勉強らしい勉強ができるはずはなく、“勉強”といえるものをした記憶はまるで無い。“警戒警報解除”、つまり、敵機はしばらく来ないとのサイレンが鳴りひびくと、兵隊さんといっしょに、食糧の足しにするためのカタツムリを取りに行ったり、近くの川に釣りに行ったり、友だちと相撲を取ったり、取っ組み合いのケンカをしたりした記憶しかない。 戦後、中学生になってからも、教室は兵舎の各部屋を二つに仕切って(といって遮蔽物は何もなかった)、右と左で別々のクラスが別々の先生に教わるという、今から考えるとムチャクチャな授業だったから、これまた、勉強らしい勉強をした記憶はない。思い出すのは、休み時間のソフトボールやドッジボールくらいのものである。 が、中学生になってから変わったことが一つだけある。読書好きになったことである。学校から帰るとすぐに腹ばいになって本を読み耽けるようになった。何でも読んだ。佐藤紅緑の『ああ、玉杯に花うけて』といった少年熱血小説を読むかと思うと、江戸川乱歩の『怪人二十面相』のようなものも読んだ。要するに乱読だった。夕方になって「ご飯よ」と呼ばれても、あと一ページ、もう一ページと読み続け、その間も何度も呼ばれ、とうとう兄から大声で叱られるように呼ばれて、やっと本を閉じたことなどが思い出される。本屋さんに新しく買いに行った時は、一冊を立ち読みで読み切ってから、別のを買って帰るということを、よくやった。 ところが、高校生になってから、なぜか哲学的なものに惹かれるようになり、阿部次郎の『三太郎の日記』や三木清の『哲学ノート』などを読むようになった。そして、その頃から、ふと、今自分はなぜここにいるのだろうかとか、寝ている間はどうなっているのだろうか、といったことを考えるようになり、それは当然、死んだらどうなるのだろうかという考えに発展していった。その時の考えを断片的に思い出してみると、死んだあとの状態がもしも寝ている状態と同じなら、別に死を怖がることはないと思ったりしていたようである。 それと並行してもう一つ、高校生になってからの大きな変化があった。中学生の時は好きでも嫌いでもなかった英語が、なぜか“よく分かる”ようになっていったことである。 (中略) 当時は入学直後に英語だけ組分けテストがあって、ABCに分けられていた。秀才がたくさん集まる学校と聞いていたので、どうせ良くて“B”クラス、悪ければ“C”クラスだとあきらめていたのが、“A”クラスの名簿に自分の名前が出ていた。英語への自信はどうやらこのことから始まったらしい。その後も定期試験のたびに自信が増していった。 恩師との出会い そんな折、三年生になったばかりの頃に、私の人生を決定づける恩師との出会いがあった。間部詮敦(まなべあきあつ)とおっしゃり、元子爵で、その先祖をたどると、阿部正弘のあとを継いだ井伊大老のもとで老中職をつとめた間部詮勝がいる。もう少しさかのぼって江戸中期には間部詮房という人物がいて、六代将軍と七代将軍に仕え、幕政改革に腕をふるった側用人として有名である。 名前をご覧になればわかるように、間部家は代々“詮”の字を用いており、私の恩師・詮敦氏のお兄さんは詮信とおっしゃった。十歳ばかり年齢の開いたご兄弟だったが、どちらも大変な霊能者であると同時に、霊覚者でもあった。つまり人格・識見・霊能の三つを兼ねそなえた方で、とくにお兄さんの方は霊感と五感とが見分けがつかないくらい、日常茶飯に自由自在に使いこなしておられた。私たちは老先生・若先生とお呼びしていた。 そのお二人の影響を受けて、五感以外に不思議な感覚があることを目のあたりにしていた私に、今思えばまさに千載一遇の好運が訪れた。いわゆる物理的心霊現象実験会、略して“物理実験”が福山市で催されることになり、それが何なのかを皆目知らないはずの母が、高い参加費用を払って、私と兄の二人を出席させてくれた。 そもそも間部先生に引き合わせてくれたのも母であるが、このあとで紹介する夭逝した 長兄のことで先生の霊力のすばらしさに感動させられて絶対的に尊敬していたからであろ う、「見ておかれるといいですよ」という先生の言葉を信じて、そうでなくても戦後の苦 しい家計の中から費用を出してくれた。今思えば、“有り難い”という言葉の本当の意味、 つまり、なかなか有り得ないことを体験させてくれたことを、亡き母に感謝している。 百の反論も一個の実証にしかず その時の霊媒は津田江山という方で、老先生が養成されたと聞いている。四十代の壮健そのものの頃だったので、実験に使用されるエネルギーも豊富だったのであろう、初めから終わりまで唖然とさせられる現象の連続だった。 部屋は真っ暗闇で、中央の机の上に用意されたメガホン(複数)とかタンバリンとかには蛍光塗料が塗ってあり、その動き具合だけはよく見えた。 それがただ動くだけのことならトリックでも可能かも知れないが、不思議でならなかったのは、電灯をつるしてあるコードが何本かあるのに、真っ暗闇の中をそれに一度も触れることもなく、しかも猛スピードで部屋中を飛び交い、時には出席者の頭をボンボンと叩いてまわった。私も叩かれた。もしも人間が手に持って叩いてまわったのなら、歩きまわる時に誰かの身体に触れたはずである。少なくとも人の動く気配がしたはずである。とにかく、出席した者にしか分からない現実感・真実味といったものを、ひしひしと感じ取った。 百聞は一見にしかずという諺があるが、私はこれを、百の反論も一個の実証にしかず、と言いかえたい。 当日の実験で圧巻だったのは、そのメガホンの一本が中空に止まって、その中から 「間部です」 という声が聞こえたことである。間違いなく老先生の声だった。津田霊媒にとっては師匠にあたる間柄だったので、出やすかったのであろう。 のちに老先生にお逢いした時にお聞きしたところ。その時先生は福岡のご自宅にいらして、幽体に宿って身体から離脱して訪れたとのことだった。 なお、写真でご覧の三枚の色紙の書は、同じく真っ暗闇の中で書かれたものである。確かめてはいないが、多分これも大変な能筆家だった老先生がお書きになったものと思う。硯と筆と色紙を用意しておいただけである。きわめて日本的な直接書記現象といえよう。 もう一つ用意されていたのはカメラのセットで、カメラと三脚とフラッシュ用のバルブをバラバラにして置いておいた。会も終わりに近づいたころ 「これから写真を撮ります」 という声がして、何やらガチャガチャと音がしはじめた。三脚を組み立て、それにカメラをセットしている音には違いなかった。が、真っ暗で何も見えない。そのうち 「これから撮ります」 と言うのでカメラの方へ顔を向けたいのであるが、どっちの方向にあるかが分からない。そのうちパッと閃光がひらめいた。ご覧の通り、みんなてんでんばらばらの方角を向いている。 スピリチュアリズムの著作に出会う この実験会への出席で私は、それが死者の霊であるかどうかは別問題として、少なくとも地上の人間と同じ知性をそなえていて、われわれとコミュニケーションのできる存在――しかもそれは、人間の五感を超えた感覚をそなえていて、人間の通常の能力では不可能なことをやってのける、そういう存在がどこかにいるのだということを思い知らされることになった。 論理的帰結とか、証拠を見て納得するとか認めるとかの段階を跳び越えて、いきなり思い知らされたのである。百聞は一見にしかずとは言い古された諺であるが、やはり真実である。百の反論も一つの実証の前には無力なのである。 この体験は、当然のことながら私の哲学的思考に大変革をもたらし、それまでの“生と死”の課題から“死”が消えて、“生”のみの一元的生命哲学へと移行していったのであるが、ここで有り難かったのは、その実験会が催された家の本棚に、浅野和三郎の著書と訳書が何冊か置いてあり、それを間部先生の勧めで読んだことである。 一冊は『神霊主義――事実と理論』、もう一冊はジョン・ワード著・浅野和三郎訳『死後の世界』で、その家の方にとくにお願いして家に持ち帰って読み、時には学校へ持参して授業の合間に読んだこともある。友人から奇異の目で見られたのを今でも覚えている。 スピリチュアリズム思想の誕生の母体となったのは、ニューヨーク州の片田舎のハイズビル村で起きた怪奇現象で、それ自体はいつの時代にも、世界のどこででも起きていたものと同類だった。ただ、その現象への関心の寄せ方がそれまでと違っていた。すなわち、その現象をきっかけに、欧米の第一線級の学者や法律家、文人などが、心霊現象、異常現象、超自然現象と呼ばれているものに、ただの趣味や興味本位からではなく、もしも本当だったら人生の一大事であるとの認識のもとに、地位や名声を顧みることなく、真剣に、そして本格的に考究したのである。しかもその結果が、人生にコペルニクス的転回をもたらす画期的な霊的事実の発見となった。ここでは、それが“スピリチュアリズム”と呼ばれるようになった、といった程度に理解しておいていただきたい。 妙なもので――これが“機縁”というものであろうか――浅野和三郎の訳書を読んで私は、その、実に日本語らしい訳文に感動し、それまで自信がつきつつあった英語への向学心に火がついた。それからというものは他の科目はそっちのけにして、英語オンリーの猛勉強に入っていった。同時に、その年すなわち高校三年生の夏休みに、間部先生のカバン持ちとして、尾道市と向かいあった因島市での逗留先へお伴をしたことが、それにさらに拍車をかけることになった。 そこには間部先生といっしょに大阪で浅野和三郎の霊能養成の指導を受けられた、宮地進三という霊能者がおられた。逗留中に退屈しのぎに奧の間をのぞいてみると、薄暗い中に雑然と書籍や雑誌が置いてあるのが目に入った。失敬してその部屋に入り、手当たり次第にタイトルを見ていくうちに、古い「心霊と人生」という雑誌が出てきて、それをめくっていくうちに、マイヤースの『永遠の大道』の連載記事が目にとまった。 例の名調子の訳文に引き込まれて読み進むうちに、ただならぬ内容に全身が熱くなるのを覚えた。残念ながらそこには連載記事のすべては揃っていなかったが、その時の私の心に、「よし、これを大学で原書で読もう!」という、決意のようなものが湧いてきた。 原書購入のエピソード その決意は首尾よく果たされることになる。明治学院大学・文学部・英文学科へ進んだ私は、さっそく銀座の洋書のしにせ“丸善”へ足繁く通うようになった。必ずしも買うのが目的ではなく、所狭しと並べてある原書を眺め、時おり手に取って開いては、そのハイカラな匂いを嗅ぐのが楽しくて仕方がなかった。 もちろん、俗に“マイヤースの通信”と呼ばれている『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の原書は、すぐに注文しておいた。届くまでに当時は三か月も掛かったが、しょっ中通っていたせいもあって、大して長いとも思わなかった。 浅野和三郎が抄訳したこの二著は、ジェラルディーン・カミンズという作家の手が無意識のうちに動いて書き綴ったもので、通信者はかつて地上で古典学者で詩人だった、フレデリック・マイヤースである。この人は晩年になって心霊研究に没頭し、大著『人間の個性とその死後の存続』という、辞典のような大部の上下二巻を残している。この著作のための疲労が命を縮めたとさえ言われる労作であるが、私は運よくそれを翌年、すなわち昭和三十年八月五日に購入している。 それを購入するに際して忘れられないエピソードがある。当時の私への仕送りは八千円だった。平均一万円の時代だったから少ない方だった上に、原書が一冊二千円前後もする時代でもあったので、家賃の三千円を払い、原書を一冊買っただけで、もう、あとが苦しかった。節約するのは食事代しかない。そんな時にこのマイヤースの原書を丸善で見つけた。夏休みの直前だった。が、六千円もする。二巻で六千円である。とても買える値段ではない。 しかし、ノドから手が出るほど欲しい。夏休みに入って帰省した時にどういう言い方をしたかは今は覚えていないが、とにかく欲しくて仕方がない原書があるけど、高くて買ってもらえそうにないといった意味のことを、母に言った。すると母が「ちょっと来なさい」と言って、和ダンスのある部屋に行って、その前に座っていちばん下の引き出しをあけた。そのいちばん底からハデな着物を引っぱり出して 「これは母さんが嫁入りする時に持ってきたものだけど、もう着る機会はない。イザという時はこれを売ってでもお金をこしらえてあげるから、買いたい本を遠慮しちゃダメ。その本はぜひ買いなさい」 と、鋭い目つきで私を見すえながら言った。そして、さらにこう続けた。 「物はいつかは朽ちるし、持ち運びが大変だけど、知識は絶対に邪魔にならないから、入れられる時に入れられるだけ頭に入れておきなさい」 その二冊を見るといつもそのことを思い出す。日付が八月五日となっているが、これは、買ってもらえるとなると誰かに先に買われはしないかと心配になり、一か月早く上京して買い求めたからである。 |
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