なわ・ふみひとの平成倒病記
 

★ 病気の症状を恐れなかった

 2003年10月、私は世に言う「病気」なるものを実体験いたしました。長年にわたって「無病息災」を売りにしておりましたが、人並み(?)の病気の症状を体験したということで、ここらでのびのびと私の「病気観」について述べさせていただきます。
 これまでは、「病気もしたことがない人間に、何がわかるか!」というお叱りの言葉が寄せられることを懸念しまして、私の考えを披露することにためらいを感じていました。

 では、 まず私が実体験した「病気の症状」についてご紹介します。

(1) 40度前後の熱が約3日間続きました。

(2) 喉や鼻、頭、体の節々などに現れる風邪の症状は全くありませんでした。

(3) 熱のために寒気がするという症状はありませんでした。

(4) 高熱のために意識が乱れてうわごとをいうようなことはありませんでした。


 ということで、3日間布団に釘付けにされておりましたが、3日目の夕方、病院に足を運びました。歯医者以外の病院のお世話になるのは20年ぶりでした。会社を休む手前、どうしても医師の診断を受けておく必要があったため、近隣の病院を探して行ったのです。
 病院の医師の診断は以下のとおりでした。

(1) 風邪ではない。

(2) SARSやガンの可能性はないので、検査の必要はない。

(3) ウイルス性の疾患と思われるので、あと2日もすれば自然に治る。(薬を飲む必要はない)


 ということで、結局、薬、注射など現代医学の力は全く借りることなく、自然治癒力のみをもって快復することができました。医師の言葉どおり、のべ5日目で全快したのです。

 高熱が続いていた間、私が普通の人と全く異なる反応をしたのではないかと思われる点があります。それは、「病気の症状をまったく恐れなかった」ということです。
 「この病気(の症状=高熱)は私の肉体の深刻な状態(ガンなど)を反映しているのではないか」とか、「このまま放置すると、病気の治療が手遅れになるのではないか」ということを全く考えず、心配もしなかったのです。
 基本的に私の意識を支配していたのは、「この症状(高熱)は必要なものなのだから、ただ通り過ぎていくのを待てばいいのだ」という考えでした。もちろん、心の奥底に「自分がそんな深刻な病気になるはずがない」というある種の自信があったことも確かです。しかし、万一そういう事態(深刻な病気)になったとしたら、そのことも自分に必要なことなのだから、甘んじて受け入れようという「覚悟」はありました。
 「自分の運命にいちゃもんをつけず、ただそのまま受け入れる」というのが私の心の習慣になっているのは事実です。というわけで、病気(の症状)を全く恐れることがなかったのでした。
 さて、ここで一般論に入ります。

★ 病気はしないほうがいいのか

 私たちは病気の症状が体に現れたとき、普通は次のように考えるのではないでしょうか。

(1) 運が悪かった。(特に流行性の病気などの場合)

(2) 疲れがたまっていたからだ。

(3) やはり、私は体が弱いからだ。


 つまり、「本来は病気にならずにすむところを、いろいろな不運、不注意によって、偶然病気になってしまった」あるいは、「もともと体が弱いのだから、病気になるのも仕方がない」という考え方をするのではないかと思うのです。
 そのベースにあるのは「病気というものは、しない方がよい」という考え方です。
 この考え方に立ちますと、病気を「健康」の対極において、できれば近づいてほしくないもの、近づいてきたら退治しないといけないもの、つまり「憎むべきもの」「忌み嫌うべきもの」と見てしまいがちです。
 これが西洋医学に毒された、まったく誤った考え方なのです。西洋医学は全体の調和ということはあまり考えず、部品(内臓など)に現れた症状をみて、それを部品の異常(故障)と見ます。そして、部品に治療を施し、場合によってはその部品の異常部分を切り取って捨てたり、他人の同種の部品と取り替えたりすることによって、病気を治したと錯覚します。
 この間違いの最たるものは、「症状」そのものを「病気」だと考えている点です。この定義をはっきりしないと、これからの私の説明は理解しにくいと思います。あらためて私流の「病気」の定義を説明いたします。

★ 病気になるのは偶然ではない

 病気とは、私たちがこの人生において(場合によってはいくつかの過去生において)、さまざまな体験の中から身につけたネガティブな心の習慣が、潜在意識の中にしっかり貯め込まれた状態のことをいいます。そのような心の状態のことを私は病気の「因」つまりカルマと表現しています。
 その「因」が、あるきっかけ(縁)を得て、心の姿を表面(肉体)に現してきたものが、「症状(果)」なのです。ウイルスや、極端な気温の変化など、物質界のさまざまな現象が「縁」となって心の内部にあるものを形にしてくれるのです。
 もし「病気はしない方がいい」という考え方に立っていますと、「縁」となった物質や現象は非常に迷惑な存在として疎まれます。「おまえのおかげで、こんな症状(熱など)が出てしまったのだ」というわけです。そして、心の中の状態を形にして見せてくれた「縁」や「果」に感謝するどころか、それらを手術や薬品の力を借りて撲滅することで、病気の症状を消し去ろうとするのです。
 結局、病気の本体そのものは心の奥深くに置き去りにされたまま、表面化した「症状」と格闘して、病気に勝ったと思っているのです。これでは病気は治癒されておらず、次に新しい「縁」を得て、再び体のどこかの部分に「果」としての症状を現してくることになります。

★ 病気を計画して生まれてきた?

 人は生まれる前に自分の人生のラフな設計をしてくると言われています。心理学や神霊学からのアプローチによって、それは証明されつつあります。たとえば一人の女性がその人生においてレイプされるという辛い体験をすることを、あらかじめ計画して生まれてきたという研究報告もあります。その理由は、「それを実体験する」ことが、魂のある部分の覚醒にとってどうしても必要だったから、ということでした。
 とすれば、私たちが人生で病気に遭遇することも、全くの偶然ということはないと思うのです。生まれた段階で高度の障害があり、病気状態の人もたくさんいます。その人たちを神霊学的に分析してみると、「あえて障害を持って生まれることを選択した」というケースがほとんどのようです。すべて自らの魂の覚醒のためです。
 病気にかからず、すいすいと人生をうまく乗り切る方が幸せだ、と考えるのは、間違った考え方と言えるでしょう。つまり、人生で遭遇することの大半は、生まれる前からある程度自分が予測し、計画してきたことである、という認識が必要なのです。
 しかし、生まれてしまうとそのような霊界における誓いも忘れてしまって、自分の病気を憎んだり、恐れたりしてしまうのです。
 私は、今回の3日間の高熱体験は偶然ではなく、私自身がどこかの時点で計画したものだと思っています。そして、私はそれを予定通り乗りこえることができたのです。

★ 症状は握りしめると勢いを増す

 私たちが体に現れた病気の症状に心を動かし、不安に思ったり、憎んだり、恐れたりしますと、その症状に勢いを与えることになります。
 かつて「病気というものは実在ではない。それは影のような存在だから、心に光を入れれば消えてしまうのである」という実相哲学で多くの信者の病気を治していった生長の家の谷口雅春さんは、この「症状を握りしめる」ことの愚を説いています。
 それは、「火のついた炭を体に当てて吹いているようなものだ」というたとえで、「吹けば吹くほど火勢が強まるばかりだから、病気はますます悪化する。逆に、病気は実在しないものだということでその症状に心を動かさないことが大事だ」と説いています。
 私は谷口さんのこの説明には全く同感で、そのため、17年ぶりに経験した今回の高熱のなかでも、その症状に全く心を動かすことがなかったのです。
 というわけで、私の病気哲学は、私自身が40度の高熱を3日間実体験することによって、一定権威付けされたものと思っております。

★ 高熱がもたらした体の変化

 さて、高熱という症状が私の体に現れて、ちょうど5日目に完全快復することになったのですが、その後、私の体に大きな変化が起こりましたので、病気の「余録」としてご報告しておきます。その変化とは、「 アルコールを全く受け付けない体になってしまった」ということです。学生時代からウイスキー、日本酒、ビール、焼酎、ワインなど、さまざまなアルコールと親しんでまいりましたが、この高熱を体験したあとは、まったくアルコールを受け付けない体になってしまったのです。
 高熱が下がって2日目に、それまで晩酌としてたしなんでいた缶ビールを口にしようとしたところ、激しい薬品臭が鼻について、どうしても口にすることができなかったのです。高熱をきっかけに、私の嗅覚がすっかり変わってしまったようです。
 ということで、この年を最後にアルコールを卒業することができたのでした。その結果、お酒を飲むことで失っていた時間を大幅に節約することができました。もちろん、経済的にもずいぶんと助かっているはずですが、なぜか貯金は増えておりません。お金もアルコールと同じように蒸発するようです。とても不思議です(笑)。
 このように、高熱の洗礼は私に「飲酒の習慣からの卒業」と、その結果として「無意味な時間の節約」という大きな恩恵を与えてくれたのです。病気(の症状)を体験したというより、すごい修行を(強制的に)させていただいた、という感じです。私は密かに「これで終末の大峠において神が憑かれる波動になったのではないか」とほくそ笑んでいます。もちろん、これからの修行(身魂磨き)次第ではありますが、少しはステップアップしたような氣がしています。そういう意味では、実に嬉しい、有り難い体験だったのです。
以来約15年の月日が流れましたが、現在もアルコールは一切体内に入れておりません。奈良漬け、粕汁も御法度、というか体が寄せ付けない状態です。

 以上、私の「倒病記」でした。「闘病記」としなかったのは、病気と全く闘っていないからです。私は、病気を「にくいもの」「こわいもの」とは考えていませんので、その症状と格闘することはなかったのです。
 それでも、さすがに40度の熱の前には、ただひれ伏すしかありませんでしたので、語呂合わせをして「倒病」とさせていただいた次第です。
 
 
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