拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の「預言編」の扉に「終末に関する預言(予言)を審神してみました」というコピーをつけています。
この「審神(さにわ)」というのは、文字通り「神様を審査する」という意味です。霊界や幽界をはじめとする目に見えない世界(異次元)から伝えられるメッセージですから、その発信者がどのような存在なのかは気になるところです。
たとえ自らが「神様じゃ」と名乗っていたとしても、それが本当に神様かどうかを見分けることができないと、誤ったメッセージを信じ込まされてしまうことになってしまいます。
特に、この終末の時代においては、異次元との壁が薄くなって、半霊半物質の世界へと移行しつつあると考えられていますので、異次元に住む存在からの干渉も多くなっています。
そのような異次元の存在の中には大変邪悪な存在もいますので、その通信を真に受けていると霊的に悪影響を受ける恐れがあるのです。一般的に「霊界通信」と呼ばれている異次元からのメッセージには、よほど審神の技術を身につけた人でないと見破ることができないほど巧妙なものもありますので要注意です。
異次元からメッセージを送ってくる存在を審神するには、その道で修行を積んだ人による専門的な方法があるのですが、私は次のような点を判断の基準にしています。
(1)この世の権威を笠に着ていないかどうか。
「わしは天照大神である」とか「日蓮じゃ」などと、この世で賞賛や信仰の対象となっている存在を自ら標榜する場合は、まず霊格の高い存在ではないと考えてよいでしょう。たとえば「イエス・キリストの母」である「聖母マリア」の名をを語ってのメッセージが世界中で降ろされていますが、一連のメッセージの内容は「?」と思うものばかりです。
非常に厄介なのは、この種の存在からのメッセージのすべてが嘘とわかるような内容ではなく、99%はもっともらしいことを述べて、肝心の1%に毒となる内容を含ませるという大変巧妙な手法を使っていることです。誰もが「そうだ、そうだ」とうなづくような内容が含まれているため、すべて本当のことを述べているかのように錯覚させられるのです。
これが私の言う「百の真理に毒一つ」の手法なのです。昨今、特に霊的な修行を積んだわけでないフツウの人に届けられるメッセージには、ほとんどがこのパターンが取られています。
また、最近では、特定の地上的権威よりも、進化した宇宙人を標榜する場合が多くなっているのも特徴です。当サイト」でご紹介している中丸薫さんにメッセージを届けている存在は、「クエンティン」という名前の宇宙人で「宇宙連合の中の地球を守る担当の責任者」だと名乗っています。この宇宙人の身元を確かめる手段はありませんので、メッセージの内容から判断する必要があるのです。中丸薫さんはすっかり信じているようですが、信じた時点で憑依をされた状態ということができます。
このように、地上的権威や宇宙的(?)権威を傘に来た存在から届けられるメッセージと、たとえば最後まで生前の自分の身分を明かさなかったシルバーバーチの霊界通信とを比較しますと、全く波動が違っています。
この世の感覚でも、自分の実力に自信のない人が、肩書きや出自をひけらかし、また大変立派なことを言うのと同じ原理です。要するに、肩書きではなく内容なのです。誰が語ったかではなく、何を語ったかが大切なのです。
(2)メッセージの媒体となった人(チャネラー)の品格がどの程度のものか。
レベルの高い存在からのメッセージを受け取るには、「無私」「敬虔」「謙虚」「誠実」といった要素を身に備えた人物であることが不可欠です。それでもこの物質世界の波動は非常に粗いものですから、最高位の霊的存在から直接メッセージが届けられることはあり得ないのです。
(3)メッセージに愛の波動が含まれているか。
愛の波動とは、一口に言えば「恐怖させないこと」「裁かないこと」です。そして、「人類の進化を促す視点が貫かれていること」も大事な要素であると思います。
「悔い改めなさい。でないと地獄に行きますよ。このままでは人類の80%は地獄に行くでしょう」という聖母のメッセージなどは、とても愛の言葉といえるものではなく、ただ恐怖させることを目的としたものと考えられます。見えない世界には、人類が恐怖心を持つことを喜びとする存在がいるということです。
以上が私が大切にしている審神の基準の一部ですが、実際にはこれらの物差しを一つ一つ当ててみるということではなく、直観で判断しています。要するに波動で感じるということです。
かつて次々と偉人の霊言集を出した方があり、私もその人の本を片っ端から読んだ時期がありました。キリストや釈迦は言うまでもなく、弘法大師、日蓮、カント、ノストラダムスから谷口雅春、高橋信次にいたるまで、霊界からのメッセージとして本になりました。それぞれにもっともと思える内容が含まれているのです。
しかしながら、次々と出される霊言集を読みながらも、どこか違う、何かが違う、と感じるようになりました。そのうち、とうとうその著者は宗教団体を創ってしまわれました。それらの多くの著書は、今では書店で見かけることはなくなりましたが、たとえばノストラダムスを名のる存在が霊界から伝えてきたとする内容が、その後全くのでたらめであったことが判明したのは言うまでもありません。
数年前、わが家の本棚の隅で眠っていたその人物の著書100冊を、まとめてゴミ捨て場に廃棄いたしました。ただ、100冊にも及ぶその手の本を読んできたことで、ある種の審神の感覚が磨かれたのも確かです。つまり、「ニセモノの持つ独特の波動」を嗅ぎ分ける感覚が備わったということです。それを理屈として表現すると、上記のようなことになるのではないかと思っています。