大掃除を始めてくだされ
2006年10月掲載分を再編集しました 
 

 身魂磨きとは「心と口と行ない」を誠にすること

  まず、拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中から、終末における日本の役割を述べた内容をご紹介しておきたいと思います。

終末における日本の国の役割

 日本の国は一度つぶれたようになるのざぞ。一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ。その時にお陰を落とさぬよう、シッカリと神の申すこと腹に入れておいてくれよ。日本の国は世界の雛型であるぞ。(中略)
 日本は真ん中の国であるぞ。日本精神は真ん中精神、末代動かぬ精神であるぞ。三千世界の大掃除であるから、掃除するには掃除する道具もいるぞ。人間もいるぞ。今の有様では、いつまでたっても掃除は出来ん。ますます汚れるばかりぢゃ。一刻も早く日本を足場として最後の大掃除を始めてくだされよ。神が致すのでは人間が可哀想なから、くどう申しているのぞ。
(日月神示)

 日本は終末の時代に、世界の中でも大変重要な意味と役割をもっているということです。このことはインディアンのホピ族の預言にも述べられています。日本は世界の雛型なのです。地形もそうですし、そこで起こる出来事もそうなのです。いわば霊界地球と物質地球をつなぐパイプであると言えます。霊界で起こったことはまず日本に移写され、それが世界に起こっていくのです。逆に日本がしっかりすれば世界もしっかりしてくるということです。
 そのことを知り尽くしているサタンが、日本という国を破壊することによってミロクの世の実現を阻止するために、今もあの手この手を使って攻撃を仕掛けているということです。もちろん、そのことに対しては「神一厘のシナリオ」が準備されているということですが、大事なのは今の日本に生まれてきた私たち一人ひとりの心の持ち方なのです。
 日本人一人ひとりがまず自分自身の心の大掃除を始めることによって、地球の次元アップとミロクの世の出現がスムーズに行なわれるということです。もちろん、それが不十分であれば、神の力で強制的に大掃除がなされるわけですが、そうなると多くの魂が救われない側に行ってしまいますので、それでは「人間が可哀想」とおっしゃってるわけです。

 『大本神諭』にも『日月神示』にも、“身魂磨き”という言葉が頻繁に出てきます。そして、これから始まるこの世の立て替えにあたっては、身魂を磨いていない人間は助からない(根の国、底の国に落とされる)ということでした。終末の大峠において“光の子”として選ばれ、地球と一緒に次元上昇するためには、大天変地異などが始まるまでにしっかり身魂磨きをしておくことが大切だということです。
 では、“身魂磨き”とは具体的にどういうことを言うのでしょうか。神示によれば「心と口と行ないを誠にすること」とされています。これは仏教の修行で大切なポイントとされる「身・口・意をコントロールすること」と同じ内容です。どうやら“身魂磨き”には、@私たちの発する言葉、A心で思うこと、B行ない、の3つが重要なポイントとなっているようです。
 それでは次の『日月神示(ひふみ神示)』に述べられている“身魂磨き”の内容について考えてみたいと思います。

 人間それぞれのミタマによって役目違うのであるぞ。手は手、足は足と申してあろう。何もかもマゼコゼにやるから結びつかんのぢゃ。
 ミタマ磨けてさえおれば、心配なくなるぞ。心配は、磨けておらぬ証拠ぞ。ミタマ磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ。

――『ひふみ神示』岡本天明・筆/コスモテン・パブリケーション

 「ミタマ磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ」と述べられています。 しかしながら、人類がいよいよ「終末」を迎えたと思われる今日において「善いと感じたことを直ちに行なう」のが大切だとわかっても、ほとんどの人は特別な努力もせずにその日暮らしをしてしまう可能性が高いと思われます。それにはいくつかの理由が考えられますが、大きく分類すると次のようなことではないでしょうか。

 日本人は終末の意味を知らない

(1) 終末の意味を知らない。あるいは今が終末の時代だということを信じていない。

 聖書の教えを生活の基盤としている西欧社会や、コーランの教えを絶対のものとするイスラム社会では、一般の人でも「終末」についてなんらかの認識がなされていると思われますが、それらの影響を受けていない日本では、終末思想はほとんど受け入れられていないのが実情です。
 特に戦後世代が人口の過半数を占めるようになって、平和な社会しか経験していない今日の日本人は、文字どおり“平和ボケ”のなかで、国や社会の行く末について真剣に思いをめぐらす人は少なくなっていると思われます。
 それよりも、「景気がよくなるかどうか」「株がもっと上がるかどうか」「どうしたら楽にお金を儲けることができるか」「プロ野球はどこが優勝するか」「サッカーのワールドカップで日本はどこの国と対戦するか」といった問題に対する関心の方が強くなりがちです。これはテレビを中心とするマスコミによって、そのように洗脳されているためでもあります。
 テレビは視聴率によって広告収入が左右されますから、どうしても視聴者の好む番組を中心に編成します。結果として、大衆受けをする低俗番組が増えて行くのです。最近「スポーツ」や「クイズ」などのような他愛もない番組がますます増える傾向にあるのには驚かされます。テレビ番組の制作者も視聴者も、いま世界で起こりつつあることの意味とその影響について考えることもなく、あたかも目隠し状態に陥っているかのようです。

(2) 周りの人がやり始めてからでも間に合うと考えている。(「みんなで渡ればこわくない」といった考えが漠然とある)

 「善いと思ったこと」でも、新たに始めるとなると一大決心が必要です。たとえば、『2012年の黙示録』の中では「禁煙」を例にとって説明しましたが、タバコが健康に良くないとわかっていても、一度飲み始めるとやめるのは大変です。
 私も、いったん禁煙した人がいつの間にか元に戻っている例をたびたび見ています。「自分は意志が弱いから」と自嘲的に言う人もいますが、一度身につけた習慣を変えることは、それだけ難しいということでしょう。

 肉食をやめるのが難しい理由

 最近ではタバコをやめる人(最初から飲まない人)は珍しくありませんので、今度は「タバコ」の代わりに「肉食」を例にとって考えてみましょう。私に届くメールの中で、「肉を食べるのをやめた」という方が何人かありました。それも、単に健康のためでなく、身魂磨きのために実行したと言われるのです。
 肉食をやめるには周りの人の協力が必要になりますから、タバコをやめること以上に難しいはずです。それを実行に移せる人は、間違いなく終末の卒業試験に合格する人だろうと思います。一般的には、肉食をやめようとすると、その決断を思いとどまらせようとするさまざまな心のささやきがあります。例えば次のような気持ちのどれかが浮かんでくるはずです。

@ 食べ物と心の問題は関係ない。(だから、やめる必要はない)

A いままで食べてきて何も問題なかった。(だから、やめる必要はない)

B 周りの人もみんな食べてる。(だから、自分だけやめる必要はない)

C 肉が健康に悪いとわかってからやめればよい。(だから、いまはやめない)

D こんな美味しいものを食べられないのなら、別に早死にしてもかまわない。(だから、やめない)

E たまに食べるくらいなら問題ないだろう。(だから、やめる必要はない)

F 少しぐらいは食べても大丈夫だろう。(だから、やめる必要はない)

G 野菜と一緒に食べれば問題ないだろう。(だから、やめる必要はない)

H 食べ物は好き嫌いなく食べることが大切だから、肉も食べる方がよい。(だから、やめる必要はない)

I 肉を食べないと元気が出ない(栄養が不足する)ような気がする。(だから、やめない方がいい)

J 仕事の関係や人とのつきあいでどうしても食べざるを得ない。(だから、やめられない)

K 肉を食べないとわかると、人から変に思われる。(だから、やめたくない)

L 家族で自分だけ肉を食べないわけにはいかない。(だから、やめられない)

M 育ちざかりの子どもには肉を食べさせるほうが経済的だ。(だから、肉はやめられない)。

N 妻が(親が)つくってくれる肉料理だから食べないわけにはいかない。(だから、やめられない)


 ‥‥などなど、まだまだたくさんの「やめられない(やめたくない)理由」が人それぞれに思い浮かぶことでしょう。しかしながら、もし肉が美味しくない食べ物であれば、わりと簡単にやめられるはずです。やめられない本当の理由は、要するに「肉はおいしい食べ物」だからなのです。また、現代の日本人は子供のころから肉料理に親しんでいるため、その味覚が習慣化してしまっているということもあります。
 最近では「健康の面からは肉は食べない方がよい」という情報も出回るようになりましたが、「肉を食べたら必ず(すぐに)病気になる」ということではありませんから、現在ではほとんどの日本人が、何も心配することなく肉料理を口にしています。「肉を食べない」という人の方が肩身が狭いような社会風潮さえ生まれていると言えるでしょう。
 そういう状況の中では、「健康のために肉食をやめる」という人はあっても、「身魂磨きのため(肉体と魂の波長を高めるため)に肉食をやめる」という人は、ほとんどいないのではないかと思います。
 もし決心したとしても、それを実行しようとすると、上に挙げたような考えのどれかが心に浮かぶはずです。これこそが、「善いと思ったこと」を実行させないようにする「1本の誘惑」なのです。私たちはいつもそのような小さな誘惑を受けていて、ほとんどの場合、その誘惑に負けています。人はもともと誘惑に弱いのです。
 そして、ひとたびこのような誘惑に負ける実績をつくりますと、そこに「心の癖」ができあがり、次からはいろんな局面でそのような誘惑に負ける自分をつくり出すことになります。つまり、「負け癖」がつくのです。
 終末においては、このように「心の誘惑に負けるか、あるいは打ち克つか」を試す形での「卒業試験」が次々と出題されます。そして、残念ながら「1本の誘惑」に負ける人の方が多いのではないかと思われます。そのことを述べた拙著『2012年の黙示録』の一節をご紹介しますので、もう一度お目通しください。

善いと思うことをすぐ行なうのがミタマ磨き
 「善いと感じたこと直ちに行なうこと」が大切だということです。前に、タバコをやめる場合の「1本の誘惑」という話をいたしましたが、私たちの心の調律で一番難しいのがこの誘惑を振り払うということです。
 誘惑には2種類あって、「〜をしたい」というものと、「〜をしたくない(怠けたい)」というものがあります。しかしながら、一人ひとりの心にささやきかけてくる誘惑の声は、波動がよく似ているのです。

@ 誰でもやっていることだから、やってもかまわないだろう。(と自分を許して、やってはいけないことをする)

 誰もやっていないことだから、やらなくてもいいだろう。(と自分を許して、やるべきことをしない)

A 今回だけだから、やってもかまわないだろう。(と自分を許して、やってはいけないことをする)

 今回はパスして、次からやろう。(と自分を許して、やるべきことをしない)

 タバコやお酒をやめようとか、日記をつけようとか、間食を減らそうとか、自分の成長・進化にとって良いことをしようと思うと、人の心に必ず「1本の誘惑」がやってくるのです。この誘惑に勝てない人は、ミタマ磨きができないことになります。
 政治家で贈収賄の罪に問われる人も、最初は「誰でもやっていることだから」という気持ちで自分を許していくのです。あるいは「この程度の(小さな)金額だから」という許し方もあるでしょう。それがホコリとなって潜在意識に蓄積されて行き、やがてメグリとして運命に影響を与えていくことになってしまいます。新しい時代、次元アップした地球では、そのようなメグリがあると生きていけないということです。今から、新しいメグリをつくらず、過去のメグリを解消していくために、「善いと思ったことはすぐに行なう」ことを心がけたいものです。

 「1本の誘惑」が「悪魔のささやき」なのか「神さまのテスト」なのかは、その人の受け取り方によって違うと思いますが、いずれにしても私たちの心に浮かんでくる「1本の誘惑」はたいへん巧妙です。直接ささやきかけているのは多分悟りの低い背後霊か、あるいは波長が合ってしまった低級霊(動物霊)だろうと思われます。
 なお、ここで例にあげました「肉食」に関する考え方につきましては、当サイトの「フツーの人が書いた黙示録」の中にある「肉食編」をぜひご参照ください。

 さて、次々と心の中に湧き起こってくる「1本の誘惑」を振り切って善いことを始めようとしますと、次には必ず邪魔が入ります。「好事魔多し」ということです。私たちが善いと思ったことを実行するのを阻止する働きとしか思えないようなことが、次々と身の回りに起こり始めるのです。これも「悪魔の嫌がらせ」または「神さまのテスト」と見ることができます。
 例えば、「肉を食べない」という決心をした人には、次のようなことが起こるでしょう。

@ 家族(親や子供、配偶者)から猛反対される。(あるいは「肉が食べたい」「お肉を食べさせて」とせがまれる)

A 恋人から、「美味しい肉料理を食べにつれてって」と頼まれる。

B 上司や大事な取引先から「うまい肉をおごってやる」と誘われる。

C 進物で豪華なハムの詰め合わせが届く。

D 家の近くに「焼き肉食べ放題」の店が出店する。


 ‥‥などなどです。その他、肉を食べたくなる(食べざるを得ない)ような状況が身の回りで発生し、誘惑の手が強化されてくるのです。人の決心をぐらつかせるような出来事が次々と起こり、そのうちに「ちょっとだけならいいか」と、心のゆるみが起こります。
 その「誘惑」の手口はたいへん巧妙です。タバコをやめた人が再び飲み始めるのは、この巧妙極まる「1本の誘惑」に心を許した結果なのです。つまり、次の文章にあるような形で、「1本ぐらい飲んでも大丈夫だよ」と安心させる心のささやきがあるのです。

光の子になるための条件とは
 ‥‥私はこれを「1本の誘惑」と呼んでいます。
 タバコをやめることにチャレンジした人たちが、1カ月あるいは1年後に、再びタバコを吸い始めるようになる一種のパターンがあるのです。それは、「1本ぐらいすっても、もう大丈夫だろう」という気持ちで心を許してしまうことです。これが「1本の誘惑」です。
 確かに、1カ月もタバコをやめた人が、途中で1本をすったとしても、翌日からすぐに喫煙癖が復活するわけではありません。それから1カ月くらいは無理なく禁煙が続けられるのです。そうやって安心させておいて、またしばらく経つと今度は「2本目の誘惑」がやってきます。このときは、前回成功した経験もありますので「1本くらいすっても‥‥」という安心感はさらに強くなっています。つまり、誘惑に対するガードが甘くなっているということです。こうやって、2本が3本に、そして、いつの日か元に戻ってしまうというパターンが巧妙に準備されているのです。こういう形で、私たちが「誘惑に強いか、弱いか」ということについての判定がなされてしまいます。
 「タバコ」を「ケーキなどの甘い食べもの」「お酒」「異性とのセックス」「ショッピング癖」など、その他のものに置き換えてみてください。あなたにも何か当てはまるものがありませんか?
 そのような物質次元のさまざまな誘惑にうち克つ心を持てるかどうかが、新しい時代行きの切符を手にできるかどうかを判断する基準になるのです。
――『2012年の黙示録』117ページ〜


 物質欲を手放さなくてはいけない

 本日の結論を整理しますと次のようになります。

(1) 「終末試験」は既に始まっている。合格するためには「善いと思ったことをすぐ実行すること」が大切である。

(2) 善いと思ったことを実行しようと思うと、まず心の中にそれをやめさせようとする働きかけ(「1本の誘惑」)が生まれる。

(3) 「1本の誘惑」を振り切って実行しようとすると、今度はさまざまな邪魔が入る。

(4) そのような二重三重の障害を乗り切ったとき、そのテーマに関する「終末試験」に合格したことになり、次の単元へと進むことができる。


 要するに、“身魂磨き”の大切なポイントは、「この世で身につけた欲望(物質欲、名誉欲、色欲など)から心を自由にすること」です。「心を自由にする」ことを別な言葉で言うと「誘惑に負けないように精神を鍛える」ということで、そのためには「人生で大切なことは何か」に気づくことがまず必要になります。それが「向上心」ということです。
 そして、大切なことに気づいたら、それを直ちに実行することです。「いまはやりたくないから、そのうちやろう」という心の姿勢を持つと、「そのうち」は永遠に来ることはありません。怠惰なままの日々があっという間に過ぎ去って、いざとなって地団駄を踏むことになるでしょう。
 子どもの頃、夏休みが終わって学校が始まる直前に、宿題を一度に片づけようとして頭を抱えた経験はありませんか(私はそうでした)。
 夏休みの宿題は早めにとりかかるにこしたことはないのです。まして、生まれ変わりの中で解決させずに来た重要な宿題ですから、1つでも多くやり遂げる姿勢が必要だと思います。高をくくってはいけないのです。時間のスピードはますます速くなります。
 毎日を「平和で楽しく暮らせればよい」という考えで生きていては、終末の卒業試験に合格することは難しいということを、各神示は伝えてくれているのです。素直に(母親の愛を疑うことのない幼児のような気持ちで)信じることではないでしょうか。信じて身魂磨きをはじめても、何も失うことはないはずですから‥‥。
 
 
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