思考を持続すればカルマが育つ
2012年1月掲載分を再編集しました 
 

 本日は、『新カルマ論』(ポール・ブラントン著/大野純一訳/コスモス・ライブラリー)の解説を再開してまいります。
 本日ご紹介するのは、表題の通り「思考を持続させることでカルマは強く育つ」という内容です。これを読みますと、身・口・意の「意(想念、思考)」がいかに私たちの運命に大きな影響を与えるているかが理解できると思います。

 思考は創造的になる傾向があり、それは遅かれ早かれ、あなたの一般的環境の中にカルマの実を結ばせる。これはあなたの道徳生活にも言える。ここでは、あなたの思考は、カルマ的に有効になりうるためにかならずしも行動に移される必要はない。もしそれが充分な強さを持ち、充分な期間持続すれば、それらは結局は外面的境遇にも相応しい結果をもたらすであろう。
 これは実例によってより明瞭にすることができる。もしあなたがある人が死ぬことを執拗に願っているのだが、結果への恐れからその人を殺害する勇気がなければ、あなたの殺意はある日釣り合った形であなたにはね返るであろう。やがてあなたは非業の死を遂げるか、致命的な事故に見舞われるか、あるいは、ちょうどあなたの憎悪があなたの性格をむしばんだように、あなたの身体をむしばむ病気にかかるかもしれない。このように、実際に殺人罪を犯さなくても、あなたは殺人を考えることへの体罰をこうむるのである。
 同様の理由のため、病んだ思考習慣は病んだ身体状態として現れるかもしれない。医師はそのような状態の直接的な身体的原因を正しく見抜くかもしれないが、しかし行き過ぎた怒り、病的な憎悪、激しい恐怖、過度の欲望(強欲) 、習慣的な恨みなどの究極的な精神的原因は見抜けないかもしれない。われわれは、もちろん、病気にかかったあらゆる人が過去または現在において否定的に考えていたと、非論理的に早合点してはならない。身体は、決して違反してはならないそれ自身の健康の法則を持っている。もっとも、ほとんどの違反は、普通、まったくの無知から起こるのであるが。
 こうしたすべてがありうるのは、存在の基礎がそもそも精神的なものだからである。カルマのプロセスにおける創造的要因は、精神それ自体である。それゆえ、もしわれわれに反するカルマの働きを根本的、かつ有利に改変させたければ、精神的変化が必要である
―― 『新カルマ論』(ポール・ブラントン著/大野純一訳/コスモス・ライブラリー

 いつも心で思っていることは、それが行動に移されなくても、ある時期になるとその思いの内容に相応しい境遇を作り出す、ということを述べています。ここでは、殺人という極端な事例を使って説明されていますが、要するに「意(心で思うこと)」は、それが継続的になされれば「身(行動として表現すること)」がなくても、自分のまわりにその「意」に相応した出来事を引き寄せる、ということです。
 一般的な事例で考えて見ましょう。たとえば、ある人物を嫌悪し、攻撃する気持ちを持ち続けていると、それはもちろん潜在意識を通じて相手にも伝わりますが、それと同時に、ますますその相手を嫌悪したくなるような出来事を引き寄せてしまうのです。もし攻撃する心があれば、その波長は「衝突する」という形で実を結びます。愛車の運転中に衝突事故を起こすか、人とのいさかいに巻き込まれて殴られるか、軽い場合は壁や柱で頭を打って痛い目に遭うなどの形でカルマが実を結ぶのです。
 ただ、幸か不幸か、この物質世界ではカルマの結実には一定の時間がかかりますので、自分のどのような心の癖が実を結んだのかという因果関係はなかなか意識されません。ですから、いつまでも不用意に「怒り」や「不満」という善くないカルマの種をまき続けることになります。そして、それは霊界の通帳にきっちり貯金(貯カルマ)され、日に日に利息が付いて大きなエネルギーへと育っていくのです。
 思うこと(意)は言葉(口)や行動(身)に表さなくても、それだけで十分なカルマの貯金を積み上げることになることを肝に銘じておきたいと思います。

 次の下線の部分では、病的な思考習慣(心の癖)によって病気を作り出すこともあると述べています。「病は気から」とわが国のことわざにもある通りです。病的な思考とは、激しい怒り、憎悪、恐怖、過度の欲望、恨み、などです。これらが善くないカルマを作り出す典型的な心の持ち方と言えるものなのです。

 要するに、カルマは精神(心の持ち方)によって良くも悪くもなるということです。善くないカルマを解消し、この世での運命を好転させるには、精神的変化つまり心の持ち方を変えることが必要である、と結論づけています。
 
 
[TOP]