「業は心より生ず」(華厳経)
2012年1月掲載分を再編集しました 
 

 本日のタイトルを直訳しますと「カルマは心が作り出す」という意味になります。以下にご紹介する『運命の法則』(原田豊實・著/三笠書房)の中にある言葉です。
 本日はこの本の中からカルマに関して述べられた部分を抜粋してご紹介します。
 私は、迫り来る終末の大峠を乗り越えるには、日々の身魂磨きと善くないカルマの清算が不可欠である、と考えていますので、このテーマは今後も繰り返し採り上げてまいります。根気よくおつきあいいただきたいと思います。
 下線を引いた部分(@D)は特に重要なポイントということで、後段に私の解説をつけております。引用文と合わせてお読みください。

業の世界

 「人間は自分のなかに知らないものをもっている。人間が人間である以前にもっていたところのものを今なお多くもっている。自分が気づく、気がつかないにかかわらず、もっているのである。人間の喜怒哀楽とはそういうものと深く結びついている……」
 かの湯川秀樹博士の『現代科学と人間』(朝日新聞社刊)にある、まことに意味深長なことばである。
 「自分のなかに知らないもの」、そして「人間が人間である以前にもっていたところのもの」、いずれも仏教でいう「宿業」に相当するものだと考えられてならない。
 われわれが、馬齢を重ねて、人生経験をそれなりに積むにつれて、自分の意志や努力だけではいかんともしがたい、自分自身を左右している何かがあるような感じになるものだ。
 年齢につれて「本性」がでるなどというが、人それぞれの本性というものはどうして形成されたものであろうか。それは、われわれが父母より生を受けた生まれつきのものであるとはいえ、あまりに不可思議な何物かである。
 そこで「宿業」について考えてみたい。
 われわれがこの世に生まれてから行なった業(行為)については、身に覚えがあり、これに対して報い(反応)があった場合には、自分自身で納得して受けとめることができる。ところが、われわれが生まれる以前、つまり過去世で行なった「知らない業」(現在の自分の身には覚えのない業)については、それらを自分が背負っているにかかわらず、それに気がつかずにいるのが実体ではないだろうか。
 この世ではいかに善人であっても、過去世の業によって、いろいろの災難を受けざるをえないケースがある。他方において悪人でも、過去世の業因で、悪い報いよりも、むしろ恵まれた生活や幸福といった好運にめぐまれる人々も現実に存在する。
 このような一見逆様(さかさま)な現象は、この世だけの短期サイクルから、いかに解明しようとしても、どうにもその糸口が掴めないのである。原始仏教の碩学・平川彰東大教授も『生活の中の仏教』(春秋社刊)において、
 「いつどんなことが起こるかわからない。それは自分の力によってはどうすることもできない。そういう運命を自分が背負っている」それが「宿業」というものだと定義される。この宿業の世界に目を転ずることにより、はじめて人それぞれに具備された運命的なもののいみが、汲み取れるのではないであろうか。
 
@宿業の「業」(カルマともいう)には、形に現われた行為と、形に現われない行為とがあり、むしろ後者の「見えない部分」の方が本質的なもので、あとに残って報いを生ずるという。つまり、貪り、怒り、腹だつことによる行為そのものより、心根の方が問題なのである。
 「業は心より生ず」と『華厳経』にあるが、この「心」が、実に三界(過去、現在、未来)にわたって、業となり、宿業となって、われわれの運、不運を支配するものだといえよう。
 また、
A業には「共業」と「不共業」とがある。夫婦、家、職場などグループの成員として共通的な背負うべき過去の責任、未来の運命が「共業」である。大きくいえば、社会、国家、民族、世界人類の共業というものが、生々しい歴史を展開しているともいえるのだ。
 「不共業」は、個人的なそれぞれの特殊な運命である。
B個人のつくった業でありながら、それがまたその人の属する社会全体につながっていく性格のものでもある。このように「業」は複雑なもので、われわれには「見えない部分」が多いだけに、考えれば考えるほどむずかしい問題である。
 われわれは日常において「どうも俺(私)は業が深いようだ」などと、口走ったりする。
 しからば、この業なるものは、われわれの生命のどの部分に蓄積されているのだろうか。
 大脳生理学の第一人者である時実利彦教授は『人間であること』(岩波新書)で、深層心理の問題として、大乗仏教の唯識論にとくに注目されている。すなわち、人間の心は八識からなる。眼、耳、鼻、舌、身、意の六識と第七識の「末那識(まなしき)」(伝奏識とも呼び、第六識に現われた事実を自分本位に識別して第八識に伝達する心作用)、第八識の「阿頼耶識(あらやしき)」(含蔵識とも呼び、われわれの生命の本体ともいうべきもので、過去の結果をすべて蔵し、また未来の原因をも蔵する心作用)である。
 このうち六識は現象的な意識であり、第七、第八識は、根源的な深層意識である。
 そこで、時実教授は「末那識は自我に執着する無意識であるが、阿頼耶識は我執を脱却した宇宙意識であって、もろもろの心の根源をなすものだ……」と説明されている。
Cこの「自我に執着する無意識」(末那識)にこそ、われわれの「業」というものが保存されているのではなかろうか。
 われわれが自我に執着する度合いは、業の深さに関連したものである。そこで問題は、われわれがこの自我に執着する無意識から脱却して、時実教授の表現をかりれば、
D「刻々に流れる生命の源泉である阿頼耶識に沈潜した自分の発見を通して現成できる」ことが、人生最大の課題といえよう。「業に生まれ業を超える」道は、まことに厳しい。
―― 『運命の法則』(原田豊實・著/三笠書房)

 それでは下線を引いた部分(@D)について私の解説を綴っていきます。

@ 宿業の「業」(カルマともいう)には、形に現われた行為と、形に現われない行為とがあり、むしろ後者の「見えない部分」の方が本質的なもので、あとに残って報いを生ずるという。つまり、貪り、怒り、腹だつことによる行為そのものより、心根の方が問題なのである。

 私たちは身・口・意によってカルマ(業)を作り出します。「形に表れた行為」とは、一般的に言うと「他の人が見てもわかる行為」と解釈すればよいと思います。たとえば、人の悪口を言う、人をにらみつける、人を殴る、自分のことを卑下する、……といった行為は、善くないカルマの例として他の人の目にも映ります。本人がその時点で自分のその行為を自覚しているかどうかは別にして、第三者が見ればよくわかる行為――身・口・意のうちの言葉(口)や態度(身)――のことを、ここでは「形に表れた行為」と述べているのです。
 そのような「形に表れた行為」よりも、心の中で思っていること、つまり「意」の方が、カルマ(業)としてはより強く刻印され、蓄積されていくのだと述べています。
 たとえば、顔には笑顔を浮かべ、優しい言葉をかけていたとしても、内心では相手を蔑んだり、憎んだりしていたとしたら、表現された笑顔や愛語よりも、「心根(奥に秘めた本当の気持ち)」の方がカルマとして刻印されることになるのです。当欄でもたびたび「カルマの法則は行為(身)の元となる意図や動機(意)が大切である」と述べてきた内容です。

A 業には「共業」と「不共業」とがある。

 カルマ(業)には、その責任が個人に帰するものと、属する集団に帰するものとがあります。集団は家庭という小さな単位から始まり、職場の仲間や地域社会の人たち、日本に住む人びと、世界中の今生きている人びと、人類全体(過去の人びとも含む)といった形で広がっていきます。
 人類が生み出してきた文明の恩恵に浴している私たち現代の人間は、先人たちが作り出したこの文明が生み出すマイナスの部分についても責任を負わされることになります。たとえばいま直面している原子力発電所の問題も、私たちが直接作ったものではありませんが、そこで生み出される核廃棄物の問題は、これから生まれる人たちに責任が押しつけられ、悪影響が及んでいくことになります。人類全体で善くないカルマ(業)を蓄積してしまっているということです。
 そういう意味で、「共業」というのは「共に背負わなくてはならない業」と解釈してもよいでしょう。自分さえ正しく生きればすべてうまくいく、というほどこの世界は簡単ではないのです。カルマの法則の奥深さがご理解いただけると思います。

B 個人のつくった業でありながら、それがまたその人の属する社会全体につながっていく性格のものでもある。

 カルマを作っているのは私たちの「身・口・意」であると述べてきました。そのなかでも、もっともカルマを育てる力を持っているのは「思念・想念(意)」であるということでした。個人のカルマが蓄積されているのは潜在意識の中と見られています。仏教ではそれを「末那識」と呼んでいますが、それは次のCで出てきます。
 ここでは「個人のカルマがその人の属する社会全体につながっていく」というところに注目していただきたいのです。私たちの「身・口・意」は関係する人たちを通じて大なり小なり社会に影響を及ぼしていきます。その結果として、社会からの見返りもあるわけです。同時に、社会もまた全体としてカルマを形成していくことになります。その見返りは社会を構成する一人ひとりが、その貢献度(集団のカルマつくるのに関わった度合い)によって受け取ることになります。このように、個人と社会(集団)はカルマの面から見ても深いつながりがある、ということを述べているのです。

 次のCDは関係が深いので、合わせて解説していきます。

C この「自我に執着する無意識」(末那識)にこそ、われわれの「業」というものが保存されているのではなかろうか。

D 「刻々に流れる生命の源泉である阿頼耶識に沈潜した自分の発見を通して現成(げんじょう)できる」 (現成=自然にできあがること。完成。 ―― なわ・註)

 意識には私たちが自分で認識できない領域があります。それをユングは「無意識」と呼んで、個人の無意識を個人的無意識、その奥にある集団の無意識を集合的無意識と命名して区別しました。そのあたりの内容は拙著『2012年の黙示録』(たま出版)でも述べておりますので、まずそれを引用しておきます。

人の意識は人類の集合的無意識とつながっている

 私たちが自分で認識できる意識(感情、気持ち、想念など)のことを顕在意識と読んでいます。「顕」は顕れるという意味ですから、私たちがキャッチ(認識)できる心の状態を言います。物を食べて「おいしい」と感じたり、人からほめられて「嬉しい」と思ったり、海外旅行を計画するときにワクワクしたりする心の働きのことです。
 このような認識できる意識以外に、私たちの心臓を規則正しく動かしたり、暑いときには汗をかいて体温を調整したり、体によくない食品を口に入れると下痢をするといった働きがあります。それらは私たちが頭の中で考えて行なっているわけではなく、体が自然に働いてくれているのです。肉体の脳を使ってこの働きを司っているのが潜在意識なのです。
 この潜在意識のことを、ユングは「無意識」と命名し、「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けて説明しています。個人的無意識は個人ごとに違いがあるということです。肉体の特徴や健康面の違いなどは、個人的無意識の違いを反映しているということでしょう。
 その奥にある集合的無意識は人類全体が共有する意識のことで、これも個人はキャッチ(認識)することはできません。
 ここで、顕在意識と潜在意識の関係を理解していただくために、水に浮いた氷山を思い浮かべてみてください。水面よりも上に出ている氷の部分が顕在意識です。これは私たちが認識する(見る)ことができます。そして、水面の下に隠れて見えない部分が潜在意識にあたります。
 この潜在意識のなかでも、水面に近い部分が個人的無意識、それより深いところにあるのが集合的無意識というわけです。そして、この集合的無意識は深い深いところでは一つの塊となって、地球意識や宇宙意識へと繋がっていると想像してください。
 逆に考えると、水中の深いところに一つの巨大な氷の塊があって、そこから氷が枝のように分かれて無数に突き出しており、それぞれの枝の先端部分が水面の上に現れているというイメージです。その一つ一つの突き出した枝の部分が私たち人間ということです。
 私たちは、普段は水面の上に出ている顕在意識しか認識することができませんから、人間は一人ひとり別々のものであると思っています。まさかその心の奥深いところで、氷山のような一つの大きな意識体に繋がっているとは思えないのです。そのため、私たちが考えたことが他の人たちに伝わることなど、思ってもみませんでした。ただ、「人の悪口を言うと必ずその人に伝わる」といった考え方があったのは確かです。そのメカニズムは、この氷山の例でご理解いただけたと思います。
 私たちは毎日心を動かしていますが、その心の動きは波動として潜在意識に蓄積され、さらには人類の集合的無意識の中にも蓄積されていくのです。逆に、集合的無意識の中に蓄積されているさまざまな波動は、人の潜在意識に影響を与え、時には顕在意識の中にも「ひらめき」や「胸騒ぎ」「予感」といった形で伝わってくることがあります。潜在意識の中は物質の束縛のない波動の世界ですから、すべての波動が瞬時に行き交っているということです。月に行ったアポロ飛行士が、「月面では疑問に思ったことに対する答えが瞬時に返ってきた」と語っていたそうですが、これも肉体の束縛が軽くなった結果だと思われます。
 新しい地球で、人がこの波動の粗い肉体の束縛から離れたときに、心がどのような働き方をするかを想像することができると思います。やはり、この終末において、人は芋虫から蝶に羽化するのです。
 このように、私たちの意識は集合的無意識や神次元の意識ともつながっていて、相互に影響し合っているということです。そういう事実が、最近の科学の進歩によって理論的に裏付けられ、立証されつつあります。これも、よい意味での終末現象と言えるかもしれません。
―― 『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと著/たま出版)


 「私たち人間の心はお互いはもちろん全体ともつながっている」ということを述べた内容です。このことを理解すれば、カルマが「共業」すなわち全体責任的性格を持つことも納得できると思います。私たち一人ひとりの「心の働き(意識)」は他人にも影響を与え、同時に全体の意識を形作ることにも貢献しているのです。ですから、同じような心の癖を持つ人が増えていけば、世の中全体がその傾向を強めていくことになります。
 私たち一人ひとりの心の働きは、まずは「末那識(個人的無意識)」の中に刻印され、同時に「阿頼耶識(集合的無意識)」にも届いていくことになります。たとえば「人を憎む」心の働きは、同じ波長の心を潜在意識の中に植え付け、大きく育っていくのです。そして、いつの日かその分け前としてのカルマ(業)を、発信したそれぞれの人の元に返してくるというわけです。全体のカルマがそれを構成する一人ひとりに、しかも、その貢献度合いに応じて寸分も違えることなく公平に返ってきます。そこがすごいところです。まさに神様ならではの仕業と見ることもできますが、これこそ宇宙の絶対法則というべきでしょう。
 今回のテーマに関してはまだまだ説明したい内容がたくさんありますが、本日はこのあたりで終わっておきます。
 最後に、善くないカルマを作らないために「身・口・意」をどのようにコントロールしていけばよいか、ということに関して、座右の銘にしていただきたい(私が大切にしている)言葉をご紹介しておきます。それは、次の言葉です。

  お天道様(おてんとさま)が見てござる。

 そうなのです。人に知られないところでの「身・口・意」を大切にしなくてはいけないのです。陰で他の人の悪口を言ったり、ぶつぶつと愚痴ったり、口には出さなくても他の人を蔑んだり、憎んだりする行為、このような心の癖がないかどうか、しっかり点検していただきたいと思います。誰にも気づかれないから大丈夫と思うかもしれませんが、あなた自身を通してお天道様(神さま)はすべてを見ていらっしゃるということです。久しぶりの「なわのお節介」でした(笑)。
 
 
[TOP]