病気の原因は心のゆがみ
2008年4月掲載分を再編集しました。 
 

 今回も引き続き篠原佳年氏の『快癒力』(サンマーク出版)の内容を抜粋してご紹介します。前回お約束した「病気を忘れる」あるいは「病気をあきらめる」ことの意味とその重要性がご理解いただけると思います。

助けるつもりで命を奪っていないか

 現在の医療現場で行なわれていることを、みなさんはどう思われますか。
 病院だから病気の人を治しているだろう、医学は進歩しているから、いまは治らない病気もやがては治るようになるだろう――もしこう思っておられるとしたら、失礼ですがかなりお人好しの見方といわなければなりません。
 医療現場がやっていることは、そんなことではありません。患者さんに病名をつけて、ほとんど治らない治療を施し、症状は少し和らぐが副作用の恐れのある薬を出し、そしてほとんどの患者さんを治していません。
 立派に見える医療施設や装置の大半は病気探しの検査に使っているもので、病気治しとはあまり関係ないのです。それでも当事者たちは悪気でやっているわけではなく、彼らなりに精一杯のことをやっていると思っているのです。そういったことに慣れてしまったのです。
 救急の患者が病院に担ぎ込まれると、医師も看護婦も「なんとか助けよう」と必死になります。その場合にだれもがやろうとすることが、症状の安定ということです。呼吸が苦しそうなら、呼吸を整えさせようとします。しかし、これが大変な間違いだとは気づかないのです。
 呼吸が荒いということは肺が一生懸命に息をしようとしていることです。息をするのはそれが必要だからです。体のなかの酸を二酸化炭素として肺から出そうとしている。だから息を止めてはいけないのです。
 ところが息が荒いのは見た目には苦しそうに見える。そこで看護婦さんも家族も「楽にしてやりたい」と思い、酸素マスクをかぶせたりする。酸素を吸うと、当然呼吸回数が減ってくるから、体の酸が出せなくなる。体はアッという間に弱ります。
 見た目は息が穏やかになって「落ち着きましたね」などと喜んでいるのですが、実は患者さんは二度と帰らない旅に出ていこうとしているのです。
 なかには生命力の強い人がいて、酸素マスクをはねのけたりする。そうすると「暴れています」などといって、今度は鎮静剤を打つ。鎮静剤を打たれると筋肉が弛緩して、ますます息がしにくくなる。これでは助けるつもりで、逆に命を奪っているのと変わるところがありません。それでもだれも悪意はもっていない。みんな当たり前のことをしているつもりなのです。「おかげさまで静かな息をしています」「よかったですね。しばらく様子をみましょう」。いくら様子をみても、患者さんが生きようと最後にふりしぼった力を邪魔して削いでしまったのですから、よい結果が出るはずはありません。
 これはほんの一例ですが、
西洋医学というのは、目に見える症状の改善にばかり意識を向けていて、病気の本質というものを見誤っている。いまのやり方を続けているかぎり、病気はほとんど治らないし、それどころか病気になる人はますます増えていくでしょう。私は医者になって20年がたちますが、現在の医療のあり方を根本的に改めることなくして、病人と医療費だけが増え続けるという事態を変えることはできないと思っています。

病気をつくることにエネルギーを使うな

 では、どう改めたらよいのか。いま必要なのは、新しい「病気観」というものの確立ではないでしょうか。
 
病気は悪いものである。病気は体に起きる現象である。病気は治さなければいけないものである。病気を治すには病院へ行かなければならない。こういった既成概念はことごとく間違っています。
 病気は決して悪いことばかりではない。病気は体に起きた異変とばかりはいえない。病気は治さなくてもいい場合がある。病気は病院へ行けば悪化する。できたら病院へは行かないほうがよい。こういう「病気観」も必要だと思うのです。
 気というものにたどりついた私が、その観点から難病の人を大勢あつかってきて、いま「あなたの病気観は?」と問われたら、「
病気とは“熱きメッセージ”である」と答えます。病気とはその人の生き方に対するメッセージなのです。だれからのメッセージかといえば、神様でもなんでも、自分の気に入っている者でよいと思います。
 だが、ともかく心と体からなる人間という存在は、生命エネルギーを得て生きている。だから病気になったら、その症状の裏に隠されている本当の意味を理解することに努めなければならないのです。
 こういう観点に立ってみると、病気に対する既成概念がいかに理に合わないものかがわかってきます。たとえば病気になると元気がなくなります。元気がなくなれば元気を出させようと、栄養をつけさせたり、休息をとらせたりします。
 しかし、病気で元気がなくなるのはエネルギーが足りないためなのでしょうか。みなさんは中学校ぐらいで「エネルギー保存の法則」というものを学習したはずです。エネルギーは永遠に減らない。なくならない。自分のなかにあるエネルギーもまったく同じなのです。
 そう考えると、「気が落ちると病気になる」というのは、たぶん間違いでしょう。気が落ちるから病気なるのではなく、病気にエネルギーを使っているから、見た目では表面の気が減っているように見えるだけなのです。
 病気の人は病気をつくることに相当のエネルギーを振り向けている。エネルギーを病気づくりに重点的に配分してしまっているのです。
 自分のことばかり考えている人も、決して病気に無縁とはいえません。気を外に出さないで貯め込むと、一種の便秘状態になり、それがストレスとなって病気づくりへと向かう。この点、生命エネルギーはお金とよく似ています。
 人生にお金は必要ですが、入ってきたものをうまく配分して使ってこそ意味があります。莫大なお金をひたすら貯め込んだりすれば、泥棒が心配になり、失うことへの不安が生じ、ストレスとなって暗い人生を過ごすことになります。生命エネルギーもこの点はまったく同じと考えられるのです。

難病が治るケースはこの3つしかない

 生命エネルギーで特に注意する必要があるのは、エネルギーの総量よりもバランスのほうがはるかに大切だという点です。
 では、気のバランスをとるにはどうすればよいのか。それは病気になった人が治っていく過程から逆算して知ることができます。私の経験によれば、難病が治るケースは次の3つしかありません。第1に「
病気をあきらめた人」、第2に「病気を忘れた人」、第3に「人のために尽くした人」です。
 結論から言えば、「
病気にエネルギーを使わなくなってしまった人たち」なのです。多くのリウマチ患者さんを診ていて「この人は絶対に治らないだろうな」と思われる人がいました。症状も悪ければ検査結果も最悪。そのうえ、治りたい気持ちが人一倍強く、来るたびに「治せ、治せ」と鬼のような形相でせがむ。難病だけに医師としてこんなつらいことはありません。
 正直いって、会うのがつらかったのです。その患者さんがしばらく来ないと思っていたら、久しぶりにやってきました。彼女の顔を一目見て私は驚きました。顔つきがまるで変わっているのです。穏やかで明るくて笑みさえ浮かべています。
 「元気そうじゃないですか、どうしたんです?」
 すると彼女はこういったのです。
 「先生、もうあきらめちやった」
 検査をしてみると、炎症の程度をあらわすCRPの値がリウマチで最高の数値だったのがマイナスになっている。「治りたい、治りたい」と、それだけを願っても治らなかった人が、あきらめたら逆に治ってしまったのです。
 ある人は相当症状が悪いはずなのに通ってこなくなった。久しぶりに来たので事情を聞いてみると、孫が生まれたそうで「その世話で忙しくて忙しくて、病院に行くのなんか忘れてしまった」というのです。薬もずっと飲んでいないといいます。この人も検査してみと、劇的に快方へ向かっていました。
 また、自分の病気そっちのけで、人のために尽くすことで、快癒を果たした人もいます。ともかく病気はどんな難病も「あきらめる」「忘れる」「人のために尽くす」の3つを徹底すると、不思議なほどによい結果を生じさせる。この3つに共通するのはいったい何なのでしょうか。
 病気をつくるエネルギーを他のものに転換したのです。その結果、自分の気持ちが楽になって世の中が素敵に見えてきて、毎日わくわく生きられるようになったのではないでしょうか。すっかり明るくなった患者さんを見ていて、私はそう思うようになりました。このような患者さんの気を測定してみると、失われていたバランスが見事に回復しているのです。
 もうひとつ、気を測定していてバランスのとれる心理状態があります。それはブラス思考の状態です。物事をなんでも前向きによいほうへととらえる。こういう思考態度をもつ人も気のバランスがとれています。
 ただ、難病にかぎらず病気の人は、なかなかプラス思考ができないものです。そういう人たちは「あきらめる」「忘れる」「人のために尽くす」の3つのどれかを実行されたらよいと思います。なぜかといえば、治った人はみなそうなのですから。実行すればすべてが必ずよい方向に向かっていくのです。
―― 『快癒力』(篠原佳年・著/サンマーク出版/1996年刊)


 「(医師は)助けるつもりで(患者の)命を奪っていないか」と、西洋医学に毒された今日の病院や医師の問題点を、医師である篠原氏自身が率直に述べています。もし「病気は医者が治してくれるもの」と思っている方は、この機会にぜひ認識を改めていただきたいと思います。
 篠原氏が「難病が治るケース」としてあげている3つは、要するに「病気に心を向けるな」ということです。そのことを、この書籍の後半部分で、「意識を変えることに尽きる」として、次のように述べています。

病気のことを考えないのがいちばん

 
病気は心のゆがみが原因なのですから、このゆがみを正せばいい。「ガンはいやだ、ガンにはなりたくない」と思うことは、心にこの恐ろしい病気をイメージすることであり、それは心のゆがみとなってあらわれるのです。
 
心のゆがみとは、具体的にいえば不安、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬など、人間が抱くマイナスの感情です。こういう感情を常に抱いていると、そのイメージが心の不安となってゆがみをつくり、それがさまざまな症状にあらわれてくるのです。
  (中略)
 
中年期を迎えると、だれもが「そろそろ成人病に気をつけろよ」という。それを「そうだな」と意識したとき、実は心の中に病気の種を植えつけている。そしてその種に水と栄養分をやるのが、病気への恐れや不安の意識なのです。
 健康に注意するというのも、だから見方によっては不健康なことです。最良の方法は病気を意識しないこと。では、いったいどうしたら病気を意識しないでいられるのか。それは意識を病気に向けないですむような生き方をすることです。
 たとえば今日一日を精いっぱい楽しく生きる。心配、不安、恐れなど心を暗くすること、元気がでないようなことにエネルギーを使わないようにすることです。心がわくわくして楽しいことにのみエネルギーを振り向けるのです。
 こういう言い方は、病気になってしまった人や強い不安を抱いている人にはなかなか理解してもらえないことです。「とにかくいまはこの病気を治さなければ」「そんな気楽なこと、健康だから言えるんだ」――と。だが、その気持ちを認めていたら、私が言いたいことは未来永劫わかってもらえないでしょう。
 心がわくわくする楽しいことにエネルギーを使うことは、どんな薬や先端治療法にもまさる最高の治療法なのです。「この病気が治ったら、次からはそう考える」ではダメなのです。
 私たちの人生は意識によって決定され、意識によって現実化されています。だから、意識のもつ力を知ることが何よりも必要なのです。人生はその人の意識そのものといっていいのです。
 病気になることは、健康について考えるチャンスを与えられたということです。人間は健康であるときは決して真の健康のありがたさはわからない。そういう意味では、病気は天からの贈り物ということができます。

―― 『快癒力』(篠原佳年・著/サンマーク出版/1996年刊)

 次回は続編の『快癒力A』(篠原佳年・著/サンマーク出版/1997年刊)の内容も合わせてご紹介しながら、引き続き病気と意識の関係を考えてみたいと思います。ご期待ください。
 
 
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