思ったことが
すぐ現実になる時代が来る
2020年6月5日(金) 
 
 
 この間、「つぶや記」は毎日更新を続けてきましたが、4日夜からフェリーで九州大分まで旅をして家を留守にしますので、今回と次回は拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)の中から「カルマ編」の内容を2回に分けて掲載し、書き下ろしの重責から自分を解放したいと思います。
 2つの巨大地震と富士山の噴火が現実のものとなれば、日本は国として存続することはできなくなります。誰がどう考えてもそれは無理です。すべての社会のインフラが破壊され尽くすからです。それを未開の国のように一から再構築していく力はどこにも残っていません。
 世界支配層がじっくりと計画し、満を持して放つ「日本民族大虐殺テロ」は見事に炸裂して、日本民族は消滅の縁に立たされるのです。大本神諭や日月神示の中でもそのことが予告されています。生き残る日本人は三分の一か、それも難しいかもしれない、という予言もあるのです。死因は食料不足による餓死ということです。まさにこれから私たちが直面しようとしている事態が見えているかのような内容です。
 しかも、日本が消滅するときは必ず世界大恐慌を引き起こし、場合によっては世界的な大きな戦争につながるのかもしれません。それは世界支配層も十分に計算に入れているらしく、あらかじめ新型コロナ騒ぎを仕掛けることで人の孤立化とコンピューターによる紐付けを急いだものと思われます。
 中国方式がもっとも先進的な新時代の人間管理システムです。世界大恐慌の中でも、デモや集会を未然に防ぐ上で大いに力を発揮することでしょう。人の動きは完全に掌握され、まさにジョージ・オーウェルが予告した「人間牧場」が完成するのです。
 生き残った日本人ももれなく管理され、おとなしい「羊」として飼い慣らされるこになるでしょう。
 そして、いよいよ終末がスタートする、というのが私の読みです。ここからはオカルト臭いと感じる人もあるでしょう。そういうテーマが苦手な方は無理をして読んでいただく必要はありません。
 ただ、「カルマ」の問題はイエス・キリストやお釈迦様(ブッダ)の時代から言われている内容ですから、特にオカルトの世界ということではないのです。
 それどころか、「終末」を語るためには避けることのできないテーマですので、ぜひ目を通していただけることを願っています。
 それでは、以下、拙著『日本沈没最終シナリオ』からの引用です。

カルマ編 ―― 終末には、個人のカルマ、国のカルマ、人類のカルマの清算が求められる。

 
投げたボールが返ってくるのがカルマの法則

 「この世は因果律によって支配されている」ということは、仏教では「自業自得」「善因善果・悪因悪果」という言葉で、新約聖書でも「人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならない」という表現で、それぞれ同じ意味のことが述べられています。最近流行の言葉でいえば「原因と結果の法則」ということです。
  人がこの世で体験する内容は、すべて過去において(前世も含めて)自ら発信したこと(行為・言葉・思念=身・口・意)の結果だということです。発信したことは異次元に蓄積され、カルマとなって、やがて同種のものをこの世界に返してきます。「身・口・意」を白と黒のボールに喩えて考えてみましょう。白は「善いカルマ」、黒は「善くないカルマ」とします。
 黒いボールを投げて他人を傷つければ、一定の時間を経て、今度は自分が他の人から同種の黒いボールを投げられ、傷つけられることになる、というのがカルマの法則です。
  異次元から投げ返されたボールによって痛みや不快感を感じることで、次からは黒いボールを投げてはいけないことに気づかされるのです。いわば「自業自得の法則」ということで、このようにカルマは人が気づきを得るための大変ありがたい法則であることがわかります。
 新約聖書にイエスの言葉として、「あなたが他の人にしてほしいと思うことを、他の人にもしてあげなさい」と述べられているのはそのためです。「可哀想だから人を傷つけてはいけないよ」という道徳的規範というよりも、「人を傷つければ、結局あなた自身が傷つくことになるんだよ」という、まさに自分自身のためになる戒めなのです。新約聖書には、全く同じ意味で「与えなさい、そうすれば自分も与えられるであろう」という表現もあります。
 その一番極端な事例として、わが国には「人を呪わば穴ふたつ」という諺があります。わら人形に釘を打ちつける「丑の刻参り」という呪いの儀式を行なうことによって、恨みに思う人物を呪い殺すことができるというものです。しかしながら、その呪いの念は黒いボールですから、それはやがて自分のところにも同じ黒いボールとして返ってくるのです。その結果、自分も死んでしまうため、埋葬する墓穴が2つ必要になるということです。
 この「必ず同じものが返ってくる」という宇宙の法則によって、私たちは過去(または過去世)において投げたボールをこの人生で受け取っていることになります。信頼できる霊界通信の伝えるところによりますと、人生でどんなボールを受け取ることになるかは、生まれる前に霊界ではある程度わかっていて、私たちはそれを受け取る覚悟をして生まれてくると言われています。肉体を持って人生の苦難を体験することで、身魂が磨かれ、異次元の善くないカルマの在庫が減っていくことになるからです。
 ところが、現実にこの世界に生まれてしまうと、生まれる前の決意を忘れてしまって、「なぜ自分はこんなに運が悪いのか」「なぜ自分は他の人よりも不幸なのか」と不満に思ったり、悩んだりすることになるのです。
  人によっては神社や霊能者のところに足を運び、「どうか運がよくなるようにしてください」とお願いをします。でも、これはおかしいのです。「私が過去に投げた黒いボールを、どうか受け取らなくて済むようにしてください」とお願いしていることになるからです。それでは自分が投げたボールの行き先がなくなってしまいます。
 「親の因果が子に報う」という言葉がありますから、亡くなった親や祖先の投げたボールを子供や子孫が受け取る場合はあるようですが、全く関係のない他人が受け取ってくれることはありません。「自業自得」がカルマの法則だからです。
 この物質世界を貫いている「エネルギー不滅の法則」から見ましても、投げたボールが途中で消えてしまうことはなく、ブーメランのように必ず投げた本人のところに返ってきます。その法則があるおかげで、この宇宙の秩序が保たれているのです。
 さらに、個人が投げたボールだけでなく、国家や民族、あるいは人類全体として投げたボールも、同じように返ってきますので、今日の地球の自然環境破壊や異常気象は、これまでの歴史の中で人類が投げてきた黒いボールが、その子孫である現在の人類のところに返って来ていると考えるべきでしょう。

 カルマがこの世の現実を作り出している

 般若心経の「色即是空」「空即是色」は「心が全ての物質と現象を創っている」ことを言っています。ただし、その「心」には「ふだんの心(顕在意識)」と「奥の心(無意識)」の2種類があります。また、「無意識」は「潜在意識(個人の無意識)」と「集合的無意識」に分けられます。
 そして、人の運命に影響を与えるのは「潜在意識」、集団(家庭、団体、国、民族、人類)の運命に影響を与えるのは「集合的無意識」ということになります。無意識は個人ごとに個性があり、その個性のことを、私は「潜在意識に刻んだ心の癖」と表現しています。潜在意識に癖をつけるのは「ふだんの心(顕在意識)」です。いつも同じような心の使い方を繰り返していると、それが心の癖となり、潜在意識に刻まれるのです。その状態を仏教では「岩に書いた文字」に喩えています。岩の表面に善くない文字を書いてしまうと、なかなか消えない善くないカルマとなってしまうということで、「悪因悪果」として戒めているのです。
 問題は、私たちは自分自身の「奥の心(潜在意識)」の中身を簡単には知ることができないということです。つまり、自分にどんなカルマがあるのかが判らないのです。そのために、無意識のうちに善くない心の使い方をして、天の蔵に善くないカルマの在庫を増やしていることが多いのです。しかも、「ふだんの心」が「奥の心」に貯まり、やがてこの現実世界に形となって現れるまでには時間がかかりますので、その因果関係が理解しにくいのです。
 そのような心の働きについて述べた一文を以下に紹介しておきます。

 
内なる世界では、心と物質的に現象化したエネルギーの結びつきがより容易に識別できるのに対し、物質界では波動の濃密さのために、内なる世界と同じ原理が働いているにもかかわらず、事物が外面的に現象化するのに時間がかかる。
 良いことであれ悪いことであれ、何かを望むと、その何かはわれわれに向かって接近を開始する。「心に思うことは具体的な行為にほかならない」と古い格言にあるが、「われわれは自分が思うことを慎重に選ばなくてはならない」ともいう。
―― 『空間からの物質化』(ジョン・デビッドソン・著/たま出版)


 「内なる世界」というのは潜在意識(奥の心)の中身を意味しています。それはふつうの状態では確認することはできません。ジョン・デビッドソンもこの本の中で「熟練した深い瞑想によって初めて心の奥底が見える」と述べています。記憶にとどめていただきたいのは、「心の世界では、この物質世界で起こることと心との因果関係が容易に識別できるのに対し、物質世界は波動が粗いためにそれが現象として表面化するのに時間がかかる」という内容です。
 霊界のように、肉体(物質)を脱ぎ捨てた心の世界では、思ったことがすぐに実現するということですから、この世界で生きている間に心をコントロールする技術を身につけておくことが非常に大切になります。
 日頃から人を傷つけるような言葉を口にしている人は、死後はその心(潜在意識)の波長通りのお互いに傷つけ合う世界に引き寄せられるのです。霊界あるいは「心の世界」では、「類は友を呼ぶ」現象がすぐに実現するからです。
 もちろん、それはこの三次元の物質界でも「類は友を呼ぶ」という形で同じように起こっているのですが、この世界では実現までに時間がかかるため、ほとんどの人は自分が発信している波長の性質がどういうものかに気がつかないのです。

 
心で思ったことがすぐに形になる時代が近づいている

 さて、東日本大震災の失敗に懲りず、海賊一味(世界支配層)が再び「日本沈没」テロを仕掛けてくるのが確実となっていますので、その後の世界大恐慌とともにこの物質文明が終末に向かって突き進むことになりそうです。
 終末とは文字通り「この世の終わり」ということですが、この世が終わったあとには「あの世(霊界)とこの世が合体した世界」が生まれるといわれ、その世界のことを「日月神示」では「半霊半物質の世界」と表現しています。物質世界であるこの世が霊界的性質を強めてくるということでしょう。そうなるとどういうことが起こるでしょうか。
 多くの霊界通信が、「霊界では心で思ったことがすぐに現実となる」と伝えています。ということは、たとえばある人(霊)が霊界で他の人(霊)に対して攻撃する心を持てば、それはすぐに相手(霊)を傷つけ、同時にカルマの持つ「ブーメランの法則」によって、発信した人(霊)自身をも傷つけてしまうことになります。
 これは実際に今日でも低層霊界で起こっていると言われており、仏教ではそのような霊界のことを「修羅」や「地獄」と表現しています。しかしながら、この物質世界が半霊半物質の世界になるということは、単にこの世があの世(霊界)と合体することではなく、その霊界の中でも高級神霊の住まう世界と、逆に低級霊の住処となっている地獄的世界に二極分化していくようです。
 前者のことを聖書では「神の国」と呼び、日月神示では「ミロクの世」と表現しています。他者を攻撃するような心の使い方をする人が全くいない(そのような人は住むことのできない)世界です。
 残念ながら多くの人は現在の物質文明で身につけた善くない心の癖を、潜在意識の中に大なり小なり善くないカルマとして蓄積していますので、それをきれいに掃除しておく必要があるのです。でないと、「心に思ったことがすぐに現実になる」という霊界的な性質を持つ世界では大変悲惨なことになってしまうからです。
 そのようにして潜在意識の中にある善くない心の癖を修正していくことが「身魂磨き」であり「善くないカルマの清算」ということになります。これは終末の次元上昇のためには欠かすことのできないことなのです。ただ、普通の人はなかなかこの世に対する執着心を手放すことはできませんので、それを強制的に取り除く作用としてカルマが働くことになります。
 終末の土壇場で起こると思われる大天変地異現象は、人々がこの物質社会に対する執着心を手放すように準備されたものと見ることもできます。カルマの法則が愛の法則と言われるのはそのためです。人は、失うことを通じてその価値に気づくと同時に、自分が追い求めてきたもの(財産や地位、名誉など)がいかにはかないものであったかということに気づかされるからです。
 このように、終末の時代に生きる私たちにとってカルマの問題は避けることのできない重要テーマなのです。

 
集団のカルマは関係者全員が分担して掃除することになる

 カルマ(業)には、その責任が個人に帰するものと、属する集団に帰するものとがあります。集団は家庭という小さな単位から始まり、職場の仲間や地域社会の人たち、日本に住む人びと、世界中の今生きている人びと、人類全体(過去の人びとも含む)といった形で広がっていきます。
 人類が生み出してきた文明の恩恵に浴している私たち現代の人間は、先人たちが作り出したこの文明が生み出すマイナスの部分についても責任を負わされることになります。たとえばいま直面している原子力発電所の問題も、私たちが直接作ったものではありませんが、そこで生み出される核廃棄物の問題は、これから生まれる人たちにも責任が分担させられ、悪影響が及んでいくことになります。人類全体で「善くないカルマ(業)」の解消を迫られているということです。
 私たちの「身・口・意」は関係する人たちを通じて大なり小なり社会に影響を及ぼしていきます。その結果として、社会からの見返りもあるわけです。同時に、社会もまた全体としてカルマを形成していくことになります。その見返りは社会を構成する一人ひとりが、その貢献度(集団のカルマをつくるのに関わった度合い)によって受け取ることになります。このように、個人と社会(集団)はカルマの面から見ても深いつながりがある、ということを述べているのです。
 次に、カルマに関して書かれた文献のなかで、私が最も尊重している書籍の一節を抜粋して紹介します。以下は『新カルマ論』(ポール・ブラントン著/大野純一訳/コスモス・ライブラリー)からの引用です。

 
カルマについての教えによれば、われわれの各々は内なる力と一定の自由を持っている。その力をどのように使うか――または使うか使わないかのどちらを選ぶか、それ次第で、その結果がずっと木霊(こだま)のようにわれわれの人生についてまわる、生きていくにつれて、木霊はますます複雑に鳴り響くようになる。
 同様の選択が再三再四なされると、それは傾向になる。傾向は習慣になる、習慣的思考、習慣的感情、習慣的行動がわれわれの世界観全体を引き継ぎ、染め上げ、そして形づくる。


 私たちがいま体験しているこの世界は、実はそれぞれ自分の心(正確には潜在意識)が作り出しているものです。ではその潜在意識の内容はどのようにして変えることができるのかと言いますと、同じような心の使い方を再三再四繰り返すことなのです。やがてその心の使い方は習慣となり、潜在意識の中に定着するというメカニズムになっているのです。
 「感謝する」という心の働きを例に考えてみてください。「同様の選択が再三再四なされる」というのは、「いつでも、どんなことに対しても感謝する」という行為を続けることを表しています。そうしますと、「それは傾向になる」そして「習慣になる」というわけです。つまり、感謝癖が身につくということです。
 その結果は、感謝したくなるような出来事が「ヤッホーと叫べばヤッホーと返ってくる木霊のように」その人の人生についてまわるようになるのです。カルマとは、自分が投げたものが返ってくるということだからです。ただし、すぐに返ってくるのでなく少し時間差があるので、木霊をたとえに使っています。
 新約聖書などでは「蒔いた種が芽を出す」という表現が使われていますが、これも使った心の結果が現実化するまでには少し時間がかかることを表しています。そのために、自分が作った原因(心の使い方)と結果(出来事・運命)の関係がわかりにくいのです。しかし、じっくりと人生を振り返って見ますと、私たちの人生は過去において習慣的に使ってきた心の反映であることがよくわかるようになってきます。不満癖を持つ人にはどうしても不満に思う出来事が降りかかり、世の中や人を恨んで人生の幕を閉じることになります。
 心は言葉や行為として表現されますから、その言葉や行為をコントロールすることも大切です。不満癖のある人は、まず「不満の言葉を口に出さない」ということを習慣にしなくてはなりません。あるいは不満が口に出たらすぐに打ち消し、感謝の言葉に置き換えることです。

 
カルマの「善悪」を判断する基準は何?

 カルマの「善い」「悪い」の判断を何でするのかということについて説明しておきます。これは「自分が与えたものが自分に返ってくる」というカルマの特徴を考えればすぐわかることです。
 たとえば人から「いじめられる」「人前で恥をかかされる」「仲間はずれにされる」といったことは決して心地よいものではないと思います。そういうことを他の人からされたくなければ、自分も他の人に対してやってはいけないということがわかります。それがカルマの法則なのです。
 「他人に与えたものが自分に返ってくる」わけですから、「返ってきてほしくないもの」を「悪いカルマ」と判断すれはよいわけです。そのように気づきを重ねることによって、人は自らの魂を磨き、次第にレベルアップ(進化)していくのです。
 そのことが新約聖書の中でも、イエス・キリストの言葉として次のように述べられています。(以下は「ルカによる福音書」より抜粋)

 人々にしてほしいとあなたが望むことを、あなたも人々にしてあげなさい。

 あなたがたが他人を量る量りで、神はあなたがたを量り返されるでしょう。

 もちろん、これは心の使い方を処方しているわけですから、対象を人間に限っているわけではありません。この地上に生きるすべての生き物に対して、あるいは私たちが無生物と思っている物に対しても、どのような心の姿勢をもって接するかが試されるのです。人間仲間は大事にするが生き物を殺すことにはなんのためらいもない、ということであれば、そのような心の使い方に対する「返り」は決して心地よいものではないでしょう。
 たとえば仏教でも聖書でも「殺す」ことを最も善くないこととして教えていますが、これは「人を殺す」ことに限っているのではなく、人間よりも弱い立場にある生き物全般、特に人間により近い哺乳動物を殺しても何とも思わない人には、カルマの法則によって「殺される恐怖」という「返り」があるのです。牛や豚を殺して食べることに何のためらいも感じない人には、「殺されることの恐怖を味わう」という形で「気づき」のきっかけが与えられます。
 「肉は好物だからよく食べるけど、別に私が動物を殺しているわけではない」と考えている人は、まだ気づきが足りないのです。肉を食べる人がいるから、精肉業者の人たちはその肉を商品として準備するために、牛や豚などを消費者に代わって屠殺しているのです。殺される牛や豚などが感じる「恐怖心」のお裾分けは、その肉を食べる人が分担させられるのです。「原因をつくった人に結果が及ぶ」というのがカルマの法則だからです。
 このようにして、人類の一人ひとりが、自らの気づきによって善くないカルマの清算を済ませるならば、人類の集合意識は浄化され、地球のカタストロフィーを穏やかなものに変えることも可能でしょう。「大難を小難に変える」ということです。しかし、今日の世界を裏からコントロールしている世界支配層が、人類の意識が浄化とは逆の方向に向かうように、さまざまなメディアを使って巧みに操作している現状では、それは望めそうにありません。しかも、もう残された時間がほとんどないのです。そこで、まず気づきを得た人から順番に心を正しく使うことに務めながら、同時にその正しい使い方を周りの人に伝えていくことが必要になってきます。
 カルマの法則は仏教では「因果応報の理」と表現し、善くないカルマを作らないための心の使い方を詳しく教えています。その結論とも言える内容が『仏教聖典』(仏教伝道教会)にわかりやすく述べられていました。その中でも特に注目していただきたいのは以下の部分です。

 迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである

 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。
 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。


  私たちのカルマの内容に影響を与え、この人生における運命を左右する力を持っているのは私たち自身の「心」だということです。そのことが仏教の教典の中には詳しく述べられているのです。
  そのような素晴らしい真理が述べられているにもかかわらず、今日では仏教は葬式や法事のときにしか出番がありません。仏の教えが綴られているお経は、亡くなった人を慰霊するために唱えるものといったとらえ方をされているからです。大変もったいない気がします。

 
終末には人類全体のカルマも清算される

  個人のカルマは潜在意識に蓄積されていますが、同じように国や民族、人類などの集合的なカルマは、人類の集合的無意識の中に蓄積されていると思われます。終末の土壇場ではそのカルマが一掃されることになりますので、「古い老廃物のようなものは、そこから去っていくために表面化する」という現象が起こるのです。
  重篤な病気が治る直前に、症状が一気に悪化する現象が見られると言われます。それを医学用語では「ケミカライゼーション」と呼んでいます。体内毒素が噴き出して、見た目には症状が悪化したかのように見えるのですが、それは体が浄化され尽くしている証拠ですから、そのことで恐怖にかられたり、悩んだりと、心を動かす必要はないのです。むしろ、全快する兆候とみて喜ばないといけないのです。終末にも、この地球と人類社会に同じような兆候が顕れると思われます。いわば「人類社会のケミカライゼーション」とでも呼ぶべき現象です。
 「人類の目標である神の国(ミロクの世)がやってくる直前には、この世の終わりと思われるような天変地異や人為的な戦争などが起こる」ということになるでしょう。
 怨みや怒り、恐怖心といった心の働きが、集合的無意識の中に老廃物のように蓄積されていて、それを一掃するためには地球ごと大激震に見舞われるということです。当然、人類がかつて経験したことのないような大混乱に巻き込まれることは避けられません。しかしながら、その大混乱の先には、水晶のように光り輝く「ミロクの世」が待ちかまえているのです。
 「夜明け前が一番暗い」という現象はそういうことなのです。「日月神示」には、新しい年を迎える前の大晦日にたとえて、「みそかは闇と決まっておろう」という神示があります。

 
時間が速く過ぎていく現象はカルマの法則で説明できる

 神が忙(せわ)しくなりて、何もかも物事が迅(はや)くなるぞよ。(大本神諭)

 金神の世になれば物事は迅(はや)いぞよ。(大本神諭)

 このように「大本神諭」には、「世の終わりが近づくと時間が速くなる」という内容の神示が随所に出てきます。ですから、時間が速く感じられるということは、終末が近づいている証拠であると考えることができるでしょう。それでは、なぜ時間が速くなっているのかということについて考えてみたいと思います。
 最近、私たちの生活のペースがどんどん速くなっているのは、ほとんどの人が気づいていると思います。通信の手段を例にとれば、直接会ってコミュニケーションをはかる時代から、手紙、電報、電話、携帯電話、スマホ、‥‥とどんどん便利になり、高速化してきました。これは生活のその他の分野においても言えることです。その結果、私たちが頭の中で処理しなければならない情報の量は増えていく一方です。
 私たちが見ている時計は1日24時間で計時されていますので、1日の長さは変わっていないのですが、同じ時間に起こる出来事が加速度的に増えているため、実際の時間のスピードが速く感じられるようになっているのです。
 ピーター・ラッセルは『ホワイトホール・イン・タイム』(地湧社)の中で、この時間の加速化は人類の進化に伴うもので、ある一定のパターンを持っている、と述べています。そのパターンとは、「時間はらせん状に進んでいる」ということです。そのらせんの輪が中止点に近づくにつれてどんどん小さくなるので、時間のスピードが速くなっているのです。
 私の周辺でも、「最近、時間の経つのが速くなった」とつぶやく人が多くなっています。そのことがどのような現象を引き起こすのかということですが、私は人間の脳の働きが速くなっているのではないかと見ています。
 今、普通の人の脳は本来持っている機能の3%程度しか使われていないそうです。天才といわれる人でも10%に満たないとか。しかも、残りの部分は機能しないように、何者かによって封印されているとも言われます。もし、何かのきっかけでその脳の使える部分が20%〜30%と活性化すれば、人間はとてつもない超能力を発揮するようになることでしょう。
 最近で「速読」だとか「速聴」によって脳の活性化をはかるCD等が売り出されていますが、これらも時間のスピードアップと関係があると思われます。人間の脳の封印が解かれ、超能力者がつぎつぎに現れてくる時代を迎えているような気がするのです。このように、時間のスピードアップと人間の進化には深い関係があると思っています。
 そして、時間の渦が中心点にさしかかるのが終末の大峠なのでしょう。その時、脳の機能が全開するはずです。人類は今と全く違った次元、すなわち半霊半物質の世界で生きるようになるのです。
 
 
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