テレビが善くないカルマを
増殖している
2020年6月6日(土) 
 
 
 前回に続いて、拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)の「カルマ編」の内容をご紹介します。

 天災が忘れたころにやってくる理由

 「恐怖心」「怒り」あるいは「願い」など、私たちの心(無意識)から発信される波動は、異次元(霊的世界)に同じ波動の塊(カルマ)となって蓄積され、やがて同じ通路を通って発信者のところに返ってきます。
 蓄積されている善くないカルマの量が多ければ多いほど、返ってくるときのエネルギーが大きいため、この物質世界では天災や戦争といった形で、人々にとっては苦しみを伴う形をとることになります。
 カルマが返ってくるタイミングは、この世界から発信する波動のエネルギーが弱くなったとき、すなわち発信者が当初の「恐怖心」や「怒り」「願い」とは違う別のことに関心を移したとき、異次元(霊的世界)に蓄積されたカルマが同じ通路を通ってどっと返ってくることになるのです。
 天災は私たちの心(無意識)と連動して起こります。つまり、個人ごとに、あるいは集団で発信した「恐怖心」や「怒り」などがカルマとなって異次元(霊的世界)に蓄積され、そのカルマがある一定量に達したとき、この物質世界に「めぐり」として返ってくる現象が天災なのです。
  異次元(霊的世界)にカルマの蓄積がある限り、それはいつの日か必ずこの物質世界に返ってきます。これから時間の渦が中心点に近づくにつれて時間のスピードがますます速くなりますと、この物質世界と異次元(霊的世界)を隔てる次元の壁が薄くなりますので、カルマが返ってくるスピードも速くなり、その結果、地震などの天災が起こる頻度も増えていくことなります。
 ここで、「時間のスピードが速くなるとなぜ次元の壁が薄くなるのか」ということについて説明しておきます。
 時間のスピードが速く感じられるようになっているのは、1日とか1週間といった同じ時間の間隔の中で私たちの脳が処理しないといけない情報の量が増えているためであると考えられます。簡単に言えば社会のインフラの変化や流行の移り変わりなど「心を動かす出来事が増えている」ことの結果なのです。
 私たちは、しないといけないことがたくさんあって忙殺されていたり、あるいは楽しいことに没頭して夢中になっているときなどは、知らないうちに時間が過ぎてしまったように感じます。逆に、特段することがなかったり、興味の持てないこと、したくないことをさせられているときは、なかなか時間が経たないように感じます。
 つまり、時間は私たちの脳の働き方次第で、速いと感じたり遅いと感じたりするということです。ですから、1日という決められた枠の中で脳が処理しないといけない情報が多くなればなるほど、時間のスピードが速く感じられるのです。
 ということは、時間のスピードが速く感じられる人ほど脳の情報処理能力が発達し、新しい時代への備えができつつあるということが言えるでしょう。逆に、時間のスピードの変化があまり感じられない人は、善くないカルマの処理が先送りされているということになります。そういう人は、終末の大峠においてカルマがまとめて返ってくることになり、脳がオーバーヒートしてしまうかもしれません。それは大変悲惨な結果をもたらすと考えられます。
 いま変化しつつある時間のスピードに合わせて、身の回りに起こる出来事に敏感に反応し、きちんと受け止めていくように心がけたいものです。早く覚悟を決めて「善いと思ったことをすぐにやる」という努力を始めることが、善くないカルマを解消していくために最も大切なことなのです。
 カルマは人が個人的に、あるいは集団として発信してきた過去の「身・口・意」の蓄積ですから、発信者がその受け取りを拒否することはできません。つまり、私たちや私たちの祖先が作ってきた善くないカルマを清算するために起こる天災は避けることはできないということです。「大本神諭」や「日月神示」が「めぐり(カルマ)の清算」のことを「大掃除」とか「洗濯」と表現しているのはそのためです。
 ただし、受け取る側の人間(個人または集団)の意識が変われば、蓄積されたカルマを小分けして受け取ることになり、その場合は一つの大難がいくつかの小難に分割されて返ってくることになります。この場合の「意識が変わる」という内容は、自分の持つ善くない心の癖(もっとも善くないのは「我善し(利己主義)」の考え方だと神示は教えています)に気づき、それを改めるということです。
 さまざまな天災に遭遇するなかで、気づきを得て心が浄化され、魂が進化する人(または集団)と、逆にますますこの物質世界での生活に執着し、恐怖心を募らせる人(または集団)とに分かれていきます。
 これから多発すると思われる地震や津波などの天災に直面すると、他人のことは目に入らず、とにかく自分だけは生き残ろうと、「我善し」の性質をむき出しにする人が増えていくかも知れません。その結果、そのような人たちの我善しの「身・口・意」がそのまま異次元(霊的世界)に蓄積され、善くないカルマを増やしていくことになるのです。
 人(または集団)が「身・口・意」を発信しているあいだは、波動の流れはこの物質世界から異次元(霊的世界)への一方通行となっていますので、カルマがこの物質世界に返ってくることはありません。この物質世界からの「身・口・意」の流れが一段落した段階で、蓄積されたカルマが同じ通路を通って返ってくるのです。
 この「こちらからの流れが一段落した」状態が「忘れた状態」ということになります。この物質世界から異次元(霊的世界)へ「身・口・意」の波動を送ることをやめた段階で、つまりすっかりそのことを忘れてしまった段階で、カルマが同じ通路を通って送り主のところに返ってくるということです。地震や火山の噴火などが、身構えているところでなく意外な場所で起こるのはそのためです。こちらから「恐怖心」という波動を送り続けている場所には返ってこないで、人々が全く予想もしていない場所で地震や火山の噴火が起こることになります。「天災が忘れたころにやってくる」ことには、このような原理が働いているのです。
 同じ原理は、私たちが願い事をするときにも働きます。あることを願って必死にお祈りをしても、その願いは簡単には叶えてもらえません。「願い」という波動を異次元に届けるためには、異次元から「願いの成就」という形で結果が返ってくるための通路をつくる必要があります。
 その通路をつくるには、「身・口・意」のエネルギーを異次元(霊的世界)に根気よく送り続ける必要があります。しかしながら、こちらからエネルギーを送っている間はその通路は流れが「行き」の一方通行となっていますので、答えは返ってこないのです。
 必死に願いごとをした結果「神様に聞き届けてもらった」と確信するか、あるいは「これだけ願ったのだから、結果は神様にお任せしよう(全託)」という心境になって、願った内容はもろちん、願ったことさえも忘れるような心境になったとき、「身・口・意」を送った同じ通路を通って答えが返ってくるのです。この「同じ通路を通って」ということが大事なところです。善くない通路を作れば、善くないものが返ってくるということだからです。「善因善果、悪因悪果」という言葉がこのことを説明しています。その「原因」を作った人のところに、それに見合う「結果」が返ってくるということです。
 このことは、「結果を見れば原因がわかる」ということを表しています。天災を「私たちが(過去世において)作ってきたカルマの結果」だと見れば、その原因が私たち自身の中にあり、それを終末において清算する(掃除・洗濯する=気づき、改める)ことが必要だということです。

 
カルマは忘れたころに実を結ぶ

 「カルマは忘れたころに実を結ぶ」のはなぜかということですが、これについてはコンノケンイチ氏の『般若心経は知っていた』(徳間書店)の中にその答えが述べられていました。

 
イギリスの著名な神経生理学者W・グレイ・ウォルター博士も、次のように述べている。
 「電気的な装置で調べたところでは、人間は意志の力だけで外界の現象に影響を与えることができるが、極めて特殊な精神の集中(表層意識のコントロール)を必要とし、大脳の興奮と弛緩という逆説的な混合状態を必要とする」


 ここで注目していただきたいのは「人間は外界の現象に影響を与えることができるが、精神の集中を必要とし、大脳の興奮と弛緩という状態を必要とする」という内容です。
 空海のような超能力者は例外として、普通の人は無意識(潜在意識)をコントロールすることはできませんが、それでも誰もが「身・口・意」によって無意識(潜在意識)に影響を与えているのです。つまり、「空(波動)」で満たされた宇宙に向かってボールを投げ続けているということです。
 そして、黒いボールを投げれば黒いボール、白いボールを投げれば白いボールが、やがて異次元からこの世界に投げ返されてくる、というのがカルマの法則でした。まさにブーメランのように返ってくるのです。しかも、自分が投げたボールのことを忘れたころに、それは返ってくることになります。
 有名なマーフィーの法則も同じことを述べています。マーフィー博士は、人の意識を「顕在意識」と「超意識」に分けて説明していますが、私たちの願望を実現するためには「超意識」にその願望を刻む必要があると述べています。(『マーフィー・成功者がこっそり使っている超意識の力』光輝・著/きこ書房)
 注目したいのは、マーフィー博士は「超意識に暗示を刻みこむためには、顕在意識の活動レベルを切り下げて、顕在意識の妨害がない状態にすること」と述べていることです。その理由は、「超意識と顕在意識とは同時に活発な活動を行なうことはできない」からです。そのことを「顕在意識と超意識は競合関係にある」と表現しています。
 少し解説をしておきますと、「顕在意識」とは自分で認識できる気持ちや感情、意思などで、「ふだん頭で考えていること」と思っていただいたらよいと思います。それに対して「超意識」とは、自分では認識することのできない潜在意識のことで、ユングのいう無意識、つまり個人的無意識と集合的無意識(人類意識)を包含したものです。
 マーフィー博士は、この「超意識」に刻まれた暗示によって私たちの運命が左右されると言っています。ですから、「超意識によい暗示を刻むためにどうすればよいか」ということを教えているのが「マーフィーの法則」なのです。
 そして、「超意識」にどのような暗示を刻むかをコントロールするのが「顕在意識」であると述べています。「顕在意識が信じたことだけが超意識に刻まれる」と言っているのです。私たちは日常的にさまざまな情報の嵐にさらされていますが、多くの情報の中から自分が信じるものだけを潜在意識の中に取り込んでいるのです。
 そして、ここが大切なポイントなのですが、この「顕在意識」と「超意識」は競合関係にあって、活発な活動を同時に行なうことはできないようにできているというのです。そのことを、「顕在意識が眠っている間に、潜在意識は表面化する」と表現しています。
 「顕在意識が眠っている」状態とは、すなわち「忘れている」状態のことです。私たちが自分の願望を思い続けたあと、そのことをすっかり忘れた状態になったときに願望が実現する(潜在意識の中身が表面に現れる)ことになるのです。
 「天災は忘れたころにやってくる」のは、人々の潜在意識に刻まれた「恐怖心」が、やがてそのことを忘れてしまったころに表面化するからなのです。「恐怖心」は「願望」とは正反対の内容ですが、心の作用としては同じ意味を持つのです。「願望」も「恐怖心」も、私たちがその実現を信じることによって実現するからです。
 たとえば、多くの人が「近いうちに大きな地震が起こるのだろうか」と恐れていますと、その「恐怖心」は、人類の「超意識」に刻まれ、やがてブーメランのようにこの世界に戻ってきて実現することになります。しかも、それが地震という形で実現するタイミングは、多くの人が地震への恐怖心をなくしたとき、すなわち「顕在意識」が働かなくなったときなのです。
 海賊の一味(世界支配層)はそのような心のメカニズムを知り尽くしているらしく、彼らの支配下にある各種メディア(テレビ、映画、ゲームなど)を駆使して、人類に恐怖心を植え付けることに力を入れているのです。

 さて、先ほど引用した内容と照らし合わせて考えてみましょう。

 
人間は意志の力だけで外界の現象に影響を与えることができるが、極めて特殊な精神の集中(表層意識のコントロール)を必要とし、大脳の興奮と弛緩という逆説的な混合状態を必要とする。

 ここでは「顕在意識」のことを「表層意識」と表現していますが、要するに、外界の現象に影響を与えるためには「顕在意識」をコントロールする必要があり、しかも、「大脳の興奮と弛緩という混合状態」が必要だと述べています。「大脳の興奮状態」とは、私たちが一つのことを強く願い続けている状態、あるいは地震などの発生を気にかけて恐れている状態のことです。そして「大脳の弛緩状態」とは、そのような願望や恐怖心をすっかり忘れてしまって気にとめなくなくなった状態のことを表しています。
 つまり、私たちがボールを投げ続けているときはそのボールは返ってきませんが、投げるのをやめてしまったときに、投げたボールがまとめて返ってくる、ということを言っているのです。
 昔の人が「天災は忘れたころにやってくる」と考えたことには、ちゃんとした宇宙の法則の裏づけがあったのです。そして、そのような法則と同じ意味で「カルマは忘れたころに実を結ぶ」という法則が成り立つのです。
 しかも、この「顕在意識」と「超意識」をつなぐ働きをしているのが、私たちの「脳」だというわけですから、脳の働きを研究することによって、この世界で起こることがコントロールできると考えるのは自然なことでしょう。
 以前話題になった「マトリックス」という映画は、私たちの脳が仮想現実を作り上げているという内容でした。脳は私たちの意識をコントロールするすごい力を持っているということです。
 先ほどの譬えで言いますと、私たちは、肉体的には脳の機能を使ってボールを異次元に投げているのです。また、そのボールが投げ返されるときも脳の機能が使われることになります。脳は異次元とこの世界を結ぶ通路となっているからです。ネットとつなぐパソコンやスマホ、タブレットなどと同じ機能を果たしていると言えます。そして、いまパソコンやスマホなどの端末の性能が急速に向上しているのと同じように、脳の性能も日に日に進化・向上しているのです。
 これまで私たちの脳は何者かによって封印されていて、全体機能の数パーセントしか使われていないというのが、最近の科学的知見によって明らかにされつつあります。私たちの脳には、もともと五感で認識できる以上の世界を感知する機能が備わっているのに、なぜかその機能が発揮できないように封印されているというのです。
 犬などの動物は、視覚や嗅覚においては人間以上の感知能力を持っていることが知られています。犬が何も見えない空間に向かって吠えるのは、異次元の存在を感知しているためと見られているのです。人間でも、赤ちゃんは空間を見て笑ったりしますが、まだ五感が発達していないため、超意識が働きやすい状態にあるのでしょう。大人になるにつれて、この世で必要とされる感覚が発達し、それと引き換えに人間が本来持っている脳の機能が封印されていくものと考えられます。
 終末においてはこの脳の封印が解かれることになると見られます。そこに現れる世界が、「神の国」とも呼ばれる「ミロクの世」ではないかと考えられるのです。
 脳の話はまだまだ奥が深いのですが、このくらいで終わりにしたいと思います。
 ここでの結論は、「カルマは忘れたころに実を結ぶ」ということでした。しかしながら、時間のスピードがますます速くなっているなかでは、一つの大きなカルマの現象化に目を奪われますと、それまで気になっていたことも忘れてしまいますから、今度はまた次の大きなカルマが現象化してくるということになります。
 たとえば、地震の発生を恐れていた人たちが、あるとき株が大暴落したためにそのことに心を奪われて、地震のことなどすっかり忘れてしまったとします。すると、宇宙の法則どおり、恐れていた地震が現象として表面化することになるのです。今の世の中の動きを見ていますと、まさに過去のカルマが次々と形を変えて表面化していますので、多くの人は新しいカルマの表出に翻弄されて、常に関心や恐怖心の対象を入れ替えている状態にあると思われます。カルマはますます表面化しやすくなっているのです。
 世の中の隠された秘密は次々と暴露され、また治安や風俗の乱れも更に進みます。人類全体の過去のカルマの表出によって悲惨な事件も相次ぎ、人の意識はますます二極分化を遂げていくことになるでしょう。私たちは今こそ、そのような世の中の動きに翻弄されず、しっかりとした信念を持って、日頃から身魂磨きを心がけたいものです。

 
善くないものは、見ざる、聞かざる、言わざる

 次に「疑似体験とカルマの関係」について考えてみたいと思います。ここで言う「疑似体験」とは、テレビや映画、あるいはゲームなどを楽しんでいる人が、その登場人物に感情を移入することによって、あたかも自分が実際にその登場人物になったかのように錯覚し、物語の中に没入してしまう状態のことを指しています。
 私たちの潜在意識は、疑似体験と実際の体験の違いを判別できないと言われていますので、「どんなテレビ番組や映画を見ているか」「どんな読み物を読んでいるか」「どんなゲームをしているか」によって、私たちの心(奥の心=潜在意識)が影響を受け、善くないカルマを作り出している可能性が高いのです。私はこれこそ終末の時代において最も警戒しないといけないテーマだと思っています。
 善くないカルマを作り出す「悪い種」とは、「悪い振る舞い(身)、悪い言葉(口)、悪い想い(意)」であると述べてきました。悪いことを見ても、聞いても、言っても、それはすべて私たちの心に影響を及ぼすのです。「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がありますが、他の人の悪口を聞かされたり、人を不幸にするような行為を目撃したりすることによっても、私たちの心は影響を受けてしまいます。まして、同じ内容を何度も見たり聞いたりすれば、そこに共鳴の法則が働いて、いつしか私たちの潜在意識に善くないカルマが蓄積していくのです。
 最近のテレビ番組やゲームなどで、人や生き物を簡単に殺してしまう内容を頻繁に見せられている子供たちは、人が本来持っている命を大切にする気持ち≠ェだんだん薄らいでいくことになると思われます。大人でも、同じような内容のテレビ番組を受動的に見ていると、いつしか潜在意識に善くないカルマが蓄積されていくおそれがあります。
 特に、人が殺されるサスペンスドラマなどを見て感動したり、ショックを受けたり、夢中になったり、といった一種の放心状態のときは、私たちの顕在意識は休止状態にありますので、テレビの映像がストレートに潜在意識の中に取り込まれていきます。
 ですから、そのような善くないカルマにつながる番組を「見ざる、聞かざる、言わざる」がもっとも賢明でしょう。潜在意識は「これはフィクションだ」とか「自分とは関係ないドラマの世界のできごとだ」という判別はできないのです。映像も言葉もすべて受け入れ、潜在意識の中に蓄積されることになります。そして、いつの日か、その番組の内容に近い出来事をあなたの周りに引き寄せてくるのです。
 ここで参考までに、このテーマに関して書かれた書籍の一節を紹介します。出典は『人生を豊かにする法則』(フローレンス・S・シン/牧野・M・美枝訳/PHP)です。

「人は、自分が蒔いたものを、また刈り取ることになる」この言葉の意味は、自分の発した言葉や行ないが、そのまま自分に返って来るということです。つまり、自分が与えたものを受け取るのです。
 もし憎しみを与えるなら、その人は憎しみを受け取るでしょう。愛を与えるなら、愛を受け取るでしょう。批判をするなら批判されることになり、うそをつけばうそをつかれることになります。人を騙せば騙されることになるのです。
 さらに人生というゲームにおいては、イメージする力が主要な役割を果たすことを教えられます。心の中でイメージすることは、遅かれ早かれ、その人の人生の外的側面にあらわれて来るということです。
 この想像力を首尾良く訓練するためには、マインドの働きというものを知らなければなりません。
 マインドには、3つあります。それは潜在意識、顕在意識、そして超意識です。
 潜在意識とは、方向性を持たない単なる力で、蒸気とか電気のように、指し示されたことのみを行ない、自ら何かを誘導する力はありません。人が深く感じたこと、あるいははっきりと思い浮かべたことは何でも潜在意識に刻みこまれ、詳細に現実化されます。
 顕在意識のマインドは、この世のマインド、あるいは現世のマインドと呼ばれています。それは人間のマインドで、人生というものを目に映ったとおりのものだと思います。死、災害、病気、貧困をはじめとするあらゆる類の現象を見て、それらを潜在意識に刻みこみます。
 超意識のマインドは、一人ひとりの内にある神のマインドで、完璧な考えの領域です。そこにはプラトンが語った「完璧なひな型(イデア)」、つまり「神の計画」があります。というのも、みな一人ひとりに「神の計画」があるからです。
 イエス・キリストは、「人の語る言葉が人生のゲームにおいて主要な役割を果たしている」と教えました。「あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされる」と。
 多くの人々は、自分の言った何気ない言葉で、人生に災難を作り出しています。
 誰の進む道にも、真の豊かさは用意されています。でもそれは、「望むこと」、「信じる心」、あるいは「声に出して語られた言葉」によってのみ、実際にもたらされるのです。
 人と、その人の持つ最も高い理想や心からの望みとの間に立ちはだかるものは、「疑い」と「恐れ」以外にありません。「心配せずに望む」ことができるなら、どのような望みも瞬時に叶えられることでしょう。
 欠乏、失敗、病、失うことといった様々な「恐れ」、漠然と感じる不安感などの「恐れ」は、人間の唯一の敵なのです。
 「恐れ」は信じる心の裏返しに過ぎないからです。つまり、良いことを信じる代わりに、悪いことを信じているからです。
 人生というゲームの目標は、善を明確に見て、心の中に思い描かれる悪しきものをすべて消し去ることにあります。これを実行するには、善に気づき、それを潜在意識に刻みこまなければなりません。
 潜在意識というのは人間の忠実な僕であり、それに正しい命令をくだすよう、注意しなくてはなりません。潜在意識はその人の傍らで、いつも静かに耳を傾けているのです。
 どの思考も、どの言葉も、すべて潜在意識に刻み込まれ、それらが驚くほど詳細にわたって実現していきます。それはまるで、歌手が音に敏感なレコード盤に歌声を録音しているようなものです。歌い手の声のどの音も、どんな抑揚も、すべて刻み込まれます。ですから、これまで潜在意識に録音されてきた「良くないもの」をすべて壊してしまいましょう。保存しておきたくない人生のレコードを壊し、新しく美しいものを作るのです。
 人は絶えず、自分の行動の動機が「恐れ」なのか、「信ずる心」なのかを見極めなくてはなりません。「恐れ」であろうと「信ずる心」であろうと、「仕えたいと思う者を、今日、自分で選びなさい(新約聖書)」


 
テレビが善くないカルマを大量生産している

 潜在意識にストレートに刻み込まれていく疑似体験の中で最も警戒すべきはテレビです。それがドラマであれ、ニュースであれ、ドキュメンタリーであれ、いずれもリアルな映像によって、私たちの五感のうち最も潜在意識に刷り込む力が大きい「視覚」に訴えるものだからです。
 たとえばテレビのドラマでは、大半の視聴者は自ら主人公になりきって、その主人公の人生を疑似体験することになります。たとえハッピーエンドのドラマであっても、ドラマを盛り上げるため途中の段階では悲惨で残酷なシーンが展開される場合が多いはずです。
  テレビ番組はスポンサーを獲得するために高い視聴率が求められますので、視聴者の興味をひかなくてはなりません。そこで、ドラマのストーリーは喜怒哀楽の部分が強調されます。つまり、事件がなければ絵にならないのです。中でもサスペンス的なドラマの場合、殺人事件や悲惨な事故などの残酷な場面が必ず登場し、見る人の心に恐怖心を植えつけたり、怒りや悲しみの気持ちを起こさせたりと、巧妙にストーリーが作られます。
 また、ドラマ以外でも、最近は異常な犯罪が多発し、見る人の心を曇らせる報道が毎日のようにニュースとして流されています。恐怖心や怒り、憤り、不満、不安など、好ましくない心の状態にさせる出来事の報道が定番となっているのです。まさに、これこそが多くの視聴者の心に少しずつ猛毒を落とし込んでいく「テレビの力」だと言えそうです。
 何よりも問題なのは、その同じ残酷なドラマやニュース、悲惨なドキュメンタリー番組を、全国で何百万人、何千万人もの人が同時に見ているということです。たくさんの人が同じ番組を見ることによって、一斉に恐怖や憤りの感情を共有化するわけですから、その時に作られる心のエネルギーは膨大なものになっていると思われます。それが人々の集合意識として異次元に蓄積され、成長していくのです。
 いわば、何百万、何千万の人が同時に同じ色のカルマ・ボールを投げている状態です。それが異次元で大きなエネルギーの塊となり、やがてこの世界にまとめて返ってくるとき、いったいどういう姿をとるでしょうか。たぶん、番組の内容と同種の社会的事件をこの世界に現出させるとともに、場合によっては地震、大雨、大雪、台風などの自然災害となって、そのような善くないカルマづくりに貢献した人たちの身に不幸な出来事として降りかかってくることになります。
  哀しみの波長は、多くの人を哀しみに陥れる悲惨な事件として現象化します。怒りのエネルギーは、次々と怒りを伴うような出来事を生み出すでしょう。とにかく、私たちが投げた「思い」のボールと同じ波長のボールが返ってくるのです。
 海賊の一味(世界支配層)はそういう心のメカニズムを知り尽くした上で、テレビや映画のような視覚に訴えるメディアに、悲惨で残酷な内容の作品を次々と登場させているのです。
 もちろん、これは現代になって初めて見られるようになった現象ではありません。テレビのなかった時代でも、小説や演劇などが多くの人の疑似体験を作りだし、潜在意識に一定の影響を与えていたと思われます。ただ、たとえば小説の場合は、読者のイメージする内容が画一的でないため、映像媒体に比べると集合意識を形成するスピードが遅いと思われます。演劇や芝居の場合は、テレビに比べると視聴者の数が限られ、集合意識を形成する疑似体験効果は弱いのです。善悪のいずれであれ、今日のテレビの持つカルマ製造能力にはとても及びません。
それでも、「小説が読者の生活に及ぼす影響力は無視できないものがある」という霊界通信があります。有名な「シャーロック・ホームズ」の作者として知られるコナン・ドイルが、自分が書いた小説が他の人に与えた影響について、霊界から次のようなメッセージを送ってきています。
 以下の文章は『コナン・ドイル・人類へのスーパーメッセージ』(アイヴァン・クック著/大内博・訳/講談社)からの引用です。

 
こちらの世界(霊界)に来て以来、自分が地上の生活で創作したものから深い影響を与えられていることを私は体験しています。というのは、地上にいたとき、私は陰鬱な登場人物や場面などを言葉で創造し、表現したりすることがよくありました。非常に生き生きとした想像力をもっていたものです。喜びに満ちた情景、暖かい家庭のありさま、美しい風景なども数多く描きましたが、私のペンは残酷で、醜悪な犯罪の場面なども描写しました。
 このような描写をすることにより、あるべき姿とは対照的な性質によって、一種の教訓を与えられるということを認めるとしても、醜いものや恐ろしいものは人の心に長く残りがちであり、暴力的で不健康な波動が人を満たすことになります。よかれあしかれ私の影響を受けた数多くの男女の人生を、いま、私はじっと見ているのです。
 いつの日かすべての人が、自分自身が作り出したものがどんな効果を生み出したか、美しいものか、それともその正反対であるかを、自分の目で見るという喜びないしは恐怖を体験することでしょう。創造したものが架空の人物であれ、その人の行動によって生まれた実際の生活の状況であれ、他の人々の生活に相当な影響を与えるものなのです。


 コナン・ドイルは、自分が小説の中で残酷で醜悪な犯罪の場面などを描写したことにより、醜いものや恐ろしいものが読者の心に長く残って、人生にマイナスの影響を受けた人がいる、と述べています。
 現代におけるテレビは、コナン・ドイルの時代の小説とは比較にならないほど大きな影響力を持っています。まさに「カルマの大量生産」が可能なメディアと言ってよいでしょう。
 もちろん、テレビにも功罪両面があり、今日のテレビ番組の内容を吟味してみますと、まだ進化の準備が終わっていない私たちの脳の扉を強引に押し開け、潜在意識に蓄積されている膨大なカルマを一斉に放出させようとしているようにも見受けられます。そして、人類の集合的無意識の中に蓄積された「恐怖心」のエネルギーに点火しようとしているように思えるのです。
 先ほどの引用文の中で、コナン・ドイルは「人間の思いそのものが自分の創造物になるということであり、思いがその人にとっての光の天使や暗黒の天使になるということです」と述べていました。私たちがテレビを見ているときに心に抱く思いが、私たちに幸運を運ぶ光の天使にもなれば、不幸や災厄へと導く暗黒の天使にもなるということです。しかも、テレビの場合、その同じ思いを非常にたくさんの人が共有化しているわけですから、その影響力は大変大きなものがあると思われます。
 その影響は、たとえば最近のマスコミをにぎわしている残酷で異常な犯罪の数々や、場合によっては近隣諸国との軋轢(あつれき)、地震や台風などの災害に見舞われるといった形でこの世界に現れ、そのことによってまた多くの人が心を曇らせるという負のスパイラルに入っていくことになります。
 そして、その蓄積された集団的な善くないカルマの影響を最も強く受けるのは、やはりそのカルマの生産に直接関わった人たちということになります。つまり、テレビの低俗番組や殺人事件などの残酷な番組を愛好している人ということです。そういう人は、テレビから流れてくる粗い波動を潜在意識の中に取り込み、善くないカルマとして蓄積していることになるからです。
 そこで、私が申しあげたいのは、「見ざる、聞かざる、言わざる」ということなのです。「見ざる」とは、悲惨で残酷な情景は見ないにこしたことはないということです。少なくとも、人を平気で殺すシーンが強調されているようなドラマは、見ないほうがよいでしょう。もう少し平たく言えば、「その番組を見て、強い怒りを覚えたり、恐怖心に駆られるような番組は見ないほうがよい」ということです。
 しかしながら、これが恐いところなのですが、人には「恐いもの見たさ」という習癖があって、恐いと思って手で目を覆いながらも、その指の隙間から覗いてしまうという弱さがあります。これは、既に潜在意識にかなりの量の「恐怖心のカルマ」が蓄積され、その波動が「類は友を呼ぶ」という波長の法則によって、心の奥でそのような恐怖のシーンを期待するためです。このような負のスパイラルに陥るとなかなか大変です。
 さきほどのコナン・ドイルの引用をもう一度読み返してみてください。

 
いつの日かすべての人が、自分自身が作り出したものがどんな効果を生み出したか、美しいものか、それともその正反対であるかを、自分の目で見るという喜びないしは恐怖を体験することでしょう。創造したものが架空の人物であれ、その人の行動によって生まれた実際の生活の状況であれ、他の人々の生活に相当な影響を与えるものなのです。

 「創造したものが架空の人物であっても、他の人々の生活に相当な影響を与える」と述べています。ドラマの原作者やテレビ番組の制作者はもちろん、そのスポンサーとなった企業の関係者も、同じカルマを背負うことになるはずです。それらの関係者はマイナス情報の発信者(加害者)として、いつの日かその番組の影響を自分の目で見るという喜び、あるいは恐怖を体験するということになります。「投げたボールが返ってくる」というカルマの法則からしますと、「大衆を恐怖に陥れたことの見返りは、そのまま恐怖の出来事として自分に降りかかる」ことになるからです。
 受信者の立場である私たち視聴者は、ぼんやりと受け身的にそのような波動の粗い番組を見てしまうことのないように注意しなければなりません。


 拙著『日本沈没最終シナリオ』の「カルマ編」の内容を2回に分けてご紹介しました。大昔から「因果応報」「因縁」「善因善果、悪因悪果」などの言葉で知られている内容です。新約聖書の「人は自分が蒔いた種を自分で刈り取らなくてはならない」という言葉も「カルマの法則(原因結果の法則)」について述べたものです。
 私たちはその「原因」を、いつ、どんな形でつくっているかという自覚がないため、「悪果」を受け取ると「ついてない」とか「運が悪い」と思って、自分がつくった「原因」を反省しないまま、人生は偶然の連続だと錯覚をしてしまいがちです。
 ところが、先哲の教えるところでは「人生に偶然はまったくない」というのが真理なのです。私たちが「運命」と呼んでいるものも、すべて過去に自分がつくった「原因」が形になったものなのです。ですから、運命を変えるには「原因」を変えるしかないということです。
 私もいろいろと人生で痛い目にあいながら、ようやくそのことの真理が理解できるようになり、こうして多少の知ったかぶりをご披露することができるようになりました。
 善くないカルマの原因をつくるものにテレビの影響が強いということを本日のタイトルにしました。テレビは「百聞は一見にしかず」という意味で、世の中を知る上ではプラスの面もありますが、心にマイナスの影響を与える番組が大半です。巧妙にウソを信じ込ませるための「洗脳マシン」なのです。
 自分が洗脳されやすいかどうかを知る簡単な自己診断テストがあります。

【質問】 あなたは「血圧が130以上は高血圧だから、降圧剤をのんで下げる必要がある」と思っていますか?

 何の疑問も抱かず、「そうでしょう? その通りではないのですか?」と言い張るようでしたら、完全に洗脳されています。では、なぜ血圧は130以下でないといけないと思っているのですか? 「医者が言った」からですか。
 もしそうであれば、その医者も洗脳に加担しているか、医者自身が洗脳されているかのどちらかです。このような大がかりなウソを広めるのがテレビの得意技なのです。
 血圧問題は深いものがありますので、また改めて採り上げますが、130という数字に反応する人は「洗脳されやすい」と思って間違いありません。もっと善くない「原因」を潜在意識の中に貯め込んでいる可能性大です。
 また、テレビから知識を得ている人は脳のはたらきが低下しやすく、したがって心のはたらきも鈍くなるのです。洗脳しやすい人間になってしまいます。
 といいましても、現在の日本のテレビ番組は世界一低俗と言われていますので、もう手遅れでしょう。国民の大半はテレビによって善くないカルマを大量生産していると思われます。
 それが「悪果」となってこれからの日本を襲うことになるのでしょう。世界支配層が発動する巨大地震も、決して偶然ではないのです。日本人の集合的無意識が引き寄せると思うべきです。日月神示の神様も「悪には悪のご用がある。悪を恨んではならない」と教えています。

 この原稿は、九州・大分からの復路のフェリーの中で書いています。
 新型コロナ問題の影響で、フェリーも受付で体温を測られ、船室は人と人とが接近しないような配慮がされています。レストランは営業自粛中です。
 ここにもテレビの洗脳力の影響があるのでしょう。多くの人が、「自粛の結果感染者が減ったのだ。やはりしっかりマスクをして、人と人の間は距離を置かなくてはいけない」と思わされているのです。
 助け合わなくてはいけない日本人同士が、お互いを警戒し、敬遠するように誘導されていると思ってよいでしょう。巨大地震のあと日本人同士の助け合う姿が目に浮かびません。ますます悲惨になりそうです。

 次回は、拙著『日本沈没最終シナリオ』で採り上げた大本神諭、日月神示の内容をご紹介しながら、極限の状況における日本と日本人の姿について見ていきたいと思います。
 
 
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