前回までの「夜明け前が一番暗い」的な内容から脱出しまして、本日は「前方に明かりらしきものが見えている」という内容となります。少し希望がもてる展開になってきました。
しかし、明かりはひとりでに近づいてくるわけではありません。私たちが自分の足で明かりに向かって進まなくてはならないのです。しかも、道は決して平坦ではありません。いわば「身魂磨き」という名の修行の道と言えるでしょう。しっかりと決意を固めて進まないと、すぐに挫折してしまうおそれがあります。
最初に、これから迎える(と思われる)終末の大峠において身魂磨きがなぜ必要かということを、大本神諭と日月神示の神様が丁寧に説明してくださっていますので、その内容をご紹介します。
以下は拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)の「神示編」からの抜粋です。
身魂が磨けたら神が憑依して助けるぞ
「神憑かり」という言葉があります。今でも霊媒やチャネラーには高位次元の存在が憑かって、人間の肉体を借りて霊界通信を書かせたりしています。いわゆる自動書記現象です。昭和19年6月10日、岡本天明に神が憑かって、漢数字を中心とした文字を強制的に書かせるようになり、その現象が16年間も続いて生まれたのが「日月神示」です。当初は、岡本天明本人が読んでも、何が書かれているか全くわからなかったといいます。後になって、数霊学を研究していた武智時三郎を中心とした関係者が解読に成功し、日の目を見ることになりました。
このたびの岩戸開きは人民使うて人民助けるなり。人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ。いつでも神憑かれるように、いつも神憑かっていられるようでなくてはならんぞ。(日月神示)
今度お役に立てるのは、水晶魂の選り抜きばかり。神が憑(うつ)りてまいるぞよ。人は調べてあるぞよ。用意をなされよ。(大本神諭)
「神が憑かる」あるいは「神が憑(うつ)る」とは「神様のような精妙な波長を持つ高級神霊に憑依される」ことです。そのためには、できるだけ神様に近い波長になっておかなければなりません。波長の粗い人には神は憑かることはできず、逆に動物霊のような波長の粗い低級霊が憑かったりして、無差別殺人事件などの奇怪な行動をさせられる危険性があります。そこまで行かなくても、終末の大混乱の中では恐怖に顔を引きつらせながら右往左往させられる可能性が大です。それを避けるためにも身魂磨きが急がれるのです。
『大本神諭・天の巻』にも次のように「神が御用に使う魂」についての記述があります。
神はそのままでは何もできんから、因縁ある身魂を引き寄せて、憑かりてこの世の守護をいたす。
水晶の霊魂を改めて、神が御用に使うぞよ。身魂の審判をいたして、神が綱を掛けるぞよ。
この物質界の立て替えのためには人間の協力が必要なのです。ですから、改心して(=身魂を磨いて)神が憑依できるような精妙な波長になった人物を、神が引き寄せて御用に使うとおっしゃってるわけです。同じ内容は「日月神示」でも述べられています。
磨けた人から神がうつって、今度の二度とない世界の世直しの手柄立てさすぞ。みたま磨きがなにより大切ぞ。(日月神示)
神かかれる人早う作るのぞ。身魂洗濯するぞ。神かかりと申しても、狐憑きや天狗憑きや行者のような神憑かりでないぞ。誠の神憑かりであるぞ。(日月神示)
この世のことは神と臣民と一つになりてできる。早う身魂みがいて下されよ。神かかれる肉体沢山要るのぞ。今度の行は心を綺麗にする行ぞ。(日月神示)
この内容が両神示の中でもっとも大切なポイントと言ってもよいでしょう。終末の大峠においては神(高級神霊)と波長の合う人(魂)が多数必要なのです。そのために、日頃から身魂(肉体と精神)を磨いて(浄めて)、神が憑かれるような波長に近づけておく必要があるのです。
最近では、三次元のこの物質世界と四次元の霊界・幽界を隔てる壁がだんだん薄くなっていると思われます。日月神示によりますと、最終的には物質世界も霊界もさらに上位にある半霊半物質の世界へ移ると言われています。それが、「アセンション(次元上昇)」という言葉の意味です。
半霊半物質の世界は新約聖書では「神の国」と呼ばれ、日月神示では「ミロクの世」と表現されています。この物質界と霊界が融合した世界のことです。
そのような世界に移るためには、身魂磨きによって物質の持つ粗い波長を精妙なものにしておかなければならないと述べておられるのです。つまり、心と肉体の波長を高めておく必要があるのです。そのことによって神様と一体になり、ともに次元上昇することに終末の大峠の意味があるのでしょう。
この世のことは神と臣民と一つになりてできると申してあろがな。早く身魂磨いてくだされよ。臣民ばかりでも何もできぬ。神ばかりでもこの世のことは何も成就せんのぞ。それで神憑かれるように大洗濯してくれと申しているのぞ。神急けるぞ。この御用大切ぞ。神憑かれる肉体たくさん要るのぞ。(日月神示)
今度は神が人民にうつりて、また人民となりてマコトの花を咲かす仕組み。(日月神示)
今度の御用に使う臣民、はげしき行さして神うつるのぞ。今では神の力は何も出ては居らぬのぞ。この世のことは神と臣民と一つになりてできると申してあろがな。早う身魂みがいて下されよ。神かかれる肉体沢山要るのぞ。今度の行は心を綺麗にする行ぞ。掃除できた臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。(日月神示)
「今度の御用」とは、これから始まるこの物質世界と霊界・幽界の立て替えのことを意味しています。その役目を果たす人は「はげしき行」が必要なのです。一見不幸に思えるような艱難辛苦を経験させられるということでしょう。
大本(教)の開祖の出口ナオが神憑りになり、「大本神諭」の元となる神示が降ろされるようになった経緯を見てみましょう。神様がナオの身魂を選び、憑かれるようにするため、いかに「はげしき行」をさせる必要があったのかがよくわかります。参考文献は『出口王仁三郎の霊界からの警告』(武田崇元・著/光文社文庫)です(要約しました)。
出口ナオは天保7年(1836年)丹波国の大工・桐村五郎三郎の長女として生まれました。父の五郎三郎はどうしようもない道楽者で、ナオが生まれたころは貧困のどん底でした。しかも天保の飢饉です。ナオは幼いときに酒乱の父に簀巻きにされて雪の中に放り出されたこともありました。10歳からは住み込み奉公に出ます。17歳のとき綾部の叔母出口ユリの養女になり、19歳で婿をとりますが、夫政五郎は大酒飲みの浪費家で、出口家は田畑、家屋敷を手放し破産します。おまけに夫はアル中の中風となってしまうのです。長男の竹蔵は仕事が嫌でノミで喉を突いて自殺未遂をはかったあげく行方不明になります。3人の幼児を育てるためナオはボロ買い・くず拾いにまで身を落とします。
このようなナオの周辺に神憑り現象が現れるのは明治23年のことです。嫁いでいた三女ヒサが暴れだし、座敷牢に入れられ神の幻影を見るようになります。さらに翌年には長女ヨネが発狂するのです。ヨネの狂乱は激しく、家の前に見物人が集まるほどでした。
そしてついにナオに神憑りが始まるのです。ある夜、ナオは腹の中に大きな力が宿るのを感じます。ナオが歯を食いしばって声を出すまいとしても、それをこじ開けて、ナオも驚くような大声を張り上げて「われは、艮の金神(うしとらのこんじん)である。今の世は金輪際の悪人の世。世を立て替え、善の世に立て直すぞよ……」と口を突いて出てきたのです。
ナオが「そんな偉い神様が、なんでわしのようなくず拾いなどにお憑かりなさるのか」と尋ねると、神様は「この世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな」と答えたのです。
このあと「大本神諭」の元となる神示が降ろされるようになるのですが、ここで注目しないといけないのは、「わざと根底に落として苦労ばかりさせた」という内容です。神様が憑かれる体にするため、ナオに長年にわたってどん底の苦しい生活を経験させることによって善くないカルマの清算(身魂の洗濯)をさせたということなのです。善くないカルマの清算と人生の苦労との関係がよくわかる内容です。
これから日本も世界も終末の大動乱に巻き込まれることになると思われますが、神が憑かれるような身魂になるためには、どんな苦難にもしっかりと耐えなければならないということです。少なくともナオと同じ程度の苦労をする覚悟はしておかなくてはなりません。
「カルマ編」をしっかり読み込んでいただいた方は、神が憑かれる体にするためにナオをわざわざ「根底(不幸のどん底)」に落とした理由がよくおわかりになると思います。
善くないカルマの解消のためには、この人生においては「お金の苦労」「健康面の苦労」「人間関係の苦労」の3つのパターンのどれか、またはそのすべてを経験する形が一般的です。
お金の問題は「貧困」「借金苦」「訴訟沙汰」などいろいろな形があります。健康面はずばり病気で苦しむことです。人間関係は、最近ではイジメ(セクハラ、パワハラなど)の問題がもっとも一般的になっています。それを恐れたり、憎んだりすることで、また善くないカルマをつくることになりますので、断ち切るのが難しくなるのです。
最終的には、「もう好きなようにしてください」と、欲も得も捨てて神様に運命を全託する気持ちになったときにカルマが清算されるのです。要するに、不幸や不運と思うことから逃げるのをやめて、居直った段階といえるでしょう。とは言っても、ナオのような苦労はちょっと現代人には耐えられないかもしれません。
ですから、神様の教えを生まれ赤子のような素直な気持ちで信じて実行することから始めることが大切です。多少の苦労は覚悟して、「あ、これで善くないカルマが清算されていくんだ」と、むしろ喜びながら、明かりに向かって歩いていくほうがよいでしょう。
では、具体的には何をすればよいのか――という点についての神示を次回からご紹介していきます。その気になれば誰でもできることばかりです。
いや「その気になれば」を「その気になって本気で取り組めば」と訂正しておきます。本気になるかどうか、がすべてと言えるからです。
次回のタイトルは「四つ足を食ってはならん。共食いとなるぞ」の予定です。どんな内容になるかは想像いただけると思います。ぜひご期待ください。
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