善いと思うことを
すぐ行なうのが身魂磨き
2020年6月14日(日) 
 
 
 本日は拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)の「神示編」から「身魂磨き」に関する内容を抜粋してご紹介します。
 最初に、「身魂磨きがなぜ必要か」という理由を「覚醒編」に載せておりますので、その内容から目を通してください。
 世界支配層による「日本沈没テロ」のXデーが私の予測どおりであれば、もう日本と世界が大混乱に陥るまで2カ月足らずになっています。ですから、ゆっくりと心の鍛錬をする時間は残されていないと思います。神示にあるとおり「何事も一度にどっと出る」という形で、私たちのカルマがまとめて現象化することになるでしょう。つまり、深刻な食料危機のなかでのサバイバルの試練を体験することになるということです。
 そのときにそれぞれの奥の心(無意識)が表面化するのです。普段は神様のような温厚な人が、見事に豹変するということが見られるかもしれません。あるいは、信頼していた人の裏切りにあったり、逆に思わぬ人の親切に涙したりする事態を経験することもあるでしょう。極限的状況で、人は仮面の下の素顔を見せるのです。自分自身の奥の心(無意識)を確認して驚くこともあるでしょう。どの程度身魂が磨けていたかがわかるのです。
 しつこいようですが、今でもまだ肉を食べる習慣を改めていない人は、食料危機ともなれば周りの人たちといっしょに「共食い」を体験して奈落に落ちる危険性が高い、と申し上げておきます。もういまから肉食の習慣を断つのは難しいでしょうから。
 それでは、「覚醒編」の内容を抜粋してご紹介します。

 終末の時代に身魂磨きが必要とされる理由

 人生の目的は決して現界の幸福と歓楽を味わうのみでない。すべての人間は幸福および歓楽のみに執着して苦悩と災厄を免れんとのみ焦慮し、自愛的方面に熱中しておるようだ。しかし神様が人間を世界に創造したもうた使命は、決して人間が現界における生涯の安逸を計らしむるごとき浅薄なものではない。
 ――出口王仁三郎の『霊界物語』第五六巻「総説」

 「身魂」の「身」は、話したり、食べたり、歩いたり、「肉体」を使って行なうことすべてです。
 「魂」は「心」の働きです。喜んだり、悲しんだり、恐れたり、憎んだり、感謝したりといった心の働き全般を差しています。ただ、「心」には、本人が認識できる「顕在意識(表層意識)」と、普通は認識することがない「潜在意識(無意識)」があります。同じような心の使い方をしていると、それが「心の癖」となり、潜在意識に刻まれます。これを仏教では「岩に書いた文字」という言葉で表現しています。善くない心の使い方を繰り返していると、それは善くない心の癖となり、潜在意識に蓄積されて、簡単には修正できない「カルマ」となっていくのです。
 ですから、身魂磨きとは、「善くない心の癖を修正して、善い心の使い方を習得するための訓練」ということが言えます。人生の目的は、「幸福や歓楽に執着して、苦悩と災厄を免れようと努力することにあるのではない」ということです。楽な人生、幸せな人生を追い求める心では、魂の進化は得られないからです。
 身魂磨きを実践するためには、私たちの潜在意識に刻まれた「心の癖」がどのようなものかを知ることが必要です。その上で、善くない心の癖があれば、それを改める努力をすぐに始めることが大切です。「善いと思うことをすぐに始めるのが身魂磨きだ」と「日月神示」の神様もおっしゃっています。
 具体的には、仏教で教えている「身・口・意(神示では口・心・行)」を正しく使うということが身魂磨きの要諦と言ってよいでしょう。「身」は行為、態度、「口」は言葉、「意」は気持ち、想念のことです。
私たちの運命を左右するのは「現在の身・口・意」と「その身・口・意によって潜在意識に刻んだ心の癖」の二つです。このうち「現在の身・口・意」が運命に影響を与えてくるのは少し先のことですので、私たちの現在の運命に影響を与えているのは「潜在意識に刻んだ心の癖」ということになります。
 この「潜在意識に刻んだ心の癖」がカルマです。カルマの元(原因)は「身・口・意」ということですから、私たちが現在の自分の運命を良い方向に変えようと思うならば、「身・口・意」を良くすると同時に、「潜在意識に刻んだ心の癖」を修正しなくてはいけないのです。新たに善くないカルマをつくらず、既に天の蔵に積み上げてしまった善くないカルマをなくしていくことが必要になってきます。
 そして、終末の時代を迎えている今、その善くないカルマを一掃するための時間はあまり残されていません。「大本神諭」や「日月神示」の神様が「身魂磨きを急げ」と口を酸っぱくして警鐘を鳴らしておられるのはそのためです。
 ということで、身魂磨きとは「ふだんの身・口・意」を正しくし、「天の蔵に積んだ善くないカルマを清算する(借銭済まし)」ことだと理解してください。

 つぎに「清算する」方法ですが、それには「この人生での体験を通して、自分の弱点に気づく」ことが必要となります。自分のこれまでの「身・口・意」の使い方の間違いに気づき、反省し、改めることがなければ、善くないカルマの在庫は減らないのです。人によって在庫しているカルマの種類も量も違いますから、一度の体験で清算できる人もいれば、何回かに分割して消化しないといけない人もいるでしょう。後者の場合は「心を痛める出来事」が次から次に押し寄せる、という形をとります。
 神様は、人が背負いきれないほどの荷物は(一度には)与えないと言われていますから、小分けして背負うことができる代わりに、次々と連続的にカルマの清算が求められることになるのです。たとえば、それが病気という形で表面化するならば、一つの病気が治ったらまた次の病気になり、自分が健康ならば家族が深刻な病気になるといったように、とにかく心を痛める出来事が相次ぐということです。
 そして、そのような一見不幸な出来事によって心を曇らせると、そこでまた新たな善くないカルマを積み上げることになり、天の蔵のカルマ在庫は減ることがないのです。最後は、「一度にどっと現れる」という形で、背負いきれない荷物をまとめて背負わざるを得なくなります。ですから、「土壇場になって助けてくれと泣きついてきても助けることはできないぞ。それは自分の心の問題だからだ」と「大本神諭」の神様はおっしゃっているのです。


 それでは、本日のタイトルにしている「神示編」の内容に進みます。

 善いと思うことをすぐ行なうのが身魂磨きぞ

 ミタマ磨けてさえおれば、心配なくなるぞ。心配は、磨けておらぬ証拠ぞ。ミタマ磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ。(日月神示)

 善いと思ってもすぐには実行に移さない(移せない)で先送りをしてしまうのは、誰もが持っている善くない心の癖でしょう。この癖を絶ちきることが大切な身魂磨きなのです。次章の「覚醒編」でそのことを詳しく説明します。

 無くて七癖、七七四十九癖。悪い癖直してくだされよ。天国へ行く鍵ぞ。直せば直しただけ外へ響くものが変わってくるぞ。よくなってくるぞ。変わってくれば、外からくるもの、自分にくるもの、変わってくるぞ。よくなってくるぞ。幸いとなるぞ。よろこび満ち満つぞ。(日月神示)

 何事に向かってもまず感謝せよ。ありがたいと思え。初めはまねごとでもよいぞ。結構と思え。幸いと思え。そこに神の力加わるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思え。弥栄と思え。病治るモト生まれるぞ。キがもとぞ。何事くるともなにくそと思え。神の力加わるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。(日月神示)

 自分に降りかかって来る一切のものは最善のものと思え。如何なる悪いこともそれは最善のものであるぞ。(日月神示)

 現世の価値観では不運に思えたり、不幸に思えることでも、いえ、だからこそ、自分の善くないカルマの在庫を減らし、身魂を磨く上では最も適切な出来事だということです。

 他のために行ぜよ。神は無理申さん。初めは子のためでもよい。親のためでもよい。自分以外の者のために、まず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界ひらけるぞ。(日月神示)

 神示も「利他」の大切さを教えています。まずは自分以外の身近な人に幸せを与えることから始めるのです。「行」すなわち「子や親に与える」ものは「物」とは限りません。いたわりの言葉であったり、肩をもんであげることであったり、愛情を込めて料理をつくることだったり、いろいろあります。しかし、子や親は自分の分身のような存在ですから、世のため人のために行ずるようになるための、ほんの入口なのです。それでも、「自分だけが大切」と思っている「我善し」の人よりは一歩を踏み出したことにはなるでしょう。

 他のために苦労することは喜びであるぞ。全体のために働くことは喜びぞ。光の生命ぞ。誰でも重荷負わせてあるのじゃ。重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。この道理、涙で笑って汗で喜べよ。それとも重荷外してほしいのか。重い重荷もあるぞ。軽い重荷もあるぞ。今まいた種、今日や明日には実らんのざ。早く花が見たく、実がほしいからあせるのじゃ。人間の近欲と申すもの。神の大道に生きて実りの秋(とき)待てよ。まいた種じゃ。必ず実る。誰も取りはせんぞ。万倍になってそなたに返ると申してあろう。(日月神示)

 「利他」で最も大切なことは「見返りが期待できない相手」すなわち「全体」のために尽くすことです。たとえば社会のために善いことをしても、すぐに見返りはありませんが、その努力を積み重ねるうちに社会全体が幸せになれば、その一員として自分も恩恵を受けることになります。すぐに成果が表れなくても、自分が与えたものは必ず全体の利益となり、いつしかその実りが自分に返ってくるのです。たとえば、道のゴミを一つ拾うということでも、立派な全体貢献です。

 自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与えてもなくならんぞ。与えよ、与えよ、与えてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。なくなると思うのは形のみ見ているからじゃ。殻のみ見るからじゃぞ。本質は無限に広がるぞ。与えるほど、よりよく神から与えられるぞ。井戸の水のようなもんじゃ。汲めば汲むほどよくなる仕組み。(日月神示)

 ささげるもの、与えるものいくらでも無限にあるではないか。ささげよ、ささげよ。与えよ、与えよ。言(ことば)こそは誰もが持てるそのささげものであるぞ。与えても与えてもなくならんマコトの宝であるぞ。(日月神示)

 相手に元気を与える明るい挨拶から、ねぎらい、いたわり、励まし、自信を持たせるため、などなど、相手を幸せにする言葉は世の中全体の身魂磨きに貢献することになるのです。


 次回も拙著『日本沈没最終シナリオ』の中から「身魂磨き」に関する内容を拾ってご紹介します。タイトルは「人に知られぬように善いことを積め」にする予定です。ご期待ください。
 
 
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