第22章 いのちの目的

 わたしが病院の外に目を向けるようになったのは不可避な事態だった。死に瀕した患者といっしょにおこなうわたしのワークが多くの同僚たちを不安にさせていた。病院には相変わらず死について語ろうとする人がいなかった。病院で患者が死ぬという事実をみとめる人を探すことさえむずかしかった。ようするに、死は医師が語るべき話題ではなかったのだ。毎週、瀕死の患者を探しだすことがほとんど不可能になってきたので、わたしはホームウッド、フロースムーアといった近隣に住むがん患者の往診をはじめた。
 そして、患者とわたしの双方に利益になるような協定を結ぶことにした。つまり、わたしは無料で往診して治療をほどこし、患者はセミナーでの公開面接に同意するという協定である。そのやりかたは、すでに「患者を食いものにしている」としてわたしを批判していた医師たちのあいだに一層大きな論争を巻き起こすことになった。事態は悪化の一途をたどった。患者とその家族がわたしの仕事を公然と賞賛しはじめると、医師たちはわたしに怨恨さえいだくようになった。わたしに勝ち目はなかった。
 それでも、わたしは勝者のようにふるまっていた。母親の役目をこなし、仕事をこなしたうえに、いくつかの団体でボランティア活動もしていた。月に一度は、平和部隊の志願者の選考にあたっていた。これには同僚の医師たちも困惑を隠せないようすだった。あえて危険をおかすことばかりをしている人間が平和部隊のような穏健な仕事にかかわっていることが不思議だったらしい。わたしはまた毎週一回、半日をシカゴの「盲人のためのライトハウス(灯台)」で盲目の子どもや両親たちとすごしていた。あたえることよりもあたえられることのほうが多い仕事だった。
 そこで会った人たちは、おとなも子どももともに、運命がもたらした試練と苦闘していた。わたしはそこで運命にたいする対処法を学んだ。かれらの人生は悲惨と勇気、落胆と達成のはざまを疾走するジェットコースターのようなものだった。わたしは晴眼者のひとりとして、たえず「自分になにができるか」と問いかけていた。わたしの仕事はおもに「聞く」ことだったが、それ以外にも、チアリーダー役をつとめ、いのちをじゅうぶんに開花させ、豊かに、幸福に生きる可能性を「見る」ように盲人たちを励ました。人生は悲劇ではなく、挑戦すべき課題だった。
 それはときに、あまりにも重い問いだった。想像以上に多くの子どもたちが盲目のまま生まれ、あるいは水頭症として生まれたために植物状態とみなされ、死ぬまで病院ですごしていた。不毛の人生というしかなかった。希望も援助もみつけられない両親たちも同じだった。盲目の子どもを生んだ親たちの多くが、死にゆく患者と同じ反応の諸段階を経過していくことにわたしは気づいた。受容するにはあまりにも厳しい現実だった。しかし、受容する以外に道があるのだろうか?
 九か月の正常な妊娠期間をへて、確実に健康な赤ん坊を生むはずだった母親がいた。ところが分娩室でなにかが起こり、娘が盲目で生まれてきた。母親は絶望の淵につき落とされた。それは正常な反応だった。だが、援助を受けてこころの傷を癒した母親は、やがて娘のハイディーが教育を受け、専門職につくことを望むようになった。健全な、目をみはるほどの回復ぶりだった。
 不幸なことに、その希望が非現実的だと主張する医療の専門家と出あうことになった。専門家はハイディーを施設に入れるようにすすめた。家族は途方に暮れた。しかし、施設に連絡するまえに、運よく「ライトハウス」の助けを得ることができた。わたしはそこでその母親と出あったのである。
 もちろん、わたしに奇蹟を起こすことなどできるはずもなかった。しかし、娘の視力を回復させることはできなくても、母親の悩みに耳をかたむけることはできた。必死に奇蹟をもとめていた母親は、やがて、どんなに厳しい障害のある子どもにも神から特別な贈り物が授けられているというわたしの話に耳をかたむけるようになった。
「期待をぜんぶ捨てるのよ」わたしはいった。「お嬢さんを神からの贈り物として愛し抱きしめるだけでいいの」
「それから?」母親がたずねた。
「そのうちに、神がお嬢さんに授けられた特別な贈り物が姿をあらわすわ」
 どこからそんなことばがでてきたのか、自分でもわからなかったが、わたしはそう信じていた。母親は希望を新たにして帰っていった。
 それから何年もたって、新聞を読んでいたわたしはハイディーにかんする記事をみつけた。ライトハウスで会ったあの赤ん坊が元気だったのだ。元気どころか、りっぱに成長し、将来を嘱望されるピアニストになって、はじめてのリサイタルをひらこうとしていた。批評家はハイディーの才能を激賞していた。わたしはすぐに母親を探しだし、会いにいった。母親は胸をはって、ここにくるまでの苦労を語った。懸命に育てているうちに、ハイディーはとつぜん音楽の才能を発揮しはじめた。「まるで花がひらくようでした」母親はそう語り、わたしの励ましのおかげだと礼をいった。
「あの子を拒絶するのはかんたんだったでしょう」母親はいった。「みなさんからそうしろといわれました」
 いうまでもなく、わたしはこうした感動的な瞬間のことを自分の子どもたちに伝えた。けっしてあきらめてはならないことを学んでほしかったからだ。人生に保証はない。だれもが難問に直面する。直面することによって学ぶようにできているのだ。生まれた瞬間から難問に直面する人たちもいる。すべての人のなかでもいちばん特別な人たちだ。その人たちはいちばん大きなケアといつくしみを必要としているが、いのちの唯一の目的が愛であることを思いださせてくれるのもその人たちなのだ。
 信じがたいことだが、世の中には、わたしがとり組んでいるテーマについてわたし自身が知悉しているものだと、本気で考える人たちがいるらしい。そんな人のひとりに、ニューヨークにあるマクミラン出版社の編集者、クレメント・アレクサンダーがいた。「死とその過程」セミナーについて書いた短い論文が、どういう経路をへてか、クレメントの手にわたった。クレメントはシカゴにやってきて、死が迫っている患者とのワークについて本を書く気はないかとたずねた。五万語の原稿とひきかえに7,000ドルを支払うという契約書にサインを迫られたときも、わたしは仰天して口がきけないほどだった。
 執筆に三か月の時間をくれればひき受けてもいいと答えた。マクミラン社に異存はなかった。しかし、編集者が去ってひとりになると、執筆時間の捻出法にあたまを悩ますことになった。子どもと夫の世話をし、病院でフルタイムの仕事をし、ほかにもいろいろな仕事があった。あらためて契約書をみると、そこにはすでに著書のタイトルが書きこまれていた。『死ぬ瞬間 死とその過程について』(鈴木晶訳、中公文庫)。悪くなかった。マニーに電話をして朗報を伝えた。それから、自分が本の著者になることを想像しはじめた。現実感がなかった。
 だが、わたしに本が書けない理由があるだろうか? わたしのあたまのなかには無数の症例と観察記録が山と積まれているではないか。それから三週間、ケネスとバーバラが眠っている夜の時間を利用して、わたしはデスクに向かい、構想をねった。考えているうちに、死に瀕した患者たちが、いや、あらゆる種類の喪失に悩む人たちがきまって似たような心理のプロセスをたどることに気がついた。それはじつにはっきりとしたパターンだった。はじめに起こるのはショックと否定、怒りと憤り、嘆きと苦痛である。つぎに神との取引がはじまる。意気消沈し、「なぜこのわたしが?」と問いはじめる。そしてついには他者から距離を置き、自己のなかにひきこもるようになる。その段階をへて、うまくいけば、やすらぎと受容の段階がおとずれる(悲嘆と怒りが表現できないときは、受容ではなく断念になる)。
「ライトハウス」で会った親たちもそうした段階をへていることが、はっきりとみてとれた。かれらは盲目の子どもの誕生を喪失――期待していた正常で健康な子どもの喪失――だと感じていた。ショックと怒り、否定と抑うつの段階を経過し、なんらかのセラピーの援助によって、最後には変えられないものを受容するという段階に到達するのだ。
 近親者を失った、あるいは失おうとしている人たちも、否定とショックではじまる同じ五つの段階を経過していた。「よりによって妻が死ぬなんて。子どもが生まれたばかりなんだ。そんなばかなことがあるか!」「いやよ! わたしが死ぬなんて」。否定は防衛であり、予期せぬ悲運に対処するときの正常で健全な反応である。否定することによって、人は人生の終わりを考え、それまでと変わらない人生にもどろうとする。
 これ以上否定しても無駄だとわかると、こんどは怒りが生じてくる。患者は「なぜこのわたしが?」と問いつづけるのをやめ、「なぜあの人じゃないの?」と問うようになる。家族、医師、ナース、友人などにとっては、とくに対処がむずかしい段階である。患者の怒りはあたりかまわず、散弾のように発射される。いたるところに散弾の破片が飛びちり、だれもが被弾する。神をののしり、家族をののしり、健康な人すべてをののしる。それは「わたしは生きているんだ。そのことを忘れないでくれ」という叫びでもある。とりつく島のない怒りである。
 罪悪感を感じたり恥ずかしい思いをしたりせずにその怒りを表現することができた患者は、つぎに取引の段階に移行することが多い。「お願いです。この子が幼稚園に入るまで、妻を死なせないでください」そう祈ったかと思うと、つぎにはまた別の祈りを捧げている。「この子がハイスクールを卒業するまで待ってください。その年齢なら、この子も母親の死に耐えることができるでしょう」この段階にある人たちの神との約束がけっしてまもられないことに、わたしは気づいている。かれらはそのつど賭け金をあげて、文字どおり神とかけひきをしているのだ。
 しかし、取引の時期は介護人にとっては対処しやすい時期でもある。怒りが残っているとはいえ、患者はもはや助言も聞けないほど敵意のかたまりになっているわけではない。また、抑うつはあっても、だれともこころを通わすことができないほどの状態ではない。たまに怒りの散弾銃を発射するが、まず被弾することはない。やり残した務めを完了しようとする患者の援助には、いちばんいい時期なのだ。わたしのやりかたはこうだ。患者の病室に入っていく。怒りをぶつけてきたら正面から受けとめる。怒りの炎に油をそそぐ。怒りを外面化させ、思いのたけを吐露させてしまうのだ。そうすれば、憎悪はしだいに愛と理解に変わっていく。
 ある時点で、変化の大きさに耐えきれずに、患者がひどく落ちこんでしまうことがある。無理もない。ごく自然ななりゆきである。病状は否定しようもなく悪化していく。からだがいうことを聞かなくなる。やがては経済的にも逼迫してくる。そんなとき、患者はよく急激な衰弱をみせる。たとえば、乳房を失った女性は女らしさがなくなったことに悩んでいる。そうした悩みをオープンに、率直に、ずばりと話せる相手がいれば、患者はしばしばすばらしい反応をみせるものなのだ。
 もっているものも愛している人たちもすべてを失うのだと、そのことばかりを考えている患者の抑うつは対処がむずかしい。それはある種、静かな抑うつだ。その状態になると、あかるい面がどこにもみられなくなる。過去に見切りをつけ、はかりがたい未来をおしはかろうとするその心理状態を多少なりとも楽にするためのことばはいっさい耳に入らない。そんなとき、最良の援助は患者の悲しみをみとめ、祈り、やさしく手をふれ、そばに座っていることなのだ。
 患者が怒りを表現し、泣き、嘆き、やり残した仕事をやり終え、恐怖をみとめるという段階を経過すると、受容という最後の段階に到達する。幸福だというわけではないが、もはや抑うつもなく、怒りもなくなる。おだやかで瞑想的なあきらめのとき、やすらかな予期がおとずれるときである。身もだえるような苦闘の時期が終わり、はてしないまどろみへの欲求にとってかおる。『死ぬ瞬間』である患者のことばとして紹介した、「長い旅のまえの最後の休養」である。

 本は二か月で書きあげた。書き終えて気づいたのは、はじめての講義のまえに図書館でしらべたときに「そんな本があれば」と思った、まさにその本を自分が書いたということだった。最終原稿を郵便ポストに投函した。『死ぬ瞬間』が重要な本になるかどうかはわからなかったが、そこに書きつづった情報がひじょうに重要なものであることは確信していた。読者がそのメッセージを誤解しないでほしいと、痛切に願った。わたしが面接した末期患者たちは、身体的には病気が治ることはなかったが、感情的、精神的、霊的には、全員がすばらしい境地に達していた。実際のところ、それはほとんどの健康な人たちよりもはるかに満ち足りた心境だった。
 後日、臨終の患者から死についてなにを学んだのかと、くり返し聞かれるようになった。はじめは臨床的な説明で答えようと考えたが、それでは自分をいつわることになると気づいた。瀕死の患者たちが伝えてくれたのは、死にゆく人の心情の描写よりもはるかに有意義なものだった。衰弱がすすみすぎて、もう時間切れになるまえに、かれらはやればできたこと、やるべきだったこと、やれなかったことについて、貴重な教訓を分かちあってくれた。人生をふり返り、死にかんしてではなく、生にかんして、真に意味のあることがなんだったのかを教えてくれたのである。
 
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