第40章 生とその過程について

 わたしには未来のことをすでに起こったことのように思い描くくせがある。家族や友人たちが世界の各地からやってくる。たくさんの車がゆっくりと砂漠をすすんでくる。やがて、かれらは未舗装の道路脇に、「エリザベス」と小さく書かれた白い道標をみつける。そして、こちらに近づいてくる。先住民のティーピーのまえをとおりすぎ、屋根のうえにスイスの国旗がはためく、スコッツデールのわたしの家に到着する。悲嘆にくれている人もいる。やっと苦しみから解放されてよかったと安堵している人もいる。みんなで食べ、語りあい、笑い、泣き、時間がくるとE・T・のかたちをした無数の風船をいっせいに青空に放つ。むろん、わたしは死んでいる。
 だが、出発パーティーを用意して不都合な理由があるだろうか? 祝ってはならない理由でも? 71歳になったいま、わたしは自分がほんとうに生きたということができるようになった。とても生きられないと思われた「900グラムのちび」からはじまって、人生のほとんどを無知と恐れという圧倒的な力とのたたかいに費やしてきた。わたしの仕事につうじている人ならだれでも、わたしが死を人生最大の経験のひとつだと信じていることを知っている。わたしを直接知っている人なら、この世の苦からまったき愛の存在への移行を、わたしがいかに熱烈に待ち望んでいるかを証言することができる。
 辛抱というこの最後の学びはなかなか身につかない。もう2年近くも――ありがたき脳卒中の連続発作のおかげで――、完全に人に依存する生活を送っている。毎日、ベッドから椅子へ、椅子からトイレへ、またベッドへと、苦闘がつづいている。蝶がさなぎから飛び立つように、からだをぬぎ捨てて、ついに大いなる光と溶けあうことだけを望みつづけてきた。わたしの亡霊たちはくり返し、時間を友とすることのたいせつさを説いてくれた。そのような受容を身につけたときはじめて、この肉体でのいのちが終わることはわかっている。
 人生の最後の旅にこうしてゆっくりと近づいていくことの唯一の利点は、黙想する時間にこと欠かないというところにある。死に瀕したあまたの患者のカウンセリングをしてきたわたしが自己の死に直面したときに、熟考する時間があたえられるというのも、たぶん意味のあることなのだろう。法廷ドラマで、被告に告白のチャンスがあたえられたときにおとずれる、あの長い間のように、そこには詩情があり、わずかな緊張がある。ありがたいことに、わたしにはいまさら新たに白状することはなにもない。わたしの死は、あたたかい抱擁のようにやってくるだろう。ずっとまえからいってきたように、肉体にいのちを宿している期間は、その人の全存在のなかではごく短い期間でしかないのだ。
 学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じこめている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり……美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく……そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。
 幸運にめぐまれれば、わたしはもう地球にもどってきて学びなおす必要のないレベルに到達するかもしれないが、悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまほど衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた。神の庭園のめぐみをむさぼる人類が庭園を荒らしつくしてきた。兵器、貪欲、唯物論、破壊衝動。それらがいのちを支配するルールになっている。恐ろしいことに、いのちの意味について瞑想する人たちによって世代をこえて受けつがれてきたマントラ(真言)は力を失ってしまった。
 まもなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえる。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ以外に、人びとが目ざめる方法はないのか? 自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説くためにとはいえ、ほかに道はないのか?
 目には未来の光景が映っているが、わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられている。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもない。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってほしい。そして、いのちを、やりがいのある課題だとみなしてほしい。もっとも困難な選択が最高の選択であり、正義と共鳴し、力と神への洞察をもたらす選択なのだ。神が人間にあたえた最高の贈り物は自由選択だ。偶然はない。人生で起こるすべてのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。
 この世からつぎの世への移行を目前にしているわたしには、天国か地獄かをきめるのはその人の現在の生きかたであることがよくわかる。いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある。
 地球には食べるものがない人たちが無数にいる。住む家がない大たちが無数にいる。無数の人たちがエイズで苦しんでいる。無数の人たちが虐待されている。精神や身体の障害とたたかっている人たちが無数にいる。毎日、理解と慈悲を必要とする人たちがふえている。その人たちの声に耳をかたむけてほしい。美しい音楽を聞くようにその声を聞いてほしい。請けあってもいい。人生最高の報酬は、助けを必要としている人たちにたいしてこころをひらくことから得られるのだ。最大の祝福はつねに助けることから生まれる。
 その真理は――宗教、経済体制、人種の差をこえて――、すべての人の日常経験に共通するものだと、わたしは確信している。
 あらゆる人はひとつの同じ本源からやってきて、その同じ本源に帰っていく。
 わたしたちはひとしく、無条件に愛し、愛されることを学ばなければならない。
 人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ。
 まず自分を癒さなければ世界を癒すことはできない。
 準備がととのい、それを恐れさえしなければ、その人は自力で霊的体験をすることができる。グルやババに教わる必要はない。
 わたしが神と呼ぶ、その同じ本源から生まれたわたしたちはだれでも、すでに神性を賦与されている。自己の不死性にたいする知識は、その神性から生まれる。
 自然に死ぬまで生きなければならない。
 ひとりで死んでいく人はいない。
 だれもが想像をこえるほど大きなものに愛されている。
 だれもが祝福され、みちびかれている。
 人は自分がしたいと思うことしかしない。それを知ることが重要だ。たとえ貧しくても、飢えていても、粗末な家に住んでいても、十全に生きることはできる。地球に生まれてきた者の使命さえはたしていれば、この世で最後の日にも、自己の人生を祝福することができる。
 いちばんむずかしいのは無条件の愛を身につけることだ。
 死は怖くない。死は人生でもっともすばらしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。
 死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の存在形態への移行にすぎない。
 愛があれば、どんなことにも耐えられる。
 どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。
 永遠に生きるのは愛だけなのだから。
 
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