私の持っている、小さな木彫りの一対の立ち雛と三人官女は、桃の花びらよりも雪びらが似合う雛である。
雪国の夜はことさら長く感じられ、その静けさは、雪原に自分の家だけがぽつんと取り残されているのかと、錯覚を起こす程だ。私が十二歳まで過ごした信州の村では、十一月にはもう、遠くの北アルプス連山が雪化粧をし、十二月になると雪をかき分けながら通学する日々が始まり、それは翌年の春まで続いた。
絵描きの両親と私、弟の四人家族の我が家は疎開暮らしで、他の農家のように囲炉裏端でする手仕事もなく、むろんラジオもテレビもなかったが、退屈という言葉をもらした覚えはなく、結構楽しい団欒があった。
大寒の頃、炬燵(こたつ)を囲んでカルタをしていると、降りしきる雪の中を遠くから、 ドンツク、ドンツクドンドンツクツク‥‥
と寒行の団扇(うちわ)太鼓が響いてくる。母からわずかな財銭をもらって、暗闇の中を駆けていくと、雪灯りの中で、
”南無妙法蓮華経”
の題目を唱えながら、白装束の行者の列が、それぞれに団扇太鼓をたたきながら、近づいてくる。怖さ半分で財銭を渡す私の目に、白装束の行者は、目も鼻もないのっぺらぼうの雪の忍者のようで、御供(ごくう)と呼ばれる一センチ角の切り餅をもらうと、後も見ずに逃げ帰ったものだ。
後ろから、”南無妙法蓮華経”の逞しい読経が雪の中に響き、やがて遠ざかっていく。
「こわかったあ」と母に訴えながらも、また翌晩になると、ドンツクの音に御供をもらいに、怖々出かけて行くのだった。
炬燵の中では、母の読み聞かす「次郎物語」、「野菊の墓」、「家なき子」等の名作に涙を流し、サザエさんの漫画に笑い転げた。
三月も近いある日のこと、いつもはあまり団欒の輪に入らない父が、突然言い出した。「薪の木を削って雛人形を作ってみようか。家にはお前が生まれた時、母さんが描いた色紙の雛人形しかないからね。父さんが彫るから、母さんが色をつけてくれ」
と、乏しいながら家の横に積んであった薪を、雪を払いのけ取り出し、人差し指ほどの一対の立雛と三人官女を、炬燵の中で彫り始めた。
いつもは、生活上のいさかいの絶えなかった二人が、その時ばかりは力を合わせて、生涯に一度となった共同製作をした。日本画家の母は、男雛には青の衣装に白の袴、女雛にはえんじ色の打ち掛け、三人官女は白の衣装に朱色の袴を色付けし、目鼻は「源氏物語絵巻」の姫君のように、引き目鉤鼻風に描いていった。
「雪の薪から生まれた、雪雛様だね」
と、私は雛ができた喜びと、いつになく仲のいい父と母の姿に弾む心で、小さな木彫りのお雛様を見つめていた。
一生画業を貫き通した父母の生活は貧しく、私は両親から物を買い与えられた記憶は皆無に等しいが、”雪雛様”だけは何物にも代え難い、心のこもった両親から娘への贈り物だと、五十路を過ぎた今もなお、雛祭りには、立派な娘の雛飾りの横に、ちんまりと飾る。
雛の周りには、桃ではなく、白銀に光る北信濃の雪びらが舞っているのが、私の目には見えている。
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