日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 江戸無血開城

 薩摩藩と長州藩を中心とする新政府は、徳川慶喜追討令を出し、攻撃目標を江戸と定め、東征軍を組織した。
 この時、西郷隆盛は東征軍の先遣隊として相楽総三(さがらそうぞう)が結成した赤報隊を派遣した。相楽は西郷の命令で江戸でテロ事件を画策した、尊王攘夷派の志士だった。赤報隊は進撃の途中、「旧幕府領の年貢を半分にする」という約束を掲げて、農民たちの支持を取り付けていった。これは相楽が新政府に進言して認められた政策だった。しかしその後、新政府は財政逼迫のためにこの方針を撤回し、相楽を偽官軍として処刑した。この事件は新政府軍の汚い性格が露骨に現れたものといえる。
 東征軍に対して、旧幕府側は恭順か徹底抗戦かで意見が割れるが、慶喜は恭順を勧める軍艦奉行の勝義邦の意見を取り入れる。勝は江戸が戦場になって無辜の民が何万人も死ぬことは避けたかった。また旧幕府軍と新政府軍が総力戦となることで、どちらが勝つにせよ、「日本」の国力が大いに損なわれることを恐れていた。内乱によって疲弊した後に欧米列強の植民地となった東南アジア諸国の轍は踏みたくないと考えていたのだ。
 しかし東征軍の実質的な総司令官である西郷隆盛は、日頃から「戦好き」を公言し、その上、目的のためなら手段を選ばない男であった。手下として使った相楽総三でさえ、罪をかぶせて処刑する残忍さも持っていた。すでに江戸城を包囲し、総攻撃の日を決め、「江戸中を火の海にしても、慶喜の首を取る」と息巻いていたという。
 慶喜から全権を任された勝は、総攻撃の2日前、薩摩藩邸に乗り込み、西郷と面談する。そして攻撃予定日の前日、ついに西郷を説得し、戦いを回避することに成功した。時に、明治元年(1868)3月14日(新暦4月6日)のことである。
「江戸無血開城」として知られるこの事件は、日本史に燦然と輝く奇跡のような美しい出来事である。私は、「これぞ、日本」だと思う。恨みや怒りを超えて、日本の未来を見ようという両者の英断があったればこそのことである。
 ただし、江戸無血開城を成し遂げられたのは勝の力量であったと私は見ている。勝でなければできなかったことかもしれない。西郷は勝に会う前に、イギリス公使のハリー・パークスに説得されて攻撃をやめることを考えていたという説があるが、私は違うと思う。勝に説得された西郷が、血気にはやる東征軍の幹部クラスを納得させるために、パークスの名前を出しだのではないかと考えられる。
 
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