歴史から消された
日本人の美徳 
 黄文雄・著 青春出版社 2004年刊

 再認識から生まれる新しい日本の未来へ

 武士道の徳目については、論者によってさまざまのものが挙げられる。忠誠、礼節、分別、節度、武勇、名誉、純粋、謙譲、慈悲などである。
 江戸時代に入って、儒学者たちによって武士道の定義が行われたが、なかでも朱子学からの影響が大きい。朱子学批判をした山鹿素行や、あるいは「葉隠」の作者山本常朝だけでなく、クリスチャンの新渡戸稲造までが武士道を儒学思想、ことに儒家倫理の呪縛から解放させていない。「仁・義・礼・智・信」の五常や、君臣の道、父子の道、夫婦の道、兄弟の道、朋友の道を説いた五倫における「孝」や「悌(てい)」が、武士道精神の基盤になっている。
 しかし、私はその解説に全面的には与することができない。その理由は、中国は二千年来、儒学の五倫や五常を規範としてきたが、日本武士道精神の核である「誠」や「真」、「美」という意識や、死への覚悟も名誉心にあたる精神性を中国社会に見いだすことができないからである。また、そもそも武士道なる、武将の心構えといった理念が、中国には歴史的に見て、どこにも存在しないのだ。中国で称賛されるのは、文士の道、文士の徳であって、軍人や武将の徳というものを讃える風土はないのである。梁啓超は『中国の武士道』を論じているが、これはあくまでも、日本の武士道を後追いしているだけのものだ。
 第一、五常、五倫は、机上の道徳なのであって、中国社会の現実のなかで、実質的に生きているとはいえないのである。
 日本の武士道は、江戸の儒学者たちに論じられる以前から、源平の時代から武家文化の成立にともなって、形成されてきたものだ。一概に儒教倫理だけに、その魂を求めるべきではない。
 日本の武士道は、中世ヨーロッパの騎士道と同様に、固有の日本という風土のなかから生まれたものであろう。そこには儒教だけでなく神道や仏教の影響も少なからずある。
 たとえば、嘘をつくな、正直であれ、思いやりをもて、卑怯なことはするな、弱いものをいたわれ、といったモラルは、神道や仏教の教えなどから日本人が汲みとったモラルである。それらが、武士道にも注入されているのは当然である。
 武士は、封建制度のなかで生まれてきたものであるので、主従関係のモラルとしてとらえられることが多い。しかし、武士が武士として振る舞い、死の覚悟をもって事に向かう場合、主従関係によってのみ、その精神が発揮されるわけではない。一人の人間として、世間での名聞を立てるために、自律的に武士たらんとするのである。人前で、自分を飾ることなく、ありのままの自己を以て立つことが、自らの意志であり、それがあるべき姿勢、そして風格ある態度だと評価されるのである。武士道は封建制社会でのみ、有効な精神だとはいえないのである。人間としての尊厳を支える精神として、今でも尊重すべき精神であるはずである。
 現在の日本では、武士道的な精神は称賛される対象ではなくなっている。その結果、武士道をバックボーンにした、「和魂」という一人の人間としての気概や誇りといったものまでも失ってしまっている。
 臆病、卑怯、無責任が世の中を覆っている。いうまでもなく、武士道が大切にした心構えと対極にあるものである。それを嘆く前に、失ったものの大きさを、思ってみるべきである。
 
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