日本人が知っておくべき
この国根幹の重大な歴史 
加治将一 × 出口汪  ヒカルランド 
 

 明治天皇すり替えに関しては、
 とにかく証拠がたくさんある


■編集部■ ではいよいよ、本書のメインテーマ、明治天皇のすり替えについて、お話しいただけますか。
■加治■ とにかく証拠がたくさんある。
 まず、睦仁親王(孝明天皇の息子)と明治天皇では体格があまりにも違う。睦仁親王は、本当にひ弱で、女のようだった。公家やら女官だもの証言が腐るほどある。
 睦仁親王が13歳の頃、お母さんが「この子は体が弱いし、天皇の職は全うできないのではないか」と心配したぐらい、ひ弱だった。ところが、明治天皇は身長170センチ。これは今で言うと180センチに相当します。
■出口■ 当時としてはかなりの長身ですよね。
■加治■ 堂々たる体格で、武士たちと相撲を取ったというんです。メチャクチャですよ。そんな天皇がどこにいますか。
 体を動かすのはせいぜい蹴鞠(けまり)で、あとは茶会、歌会です。ところが明治天皇は力自慢の山岡鉄舟と腕相撲をして1勝1敗だったという。これじゃヘラクレスです。
 というのも、大室寅之祐は長州で力士隊に所属していたという有力な説があるんですね。力士隊に所属していたなら、相撲が強いのは当たり前です。
 しかも、裸馬(鞍を置いていない馬)を乗りこなした。天皇というのはやんごとなきお方ですから、みんな牛車に乗っていたんです。馬など汚らわしい下々の乗り物です。
 しかも、孝明天皇は大の外国嫌いで攘夷と言っていたにもかかわらず、明治天皇はたちまち洋服を愛用し、ワインを毎日飲んでいた。これは有名な話です。
 また、ダイヤなどの宝石を大量に買って伊藤博文に怒られたという記録も残っている。天皇のイメージではありません。
■出口■ 利き腕とか筆跡も違ったみたいですね。
■加治■ 睦仁は右利きなのに、明治天皇は不思議にも左利きになっている。
■出口■ 当時は天皇が左利きというのはあり得ない。子どものときに必ず矯正しますからね。
 あくまで状況証拠というか推測ですが、加治さんが書かれたように、睦仁親王というのは非常に小さくて病弱で、禁門の変のときには怖くて失神したという記録も残っています。なのに、相撲を取るような頑丈な体に突然なるなんて、あり得ない。
■加治■ 先ほど挙げた以外にも、明治政府自ら、天皇すり替えをなぜか、少しずつ小出しにしています。なぜそんなことをしたのか。その詳細は拙著『幕末 戦慄の絆』に全部書いてありますので、そちらをご覧いただければと思います(笑)。
 実は明治天皇自身、すり替わった自分こそ、正統な天皇だということをずっと公言したかった。
 鎌倉時代の後、室町時代の前に、天皇が南朝と北朝の2つに分かれて殺し合った歴史が56年間ありました。南北朝ですね。
 その結果、北朝が勝った。それからずっと続いてきているから、今上天皇は125代目の北朝の天皇ということになります。ということは、明治天皇も北朝です。
 しかし、実際には南朝にすり替わっている。
■編集部■ 明治天皇は、自分は南朝だということを公にすることはできなかったのでしょうか。
■加治■ そんなことを言えば政権を握った連中がぶっ飛びます。伊藤博文とか周囲が必死に抑えた。
■出口■ 明治天皇自身が徐々に絶対的な権力を持っていきますから、皇居のそばに楠木正成像をつくったり、南朝の皇族や武将を祭神とした南朝神社をつくって、最後は南朝こそが正統だと明治天皇が聖断を下す。こんなことは北朝の天皇だったらあり得ない。
■加治■ 楠木正成のでっかい銅像を皇居前にドンと置きましたが、あれは南朝の後醍醐の守護ですよ。北朝天皇が殺し合いの大戦争をやらかした敵の英雄をたたえるなんて、そんなバカな話はない。ホワイトハウスに東條英機の像をつくるようなものです。
 拙著『幕末 戦慄の絆』にも載せたんだけど、明治天皇がやらかした「南朝賛美」の事業を挙げておきましょう。

○1869年(明治2)鎌倉宮創建をはじめ、南朝関係者を祀る神社建立と再興、贈位などを行う。

○1877年(明治10)元老院が、天皇正史として北朝天皇から南朝天皇に切り替えた。

○1889年(明治22)南朝の皇族、部将を祭神とし、建武の中興15社の建立を命じる。

 建武の中興15社というのは、後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮(奈良県吉野郡)のほか、後醍醐の息子たちを祀る鎌倉宮(祭神は護良親王/神奈川県鎌倉市)、井伊谷宮(祭神は宗良親王/静岡県浜松市)、八代宮(祭神は懐良親王/熊本県八代市)、金埼宮(祭神は尊良親王と恒良親王/福井県敦賀市)等のことです。また、楠木正成を祀る湊川神社や名和長年を祀る名和神社をはじめ、南朝の武将を祀る神社を続々とつくった。
 岩倉具視も、南朝が正統であるということで、後醍醐から後亀山の南朝1〜4代を正統な天皇と認め、従来定めていた96〜100代の北朝天皇を正続から外しました。それまでは、北朝を77代、78代、79代としていたのに、北朝を廃止し、北朝の天皇を北1、北2、北3なんて住所みたいな記述にしたんです。
 それにともなって、1883年(明治16)岩倉具視、山縣有朋主導で編さんした『大政紀要』で、北朝天皇の「天皇」の号を廃し、「帝」に改めている。つまり、「北朝」を天皇と呼ぶな、「帝」と呼べ! とこうなった。
 そして1911年(明治44)2月4日には帝国議会は南朝を正統とする決議を行う。
 いいですか。北朝天皇である明治天皇のもとの帝国議会で、なんてわざわざ北朝天皇と南朝天皇のどちらが正統かなんて議論が出るんです? そんなのは不敬で本来なら恐ろしい議題です。
 いったい誰が命じたのか。絶大なる権力を握っている明治天皇その人以外考えられない。で、明治天皇は死ぬ1年前、「南朝が正統である」とのご聖断を下します。
 国民はわけがわからない。「正統じゃない方が今の天皇?」と「?」が千個くらい飛び交います(笑)。明治天皇は自分のお父さんやおじいさんのことまで正統じゃないとひっくり返してしまって、親不孝ですよ。
 明治天皇は、堂々と言いたかったのです。「自分は南朝で、南朝こそが正統なんだ」と宣言したかった。もう仮面は外したいとね。
 長州も岩倉も、明治革命の後、南朝が正統であるということを宣言しようとしていた。
 となると、北朝の血筋に当たる有栖川宮は当然邪魔です。天皇になりそうな有栖川宮を葬って、国民に南朝が正統なんだと少しずつ知らしめて、バーンと発表しようとしたのではないか。
 ところが、いざとなると、北朝勢力はあちこちに温存されていて、スポンサーもいっぱいつくし、ついに言い出せなかった。言わないでこのまま保守的にいきましょうという話になった。
■編集部■ 昭和天皇も、尊敬する天皇は後醍醐天皇と明治天皇だと、まさに南朝側に立った発言をしていますね。
■加治■ 明治神宮に行くとわかりますが、驚くことに明治天皇の奥様のことを「皇太后」と書いてある。皇太后というのは天皇のお母さんのことです。
 天皇の奥様は皇太后とは絶対に言わない。ご存じのように「皇后」です。
 大正の政治家も昭和の政治家も、「あれは間違いだろう。とんでもない不敬である」と宮内庁に抗議したが、宮内庁の上層部は本当のことを知っていますから、「申し訳ございません。あれは確かに間違っているけれども、明治天皇がこれでいいと言ったから、直すことはできません」と答えている。
 明治神宮のホームページにも、直せない理由として、
@天皇より御紋可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
Aすでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
 の2点が挙げられています。
 苦しい言い訳ですが、しかし、それは明治天皇から見たら当たり前で、「明治天皇の妻」の一条美子さんは自分の妻ではなくて先帝、睦仁親王の妻なんです。ちゃんと睦仁親王と結婚しているんですから。
 その後、明治天皇が来たけれども、表向きはすり替わっているとは言えない。したがって明治天皇から見ると、前の天皇の奥さん、義理の母となります。
 だから、「死んでも皇后とは呼びたくない。あの方は『皇太后』だ」と言い張って明治天皇は亡くなったんです。明治天皇が一条美子さんと一緒に過ごした記録は、ほとんどありません。
 これだけいろいろな証拠があっても、まだ日本では何も議論が起こらず、みんな何事もなかったように平気で過ごしている。妙な民族です。
 天皇すり替えというのは、もっともっと世に認知させないといけないと、ずっと思っているんです。僕は哲学者でも政治家でもないから、天皇制がどうのこうのという議論はあまり興味がないけれど、真実として世に広めたい。
 もう1つおもしろいことがあって、「大正」と[昭和]と「平成」という元号です。天皇が践祚(せんそ=皇位を継承すること。先帝の崩御による場合と譲位による場合の2つがある)した時点で変わるんですが、明治だけは違っていますね。
 孝明天皇崩御後、すぐ睦仁が践祚します。ところが次の明治天皇即位の礼までに1年以上もの開か空きました。
 「明治」という改元の詔書が出されたのはさらに遅れて1868年(慶応4)9月8日なんてすね。それも同年1月1日まで9カ月さかのぼって明治元年とすると定められました。つまり、こういう流れです。
 1866年(慶応2)12月25日 孝明天皇崩御
 1867年(慶応3)1月9日 睦仁親王践祚
   ↓
 1年7カ月の空白
   ↓
 1868年(慶応4)8月27日 明治天皇即位の礼
 1868年(慶応4)9月8日 同年1月にさかのぼって明治へ改元

 歴史学者は何もつつかないけれども、即位までに1年以上もかかっていること1つとっても異常なことです。
■出口■ 本当にそうですね。
■加治■ 関西に講演に呼ばれるのですが、この話をすると吉野とか奈良のあたりには先祖が南朝の連中がいっぱいいて、「明治天皇がすり替えられたのは当たり前のことで、今は大室寅之祐から続く南朝ですよ。よくぞ言ってくれました」と、激励してくれます。おばあちゃんから聞いていましたとかね。だから、先日も大阪の講演会があってその話をしたんですが、すごく盛り上がって……。
■出口■ 時代が変わりましたね。そのうち政府の側も何がしか対応しなければならなくなるかもしれませんね。
■加治■ 日本史における闇です。もう少し広まったら社会問題になると思います。
■出口■ 今はその前夜というか。
■加治■ 有栖川宮さんに話を戻しますが、有栖川熾仁は幕末に相当な役割を果たしているのに、有栖川公園1つが残っているだけで、彼は歴史から消されているんですね。全然登場しない。
 岩倉具視、三条実美、伊藤博文たちに100パーセント利用され、棄てられました。まずは、8月18日の政変(七卿落ち)のときです。あれは実は3つの部隊に分かれた武力革命です。
 1つは、奈良で三条と長州が兵を挙げる。もう1つは、中山忠光が吉野に入って、十津川郷士や土佐の天誅組と挙兵する。

 ※十津川郷士(とつがわごうし)
 大和(奈良県)吉野郡十津川地方の郷士のこと。「十津川千本槍」などと称し、全郷民が南朝の遺臣と伝えている。太間検地以来、郷中一千石が年貢赦免地となり、郷士45名は扶持米を受けた。1863年に皇室領となり、天誅組の蜂起の際には多くの郷士が参加した。

 あとは、有栖川宮熾仁さんです。彼は東征大総督になった。つまり、あのタイミングで、三条実美が有栖川宮を西側の全軍隊のトップに任命したのです。
 分かれた3隊がワーッと御所を攻めるはずだった。しかし、その前に孝明天皇が、俺は殺されると言って薩摩に泣きついた。それで長州は京から叩き出されるわけです。
 有栖川宮は、そうやって担がれて、利用される人生でした。
 孝明に代わって次の天皇にするからという三条、岩倉の甘言に乗っかり、有栖川宮本人もその気になって、親子で頑張るわけです。
 ところが、鳥羽・伏見の戦いが終わり、よっしゃと身を乗り出したら天皇の話はなくなって、あれっと思ったらひょっこりと別に明治天皇が出てきた。どんどんわきに追いやられていってしまう。ついにウツになって自殺した、と僕は思うけれども、とにかく歴史からスーッと消えています。
 こういう有栖川熾仁さんの真実も、やはりみんなに知ってもらいたい。
■出口■ 僕は敗者の歴史の方が真実だと思うんです。自分の権力を正当化するために必ず改ざんするのは常套手段で、日本の歴史はほとんど勝者の歴史を正史として扱っています。
 NHKの大河ドラマの『八重の桜』を見たときにびっくりしたんですが、滅ぼされていく会津の視点から描くと、まさに歴史観がクルッと違う。でも、あっちの方が本当かなという気がしますね。
■加治■ 正史、つまり正しい歴史なるものがある国は、世界的に見ても日本しかないのではないでしょうか。始まりが『日本書紀』です。つまり、正しい歴史を強調して残そうとしたということは、逆説的に言うと、それは正しくない、不当な形で権力を握ったからでしょう?
 そうじゃなかったら、何もしませんよ。当たり前に正しいのですから。わざわざ正史というものを残すからには、必ず理由がある。
 『日本書紀』を読むとわかるけれども、自分のルーツは、天からここに来たということを強調している。つまり、本当は世間的にはこれまでの民族とは違う正しくない渡来人の簒奪(さんだつ)王だから、天とつなげて、体裁を取り繕った歴史にしたということでしょうね。
 そうではなかったら、正史なんかつくる必要はない。正史なんて、ヨーロッパのどこにもないでしょう?
■出口■ 中国やベトナムなど東アジアにはあるようですけどね。
 わざわざ国家的な事業として歴史書を編纂していくというのは『日本書紀』から始まっている気がしますね。北畠親房の『神皇正統記』だって、わざわざ南朝が正統だということを日本史に残すために書かれているし、水戸光圀の『大日本史』もそうですね。

※「神皇正統記」
 南北朝時代の歴史書。北畠親房作。室町時代前期(1343)成立。日本の神国としての成立から後村上天皇までの歴史を通して、三種の神器を正直・慈悲・知恵に対応させ、アマテラスオオミカミの加護と為政原理を現すものと説き、建国の由来やその神聖さによって南朝の正統性を主張した。

■加治■ 岩倉具視たちは明治になってから、南朝天皇だけを天皇とする、北朝天皇は天皇と呼ばないで「帝」とする、と言い始めて、「北1」「北2」「北3」……としている。必死ですよ。
 正しくないから、過去にさかのぼって上書きするんです。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]