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大室寅之祐はいつ明治天皇になったか ■編集部■ 具体的には、大室寅之祐は禁門の変のときにすり替えられたんですか? ■加治■ 僕は、鳥羽・伏見の戦いのときだとにらんでいます。そもそもなぜ鳥羽・伏見の戦いがなければならなかったのか。 なぜ岩倉と大久保のビッグツーは偽造の「討幕の密勅」を出さなければならなかったのか。 大政奉還で、勝負あった。将軍は天皇に政権を譲ったわけで、それですべては終わっています。 にもかかわらず、わざわざ滑り込みで「討幕の密勅」を出した。なぜかというと大政奉還だと静かすぎて、すり替えるチャンスがないからです。 平和路線でいくと、どうしても天皇をすり替える状況が生まれないんです。そこで、鳥羽・伏見の戦いを始め、騒擾状態のどさくさで御所に突入して、すり替える環境を整えた。 そうでなければ、鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争なんて要りませんね。だって幕府は政権を天皇に返してケリはついていたわけですから。 最初の鳥羽・伏見の戦いはいろいろ語られていますが、ではいったい、肝心の御所の警備、戦いはどうなっていたのか、という重要なことは一切書かれていないのですよ。封印ですな。 明治になって、御所の人員を総取り替えしています。働いていた女官たちを全部追放して、山岡鉄舟をはじめ、ごっそりと武士を入れてます。見下していた穢れきっている武士を皇居に入れることなどあり得ません。 争乱を作り、御所に突っ込む。すり替えはどう考えても、そのとき以外考えられないのです。 ■編集部■ 具体的にいつというのはいかがですか。 ■出口■ 1868年が明治維新ですから、その前、1月か2月かな。単純な疑問として、当時、天皇は京都にいたわけですが、江戸開城になって、どの時点で天皇が京都から江戸に移ったのか。それは記録に残っているんでしょうか。 ■加治■ 全部記録に残っていますが、天皇が京都から江戸に移るのはだいぶ後ですよ。 ■出口■ では、すでにすり替えられた後に江戸に行った可能性もあるということですか。 ■加治■ もちろん、完全にすり替えられた後。 ■出口■ ということは、京都ですり替えが起こっているということですね。 ■加治■ なぜそう思うかというと、鳥羽・伏見で始まる戊辰戦争は天皇親政なのに、天皇の姿がまったく見えないんです。例えば8月18日の政変のときには、天皇親政ということで孝明天皇を大和に行幸させて、天皇自らがこれから天下を仕切るんだということを本人に宣言させようとしたんです。そして、大和から幕府に攻め入るというところまでシナリオを書いていた。 すなわち天皇が先頭に立っている。これが天皇親政です。ところが、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では、天皇の姿がどこにもまつたくない。 ■出口■ 有栖川宮が総大将ですね。 ■加治■ 本当に仁和寺宮(小松宮彰仁親王)という名もない若い皇族が名目上の奥羽征討総督になっていて、その下の実戦的な指揮総大将が有栖川宮です。 天皇がどこにもいないというのが、まったくおかしい。勅使を出すこともなければ、檄を飛ばすこともないし、ずっと隠れたまま。 だから、天皇はすり替えられており、その間、隔離して教育を受けたり、女官を替えたり、いろいろな対策を講じていた。僕は武士が皇居の中にすぐ入って、今までの女官や側近を全部解任しているので、そのとき完全にすり替わったという説を採っています。 普通に考えたら、孝明天皇は明治天皇すり替え前に暗殺された可能性がかなり高いと思っているんです。睦仁親王は孝明天皇の息子ですから、孝明天皇を殺した人たちにとってみれば、当然その息子をそのまま天皇にさせるわけにはいかない。 かといって天皇を殺すわけにもいかないから、すり替えていくというシナリオを当然考えたのかもしれませんね。 |
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