日本人が知っておくべき
この国根幹の重大な歴史 
加治将一 × 出口汪  ヒカルランド 
 

 南朝天皇と北朝天皇は部族が違ったのではないか

■編集部■ 後醍醐天皇のときから南北朝に分かれて、その後、家系的に大室寅之祐までつながっていくというのは、先祖が地方に行って、逃げ延びていたということなんでしょうか。
■加治■ 歴史的に天皇、皇族というのは、血脈が大切ですから、女官というお妾さんが何十人、何百人といて、どんどん子どもを産ませていました。その子たちを地方の藩で養子として引き取るのは普通だったんです。だから、ご落胤がいろいろなところにいます。
 僕は、南朝天皇と北朝天皇というのは、もともと血といいますか、部族が違ったのではないかという気がするんです。古代、渡来系の勢力があちこちにいて、我こそは王様だと名乗っている。離合集散を繰り返し、そのうち収斂された二大勢力が交互に天皇をやろうということになったのではないか。
 強力部族同士ですから、お互いに娘を嫁にやったりして、血縁関係もあったでしょうが、やっぱり基本的には違うんだということになる。それがずっと尾を引いていたのではないかという気がするんですね。
■出口■ 歴史的に見ると、もともとは兄弟同士が分かれて覇権を争ったということですが、実はそうじゃないということですね。
■加治■ 無論それもありました。異母兄弟もいたでしょう。娘を嫁にやったりして平和を保とうとした時期もあった。
 しかし、最後には武器を持っての大きな戦いになる。南北朝の争いもそうで、その後、南朝が負けて、表舞台から姿を消します。
 南朝の系列というのは、どうもバタくさい顔をしているんですね。これは僕の個人的な意見だけれども、後醍醐天皇の肖像画とかを見ても、目鼻立ちがはっきりしていて、中東系の騎馬民族だったのではないかと思う。
 明治天皇も、体はでかいし、毛深い。北朝系のそれまでの天皇は、孝明にしても、みんなお公家さんの顔のような気がします。
■出口■ 南朝は三種の神器を北朝に返して、一応、北朝政権になったと言われていますね。その後、南朝の一部が頑として抵抗したけれども、最後に南朝は滅びるというか、血筋はいったん途絶えたということになっていますね。
 ところが、その後も南朝の末裔だという人がいっぱい出てきます。そこから大室寅之祐まで血筋がどうつながっているのか。
 その後、室町幕府になって、完全に武家政権になる。そうすると、皇族の争いというのはそんなに大きな問題ではなかったと思うんです。たぶんどうでもいいというか、落ちぶれた貴族たちがどちらが強いか争っているだけで、武士政権にとってみれば、そんなに大ごとではなかった気がするのです。
 それが今になって、現在の天皇が北朝か南朝かという問題が一部で話題になっていますよね。それも普通の感覚で言うと不思議なんです。
■加治■ 南北朝で、実際には皇室の力は地に落ちてしまって、江戸末期まで来ました。江戸時代の民衆は天皇の存在すら知らなかった。
 江戸時代に何人天皇がいたと思います? 14名ですよ。しかし決して「後西(ごさい)天皇時代」とか「桜町天皇時代」なんて言いません。ぜーんぶひっくるめて「江戸時代」。
 ところが、尊皇攘夷で天皇があっという間にスーパースターです。それまでは天皇というのは、公家という大部屋役者の長みたいな扱いだった。
■出口■ 尊皇攘夷の頃から突然天皇が現れますよね。
■加治■ 要するに、開国だ何だともめにもめて、有力藩に突き上げられます。幕府も将軍もだらしないから自信がなくて、結局、責任を転嫁するために「天皇に聞け」となった。そこで天皇の力がグーッと強くなってきた。その尻馬に乗って、反幕府勢力が天皇を担ぎ出すわけです
■編集部■ 大室寅之祐は奇兵隊で教育されていたんですね。
■加治■ そう言われていますが、奇兵隊の記録も消されていて、僕も一生懸命調べたけれども、ほとんど残っていなかった。
 結局、大室寅之祐が奇兵隊とか力士隊にいたというのは口伝でしかありません。ただ、奇兵隊の力士隊の隊長は伊藤博文だという文献は残っているんです。
■編集部■ そもそも第2奇兵隊が岩城山につくられたのも大室寅之祐の家のそばだったからではないかという説もあるので、最初から天皇を育てるためという目的があったのかどうか……。
■加治■ その辺になると、本当に文献がないのでわからないけれども、吉田松陰の功績というのは、南朝天皇の子孫、大室寅之祐を長州が囲って天下を取るという作戦を考えたところにあるわけです。
 だから、吉田松陰が松下村塾をつくり始めたときには、すでに大室寅之祐は大切にされていた。それで46人撮り、フルベッキ写真の中に大室が入ることになったのですね。

※松下村塾
 幕末、長門萩の松本村にあった私塾。1855年(安政2)、萩の野山獄出獄後の吉田松陰が叔父・玉木文之進の跡を継ぎ、翌年から松陰が主宰し、約2年半にわたって子弟の訓育に当たった。高杉晋作、久坂玄瑞、佐世八十郎(前原一誠)、品川弥二郎、山県有朋、伊藤博文ら、幕末維新期に活躍する多くの人材を養成した。
 
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