人は何のために祈るのか? H

 
日々の暮らしが神性を磨く修行の場

 そのことを意味すると思われる次のような話が、同じ「法華経」の「五百弟子授記品」の中に「衣珠(いしゅ)の喩」として出ています。

 親友の家を訪ねた男性が、歓待を受け、酔いしれて眠ってしまいます。親友は出かけないといけない用事があるので、この男性の衣服の中に大変高価な宝玉を縫い込んで出かけます。
 目が覚めた男性は、親友がいないのでその家を去り、他国を放浪するうちに落ちぶれて食べるものにも事欠くようになりますが、あまり気にするようでもありません。
 ある日、この男性は、その衣服に宝玉を縫い込んだ親友と再会します。親友は落ちぶれた男性を見て、「君には十分に安楽に暮らせるだけの宝玉を与えていたのに、どうして使わないのか」と諭します。


 この親友を神的存在と考えてみてください。「神さま」が一人ひとりの人間に素晴らしい力を与えているのに、人はそのことに気がつかず、力は外にあるものと考え、ある人は宗教に走り、ある人はお金を絶対の価値として、自分の身を守るためにせっせと蓄財しています。その行為はまさに、「私には力はない」と宣言しているようなものです。
 そもそも「祈り」という行為は、いま満たされない状態(必ずしも十分に幸福ではない状態)にあるから、それを満たしてもらうことを「見えない世界」に願う行為と言えます。祈るたびに、「今はまだ満たされていない」ことを潜在意識に植え付けていくことになります。実は、これは必ずしも正しい心の使い方ではないのです。中途半端な祈りであれば、「満たされていない状態」を更に強めることになるおそれがあります。
 それをカバーするために、祈りは言葉だけでなく、座禅や瞑想、さらには奉仕行や荒行などが組み合わされることが多いのです。まさに、「身(行動)・口(言葉)・意(思念)」の総動員というわけです。超能力を得るために滝に打たれたり、千日回峰のように肉体の極限まで使っての修行なども、心の力をパワーアップするための手法ということができます。しかしながら、仏教で言う大日如来などのスーパーパワーは、実は見えない外の世界に存在しているのではなく、私たち自身の中に鎮座しておられるというのが新しい認識となっています。私たちは内なる神性(仏性)を開発するためにさまざまな修行をしているのです。
 その最高の修行の場は、実は滝や深山の険しい峰にあるのではなく、日々の暮らしの中にあるというのが最も進んだ考え方となっています。私たちの日々の暮らし方、その中における心の使い方が、まさに内なる神を目覚めさせる行為なのです。「身・口・意」の使い方が試され、間違った場合はそのことの気づきがさまざまな形で得られる有り難い「修行の場」なのです。
 仏教でも、ある時期から小乗から大乗へと流れが変わったと言われます。
 修行によって、まず自分が悟ることを第一とした時代から、人と一緒に悟り合うという大乗の世界――つまり一人しか乗れない舟から、みんなが一緒に乗れる大きな舟へ、というイメージです。私たちの意識は深いところではすべてつながっているのですから、ある意識の持ち主だけが悟りを得て救われ、他は切り離されて捨てられるということはないのです。
 例えば弘法大師・空海のようなある特殊な超能力者が、庶民を代表して世の中を変えていくというスタイルではなく、一人ひとりの人間が気づきを得て、その気づきの広がりがある時点で臨界点を迎え、一気に世界を変えていくということです。
 祈りについても全く同じことが言えます。祈りの専門家が特殊な祈りの手法を使って世の浄化を行なう時代から、人々が日々の生活のなかで自らの意識の進化をはかり、「身・口・意」を宇宙の波動に調和させることが、もっとも効果的な祈りとなる時代へと変わりつつあると言えます。
 
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