生命思考 
ニューサイエンスと東洋思想の融合 
石川光男・著 TBSブリタニカ 1986年刊
 

 ヨガの修行で得た生命観

 人間は機械と同じで、具合が悪くなれば、トラブルを起こしている部品(たとえば腸や肝臓など)だけを修理(治療)すれば元通りに動き、生命のあらゆる営みは原子や分子のような細かな構成要素に還元していけばすべて説明できる――これは西洋医学をもとにして天風先生がかつて身につけていた生命観であったにちがいない。
 天風先生は、医学者として、機械論的世界観と要素還元主義的な方法論に支えられて発展してきた近代科学によって生命を捉えていたわけである。もちろん天風先生だけがデカルト的パラダイム(考え方の基本的な枠組み)で科学を理解していたわけでなく、物理学、医学、生物学といった分野のほとんどすべての人たちがこのパラダイムの中で世界を捉えていたのである。
 こうした世界観から生まれた生命観は、心とか意識、そして自然といった周囲の環境を体と分離した存在とみなしていた。生命は閉じられた系(クローズド・システム)の中で動いている独立の現象である、という考え方である。そこには心や環境が生命の営みと密接な関係を持っているという発想はない。
 ところがインドや中国の伝統的な世界観では、仏−人間−生物−無生物の間には決定的な断層がなく、すべてが連続している。人間の心と体を分離する二元論や、人間は自然とはかけ離れた特別の存在であるという発想は東洋にはない。つまり開かれた系(オープン・システム)として人間を捉えているのである。東洋で古くから言われている「心身一如」という表現がこれをよく表している。
 デカルト的パラダイムで育った天風先生が、ヨガの修行で得た生命観こそ、オープン・システムとしての「心身一如」だった。憎しみや怒りといった感情は心の領域に属することで。それは宗教のテーマにはなっても医学が扱うことではない、とされていた。いまもこの考え方は根強い。それだけに、天風先生がインドでの体験からつかみとった生命観は異色だった。
 心と体は互いに相補的である、との考え方を医学に取り入れるとそれまで説明のつかなかったこともよく見えてくる。怒りや憎しみといった感情が不快感を引き起こし、精神の調和を崩す結果として、体の全体にマイナスの影響をもたらすことは、自律神経系統の働きやホルモンの分泌の変化によって説明がつくこともわかってきた。怒りや憎しみは生理学的に見ても生体機能を狂わせる原因となっている。
 体にとっての精神的な毒物は捨てる、つまり排泄すればいい。役に立たないどころか生体の機能を狂わせるような感情をいつまでも貯め込んでおくのは、おろかなことである。そして人間には精神的な毒物を捨てる機能も備わっている。それなら、その機能を生かしてどんどん吐き出していくことである。
 これが天風先生の言いたいことだった。捨てることの大切さは、生命体の持っている連続性、すなわちオープン・システムの性格。そして自然界のすべてを包括的に捉える発想から導かれてくる。
 
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