生命思考 
ニューサイエンスと東洋思想の融合 
石川光男・著 TBSブリタニカ 1986年刊
 

 コンピュータ化する人間

 秋葉原の電気街に出没するコンピュータ少年が一時、マスコミの話題になったが、その後に現れたのがファミコン・ブームである。東京都・町田市内のある小学校で、五年生を対象にアンケートをとったところ、ファミコンを持っていなかった子どもは243人中にわずか2人の女の子だけだった。
 ファミコンで「遊ばれる」ようになった子どもたちは、外で遊ばなくなったり。操作技術の優劣を競い合って、そこから「いじめ」のような現象が生じているといわれる。しかしその種の弊害よりも、ファミコンという機械と毎日何時間もつき合う生活をしていると、家庭内での人間同士の会話が少なくなる。つまりコミュニケーションが機械としかできなくなってしまう危険性が高い。もっとも感性を発達させねばならない小学生のころに、その芽を摘み取ってしまう恐れがある。それはやがて子どもの心身症を大量に発生させるかもしれないのだ。
 大人の世界にはすでにコンピュータによって引き起こされている心身症が問題になっている。コンピュータ相手に仕事をし、没頭しすぎると、仕事を中断したり。時間で区切ったりできなくなる。それだけでなく、コンピュータと向き合っているときには同僚などと会話することさえ嫌になり、なかには夫婦生活まで煩しくなる人もいる。――これはアメリカの心理学者、クレイグ・ブロードが警告してる新しい心身症、テクノ依存症である。
 コンピュータは24時間リズムではなく、ほとんど半永久的に、疲れも知らず稼動するから生体のリズムとは全くちがう。だからコンピュータのリズムにはまってしまうと。肉体的には疲労の極限に達していても、本人は疲労を感じない。こうして人間的な感情や情緒や疲労感さえも喪失し、自らがコンピュータ化していく。
 コンピュータが限りなく人間に近づこうとしている一方で、人間が一足早くコンピュータ化し、心というもっとも大切なものを喪失し始めたことは、笑えない“喜劇”だ。しかもブロードによれば、テクノ依存症にかかった人たちは、自分では成功者だと思い込み、幸せだと感じている、というから戦慄する。
 ブロードのいうテクノ依存症は、科学技術の発達によって起きているテクノストレスが進行した症状である。科学が人間の心をほとんど無視した形で発展してきたのと同じように、テクノロジーも心を分離して進歩してきた。とすれば、テクノ依存症は、科学技術の申し子といえるだろう。
 テクノ依存症は、決して特殊な病気ではなく、文化のあり方や社会構造、個人の生き方、自然環境などの問題と複雑に絡み合った文明病といえる。したがってテクノ依存症はこれらの複雑な相互作用の結果であり、個人の局部的な現象にだけ着目する現代医学の方法論では解決できない。
 仮に一つのテクノ依存症に対する対策をたてても、また新たなテクノ依存症が登場するにちがいない。それはモグラ叩きと同じである。心、身体、社会、文化等を総合的システムとして捉える発想へと転換していかなければ、私たちはいつまでも文明病に追いかけられ続けるだろう。
 
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