ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
4章 ブルーアイランドの生活 
 

 簡略すぎたかも知れませんが、ひと通りブルーアイランドの存在目的と外観を紹介しましたので、こんどは、そこの住民の生活について述べて、ブルーアイランドの全体像をイメージしていただこうと思います。
 死後の世界のことになると人間はすぐに「そこではどんな生活が営まれているのですか」という問いを発します。これは実に自然な疑問ではありますが、これほど捉えどころのない質問もありません。どれほど捉えどころがないかを理解していただくために、一つ私から質問をしてみましょう。
 仮にあなたが地上の人間でなく、地上生活について何一つ知識を持ち合わせないまま、いきなり大都会のど真ん中に連れてこられたとしましょう。車が行き交い、ビルの谷間を人間が忙しそうに歩いております。全てが初めて見るものばかりです。
「何という光景だろう! 彼らは一体何をしているのだろうか?」――あなたはきっとそう思うに相違ありません。その疑問にもしもあなたが答えるとしたら、どう説明なさるでしょうか。
「みんな、それぞれの仕事があるのです。パンを焼く人、車を運転する人、会社で事務を取る人……いろいろです」――こんな答えでは地上生活を説明したことにはなりません。それは地上生活の断片を拾って並べただけのことで、それだけで地上生活を理解することはできません。私が今直面している難しさも、それと同じです。
 ある者は海辺でしゃがみ込んだまま、じっと沖を見つめています、とか、恋人と離ればなれになった悲しさに泣いてばかりいる人がいます、とか、アルコール中毒の後遺症で、ただ、ぼけっとしている者もいます、とか、いまだにチャペルの鐘を鳴らし続けている者がいます、といったことを並べても意味がありません。それをもってブルーアイランドの生活であると考えてもらっては困ります。無数にある生活模様の断片――全体のごく一部にすぎません。
 そこで私は、そういった断片を拾っていくことはせずに、この世界の特徴を総括的に述べてみたいと思います。
 みなさんがもしも今のままの姿でブルーアイランドを見物に訪れたら、たぶん、面白味のなさを第一に感じることでしょう。総体的に地上環境と非常によく似ているからです。地上に帰ってきて「どうでした?」と聞かれたら、多分こうおっしゃるでしょう。
「いやはや、この地上と実によく似たところですよ。ただ、いろんな人種がごっちゃに生活している点が違うといえば違いますけどね……」
 その通りなのです。ここでは、かつての地上生活とまったく同じ生活の連続といってもよいでしょう。まず、よく休養します。睡眠の習慣が残っているので、実際に眠ります。また、眠った方がいいのです(※@)。夜というものはありませんが、地上にいた時と同じ要領で、睡眠を取ります。少なくとも、こちらへ来て間もない頃はそうです。
※@――生まれたばかりの赤ん坊は乳を飲む時以外はひたすら眠るばかりであるが、実際にはその間に着々と物質界という環境に適応するための準備が進行している。それと同じで、他界直後は、肉体から独立した霊的身体が霊的環境に適応する準備のために睡眠状態に入るのが普通のようである。“普通”というのは、戦争や事故などによる急激な死に方をした場合には、張りつめた意識のまま、さ迷い続けることがあるからである。そのうち死の自覚が芽生えると、急に眠気を催すようになるという――訳者。

 また、地上の人間と同じように、各地を訪ね歩いたり、探険したり、動物や植物の生命を研究したりします。かつての友人・知人を探し求めたり、訪ねたりもします。気晴らしの娯楽もあります。新しい分野の知識を求めて図書館などで勉強することもあります。
 生活のパターンは地上生活とよく似ています。違うところと言えば、地上生活は地球の自転をはしめとする環境の力によって制約されていますが、こちらでは当人の精神的欲求によって決まるという点です。
 衣服も実質的には同じです。が、さっきも述べた通り、ありとあらゆる人種が集まっていますから、全体として見た時に、地上では見かけたことのない種々雑多な様相を呈しております。異様といえば異様ですが、興味深くもあり、いろいろと勉強になります。
 前にも申し上げたように、この界層は地球圏に属し、地上時代の感覚や習性はそのまま残っておりますので、一見したところ地上時代そのままの容姿をしております。新しい知識を少しは仕入れておりますが、地上時代のものはほとんど、あるいは一つも捨てていないのです。
 そうした習性を捨てていく過程は実にゆっくりとしています。こちらでの生活を重ねるにつれて、それまで後生大事にしていたものが何の意味もないことに気づくようになるばかりでなく、やがて邪魔くさいものに思えてきます。その段階に至って初めて、その習性にまつわる意識が消えるわけです。
 たとえばタバコを吸う習性が無くなるのは、タバコが手に入らないからではなく、タバコを吸うのはいけないことだと思うからでもなく、吸いたいという欲求が無くなるからです。食べるという習慣も同じです。そのほか何でもそうです。無くても何とも思わなくなるのです。我慢するのではありません。欲しければ手に入ります。現に、欲望が消えてしまわないうちは、みんな食べたり飲んだり吸ったりしています。
 こちらへ来てしばらくは、思想も行動もまったくの自由が許されます。何を考えようと何をしようと、すべて許されます。“禁じられたこと”というのは何一つありません。制約があるとすれば、それは当人の持つ能力や資質の限界です。その範囲内ならば完全な自由が許されています。
 しかし、やがて霊性が芽生えて、知識欲と自己啓発の願望が出はじめた段階から、そういう無条件の自由は無くなります。ちょうど鉄くずが磁石に引きつけられるごとくに、求めている知識、あるいは自己啓発にとって最も適した機能をそなえた建物へと引き寄せられていきます。その時点から本格的な“教育”が始まるわけです。どうしてもそこへ通わざるを得なくなるのです。一つの分野が終了すると、次の分野へと進みます。
「通わざるを得なくなる」という言い方をしましたが、それは外部からの力で「強制される」という意味ではありません。内部からの知識欲・啓発欲がそうさせるのです。無理やりに知識を身につけさせられるということは絶対にありません。あくまでも自由意志が主体になっているのです。だからこそ地上時代から精神による身体のコントロールが大切なのです。こちらの世界では精神が絶対的に威力を発揮しますので、他界直後の幸福度は地上から持ち越した精神の質が決定的な影響をもつわけです。
 満足感を味わうのも、不満を味わうのも、地上で送った生活次第――形成された性格の質はどうか、好機を活用したか逸したか、動機は正しかったか、援助をいかに活用したか、視野は広かったか狭かったか、身体的エネルギーを正しく活用したか浪費したか……そうしたことが総合的に作用するのです。
 単純な図式で示せば、身体を支配する精神の質と、精神を支配する身体の質との対照です。地上では精神も大切ですし、身体も大切です。が、こちらへ来れば、精神だけが大切となります。ですから、死の直後の幸福感の度合は、地上で培った精神の質によって自動的に決まるのです。
 そういう次第ですから、「死後はどんな生活をするのですか」という質問をなさる時は、どなたかご自分の親しい人が外国へ長期の旅行に出かけた場合に、「今ごろあいつはどうしているかな」と思われるのと同じであることを思い起こしてください。誰しもきっと「ま、元気にやってるだろうさ」と思うに違いありません。われわれも同じです。ブルーアイランドで元気にやっております。
 
 
 
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