ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
3章 ブルーアイランドの建造物
 

 前章で述べた、3人で過ごしたドーム状の建物でのひとときを、地上でいう“昼食時”としてみれば、あんなに長時間のランチタイムは初めてだし、文句なしに楽しいものでした。その間に、とても多くのことを、とくに父から学びました。学んだといっても堅苦しいものではなく、雑談の中で教わったのですが、私にとっては大いに役に立ち、興味しんしんというところでした。
 父の説明によれば、あの建物は一種の休養施設で、地上からの新来者がよく集まるところだそうです。地上界の生活条件に近いものがいろいろと揃っていて、外観も地上の建物に似ているので、よく使用されるということです。同じ目的をもった建物は他にもたくさんあります。別の用途を兼ねたものもあります。
 それらは、外観は一つ一つ異なります。似たものはありません。が、今、その違いを一つ一つ述べる必要もないでしょう。要するに“大きなビル”と考えればよろしい。博物館を想像されてもよろしい。美術館を想像されてもよろしい。巨大なホテルを想像されてもよろしい。大体そんなものに近いと思ってください。おとぎ話に出てくる夢のような宮殿を想像してはいけません。きわめて地上的で、変わったところは一つもありません。
 このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。中心部に集中しているのではなく、全体にまんべんなく建っております。そして、ありとあらゆる精神的活動に対する配慮がなされているようです。というのも、この世界の第一の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持を鎮めることにあり、当分の間は本人がいちばんやりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。
 元気づけるための、あらゆる種類のアトラクションが用意されております。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ――精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。
 書物を通しての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ……何でもできます。信じていただけないかも知れませんが、乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような、生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上でいう“殺す”ということは不可能です。狩りと同じことをしようと思えばできないことはありませんが、再び死んでしまうということはありませんから、この場合の“死”は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。
 これでお分かりと思いますが、そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。身も心も運動競技に打ち込んでいた人間が、こちらへ来てから何もすることがないというのは可哀そうです。こちらでは疲労というものが生じませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがて、そればっかりの生活に不満を抱きはじめます。そして、他に何かを求めはじめます。といって、いきなり止めてしまうわけではありません。興味が少しずつ薄らいでいくということです。
 それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。
 さらには“本の虫”もいます。これも、このブルーアイランドでわくわくするような体験をします。地上では失われてしまっている記録が、こちらでは何でも存在します。それがみな手に入るのです。
 ビジネスひとすじに生きた者にも、その才能を生かす場が用意されております。地上で想像できるいかなるものをも超えた、興味しんしんたる仕事を体験することができるのです。
 前にも述べた通り、これには理由があります。こちらへ来たての者は、多かれ少なかれ悲しみや無念の情を抱いております。それが時として魂の障害となって進歩を遅らせます。と言って、進歩は外部から強いられる性質のものではありません。内部から向上心が湧くまではどうしようもありません。
 そこで、取りあえずその悲しみや無念の情が消えるまで、当人がやりたいと思うことが何でも好きなだけやれるようにとの、神の配慮があるのです。地上時代にいちばん好きだったことに興じる場が必ずどこかに用意されていて、存分にそれに打ち興じるチャンスが与えられるのです。それが実は進歩への地固めなのです。
 が、純粋に地上界に属する趣味は、やがて衰えはじめます。一種の反動であり、それがゆっくりと進行します――こちらでも物事は段階的に進行し、決して魔法のように一気に変化することはありません。
 その反動が出始めると、興味が次第に精神的なものへと移っていきます。もともと精神的なものに興味を抱いていた人は、引き続きその興味を維持し、拡大し、能力が飛躍的に伸びます。地上的な性格の趣味しか持たなかった人は、いずれは変化の時期が訪れます。
 このように、ブルーアイランドにいる間は、多かれ少なかれ地上生活との関連性が残っております。最初は、ただ面白いこと、愉快なことに自分を忘れているだけですが、やがて霊的向上のための純化作用が始まります。
 たとえば、後に残した家族といっしょの生活がしたければ、それも許されます。自分の存在に気づいてくれなくても、みんなといっしょにいて、その雰囲気に浸っていたいのです。が、そのうち、そんな自分に何となく反発を覚えるようになります。そうなったらしめたものです。その時こそ、いよいよ地上的ないしは肉体的本能からの脱却作用が始まったことを意味します。それまでに要する時間と、どういう過程をへるかは、一人ひとり異なります。
 以上、私はブルーアイランドの建造物を個別的に、つまりAは何のため、Bは何のためといった具体的な解説をせずに、大ざっぱにその概念だけを伝えましたが、これでブルーアイランドがどんなところで、どういう存在価値をもっているかがお分かりいただけたものと思います。地上的なものへの執着が消えていく過程もはっきりしたことでしょう。それに要する期間は、当人の個性あるいは気質によって長かったり短かかったりします。
 たとえばかつて運動選手だった場合、こちらへ来ても相変らず運動が好きで、からだを動かすことをしたがります。一時的には地上時代よりも夢中になります。疲れというものを感じないからです。が、やがて変化が生じはじめます。嫌いになるのではありません。同じくからだを動かすのでも、霊界における場所から場所への移動の様式に関する研究に興味が移っていきます。こちらでは、移動するのにもいろいろな方法があるのですが、いずれも地上とはまったく趣きが異なります。
 そうしたことを研究していくうちに、死後の新しい環境に馴染んできて、そこが地上とは異なる世界であることに得心がいきます。精神が拡大して、霊的感性が芽生えてくるからです。地上時代と同じものに興味をもつということにも、そうした効用があるのです。これをあらゆるタイプの人間に当てはめてみてください。

●注釈――ステッドが他界したのは1912年であるが、それからほぼ10年後に、英国のモーリス・バーバネルという霊言霊媒を通じて、シルバー・バーチと名のる古代霊(3千年前に地上で生活したことがあるという)が毎週1回の割で出現し、ほぼ60年間にわたって語り続けた。それが『シルバー・バーチの霊訓』全12巻(潮文社)となって日本にも紹介されており、原書の方は今なお新しく編集されたものが出版されつつあるが、その中の1冊に次のような問答が出ている。

――最近私(司会者)はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は「死者に向かって読んで聞かせる」という供養の仕方を説いております。この「読んで聞かせる」ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが……

●シルバー・バーチ
 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。

――弟子たちが他界した親戚縁者に向けて毎日ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その霊たちがよい影響を受けると考えているようです。

●シルバー・バーチ
 別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それを、そちらでしようとこちらでしようと、同じことです。


 私はこの一節を訳しながらいろいろと考えさせられた。というのも、私の恩師だった間部詮敦(まなべ・あきあつ)という霊能者は“供養”の大切さを説き、実践し、そしてそれなりの効果をあげていたからである。
 また、実質的には供養といえるのではないかと思える方式で“迷える霊”を救うことを30年以上も続けた精神科医が英国にいた。第1章の注釈で紹介したカール・ウィックランドで、精神病は霊の憑依であるとして、自ら考案した特殊装置で患者に静電気を掛ける。するとその電流が霊にはカミナリに当たったような反応をするらしく、いたたまれなくなって患者の身体から離れる。そこをすかさず背後霊団が捕えて、こんどは霊媒であるウィッグランド夫人に乗り移らせる。霊は生身の人間に乗り移っているという自覚なしにウィッグランド博士と対話を交わし、次第に自分の置かれている実情に目覚めていく。これを“招霊実験″という。
 博士によるこうした迷える霊との対話の基本にあるのは、一刻も早く霊的実相に目覚めさせて、迷いから救ってあげると同時に患者も正常に戻してあげたいという、祈りにも似た誠意である。私はそこにこそ供養の真髄があると思うのである。飲食を供えて読経するばかりが供養ではない。それを喜ぶ霊もいないわけではないが、それで事足れりとするのは霊的真理を知らないからである。ウィックランド博士の次の一文はきわめて示唆的である。


 しかし、この問題の解決は、そうした一般心理学ならびに異常心理学の探求だけでなく、第一の前提として人間の二重性――物質と霊、肉体的と霊的――の認識がなくては十全とはなりえない。
 精神病は断じて恥辱の烙印ではない。この病気に対する態度は“嫌悪”ではなくして“理解”であるべきであり、見える世界と見えざる世界との緊密な相互関係の認識であらねばならない。
 スピリットの憑依というのは現実にあること――自然法則の倒錯現象――であり、十分に証明しうるものである。これは、スピリットを患者から霊媒に乗り移らせ、精神異常とされているものを一時的に転移させることによって、何百回も立証済みのことであり、かくして精神病の原因が無知で邪悪なスピリットであることが確認され、そのスピリットの地上時代の身元も証明しうるものである。


 霊界側で大量に救出されている霊の数と比較すれば、ウィックランド博士のような霊的原理を理解した人によって救われている霊の数は、ほんの一握りにすぎないかも知れない。が、その霊たちは、そうした指導者のお世話にならないかぎり実在に目覚めるチャンスがないことも事実である。放置しておけば、憑依されている人間が他界するまで、そのままの状態が続くことになる。その間の、その患者の不幸と親・兄弟姉妹・親戚が背負わされる十字架はどれほど重いことであろう。ウィックランド博士が「精神病は断じて恥辱の烙印ではない」と言い切るその背景には、恥辱の烙印を押されたような暗い心のまま生涯を送る人が多いという現実がある。
 今現在、日本で実際に精神病の霊的治療に当たっている霊能者が何人いるか、その正確な数は分からないが、私が直接存じ上げている方としては、八王子の住職・萩原玄明氏がいる。その方の治療法については 『死者は生きている』『精神病は病気ではない』(ともにハート出版)をお読みいただくことにして、萩原氏もやはり供養の大切さを力説する。そしてその基本は死者(先祖霊)を思いやる心であると説いている。
 英国の世界的物理学者で哲学者でもあったオリバー・ロッジ卿は、第一次大戦でレーモンドという名の長男を失うが、そのレーモンドが、ロッジ卿が出席していた交霊会(声で)出現して動かし難い証拠を見せつけ、以来ロッジ卿は完全に死後の世界の実在を確信するようになる。
 レーモンドが語っている言葉の中でも次の一節は地上の遺族にいろいろと考えさせるものを秘めていないだろうか。


 わが子が死んでしまったとは思いたくないのが人情なのに、実際にはそう思っているような態度に出る親が多いのです。うちの親はなぜ何の問いかけもしてくれないのだろうという切実な思いを聞かされると、ボクの心も千々に乱れます。

 結論として、さきのシルバー・バーチの言葉は、形式的な読経や集団での祈願で救われる程度の霊なら、放つといてもいずれは目覚める時期が来る――その意味では毒にも薬にもならないということであろう。ウィックランド博士による招霊実験の価値はシルバー・バーチも認めており、晩年には博士を招待して心からの労いの言葉を述べている。
 先祖の霊を思いやる心、これこそが供養の真髄であることは、洋の東西を問わず真理であると私は信じている――訳者。
 
 
 
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