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【検証】 キリスト教伝来 1534年8月、パリ大学で哲学を学んでいたイグナチウス・ロヨラを中心に「清貧・貞潔・聖地巡礼」の3つの誓いのもとに集まった7人のカトリック信者が、「イエズス会」という修道会を結成。1540年にローマ教皇からの公認を得た。当時のカトリック教会は16世紀初頭に吹き荒れた宗教改革の嵐によって権威を失い、それを海外の領土で挽回しようと伝道に力を注いでいた。そこで敬虔なクリスチャンであるポルトガル国王ジョアン3世は、イエズス会にインドでの布教を依頼する。これを受けて1541年に派遣されたのが、創設メンバーのひとりであったフランシスコ・ザビエルである。 1542年、モザンビーク経由でインドのゴアに着任したザビエルは、インド各地を巡ったのちに東南アジア方面への布教を開始。1549 (天文18)年には日本まで遠征し、キリスト教を伝えたのだった。薩摩(鹿児島県)、平戸(長崎県)、周防(山口県)、堺(大阪府)などで布教活動を行なったザビエルは1551 (天文20)年に離日したが、そのあとに続々と渡来したイエズス会宣教師の活動によって日本のキリスト教徒は着実に増加していった。1568 (永禄11)年に上洛を果たした織田信長、その死後に天下人となった豊臣秀吉の庇護のもと、宣教師たちは日本人を次々に改宗させていったのだ。 ところが1587 (天正15)年6月、突如として態度を変えた秀吉が「バテレン追放令」を発布。イエズス会による布教は大きく制限される。そして、秀吉没後に政権を掌握した徳川家康が1612 (慶長17)年にキリスト教の禁止を通達したことで、キリスト教徒は激しい弾圧に晒(さら)されるようになったのである。 当初、キリスト教に好意的であった秀吉、家康は、なぜ、それを禁教としたのか。天下人の真意はどこにあったのだろうか。 ・ザビエル来日の目的は何だったのだろうか。 ・なぜキリスト教は受け入れられたのか。 ・秀吉はなぜ、バテレン禁止令を発したのだろうか。 これらを検証することで、イエズス会による布教活動の真相が見えてくる……。 |
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