歴史のミステリー 
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DeAGOSTINE 
キリスト教はなぜ禁じられたのか? 

 ザビエルはなぜ日本へ来たのか?

【通説】
 1547年、インドからインドネシアのモルッカ諸島へ布教に赴いたザビエルは、その帰途に立ち寄ったマレーシアのマラッカで「アンジロー(ヤジロウ)」という日本人青年に出会った。薩摩の商人の息子だったアンジローは殺人を犯して海外への逃亡を図り、ポルトガル商船に同行してマラッカに流れ着いたと伝えられている。
 この出会いが、ザビエルが日本を訪れる直接的な原因となった。アンジローはザビエルの導きによって罪を悔い、インドのゴアに渡って洗礼を受け、日本人初のキリスト教徒となる。そしてザビエルはアンジローを通して、日本に強い興味を抱くようになったのだ。
 意志の疎通が行なえるほどのポルトガル語が話せたというアンジローは、キリスト教についてのさまざまな質問をザビエルに浴びせた。その知的好奇心に注目したサビエルは、やがて日本での伝道に意欲を燃やすようになる。そこでザビエルは、ポルトガル国王ジョアン3世に訪日の意向を伝えると同時に、ポルトガル商人などから日本の情報を収集した。その結果、日本行きを決意したザビエルは、同志に「日本人は非常に賢く思慮分別があって、道理に従い知識欲が旺盛であるので、私たちの信仰を広めるためにはたいへんよい状態である」と記した書簡を送付している。
 そして1549年4月14日、中国船でゴアを出発したザビエルとアンジロー一行は、8月15日に薩摩への上陸を果たしたのである。

【検証】
 苫小牧駒澤大学准教授の高橋裕史氏は『イエズス会の世界戦略』で、イエズス会の創始者・ロヨラの「私の意図するところは、異教の地をことごとく征服することである」という言葉を引用し、ザビエルは「このロヨラの言葉をインドにおいて具現化すべく、ゴアの地を踏んだのであった」と述べている。
 そもそも、イエズス会がゴアへ向かったのはジョアン3世の要請によるものだが、その意図はポルトガルの植民地政策によるものだった。作家の古川薫氏は『ザビエルの謎』で、ジョアン3世の目的を「現地人の信仰する“異教”を改宗させて植民地支配の拡大と安定をはかることだった」としたうえで、「インドのゴア、マレーシアのマラッカなどを中心とする東洋植民地支配深化の手段としてキリスト教の伝道を利用しようとしたのである」と述べている。こうした国策によって、ザビエルは東洋へと派遣されたのだ。
 そして、当時、世界の覇権を争っていた二大強国であったポルトガルとスペインの植民地政策は、ローマ教皇によって認められていた。教皇は二国に「布教保護権」を与え、植民地獲得競争を緩和するために両国による世界二分割協定である「デマルカシオン」を承認していたのである。これによって地球上のあらゆる地域は、ポルトガルかスペインどちらかの潜在的領土となっていたのだ。
 こうした背景によって派遣された宣教師たちの活動は、「霊魂と胡椒」という言葉で形容されている。「霊魂」はキリスト教の伝道、当時のヨーロッパ社会において最高の輸入品だった「胡椒」は物質的利益を表したものだ。前出の高橋氏は彼らについて、「単なるボランティア集団ではなく、国家事業の一環として組織された宣教団の一員として機能することになった」と記している。
 アンジローに出会ったことで来日したザビエルも、その例外ではなかった。キリシタン史研究家の吉田小五郎氏は『ザヴィエル』で、ザビエルが鹿児島から本国へ送った書簡の一節を紹介している。そこには「日本の鉱山は多くの金を産し、それが大坂へくる故、ヨーロッパの品物を日本の金銀と交換すれば、多くの利益をあげ得よう」と記されていた。さらに前出の古川氏は、ザビエルがマラッカの長官であったペドロ・ダ・シルヴァに「日本での貿易業務をしばらく自分にまかせてもらえるなら、立派な成果をあげてみせる」という趣旨の手紙を書き送っていたことを指摘したうえで、「ザビエルがまるでポルトガル政府から日本市場開拓の諜報員としての使命を負わされていたのではないかといった印象を、思わず受けてしまうのである」と述べている。ザビエルの来日もやはり、「霊魂と胡椒」の一環として行なわれたものであったのだ。
 
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