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秀吉はなぜキリスト教を禁じたのか? 【通説】 1586(天正14)年3月16日、当時の日本イエズス会最高責任者であった準管区長、ガスパル・コエリョが大坂城の豊臣秀吉に謁見。正式に伝道を許可する朱印状を受け取った。ここで知遇を得たコエリョは翌年5月19日、九州平定を成し遂げた秀吉のもとへ赴いて祝辞を述べ、博多での教会建設を許されている。その返礼としてコエリョは秀吉をポルトガル船に案内し、大砲を撃ってみせるなどして歓待したのだった。 ところが、その約1ヵ月後の6月19日、秀吉は突如として態度を変えた。この日の夜、信長の死の直後から秀吉に従って武功を立て、明石6万石に封じていたキリシタン大名・高山右近に棄教を強要。応じない右近を改易すると、翌日朝にいわゆる「伴天連追放令(宣教師追放令)」を発令し、宣教師は20日以内に日本から退去せよと命じたのである。 秀吉の豹変の理由については多くの説が唱えられており、たとえば前出の古川氏は、「博多湾でフスタ船を見たときからの危機感によるものとしか考えられない」と述べている。フスタ船とは5月19日に秀吉が乗った高速船で、数門の大砲を搭載する武装船でもあった。これを見た秀吉は上機嫌を装いながらもイエズス会の武力に器具を抱いたと推測されているのだ。 【検証】 秀吉が明文化した「バテレン追放令」の冒頭には「神国である日本に、キリシタン国が邪教を伝えたのはけしからぬ」と記されていた。このことからイエズス会の宣教師は、秀吉はキリスト教を邪教視する偏見によって、追放令を発したと本国に報告した。 しかし秀吉がキリスト教を邪教としたのは、偏見によるものではなかった。追放令を発する直前、秀吉はコエリョに使者を送り、4ヵ条の詰問状を手渡していたのだ。その内容はおよそ、@宣教師はなぜ、キリスト教信仰を強制するのかAなぜ、神社・仏寺を破壊して仏僧を迫害するのかBなぜ、有益な牛馬を食用とするのかCなぜ、ポルトガル人は日本人を奴隷として売買するのか――というものである。 これに対してコエリョは、@信仰の強制はしていないA神仏から救いを得られないと悟った日本人が、自ら寺社を破壊したB馬肉を食す習慣はなく、牛肉は食すが秀吉が望むならやめるC日本人を買うのは、日本人が売るからである――と回答しているが、このやりとりについて前出の高瀬氏は、およそ次のような検討を加えている。@イエズス会は「改宗は殿次第」と考えており、洗礼を受けた領主の圧力によって大量改宗が行なわれていたAイエズス会宣教師の指示によって寺社の破壊が行なわれた事例は少なくないB言及するほどのことではないC日本イエズス会が奴隷の売買をした記録が会計帳簿に記載されている――。秀吉はこうした事実を、九州出陣まで知らなかったのである。 さらに秀吉の危機感を募らせたのは、当時の長崎の状態であったと考えられている。長崎を領有していた大村純忠がイエズス会の援助によって窮地を脱したことは前述のとおりだが、純忠はその返礼として1580 (天正8)年に長崎をイエズス会に寄進していた。以降、イエズス会は自衛と称して長崎の軍事要塞化を進め、大砲・鉄砲で武装して建造した軍艦を配備し、周囲には城壁を張り巡らせていた。こうした動きは1579 (天正7)年に来日した巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によるものだと考えられており、歴史学者の清水紘一氏は『キリシタン禁制史』で「追放の発令にあたって長崎の没収が、きわめて大きな比重を占めていたことがわかる」とみているのである。 |
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